伊勢神宮:天照大御神と八咫鏡

 

「日本の神社の最高位」、「日本人の総氏神」など最大級の形容のことばが贈られる伊勢神宮、また、皇室の祖、ひいては日本人の祖ともいえる天照大御神をまつる伊勢神宮についてまとめてみました。

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  • 伊勢神宮とは?

 

伊勢神宮という呼び方は、実は通称で、伊勢神宮は、伊勢の神宮、より正式には単に「神宮(じんぐう)」と呼ばれます。

 

また、伊勢神宮(「神宮」)と一言でいっても、一つの社だけをさすのではなく、相並び立つ「内宮」(ないくう)と「外宮」(げくう)(両社で「正宮(しょうぐう)」に加えて、別宮、摂社、末社、所管社と呼ばれる大小さまざまな社(やしろ)を含め、あわせた125社からなるのが神宮です。その範囲は伊勢志摩地方にひろく及び4つの市と2つの郡にまたがります。

 

ただし一般的には、「(伊勢)神宮」といえば、「内宮」と「外宮」が連想されますね。内宮では、皇室の御祖先神、日本人の総氏神とされる天照大御神(あまてらすおおみかみ)を、また外宮では天照大御神のお食事を司り、産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりしています。

 

外宮(げくう)(豊受大神宮)

祭神:豊受大御神(とようけおおみかみ)

 

内宮(ないくう)(皇大神宮)(こうたいじんぐう)
祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 

外宮と内宮のなかでも有名なのが御正殿(ごしょうでん/ごせいでん)で、通常、私たちは、それぞれの御正殿を外宮、内宮とみなしています。御正殿とは、神社の本殿、宮殿の中心となる建物で、天照大御神は、内宮の御正殿でお祀りされています。

 

 

  • 伊勢の祭り(神宮祭祀)

 

この125社からなる伊勢神宮では、新年の歳旦祭(さいたんさい)から大晦日の大祓(おおはらえ)まで、各神社の祭祀を合計すると、年間を通じて、数十種以上およそ1500回も行われ、皇室国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りがささげられています。

 

伊勢の神宮の祭りは、大きく「神嘗祭(かんなめさい)」、「恒例祭(こうれいさい)」、「臨時祭(りんじさい)」、「遷宮祭(せんぐうさい)」の4つに分類されます。

 

10月の「神嘗祭」は、その年に最初に収穫した稲穂(初穂)を天照大御神に感謝のお供えをする祭祀です。また、稲作に関わるお祭りであれば、「神宮」では春先に、祈年祭(きねんさい)、御田植祭(田植えの前に豊作を祈願する儀式)も行われます。

 

恒例祭(こうれいさい)」は、6月・12月の月次祭(つきなみさい)や毎日の神饌祭など定期的に行われる祭祀で、「臨時祭(りんじさい)」は、「天皇陛下ご即位〇〇年を祝う・・」など皇室・国家および神宮の重大事に臨んで行われます。そして「遷宮祭(せんぐうさい)」は20年に一度実施される一大祭祀です(以下に詳細)。

 

 

  • 式年遷宮

 

伊勢神宮(外宮・内宮、別宮)では、20年に1度、隣の敷地にそのままの姿で社殿を建て替えて、ご神体を遷す式年遷宮と呼ばれる最大の祭典が行われます。式年遷宮は、飛鳥時代の持統天皇の世の690年から、1300年以上にわたって、続けられています。直近では、2013年10月に行われました。

 

式年遷宮における最重要の儀式は、「遷御の儀」という儀式で、御神体(神さま)が古い正殿から新しい正殿へと遷られる神事です。

 

2013年、第62回式年遷宮が伊勢神宮の正宮(外宮と内宮)と外宮と内宮の第一別宮である「多賀宮」、「荒祭宮」(後述)で催され、遷御の儀が無事、挙行されました。

 

