周の時代、一族・功臣に土地を与えて世襲的に統治させる封建制が採用された。
春秋戦国時代には諸子百家と呼ばれるさまざまな思想が開花した。
<秦>
紀元前3世紀、中国最初の統一王朝である秦が成立した。秦の始皇帝は、法家の思想を政策の基とし、交通路の整備や度量衡および文字の統一など集権的な政策を推し進めた。始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱(BC209~BC208)が起こり、秦が滅亡し、代わって前漢がおこった。
中国では、春秋戦国の時代が終息し、中国の支配権を握った秦の始皇帝は、官僚の権力を弱めるためには、周の時代にとられていた封建制に代わり、郡県制を採用した。しかし、豪族の勢力が強まった結果、始皇帝の死後各地で反乱が起こり、ついに有力豪族の一人であった劉邦が前漢を建てた。
封建制:周王の下に世襲の諸侯を配し、その下に家臣である卿・大夫、士と呼ばれる世襲の家臣を置く制度。
郡県制:全国を36郡に分け、その下に県を置いた。
秦の始皇帝は諸子百家のうち法家思想を重視し、それ以外の思想を焚書・坑儒によって厳しく弾圧した。
貨幣や度量衡・文字を統一するともに、儒教を始め諸子百家の思想を厳しく統制した。
秦の始皇帝は、匈奴の侵入を防ぐため、オルドスの北から遼東半島に至る長城を築いた。
匈奴:紀元前4世紀末にモンゴル高原で活躍した遊牧民族
<漢>
前漢は、劉邦が項羽を破って建国した王朝であるが、北方の匈奴に敗れたため和親政策を採った。紀元前2世紀後半には、武帝は反撃に出た匈奴を北へ追いやるとともに、周辺地域に大規模な遠征を行った。
前漢から後漢にかけて学問では儒学が発展し、前漢の武帝は、儒学を官学とした。
前漢の武帝は、匈奴との戦いを有利に進めるために、中央アジアの大月氏国に、張騫を派遣して同盟を結ぼうとしたが失敗した。しかし、この派遣による張騫の情報から、内陸部のオアシス都市をつなぐ通商路が開拓されて、西域との交易が発展し、この道は、のちに絹の道(シルクロード)と呼ばれた。
モンゴル高原では匈奴が勢力を伸ばし、他の遊牧民族を従えて強大な騎馬遊牧民帝国を建てた。匈奴の国家は、多数の遊牧部族が匈奴の部族長を中心につくった部族連合国家であったが、漢代初期には、冒頓単于が現れて勢力を振るい、漢に脅威を与えた。
漢は、武帝の時代、朝鮮半島に楽浪郡など4群を設置し、張騫を西域(さいいき)へ派遣した。また儒学を官学化した
朝鮮半島北部の衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・玄(げん)兎(と)・臨屯(りんとん)・真番(しんばん)の4郡を設置した。
前漢の創始者である劉邦は、群国制(全国を中央直轄地である郡県と、地方の国とに分けて統治する制度)を制度化した。
郡県制の手直しをして、一部に皇族や功臣を諸侯王として封建する群国制を実施した。(重要地を直轄地として郡県制を敷き、それ以外の所は一族功臣を諸侯として封じる封建制)
後漢の将軍班超は、匈奴征伐に従軍して活躍し、西域都護に任じられて中央アジアの50余国を服属させた。さらに部下の甘英を大秦国(ローマ)に派遣して国交を開こうとした。
後漢の時代には、紙が発明され、木簡(もっかん)や竹簡(ちっかん)に代わって書写の材料とされた。
<魏晋南北朝>
三国時代から南北朝時代にかけて、貴族の間で流行した清談(知識人たちの哲学的な談話)は、老荘思想に基づき、道
徳に縛られない自由な精神を重んじる談話であった。
西晋では土地政策として占田・課田法が実施された。
東晋の仏僧法顕は、陸路でインドに赴き、アジャンターの僧院で仏教を学んだ後、スリランカから海路で帰国した(412年)。
多数の経典を持ち帰り、漢訳に業績を上げた。彼の著した旅行記「仏国記」の影響もあり、中国の仏教は唐の時代に最盛期をむかえ、雲関や竜門に石窟寺院が造られた。
