ギリシャ史 (古代):エーゲ文明からローマ支配まで

 

ギリシャといえば、ヨーロッパの思想・文化・政治に大きな影響を与えたギリシャ哲学やギリシャ神話、喜劇・悲劇の劇作、民主主義がまず連想されるでしょう。また、オリンピック発祥の地としても知られ、ギリシャは「ヨーロッパの創始者」という言い方もなされます。今回は、そうした古代ギリシャの歴史についてまとめました。

 

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<ギリシャ人の起源>

 

ギリシャ人は、紀元前3000年頃、北方から南下をはじめ、小アジア、東地中海岸と接触して、前2000年〜前1200年頃、ギリシアのエーゲ海周辺に進出してきました。

 

神話上のギリシア人の始祖は、英雄ヘレネ(ヘレン)で、ヘレンの子や孫から、古代のギリシア人に属するアイオリス人、イオニア人(アカイア人)、ドーリア人といった各部族の先祖に分かれたと考えられていました。

 

それゆえ、ギリシア人は自らをヘレネスヘレンの一族)と称し、他者をバルバロイ(意味のわかない違う言語を話す異民族)と呼んで区別しました。また、ヘレネスの居住するギリシア本土をヘラスと呼びました。これらの種族はその方言によって分かれています。ちなみに、現在のギリシャ共和国の正式名称は、英語でHellenic Republic(ヘレン共和国)です。

 

アイオリス人

古代ギリシア人のアイオリス方言を話す人びとをさし、紀元前3000年頃にドナウ川流域から移住を開始したと考えられ、紀元前2000年頃に、ギリシャ中部のボイオティア(テーベを中心に繁栄)、中北部のテッサリア(北東にオリンポス山)から、小アジア北西岸(イオニア地方の北)のアイオリス地方やレスボス島に定着しました。

 

アカイア人

アカイア(アケーア)人とは、紀元前2000年頃、バルカン半島(ギリシャ中部のテッサリア方面)から南下してペロポネソス半島一帯に定住したとされる古代ギリシアの集団で、前1600年頃、ミケーネ文明を興し、線文字Bなどを考案しました。後に、その一部はイオニア人と呼ばれました。

 

ミケーネ文明が前12世紀ごろ崩壊し、暗黒時代を通してギリシア人の別の一派ドーリア人が鉄器の使用をテコに有力となると、先住民のアカイア人は征服されて被支配層になりました。ドーリア人侵入後、アカイアは次第にギリシアのあるペロポネソス半島の北部地域を示す、地名となっていきました。

 

イオニア人                                           

イオニア人は、古代ギリシア人のイオニア方言を話す人びとで、紀元前2000年ころにバルカン半島を、ギリシャに南下し、ギリシャ中部やアナトリア半島(小アジア)北西部に定住したとされるアカイア人の一分派をいいます。

 

具体的には、アッティカ(中心都市アテネ),エウボイア(エーゲ海西部,ギリシア第2の島)から小アジア(アナトリア)西岸中部のイオニア地方に移住しました。アッティカとはギリシアの東南の半島で、ここの一角にアテネがあります。

 

ドーリア人

古代ギリシア人の中でドーリア方言を話す人びとで、最も遅れて、ギリシア本土のミケーネ文明が消滅した後に、前1200年から前1100年頃までに、北方からギリシアに南下しました。ペロポネソス半島一円に定住し、スパルタなどのポリスを建設しました。また、ドーリア人の一部はクレタ島やロードス島にも進出しました。

 

なお、ドーリア人は西北系方言のギリシア人であるのに対して、イオニア人(アテネを建設)とアイオリス人(テーベなどを建設)は東方系方言のギリシア人とされています。

 

 

エーゲ文明>

(クレタ文明・ミケーネ文明・トロヤ文明)

 

エーゲ文明は、古代ギリシアにおける最古の文明で、紀元前2000年から前1200年にかけて、エーゲ海とその周辺で、エジプト新王国やヒッタイト王国などの文明の影響を受けながら、繁栄した青銅器文明の総称です。

 

エーゲ海沿岸と島々との間で、エーゲ海域が交易のルートとして早くから発展し、オリエント地域との海上交易を通して、次第に一つの文明圏を形成していったと見られています。

 

エーゲ文明の存在は、19世紀半ばまでは知られておらず、人々はポリスが現れる以前のギリシアは未開の社会であり、ホメロスの叙事詩が伝える英雄の活躍する世界は、単なる神話であると考えられていました。また、古代ギリシャの研究も、ヘロドトスやトゥキュイディデスなどの歴史書によってしかなされていませんでした。

 

しかし、19世紀後半から20世紀前半までに、その実在が明らかになってきました。まず、ドイツ人ハインリヒ・シュリーマンはホメロスが実際の歴史を書いていると信じて、1870~80年代に発掘をおこない、トロイア遺跡やミケーネ遺跡を発見しました。

 

その後、1900年に、イギリスのアーサー・エヴァンズが、クノッソスなどクレタ文明の存在を明らかにして、ポリスに先立つ数百年前に華やかな文明が繁栄していたことが知られるようになりました。また、1953年、ヴェントリスが、古代文字(線文字B)を解読したことよって、その内容や伝承との一致も明らかになってきています。

 

エーゲ文明は、前半のクレタ島を中心としたクレタ文明と、後半のギリシャ本土のミケーネ文明に分けられ、また並行して小アジアにトロイア文明も繁栄していました。(トロイア文明は、ほぼミケーネ文明と同時期に栄えている)