遷宮の行事はその年で終わるのではなく、第62回式年遷宮の場合、翌2014年も他の別宮の遷御の儀が行われ、2014年10月に「月讀宮・月讀荒御魂宮」「伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮」、11月に「瀧原宮・瀧原竝宮」「伊雜宮」、12月に「風日祈宮」「倭姫宮」、さらに2015年1月には「土宮」、2月に「月夜見宮」、3月に「風宮」と、残る12社での神事が滞りなく行われました。

 

「遷御の儀」で、御神体(神さま)にお移りいただいた後、古い社は解体されます。また、建物だけではなく、装束や宝物などの道具も新調されます。「遷宮」とは、言わば、神さまの引越しです。そうした「引越し」の準備を考慮すれば、遷宮行事は、遷宮の年の7年前から行なわれます。

 

こうした式年遷宮の過程で、技術は、「見習いの職人⇒棟梁⇒後見人」というように面々と引き継がれていくことになります。そういう意味で、式年遷宮は、建築や製品の技術を次の世代に伝えていくと制度もあります。

 

これに対して、外国にも歴史的な宮殿がいくつもあります。例えば、ギリシャ神殿は2千年以上も建ち続けています。しかし、それを千年、二千年に1回を建て改めるとなったとしても、同じ建築をつくれる人はもういないと言われています。

 

 

  • 内宮の起源

 

伊勢神宮の始まりは神話の「天孫降臨」の時代に遡ります。皇孫、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)が、天照大御神の命を受けて、高天原から地上の豊葦原中ツ国(とよあしはらのなかつくに)に降りる際、天照大御神は、ニニギノミコトに、お鏡(八咫鏡)(やたのかがみ)を授けられ、「鏡を自分(天照大御神)の御霊(みたま)とみなして、同じ御殿で祀るように」と命じられました(詳細⇒記紀(天孫降臨)。

 

この時から、天照大御神は、伊勢の地に鎮座される以前に、皇居内の天皇のお側で祀りされていました。しかし、第10代崇神(すじん)天皇(BC148~BC29)の時、その御神威を畏(かしこ)み、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所でお祀りすることにしました。

 

この背景について神話では、崇神天皇の時代に疫病が流行し、大勢の死者が出た際、この原因が、「神の祟り」で八咫鏡のせいではないかという噂が流れたと言います。そこで、崇神天皇は、「お鏡(八咫鏡)」を、宮中(皇居)の外に出されことを決意されたという説もあります。

 

いずれにしても、崇神天皇は、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に、皇居外のふさわしい場所を探すように、お命じになられます。すると、豊鍬入姫命は、皇居外の神聖な地を選んでおまつりすることにし、大和の国の笠縫村(かさぬいむら)(奈良県桜井市)に神籬(ひもろぎ)(=神霊を招き降ろすための樹木)を立てて、大御神を祀られたのでした。この場所が現在の大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社「檜原神社(ひばらじんじゃ/奈良県桜井市三輪)」の辺りではないかと言われています。

 

その後、第11代の垂仁(すいにん)天皇(BC69~AD70)の代になると、八咫鏡をお祀りする役目が、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に交代します。倭姫命は、天照大御神が、新たに末永くお鎮まりになるのにふさわしい土地を諸国を尋ね歩かれました。大和国を出発し、伊賀、近江、美濃、桑名を巡られた末に、伊勢の国に入られた時、天照大御神は伊勢の地を望まれました。「日本書紀」には、この時、天照大御神が次のよう告げたと書かれています。

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この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所である。この国にいようと思う

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こうして、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から足掛け90年の歳月をへて、倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢の五十鈴川の川上に、八咫鏡(天照大御神)を移してお祀りするための「御社殿」を建て、天照大御神さまをお祭りしました。この御社殿こそが、今日の伊勢神宮の内宮(正式名称「皇大神宮(こうたいじんぐう)」)となるのでした。これが今から約2000年前の出来事です。

 

 