<隋>
江南と華北を結ぶ、物資流通の大動脈である大運河を完成させた。
隋は、煬帝のときに大運河を建設するなどしたため財政基盤が弱体化した。
隋は、李淵(唐の高祖)に滅ぼされた。
<唐>
唐は、チベット、外モンゴリア、百済、高句麗、ベトナム北部まで支配したが(最大領域はアラル海地域)、中央アジアや黒海に及ぶ大帝国までは形成されなかった。
国法の根本として律令を整え、三省・六部による中央官制を整備した。
律・令・格・式などの法典を整えるとともに、三省・六部・御史台を中心とする中央官制や律令を整備し、地方には(州と県からなる)州県制を敷いて国力の充実に努めた。辺境では都護符が周辺地域の統治に当たった。
国家財政の基礎確立のために均田制が採用され、永業田や口分田とよばれる土地が農民に支給され、農民から租・庸・調を徴収するとともに、租・庸・調が免除されて交替で軍務に服す府兵制も定められた。その後、均田制が崩れから府兵制が行き詰ると、募兵制に切り替えられ、税制も両税法に切り替えられた。
均田制や府兵制は、唐代にできたものではなく、南北朝時代の北魏、西魏で生まれた制度で、隋や唐に引き継がれた。
唐の初期には、一代使用を原則として支給される土地に基づいて成人男子に均等に課税する租・庸・調制が導入されていたが、8世紀末になると(780年)、現に所有している土地や資産に応じて夏秋二期に課税する両税法が行われるようになった。
唐の初代皇帝文帝は九品中正法を廃止し、598年に科挙制を実施した。
官吏の任用については、隋から始まった科挙制度を継承した。
唐の仏僧の玄奘は、仏教の経典を求めて、国禁をおかして陸路で長安からインドへ赴き、ナーランダーの僧院で仏教を学び、内陸部の通商路を通って帰国した。彼は旅行記「大唐西域記」を著し、小説「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルになった。
唐の時代には外国文化が盛んに流入したため、国際色豊かな文化が発達するとともに、詩文が興隆し、李白や白居易らを輩出した。
唐は、中期において、タラス河畔の戦いでアッバース朝に大敗した。
王朝の中頃(唐代半ば)、玄宗皇帝による開元の治と呼ばれる安定した時代が続いたが、地方の節度使(中国から異民族を守る)が勢力を伸ばし、安禄山と史思明による安史の乱(755~763年)を招いた。
安史の乱後、貴族による大土地所有(荘園制)が進行して律令体制の崩壊が進み、税制も両税制に代わった。
唐の衰退期には、兵農一致の府兵制は崩壊したことから、高宗時代から募兵する募兵制に代わった。
唐の衰退期には、節度使は地方の兵権・民政・財政権などの実権を握り、藩鎮と呼ばれ、独立的な地方勢力となり、皇帝の中央権力を弱めた。
唐の衰退期には、節度使が独立的な地方勢力となり、均田制・府兵制も崩壊したことから、律令制が崩壊した。
<宋>
趙匡胤(ちょうきょういん)によって建国された宋(北宋)は、五代十国時代の動乱の時代に台頭し、文人官僚中心の文治主義(文人政治)を行なった。科挙制を完成。
宋は、女真族の金と結んで1125年に遼を滅ぼした。
中央集権を強化するために文官の地位を高める文治主義が進められ、皇帝が行う試験(殿試)を加えた科挙により新興地主の子弟が官吏へ登用され、官僚には税負担の一部が免除されるなどの特権が与えられて、皇帝権力の強い官僚政治が行われた。その後、登用された王安石により、新法として国庫収入の増大や軍事力の強化を図る改革が行われた。
王案石は、宰相として富国強兵策を推進した。
官吏登用制度の科挙制では、宮中で行われる最終試験の殿試では、皇帝自らが試験官を務めた。最終試験を皇帝自ら課す殿試が導入されるなど、科挙が整備された。