 

◆ クレタ文明

 

紀元前3000年ころ、小アジアのアナトリア方面から青銅器文化を持つ、(民族不明の)人々がクレタ島などに移住し、紀元前2500年ころには、クノッソス、マリア、ファイストスなどいくつかの小王国を形成しました。なかでクノッソスが有力で、紀元前2000年頃にはクレタ島を統一し、クレタ文明が生まれました。

 

クレタ文明は、ホメロスの詩に現れる伝説的なクレタの王・ミノスの名にちなんで、ミノア文明ミノス文明)とも呼ばれます。なお、ミノスは神ゼウスと人間エウローペの子供とされています。

 

クレタ人たちの人種は不明で、ギリシア人の先祖ではないアジア系の海洋民族と考えられています。王は、クレタ島のクノッソスに王宮を築きました。クノッソス神殿は世界最古の神殿とされています。また、強力な艦隊をつくってエーゲ海の航行権を握り、エジプトや南イタリアなどとの交易も盛んにしながら、海上国家を築き専制政治を行っていました。

 

その王宮は巨大でしたが、城壁を持たなかったことから、この文明は平和的であったとみられています。また、たこやいか、イルカなどの海洋動物や大きな牛を飛び越える人間の曲芸などを描いた壁画や壺などが残され、オリエントや後のギリシア文化とは異質で開放的な海洋民族としての特徴がみられます。

 

ただし、クノッソス遺跡から、クレタ人が考案した絵文字や線文字Aが出土しましたが、今なお解明されていません。したがって、クレタ王国の社会についてはよくわかっていないのが現状です。そうしたクレタ文明も、前1400年頃、ギリシア本土から進出したアカイア人によって滅ぼされたと考えられています。

 

一方、クレタ島の北のテラ島(現在のサントリーニ島)にも同様の文明が栄えていましたが、紀元前1500年(紀元前1628年)ころ、サントリーニ火山の大噴火で吹き飛び、大半が水没しました。この大噴火は、クレタ(ミノア)文明にも、火山灰と有毒ガスなどの大災害を及ぼし、前15世紀中頃に始まった衰退(弱体化)の原因となったとする説もあります。なお、この出来事が、プラトンのアトランティス大陸伝説を生んだと推測されています。

 

◆ ミケーネ文明(ミュケナイ文明)

 

紀元前2000年の少し前ころ、インド=ヨーロッパ語系民族が、バルカン半島北部から前2000年紀を通じて長期にわたって南下し、バルカン半島や小アジアに侵入してきました(南下の年代は最近では前3000年紀にさかのぼるとする説もある)。

 

彼らが現代ギリシア人の祖先であり、その第一波のアカイア人が、ギリシア本土に定着し、前1600年~前1200年頃までに、ミケーネ、ティリンス、ピュロス、オルコメノスなどの(小)王国をつくり、以後250年間、繁栄しました。これらの代表的な王国の名をとって、ミケーネ文明と呼びます。なお、アテネもこの時代に小王国をつくり、ミケーネ文明の担い手になっていました。

 

やがて、ミケーネ人たちは、クレタに進出し、クレタ文明を滅ぼしますが、その文明に触れて線文字Bをつくりました。前述したように、シュリーマンが1876年にミケーネ遺跡の発掘し、イギリスの建築家ヴェントリスが1952年に、彼らが使用した線文字Bを解読(未解読であった線文字Bにギリシア語の音価をあてはめて解読に成功)しました。

 

これにより、初めてミケーネ人が古いギリシア語を用いるギリシア人であったことが明らかにされるとともに、王の財産も記録され、王国がきわめて豊かで繁栄し、王が巨大な権力を持って支配していたことがわかりました。実際、ミケーネの巨大な王墓からは宝石類、陶器、武器、青銅器、それに王の仮面などおびただしい黄金製品が発見されています。

 

加えて、紀元前2000年紀のヨーロッパには、交易路が開かれ、地中海の東西の広い地域と交易していたことも確認されています。

 

ミケーネの諸王国は、オリエントに比べて領域はずっと小さく、他の王国を統合するには至りませんでしたが、王に権力を集中させたオリエント的な小専制王国とも呼べる体制がとられていました。そこでは、王が役人(官僚制)と在地の豪族を介して、民衆を支配していました。

 

◆ トロイア文明

 

トロイア文明は、紀元前2600年~紀元前1200にかけてダーダネルス海峡における海上貿易を軸として地中海の文明(現在のトルコに位置する)で、ミケーネ文明と同じ時期に栄えていました。

 

しかし、紀元前1260頃~1250年頃、エーゲ海と黒海を結ぶ交易路をめぐる争いが原因で、小アジアに遠征したミケーネと戦争になり、(クレタ文明の一角をなしていた)トロイア文明は滅亡しました。

 

ただし、ギリシャ神話によれば、トロイア戦争は、トロイアの王パリスが、スパルタ王の妻ヘレネに恋をしてトロイアへ連れ去ってしまったことを発端に、ミケーネを中心とするギリシャ王国連合とトロイアが戦った戦争で、ギリシア最古の詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」で描かれています。

 

もっとも、トロイア戦争についてはあくまで神話の話なので、どこからどこまでが史実なのかは不明です。また、トロイアの王宮の位置は判らなくなっていたので、トロイア文明の実在についても不明でした。

 

しかし、1871年に、ドイツの考古学者シュリーマンが遺跡を発見し、発掘した結果、古代トロイアの王宮跡であることが判明しました。シュリーマンは幼少期に読んだホメロス叙事詩「イリアス」の世界(トロヤ文明)が実在すると信じ続けていたとされています。

 

 

エーゲ文明の崩壊

トロイア戦争後、まもない紀元前1200年から紀元前1100年にかけて、アテネなどを例外として、諸王国は外敵の襲撃を受け次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅しました(アテネだけは外部からの侵入を防ぎきった)。

 

ミケーネ文明を滅ぼしたのは、この時代に遅れて南下してきたギリシア人の一派ドーリア人たちであるとされていましたが、征服ではなく、共存していたとも考えられるようになっています。

 

むしろ、最近では、前1200年ごろに起こった民族移動の動きの一環で、「海の民」がエーゲ海域にも侵攻してきたという説が有力になりつつあります。「海の民」は、ちょうどこのころ東地中海に現れてヒッタイトを滅ぼし、エジプトなどを攻撃するなど、オリエント世界全体に大きな変動をもたらすこととなりました。

 

「海の民」は、東地中海域に鉄器をもたらしたことによって、青銅器文明であるエーゲ文明は崩壊しました。それまでの文明の主流であった美しい青銅器に代わり、鉄器を使用し、非常に強かったとされています。

 

いずれにしても、ミケーネ文明が倒壊したことをもって、エーゲ文明の時代も終焉し、ギリシャは400年にも及ぶ「暗黒時代」と呼ばれる時代に入りました。

 

 

<暗黒時代>

 

暗黒時代は、前1200年頃のミケーネ文明の崩壊から、前800年頃のポリス社会の成立までの400年間をいいます。

 

この時代、なぜ「暗黒時代」と呼ぶかというと、線文字Bも王国の滅亡とともに使用されなくなったことから、この時代は、残された記録や史料が少なく、その実態がよくわからなかったためです。当初、ギリシア・アルファベットはまだ発明されていなかったので、ギリシア人は再び文字を持たない民となってしまったと言われました。

 

社会生活においても、ミケーネ時代の集落の多くは放棄され、人口は減少し、生活水準も落ち、華やかな工芸もみられなくなるなど、エーゲ世界では文化的生活が姿を消したとされました。また、各地で混乱が続いてため東方との交易も途絶え、生活は貧しくなったと言われています。しかし、この暗黒時代は、ギリシア史にとっては決定的に重要な意味を持つ転換期でもありました。

 

ギリシャ民族の形成

前述したように、前1200年頃にギリシア本土のミケーネ文明が消滅した後に、遅くとも前1100年頃には北方から移動してきた北西方言群のドーリア人は、ペロポネソス半島一円に定住し、先住で東方方言のイオニア人らと交錯・共存していきました。このギリシア人の南下の第二波の結果、古代ギリシア人は最終的な民族として形成期を迎えたのです。なお、ドーリア人の一部はクレタ島やロードス島にも進出しました。

 

ドーリア人の南下で、押されて移動せざるをえなくなったギリシア人もおり、王国を追われた人々は部族的な小グループをなして移動しました。たとえば、先住のイオニア人の一部は、ペロポネソス半島北部のアカイアからアッティカ、さらに小アジア西岸中央部に定住しました。アッティカとはギリシアの東南の半島で、ここの一角にアテネがあります。前8世紀ごろ、アテネはこのアッティカ全域を支配する都市国家(ポリス)となります。

 

また、アイオリス人は、ギリシャ中部のボイオティア(テーベを中心に繁栄)、中北部のテッサリア(北東にオリンポス山)から小アジア北西岸やレスボス島に定着しました。このような混乱はやがておさまりましたが、ほぼ400年間を要しました。

 

鉄器時代からポリス社会へ

また、暗黒時代の400年の間に、フェニキア人を通じてアルファベットが発明され、また、神々の神話(ギリシャ神話)ができてました。

 

さらに、この時代に、ギリシアでは、青銅器に代わって鉄器の使用が普及していきました。鉄器文化への移行とともに人々は、前12世紀ごろから集住を開始して、前8世紀半ば頃から、小王国の分立に代わる、ポリスと言われる都市国家を、小アジア西岸、エーゲ海の島々、そして本土の各地に成立させていくのです。

 

王政から貴族制へ

暗黒時代においても、集住の過程でその指導にあたった有力者が王となる王政が維持されていましたが、王権は三分されました。王は祭祀にかかわる権限は保持したものの、軍事指揮者と執政官(アルコン)という二つの職が設けられ王権は制限されました。

 

さらに、この三役が任期制になり、王家以外の人にも仕事が与えられることとなりました。また、在地の有力者たちは,中心市アテネに集住し、貴族として連帯することによって、共同で支配権を高めるようになったのです。

 

こうして、前8世紀ごろに、王家は一有力貴族の地位に甘んずることになり,各地で王政は終りを告げて,ポリスの政治形態は、王政から、多数の貴族が共同で政権を握る貴族制に移行していきました。

 

 

<ポリスの時代>

 

前述したように、ポリス都市国家)は、紀元前8世紀ごろから発生し、貴族を中心とした市民共同体の小さな民主国家(ポリス的文明)が形成されていきました。

 