宋の時代には朱子学が(南宋の朱熹が大成)大成され、君臣、父子の身分関係を正す大義名分論が唱えられた。また、民族意識の高まりから歴史や地理などの学問が重視されたが、なかでも編年体の中国通史である「資治通鑑」(歴史家の司馬光が著した)は名高い。
唐の頃に始まった木版印刷術は、宋の時代に発達、普及した。
木版印刷術の発達や羅針盤の航海への利用がみられるようになった。(羅針盤の実用化)
この時期に江南の開発が進んで、国の経済力が充実したことに伴い、商業活動に対する地域的な制限が撤廃された。広州、泉州といった商業都市が大規模に発達し、行(こう)(同業商人組合)・作(さく)(職人組合)と呼ばれる商人や手工業者の同業者組合も成立するようになった。
12世紀、ツングース系の女真族からなる金に華北を占領された宋は、都を江南の臨安(杭州)に置いた。
宋(北宋)は、12世紀初め、金を建国したツングース系の女真族によって首都開封を奪われたが、江南にのがれて南宋をたて、臨安(杭州)を都と定めた。
モンゴル帝国は、チンギス=ハンが1206年に、モンゴルの諸部族を統一して成立した。
チンギス・ハーンによって建国されたモンゴル帝国は、内陸アジアにも遠征し、1227年に西夏を滅ぼしたのち、チンギス・ハーンは病死した。
チンギス=ハンの息子のオゴタイ=ハンは、金を滅ぼした。1234年
モンゴル帝国は、チンギス=ハンの死後、ロシアを服属させ、ワールシュタットの戦いで、ドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を破り、また、西アジアでは、アッバース朝を滅ぼし、空前の大帝国となった。
1241年、ワールシュタット(ニーグリッツ)の戦いは、バトゥ率いるモンゴル軍がドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を破った。
オゴタイ=ハンの命により西方へ遠征、攻略中、オゴタイ=ハンの死のために帰還し、キプチャク=ハン国を開く。(バトゥ:チンギスハンの孫で、ジュチの子)
モンゴル帝国は、その後、内乱に苦しみ、中国本土の元と4ハン国に分裂した。
<元>
東アジアでは、チンギス=ハンが諸部族を統一し、モンゴル帝国を建てた(1206年)。モンゴル帝国は次々に領土を広げ、第5代フビライは、大都に都を定め、国名を元と称し南宋を滅ぼして中国領土を支配した。
チンギス・ハンの孫のフビライは、1264年に大都に遷都し、1271年には国号を元と改め、1279年には南宋を滅ぼし、中国を統一した。遠征によって、高麗・ビルマを征服したが、ベトナム・ジャワは征服できなかった。
元は、日本への侵攻は失敗しただけでなく、ベトナム及びジャワの征服にも失敗し、東南アジアへの領土拡大は失敗した。
13世紀、モンゴル族が中国全土を征服し、元を建国した。
元は、強大な軍事力を用いて13世紀後半に南宋を滅ぼした後、日本やベトナムに遠征軍を派遣したが失敗に終わった。この後、弱体化した元は、紅巾の乱(1351~66年)によって政権が不安定になり、明は建国した朱元璋に滅ぼされた。
広大な領域の統治を確立するために駅伝制の整備が進められ、異民族の文化に対する寛容政策が保持されて東西交流が陸路・海路で盛んになり、紙幣(交鈔)の発行により通貨の統一も図られた。その後、紙幣の乱発によって物価が騰貴し、民衆の生活が困窮して各地で農民反乱が発生し、紅巾の乱が起った。
元は前王朝から行っていた科挙を中止、モンゴル人第一主義がとられていたので、役職はモンゴル人、色目人が独占した。駅伝制が施行され、東西交流が盛んになったが、交鈔(こうしょう)(紙幣)の乱発により社会が混乱し、紅巾の乱(白蓮教徒の乱)などの結果、滅亡した。
元は支配下の人々をモンゴル人、色目人、漢人、南人の4段階に分け、特に漢人を冷遇した。科挙を一時的に停止したり、儒者を冷遇するなどの政策をとった。
元の時代には東西の交通路が整備されたことにより東西文化交流が盛んになって、商人、マルコ=ポーロや、イブン=バトゥーダが往来(来朝)した。
モンゴル帝国の皇帝フビライ=ハンは、都をサマルカンドから大都(現在の北京)に移して元王朝を開き、領内の駅伝制を整えて東西の交流を奨励した。フランチェスコ派修道士モンテ=コルヴィノが元を訪れ、ヨーロッパの文化を伝えたので、郭守敬はイスラム暦を基に授時暦をつくった。(モンテ=コルヴィノは中国で最初にカトリックを布教した。)
<明>
紅巾の乱(1351~66年)の指導者であった朱元璋は、1368年に明を建国し、洪武帝となって漢民族の再興を図った。
紅巾の乱後、朱元璋(洪武帝)によって建国された明は、漢民族の中国再興を図り、海外貿易を統制する一方、東アジアの冊封体制の再編に努め、15世紀初め、永楽帝の代には、鄭和を東南アジアやインド洋方面に遠征させて、諸国の朝貢を促した。
武力で南北辺境を制圧する一方、大艦隊を南海諸国から(東南アジアからインド洋に入り)アフリカ東海岸にまで派遣した。永楽帝の命により、鄭和は1405年から33年の間に7回に及ぶ大遠征を行った(鄭和の南海遠征)
皇帝の独裁体制を確立するために官制の改革が行われ、中書省を廃止して中央行政機関の六部を皇帝に直属させるとともに、農村や農民を直接把握するために里甲制を確立し、魚鱗図冊という土地台帳や賦役黄冊という戸籍簿を兼ねた租税台帳が整備された。その後、里甲制の行き詰りから一条鞭法とよばれる納税法が実施された。
明は、初代皇帝洪武帝が、これまで政治の最高機関であった中書省を廃止し、中央行政機関の六部を皇帝に直属させるなど、皇帝親政体制を確立した。また、村落の自治組織である里甲制を定め、その実施のために、土地台帳としての魚鱗図冊、戸籍台帳としての賦役黄冊を作成し、土地租税制度を確立した。その後、里甲制の行き詰まりから一条鞭法と呼ばれる納税法が実施された。
メキシコや日本の銀が大量に持ち込まれたため、銀の社会的役割が増大し、貨幣経済が発達した。明では土地税と丁(てい)税などを一括化して銀納とする一条鞭法が採用されて、清ではこれをさらに簡略化し、土地税に一本化した地丁銀制が採用された。
宣教師(イエズス会士)マテオ=リッチが往来した。中国最初の世界地図「坤(こん)輿(よ)万国(ばんこく)全図(ぜんず)」が作成された。
14世紀、元王朝に代わって明王朝が中国を支配するようになった。この時代、イエズス会の宣教師としてマテオ=リッチが明を訪れ(1601年)、首都南京の様子をヨーロッパに伝えた。また、明の永楽帝は、皇帝の親政を補佐する内閣大学士を置いたが、靖難の変(1399~1402年)で活躍した宦官はそれ以降、発言権を増大させるようになった。
明の時代に、中国南部の海岸に倭寇が出没し、永楽帝の時代、北は北方民族の脅威と倭寇の脅威から「北虜南倭」の状態に置かれた。こうした状況の中、漢民族を中心とする華夷秩序や、君臣・父子間の身分関係を論ずる陽明学がおこった。
<清>
清は満州族のヌルハチにとって建国された。
清の官僚制は、満漢併用策がとられ、重要な役職の定員は満州人と漢人が同数になるように定められていた。
女真(満州)族の建てた王朝である清は(雍正帝の時代の1727年)、ロシアとの間に条約(キャフタ条約)を結んで、モンゴル北辺の国境線を定め、18世紀には、周辺諸国を朝貢国とする巨大な帝国をつくり上げた。
清は、漢民族の文化を重んじて「康煕字典」(漢字辞典)を編纂する(1716年)一方、満州人の風俗である辮髪を漢人に強制した。
皇帝の専制支配の強化のために高級官僚にも漢人を採用し(満漢併用)、漢人に対し強硬策と懐柔策を併用した。最高政務機関として内閣大学士の下に六部が置かれたが、その後、皇帝に直属する諮問機関で、軍事上の問題を扱う最高機関として軍機処が設置された。