同時に、ギリシア人は、前8~6世紀に、地中海各地に植民市を建設し始め、地中海交易で経済を発展させました。これによって、ポリスでは、貨幣経済が進展した結果、貴族と平民が対立した反面、次第に平民が市民として、貴族と平等の権利を獲得し、民主政治を実現させていくことができたと考えられています。

 

具体的には、ポリスの政治も、王政が廃止され貴族政治に移行した後、富裕市民による財産政治、僭主政治をへて、民主政治が確立されていくことになります。

 

なお、第一回の古代オリンピックが開催されたのも、まさにギリシアのポリス(都市国家)が形成されつつあったこの前8世紀時期でした(実際の開催年は紀元前776年)。

 

◆ 貴族制

(貴族政治⇒財産政治⇒僭主政治⇒民主政治)

 

執政官(アルコン)制度

アテナイなどの都市国家では、前8世紀ごろ、王政廃止後の貴族政治において、終身職として執政官(アルコン)が設置されました。執政官(アルコン)は、最高官職(国家の筆頭職)で、貴族の中から選ばれ、王に代わり、国政を執行する権限を握った役職(機関)です。

 

その後、アルコン制度は、前5世紀前半まで政治的に重きをなしましたが、民主化の進展と共に、アルコンの数や役割が変遷していきました。

 

当初、アルコンは一人で、全権を握っていましたが、やがて、最高指導者の執政官(アルコン)、神祇官(祭祀担当)、兵部官(軍事担当)の3名に分割され、任期10年となりました。また、前683年には、3役への1年任期制が導入され、貴族政治におけるポリスが制度的に完成したと言われています。なお、この後、紀元前462年頃、ペリクレス(後述)の改革によって、アルコンの議員は籤引きで選ばれるようになりました。

 

◆ 財産政治

(貴族政治⇒財産政治⇒僭主政治⇒民主政治)

 

一方、農民などの平民は、王や貴族の支配を受けていましたが、彼らの中で私有地(クレーロス)を耕作し、財をなして家内奴隷を所有するまで自立するものが次第に増えていきました。

 

とりわけ、紀元前7世紀、隣のリディアで貨幣が発明されギリシャにも流入、富裕な市民層が増加していきました。これを機に、ギリシャの民主制も、貴族制の枠組みの中で、富裕市民による財産政治へシフトしていきます(広義には、財産政治も、貴族制の末期の政治形態ととらえられる)。

 

当時、ポリス間で戦争が発生した場合、その戦いは市民も含む総力戦となりました。したがって、古代ギリシアのポリスの兵力は、ポリスの市民が義務として武器を自弁して武装し、ポリスの防衛に当たるものでした。

 

はじめは馬を所有する上層の市民である貴族がポリスの防衛の中心となっていましたが、手工業が発展し、貨幣経済の浸透によって、財産を持った平民(市民身分の農民も含む)は自腹で武器を購入し、重装歩兵として、国防に参加するようになりました。

 

重装歩兵において、市民は、動きやすい鎧と甲、大きな楯を持ち長い槍を使った重装備で武装し、盾を揃えて、密集して敵に当たる密集隊を組織しました。

 

この重装歩兵部隊が、ポリス市民軍の中核としてポリスの防衛に活躍するようにつれて、平民の地位は向上していきました。すると、戦いを担う平民たちは、政治参加を貴族に要求していくようになり、貴族たちも平民の政治的要求に応じざるをえなくなっていったのです。こうして、平民がポリス防衛の担い手となることによって、ギリシャでは民主政治が確立していきました。

 

ドラコンの立法

平民の台頭は、法制面においても表れ、貴族政末期の時代に当たる前624年に制定されたドラコンの立法では、それまであったアテネの慣習法がはじめて成文化(明文化)されました。これは、平民の台頭を背景として,その要求に一部こたえるもので、貴族による法の恣意的解釈に歯止めをかける効果をもたらすと同時に、平民も成文法で守られることになりました。

 

ソロンの改革

当時のアテネでは,多数の農民が経済的苦境に陥り、平民である多数の農民が土地と身体を抵当として貴族から借財していました。それを返済できない場合には、土地を引き渡し,収穫の1/6の納付と引きかえにその土地を耕作する隷属農民の地位に転落し,さらに1/6を納付できない場合には家族全員、奴隷の身分に落ち入るなど、貴族・富裕者と一般農民との間に生じた深刻な社会的亀裂が生じていました。

 

そこで、アルコンに就任したソロンは,前594年、借財の帳消しを断行し,奴隷に転落する道を断ち(債務奴隷の禁止)、ポリス市民団の枠組みを維持させることに成功しました。

 

ソロンはまた、市民を、家柄でなく財産の額によって4等級に分け,それぞれについて政治への参与の権利を定めました。アテネでは、(前7世紀)大麦・小麦・ブドウ酒・オリーブ油などの穀物の収穫量(単位:メディムノス)によって、以下のように市民は4つの等級に分けられました。

 

第1級:「500メディムノス級」

所有する土地で年間500メディムノス以上の収穫がある人たち

第2級:「騎士級」

同300メディムノス以上の収穫のある人たち

(騎士級とは、馬を養い戦争には騎馬で参加することから命名された)

第3級:「農民級」

同200メディムノス以上の収穫のある人たち

第4級:「労働者級」

同200メディムノス以下の小農や手工業者

 