税制では土地税の中に人頭税を組み入れる地丁銀制が実施された。
清は征服王朝であったが、軍事・行政組織は、明から継承したところもあった。軍政面では、緑営という明の常備軍制度を受け継いだ。八旗は清独自の制度。
清の4代皇帝の康煕帝の時代に、三藩の乱(1673~81年)が起こったが鎮圧された。漢人武将で雲南に駐屯した呉三桂、広東に駐屯した尚可喜、福建に駐屯した耿継茂(こうけいも)(この三人が三藩と呼ばれた)は、三藩撤廃を阻止するため起こした反乱。
清の6代皇帝乾隆帝の勅令で、「四庫(しこ)全書(ぜんしょ)」が編纂された。
学者を動員して重要な書籍を筆写させ、経・史・子・集の4部に分類した叢書(ぞうしょ)。
洪秀全の指導する太平天国は、1901年に「滅満興漢」を掲げて清朝に対し反乱を起こした。
庶民文化が発展し、貴族の家庭生活を描いた「紅楼夢」や科挙制度を風刺した「儒林外史」などの傑作が書かれた。(清代中期)
清は、1689年、ロシアとの間でネルチンスク条約を結んで両国の国境を取り決めた。これは、ヨーロッパの国際法に基づいて清が結んだ最初の対等条約である。
清にやってきたキリスト教イエズス会の宣教師たちは、中国の伝統文化を尊重し、信者に孔子の崇拝や祖先の祭祀などを認めて布教に当たった。しかし、遅れてやってきたドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちはこれを問題視し、ローマ教皇に訴えると、教皇クレメンス11世はイエズス会の宣教方法を禁止した(典礼問題)。これを怒った康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止し、ついで1724年、雍正帝はカトリックの布教を禁止した。
清は中国茶や陶磁器などを輸出していたが、輸入しなくてはならないものはなかった。イギリスは銀が流出、しかも貿易港は広州(広東)1港のみに限られていたので、清の貿易政策に対して、不満を持っていた。
清ではアヘン戦争後、(銀価高騰、税負担増大などにより)民衆が困窮を深め、清朝打倒と理想国家の実現をめざした洪秀全による太平天国の乱が起こった(1851~64年)。反乱の鎮圧に苦しむ清に対して、イギリスは、アロー号臨検事件を口実に出兵し、天津の開港を認めさせた。
ロシアは、1858年、清がアロー戦争で苦しんでいるのに乗じて、清とアイグン条約を結んだ。黒竜川をロシアと清の国境とすることや、ウスリー江以東の沿海州共同管理とし、ウスリー江の航行権を認めさせた。
アヘン戦争に敗退した清は、イギリスに香港を割譲し、広州などを開港した(1842年南京条約)。
アヘン密輸が中国から多くの銀を流出させたため、欽差大臣(対外交渉担当)の林則徐が、それらを没収、破棄しようとしたが、このことがアヘン戦争を引き起こすこととなった。
アヘン禁輸問題を巡る戦争は、英軍の北京占領によって清の敗北に終わり、南京条約によって、香港の割譲、上海、天津の開港、公行と呼ばれる貿易組合を廃止させられた。
アヘン戦争後、キリスト教とキリスト教と民間信仰を融合した宗教結社を組織した洪秀全は「滅満興漢」のスローガンを掲げて蜂起、太平天国の乱を引き起こした。太平天国を樹立した。曾国藩や李鴻章らが率いる洋式軍隊である郷勇によって鎮圧された。
太平天国は「滅満興漢」を掲げ、キリスト教と中国固有の思想を調和させ、纏足(てんそく)の禁止などの悪習の撤廃などを唱えた。
宣教師迫害事件を口実に、仏越戦争(1858~62年)が勃発。
清仏戦争(1884~85)による天津条約(1885年)で、清はベトナムの宗主権を放棄し、フランスがベトナムを保護国化することを承認した。
日清戦争の敗北後、キリスト教に反対する排外的な宗教結社である義和団は、「扶清滅洋」を唱えて暴動を起こし、土地の均分や租税の軽減などを要求して北京を占領したが、ロシアや日本を主力とする8カ国連合軍によって鎮圧された。
義和団は、「扶清滅洋」を叫んで、外国人と外国文化を中国から一掃する排外運動を展開した。
帝国主義国の圧力にさらされた清朝支配下の中国では、日本の明治維新にならった根本的な制度改革を主張する意見が台頭した。その中心となった儒学者の康有為は、皇帝光緒帝を動かし、科挙の廃止(1905年)、立憲制へ向けての憲法大綱の発表と国会開設の公約などを実現させ、近代国家の建設に向けての改革に踏み切った。
康有為は明治維新をモデルに変法自強運動を進めて、政治制度の改革をめざす戊戌の新政に乗り出した。しかし、西太后に代表される保守派の反撃を受けて、その改革はわずか3カ月で挫折した(戊戌の政変)。1898年
列強の侵略に直面した清朝では、開明派の康有為らが政治改革である戊戌の変法(1898年6~9月)を起こしたが、摂政の西太后を中心の保守派が弾圧した(戊戌の政変)。
戊戌の変法:第11代皇帝光緒帝の下に政治家の康有為らが推進した政治改革。戊戌の政変で光緒帝は幽閉され、康有為は失脚し、西太后が政権を握った。
西洋技術の導入による洋務運動の限界が明らかになると、康有為や梁啓超らは、光緒帝を擁して立憲君主政による近代的諸制度の導入を断行しようとしたが、西太后ら保守派のクーデターによって弾圧され、改革は短期間で失敗した。
1900年に義和団は外国勢力の一掃を目ざして武装蜂起した。
清朝政府内の保守は、義和団を支持し、各国に宣戦したが、日本とロシアを中心とする連合軍(8カ国連合軍)による北京占領により北京議定書に調印させられることになった(賠償金と外国軍隊の北京駐屯などを承認した)。
義和団事件(1900~01)以後、清は憲法制定、国会開設を約束して情勢の融和に努めたが、その約束が果たされる前に、1911年に辛亥革命が起き、中国同盟会の指導者孫文を臨時大総統に選び、1912年には中華民国が発足した。
孫文は1905年に東京で中国同盟会を組織し、三民主義(民族の独立、民権の伸長、民生の安定)を唱え、4大綱領を掲げた。
<中華民国>
1912年に孫文が南京で臨時大総統として中華民国の建国を宣言した。軍事力を握る袁世凱は、清朝最後の皇帝(溥儀)を退位させ、孫文の臨時大総統を引き継いで、独裁を進めた。
中国大陸では、1911年に辛亥革命が起こったが、革命勢力はまだ弱かったので、清朝の軍人袁世凱は、清の皇帝溥儀の退位と引き換えに、自らが中華民国の臨時大総統となった。
辛亥革命の結果、南京で中華民国の成立が宣言されたが、清朝の実力者袁世凱は列強と北洋軍閥の支持を背景に辛亥政府と交渉し、清朝の宣統帝の退位と共和制の実現を条件に中華民国の臨時大総統に就任した。
孫文は、中国同盟会を組織して革命運動を展開し、中華民国を建国、自ら臨時大総統に就いた。
1920年代(1921年)にコミンテルンの支援により中国共産党が結成された。国民党は、中国共産党との間に国共合作を成立させたが、後に蒋介石が上海クーデターを起こして共産党を弾圧したため、(第一次)国共合作は解消された(国共分裂)。
パリ講和会議(1919年)で「二十一カ条の要求」の取消しなどが退けられた結果、五・四運動と呼ばれる排日運動が各地で行った。
<中華人民共和国>
1949年に中国共産党は、中華人民共和国を成立させたが、この時、ソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」を結んで(1950年)、友好関係にあった。
1950年代に、毛沢東の指導により、「大躍進」運動が進められ、人民公社の設立(農業の集団化)や、土法による鉄鋼生産運動など急激な改革(工業化)が実施された。この「大躍進」運動は、約2000万人ともいわれる餓死者を出す大凶作にも見舞われ失敗した。