アテネ市民は、この中で、上位2級が貴族、第3級・4級が平民とされ、たとえば、アテネの元老院に相当するアレオパゴス会議は、それまでアルコン経験者(=富裕貴族)の中から参加者が選出されていましたが、4階級中の上位2階級の中から選出することが規定されました(平民にも財産があれば貴族となってアルコンに選ばれるようになった)。

 

第3階級はアルコン以外の役人になれましたが、労働者級は民会と民衆法廷に参加することができるだけでした。それでも、この制度は,財産を持つ平民にも、それまでの貴族と対等に政治参加する可能性を与えるものとして評価されました。

 

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(参考)アレオパゴス会議

アレオパゴス会議とは、古代アテナイ(アテネ)の政治機構で、古代ローマの元老院や裁判の場所として機能していた貴族会議をいいます。その名称は、アクロポリス西方の小さな丘アレオパゴスで開かれたことに由来します。

 

アレオパゴスの丘は、神話に由来する権威もあり、ギリシャ神話の戦の神アレス神が、海の神ポセイドンの息子であるハリロティオスを殺した罪で、オリンポスの神々の裁判にかけられた場所とされ(裁判の結果は無罪)、「軍神アレス(マルス)の丘」とも呼ばれていました。

 

アレオパゴス会議は、古くは氏族間の「血の復讐」の慣習に対して、和解の裁定を下していましたが、やがて、殺人・放火犯などの裁判や、役人の行動を監督・監視する職務などに当たりようになり、貴族政治の砦として、政治的にも重要な役割を果たしました。

 

ギリシャの王政時代は、アルコン経験者が、長老会議の審査をへて、終身会員となりましたが、ポリス成立後の貴族制時代は、10年,次いで1年の任期制となり、さらに、前述したソロンの改革で、アルコン出身者でなくても、財産を持つ市民選出されるように変化しました。

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その後、ペリクレス(後述)の時代、アルコン職そのものも抽選になり、また、前462年頃、アレオパゴス会議の公金管理の権限を含む国政監視・監督の役割も奪われ、政治上の多くの権限は民会(全市民の直接参加る総会)に委ねられました。その結果、アレオパゴス会議の権力も衰微し、民主制が確立した前4世紀には、アレオパゴス会議は、古き良き時代の象徴となりました。

 

◆ 僭主政治

(貴族政治⇒財産政治⇒僭主政治⇒民主政治)

 

さて、前6世紀中頃、ギリシャの民主制は、貴族政治から「僭主」による政治である「僭主政治」へと変化していきました。僭主政治とは、平和を利用して、非合法な手段で権力を奪い、市民(貴族と平民)に迎合しながら、市民の支持を受けて独裁的な支配を行うポリスの政治手法で、ペイシストラトスが「僭主」の典型的な例としてあげられます。

 

ペイシストラトスは、前546~前528年の間、アテネで独裁政治を行いました。貴族の共同支配を否定するなど人気取りの政策を行いつつ、一般市民に対して武器の取上げを図るなど,非合法的な独裁的な指導者でした。その一方、国家の祭祀を盛んにし,文化保護を図り、また、中小農民の救済に努め,中心市アテナイの整備に尽力するなど、評価される政治もなされたことも事実です。

 

僭主政治は、市民の自覚の高まりや、陶片追放と呼ばれる制度(後述)によって克服され、以後、アテネでは民主政治が実現していきました。実際、ペイシストラトスの子のヒッピアスは僭主を継承しましたが、市民から追放されました。

 

◆ 民主政治

(貴族政治⇒財産政治⇒僭主政治⇒民主政治)

 

僭主政治を乗り越えたアテネでは、以後、民主政治が実現していきました。この時代、アテネにおいて、国政はすべて成年男子市民全員を成員とする民会の決定によりなされていました。裁判も30歳以上の男子市民6000人から成る審判人が、そのときどきに一定規模の個別法廷を構成して行なわれました。市民たちは各種の役職に交代で就任し,行政の任を分担しました。その際,1年の任期制、抽選制などによって特定人物への権限の集中が周到に避けられていました。

 

そうした中、アテネの民主制を実現させたと評されているのが、前508年にアルコンになったクレイステネスの改革です。クレイステネスは、陶片追放の制度、10部族制の導入、五百人評議会の創設によって、アテネにおける民主政治の確立に尽力しました。

 

10部族制の導入

従来のアテネの縁的な4部族制を改め、デーモス(デモス)を単位とする地縁的な10部族制に改め、各部族から1名、計10名の将軍職を選出しました。これは、血縁者で固められている貴族制の温床を打破しようとしたものです。

 

五百人評議会の創設

五百人評議会は、常任の執行機関にあたる組織で、民会への議案の事前審議と行政監督にあたりました。民会は、全市民の直接参加する総会ですが、実質的な議論はできないので、民会の議決にかける前に議案を事前に審議することが任務でした。直接民主政を円滑に遂行するための機関です。10部族から各50名、抽選で選出された任期1年の評議員で構成されています。

 

陶片追放

陶辺追放(オストラキスモス)は、僭主の出現を防止するための一種のリコールで、市民の中から「独裁者(僭主)になりそうな人物がいる」との声が上がれば、民会で投票するかを決め、決まれば、陶辺に名前を書き、6000票以上集まると、10年間国外(アテネから)追放することができました。

 

 

その後、民主国家アテネを中心にギリシャは、侵攻してきたペルシャ帝国とペルシャ戦争を戦い、ギリシャ(アテネ)の民主政治は、アテネを中心に全盛期を迎えていくことになります。

 

 

<アテネ全盛の時代>

 

◆ ペルシャ戦争

(紀元前492年~前449年)

 

前5世紀前半、オリエントの大国、アケメネス朝ペルシャが西進し、ギリシャ系植民都市イオニア地方へ侵入し、ギリシャ本土へ向かい、ペルシャ戦争が始まりました。

 

ペルシア戦争は、ポリス民主制の危機でしたが、陸戦における重装歩兵戦法や、海戦における三段櫂船(さんだんかいせん)を駆使して、ギリシャが勝利して、イオニアを回復、ポリスの自由と独立を守りました。

 

マラトンの戦い(前490 年)

ギリシャの重装歩兵1万に対して、ペルシャの騎馬兵2万の戦いとなりましたが、ギリシャの複雑な地形を、密集陣戦法で対抗し、アテネを中心としたギリシャ連合軍が勝利しました。

 

サラミス海戦 (前480年)

ラウリオン銀山での大鉱脈の発見によって国庫が潤い,艦船の増強に成功したことに加えて、三段櫂船をこいだ無産市民(下層市民)・中小市民の活躍が、アテネ・スパルタ軍の勝利に貢献しました。

 

なお、ギリシアの三段櫂船は、乗員200名中180人までが三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせていっせいに櫂(かい)を漕ぐ軍船です。

 

当時は、平民の中でも、豊かな上層市民(上層の平民)と貧民(下層市民、無産市民とも)の格差がありましたが、漕ぎ手は武器、武具を必要としないので、貧民でもなることができました。実際、大衆が水夫として戦い、勝利を国にもたらしたことで、下層市民の発言力が強まり、貴族・平民・下層民の差が無くなって平等な市民社会が実現していったのです(中小市民から無産市民まで平民の政治参加が制度上、確立した)。

 

こうして、アテネでは、ペルシャ戦争を経た前6世紀末に、民主制が確立していきました。市民権を得た平民は、民会に参加し、抽選制によって公職や陪審員を務め、戦争となれば、重装歩兵としてポリスの防衛に参加しました。

 

一方、奴隷制度が、民主制ポリス存立の基盤の一つでした。実際、平民たちも奴隷を所有していました。ポリスにおける奴隷の使役は、農業・商業・手工業・鉱山業などの産業分野から、家内の雑用や市中警備など、市民生活のあらゆる面に浸透していました。

 

さらに、市民と奴隷に加え,アテネには、第3の中間的な身分として、在留外人(メトイコイ)の存在がありました。在留外人(メトイコイ)は、自由身分の非市民で,アテナイ以外のポリス出身者のほか非ギリシア人をも含み,参政権や不動産所有権もなかったにもかかわらず、人頭税を課され,さらに市民と同様の軍役に服しました。ただし、商工業では在留外人の役割が大きく、また、学芸の分野でアテナイの繁栄に著しい貢献をなしたとされています。

 

なお、民主制のポリスのもとで、市民(市民権を認められた者)は18歳以上の成人男子で、女性に市民権がなかったように、女性の社会的地位が著しく低いものでした。

 

◆ ペリクレス時代

 

アテネ(アテナイ)は、ペルシア軍がギリシア本土から撤退したのち,前477年に、ぺルシャの再攻撃に備えるために、エーゲ海域の諸ポリスと攻守同盟である「デロス同盟」を結びました。以後,前5世紀末まで、全ギリシアから東地中海一帯の海上までその支配を拡大させました。

 

アテネは、ポリスの盟主の地位に就き、民主政治が徹底され(かつ文化的創造力も大いに高まり)ました。特にペリクレスの時代に、直接民主政治が完成し、アテネ民主制の全盛期を迎えました。

 

ペリクレス(前495頃〜前429)は、ペルシア戦争後のアテネの民主化に努め、前443年から約15年間(~前429年),毎年、将軍職(ストラテゴス)に選出され、以下のような改革を実施し、「ペリクレス時代」と言われる(アテネ民主制の)黄金期を実現させました。

 

ペリクレスの偉業

前462年頃、民主派の指導者エフィアルテスとともに、保守勢力の牙城(貴族支配の拠点)とされたアレオパゴス会議の、公金管理の権限を含む政治的実権を奪い、国家運営の中心を民会,五百人評議会,民衆裁判所に移しました。,

 

また、役人の抽選制を徹底し、日当を支給することに加えて(仮に貧民が役人に選ばれても、給料が支給されるのでその仕事に専念できた)、給料制を、民衆裁判所の陪審員、アルコン(執政官)や評議員に拡大させました。

 

海上権の強化を推進し、デロス同盟を主導して、アテネ帝国の実現(アテネの帝国化)を積極的に図りました。

 

パルテノンその他の大神殿建築を行ったほか、三大悲劇詩人の一人ソフォクレスなどとも交遊し、演劇祭を開催するなど、文化の保護者としての役割(文化面でも大きな役割)も果たしました。

 

とりわけ、パルテノン神殿は、「デロス同盟の盟主」の象徴として、アクロポリスの丘に建てられたアテネ防衛の大城壁です(前447年に着工、前432年に完成)。建設にはデロス同盟の資金が流用され、プロピュライア、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿も同時に建立されました。

 

また、前5世紀から前4世紀にかけてのアテナイは,政治・経済だけでなく、同時に古代ギリシャ文化の中心地となっていきました。この頃のアテネには、ギリシア各地から学者・芸術家が集まり,学芸の花が開き、古典期のアテナイは,悲劇,喜劇,歴史叙述,哲学,弁論,壺絵,彫刻,建築の諸分野で,世界史上,容易に類例を見いだせぬほど多産な創造がなされ、その後のヨーロッパの文学・思想・建築に深い影響を与えました。

 

ペリクレスの時代は民主政がもっとも安定し、アテネも強国として繁栄した。それを背景にしてこの時期はアテネにおけるギリシア古典文化(ギリシャ文化の古典期)の繁栄ももたらされた。

 

こうした、ペリクレス時代を頂点とするアテナイの繁栄に転機をもたらしたのが,スパルタとのペロポネソス戦争で、アテネの全盛期が終わって衰退期に入る契機となりました。

 

 

◆ ペロポネソス戦争

(前431年~404年)

 

スパルタは、ギリシャ南部のドーリア人の一派で、ペロポネソス半島のエウロタス河畔に居を定め、先住民を征服しながら、前7世紀から前6世紀半ばまでに、都市国家(ポリス)を構築し、強固な軍国主義体制を完成させていました。

 

貴族政(寡頭政)のもとで、貴族の中から王を選び、少数の貴族階級が、アカイア人など征服・服従した多くの人々を、ヘイロータイという奴隷身分か、ペリオイコイとよばれる半自由民(重い貢納の義務を負わされた小作農)に区分して、支配していました(彼らを抑えるためにも、軍国主義を採った)。

 

もともと、ドーリア人のスパルタは、中部のイオニア人であるアテネとは対立関係にあり、紀元前520年には、コリントと「ペロポネソス同盟」を形成していました。

 

そうした中、勢力の伸張の著しいアテネに対して、スパルタが反発を強め、ギリシアは、アテネを中心としたデロス同盟諸国と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立という新たな段階に入り、両陣営は前431年に戦争に突入しました。

 

戦いは、スパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠アッティカ地方に侵入して始まりました。守勢に立ったアテネ側は、ペリクレスが海軍力で反撃に転じようとした矢先の前430年、開戦1年目で、アテネに想定外の疫病(ペスト)が蔓延しました。ペリクレスは戦争にそなえて、周辺の住民もアテネ市内に籠城させていた(人口は過密になっていた)ことが被害を膨れ上がらせ、翌429年までに人口の3分の1が失われてしまいました。

 

スパルタとの戦闘の続く中、ペリクレスは将軍職を罷免され、二人の息子も疫病で亡くしただけでなく、前429年、自らも疫病にかかって死亡しました。

 

ペリクレス後

ペリクレス没後、アテネは戦争継続の可否をめぐって主戦派と和平派が対立し、一貫した戦争指導が行われなくなりました。前421年にいったん講和となるものの、主戦派が台頭する中、シチリア島で、同盟国セゲスタがアテネに援軍を要請してきたことを受け、艦隊派遣が決定されました。

 

前413年、アテネ海軍は、シチリアのシラクサの連合軍と戦いましたが、敗れると、イオニアのデロス同盟諸国が離脱を始めてしまいます。逆に、スパルタは、アケメネス朝ペルシアから資金援助をうけ、海軍を増強、次第に制海権を握り、前404年にアテネは全面降伏し、ペロポネソス戦争は終わりました。

 

この結果、アテネは海外領土のすべてを失い、海軍は接収され、デロス同盟も解体、アテネの海上帝国(「アテネ帝国」)は崩壊し、ポリス世界の覇権はスパルタに移っていきました。アテネは国内的にも、戦争の長期化によって市民の没落(市民数の減少)や田園の荒廃など、消耗戦で国力が弱体化、未曽有の損害を被りました。

 

 

<衆愚政治>

 

戦争中、アテネでは、扇動政治家(デマゴーゴス)が横行する衆愚政治の状況に陥りました。デマゴーゴス(デマゴゴス)は、民衆に迎合し、あおり立てて民衆を動かし、自分の権力に都合の良い方向に大衆を先導していく政治家を意味します。後にデマゴーゴスから、ウソの情報を意味する「デマ」という言葉が生まれました。

 

ペリクレス後の政治指導者は、これまでの名門出の富裕な貴族でなく、靴造り・竪琴造り職人など手工業者や、ランプ製造場の経営者など、新しいタイプの指導者が多くでてきました。その権力基盤は民衆の支持にしかなかったので、主導権を握るために、民会で巧みな弁舌をふるい、大衆に迎合せざるをえなかったというのが、扇動政治家(デマゴーゴス)出現の背景にあります。特にペリクレス後のアテネでは、民主制が徹底された反面、そのような扇動政治家が出現しやすい環境にありました。

 

衆愚政治とは、民主制にあっても、そうした扇動政治家(デマゴーゴス)が行う政治で、広義には自覚のない無知な民衆による政治を意味します。ペリクレス死後のアテネでは、参政権を獲得した大衆が烏合の衆と化して、無定見な政策の決定を行っていたました。

 

実際、この時期、利益や金銭によって民衆の歓心を集め,自己の野心を達しようとした、扇動政治家が政権を握り、ペロポネソス戦争(前431年~前404年)の遂行にあたっても、国政の最高決定機関である民会を牛耳って失策を重ね、敗北に至りました。

 

このため、古代ギリシアにおいて,大衆の参加する民主主義は、結局愚劣で堕落した衆愚政治に陥ると考えられるようになりました。この時代は、ソクラテス(前470年頃〜前399年)が生きた時代であり、プラトン(前427〜前347)やアリストテレス(前384〜前322)も、衆愚政治を多数の貧民による支配とし、民主政治の堕落した形態として批判しています。

 

しかも、ペロポネソス戦争以後の前4世紀、アテネを含む諸ポリスには、ペリクレスのような卓越した政治指導者は出現せず、衆愚政治は引き継がれ,煽動政治家(デマゴーゴス)の指導の下、ポリスによる民主政治は次第に退化していきました。

 

◆ カイロネイアの戦い

 

ペロポネソス戦争で、ギリシャのポリス社会そのものがすぐに崩壊したわけではなく、後に復興を遂げたアテネも含めて、スパルタやコリント、テーベなど有力ポリス同士の抗争が続きました。たとえば、ペロポネソス戦争後、ギリシャの覇者となったスパルタも、アテネの北西にあるアイオリス人のテーベに、前371年のレウクトラの戦いで敗れるなど、ペロポネソス戦争終了後も、ギリシャは65年近く混乱が続きました。

 

しかし、前4世紀半ばになると、勢力が伸ばした北方のマケドニアが台頭して南下、マケドニアのフィリッポス2世は、前338年,カイロネイアの戦いで、アテネとテーベの連合軍を撃退し、ギリシャを制圧しました。

 

翌紀元前337年、マケドニアは、スパルタ以外のポリスとコリント同盟を結成しました。もっとも、ポリスが消滅したわけではなく、アテネなど有力ポリスの形式的な都市国家としての独立は維持されましたが、マケドニアの政治的・軍事的指導に服することとなりました。こうして、ギリシアのポリスによる民主制の時代は実質的に終わり、ギリシア世界はその様相を大きく変えて,ヘレニズム時代へと移行していきます。

 

 

<ヘレニズム時代とローマの支配> 

 

◆ マケドニアの支配

 

マケドニアはその後、ペルシャをめざしますが、フィリポス2世は暗殺され、子のアレクサンドロスが引き継ぎました。アレクサンダ―大王は、前4世紀の後半、東方遠征を開始してペルシア帝国を滅ぼし、東地中海からインダス川流域におよぶ大帝国を建設しました。これによってギリシア文化はオリエント文明と融合することとなり、ヘレニズム時代が出現しました。

 

前323年のアレクサンダ―大王の死後、アレクサンドロスの大帝国が3つのヘレニズム国家に分裂(アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝のエジプト)し、ギリシアの地はアンティゴノス朝マケドニアが統治しました。

 

アテネ(アテナイ)は、他のギリシア諸市とともに、マケドニアに対して反乱を起こしましたが、翌年クランノンの戦で敗れ、以後,完全にマケドニアの支配下に入ることになりました。アテネは、形の上では独立を維持しましたが、アテナイ民主政も事実上,終りを告げ,これよりのち「民主主義(デモクラティア)」は党争のためのスローガンと化しました。

 

一方、ギリシア諸都市の中には、マケドニアに対抗して同盟したものもあり、前280年、コリントなどペロポネソス半島北部の4つの都市国家(アテネは含まれず)は、アカイア同盟というポリス連合を結成しました(同盟そのものは前5~前4世紀にかけて存在していたが、前3世紀に改編された)。アカイア同盟は、当時、新興勢力であった共和政ローマに接近し、マケドニアと対峙していく形で強化され、一時、ペロポネソス半島全域を支配下に収めました。

 

 

◆ ローマの支配

 

一方、西方のイタリア半島の小都市国家であったローマは、前4~前3世紀にイタリア半島を統一し、前264年から3次にわたるポエニ戦争で西地中海を制圧しました。さらに、前2世紀にその勢力を東地中海に及ぼし、マケドニア戦争で、前168年にマケドニア王国を滅ぼしました。このとき、アカイア同盟はローマを裏切り、マケドニアに接近したことが命とりとなり、ローマは、前146年、コリントを征服し、アカイア同盟も消滅しました。

 

アカイア同盟に属していなかったアテネは、なおも独立を保っていましたが、ローマがギリシア本土を制すると,ローマの後ろだての下、少数の富裕市民による寡頭支配となり、民主政治は衰えました。

 

さらに、小アジアのポントス王国のミトリダテス王が、ローマの東地中海支配に反発して挙兵したミトリダテス戦争(前88~前63年)において、アテネは、反ローマの戦線に加わりましたが、前86年、将軍スラの率いるローマ軍に制圧されました。

 

これによって、アテネの政治的自立も終わりをつげ、古代ギリシアのポリス民主政治の最後となりました。この後、ギリシャは、ローマ帝国の属州として支配されることとなります。ただし、ローマの時代においても、アテネは、地中海世界における学芸の都として人々の尊敬を集めていたことも事実です。

 

 

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<参照>

古代ギリシャの歴史と神話と世界遺産

(港ユネスコ協会HP)

古代ギリシャの繁栄”だけじゃない!

(2022.2.27、ダイヤモンドオンライン)

ギリシャ(世界史の窓)

ギリシャとは(コトバンク)

古代ギリシャ(Wikipedia)

ギリシャの歴史(Wikipedia)など

 

(2024年10月13日)