  • 外宮の起源

 

内宮ができてから、約500年後、天照大御神の食事を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつった場所が外宮(正式名称「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」)です。また、この神さまは、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業(農耕)の守護神でもあります。

 

豊受大御神は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の御世(今から約1500年前)に、天照大御神のお示しによって京都の丹波(たんば)の国(天橋立付近)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになったと伝えられています。

 

前出の天孫降臨の神話においても、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)が天降る場面で、天照大御神が天上の高天原でつくられた田の稲穂を手渡される場面があります。この逸話は、天で育った稲を地上にも植え、この国を天上界のような稔り豊かな国にするように託されたと解されています。

 

さて、その外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、そこで天照大御神に朝夕二回のお食事がお供えされています。「献立」は、御飯三盛、鰹節、魚、海草、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献で、これらに御箸を添えて供えられているそうです。

 

また、伊勢神宮のHPによれば、神饌(しんせん)(神さまのお食事)を調理するのは忌火屋殿(いみびやでん)という建物で行われ、神に奉る神饌は特別におこした火と特別な水で調理することになっています。火は、清浄な火という意味で忌火(いみび)と呼ばれ、神職が古代さながらに火鑚具(ひきりぐ)を用いて火をおこしています。また、御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日お汲みしてお供えされているそうです。さらに、お食事はただ出されるのではなく、「皇室のご安泰、国民が幸福であるように」との祈りと感謝を捧げる、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という祭祀の形で行われています。しかも、この日別朝夕大御饌祭は、外宮の御鎮座以来、1500年間、欠かすことなく、朝夕の二度行われているのです。

 

 

  • 神宮の斎王

 

さて、内宮においては、7世紀末(飛鳥時代)に、天皇が即位する度に、未婚の女性皇族)」の中から、天皇に代わって天照大御神(八咫鏡)に仕える「斎王(さいおう)」という制度ができました。伊勢神宮における斎王とは、天照大御神の御霊がお宿りする「八咫鏡を祀る任務を担う役職」のことで、一代の天皇が即位する度に未婚の皇女が1人選出されていました。

 

ただし、伊勢へ下ると、斎王は、日々、神宮で奉仕していたかというとそうではなく、基本的に、伊勢神宮の最も大切な祭典「三節祭」が執り行わる際にのみ、神宮へ赴き奉仕したと言われています。普段は、伊勢国多気郡の櫛田川付近(現在の近鉄斎宮駅の付近)に位置した「斎宮(さいぐう)」で生活していたとされています(斎宮は斎王の御所)。斎王はあくまで象徴的な存在だったのでしょう。

 

なお、「三節祭(さんせつさい)」とは、神宮内の数ある祭典(神事)の中でも特に重要視されている6月と12月の「月次祭」と10月の「神嘗祭」の3回の祭典をいいます。天皇は現在も、「三節祭」の時には、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されていたそうです。

 

しかし、この斎王の制度は、神宮創建から約660年後となる室町時代の1330年頃、ちょうど朝廷が2つに割れた「南北朝時代」には廃止されてしまいました。政治の混乱とともに、斎王の制度を維持していく財源がなくなったことが要因とみられています。

 

実際、南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていきました。後醍醐天皇による天皇親政の復活を図った「建武の新政」も失敗し、武家が完全に権力を掌握する時代に移り変わってゆきます。天皇家が政治の中心いた時代では、財源の確保が容易にできましたが、武家の時代になると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなりました。結果的に「斎王」の制度が執り行えなくなり、14世紀以降、時代から消えてしまいました。それまで、皇女が務めた歴代の斎王の人数は60余人にのぼりましたが、現在、伊勢神宮に「斎王」は存在しません。

 

 

  • 神宮の祭主

 

なお、伊勢神宮には、現在も「斎王」と似て非なる存在として「祭主」がいます。神宮祭主は、天皇の代理として神宮の祭事をつかさどる役職で、天皇の「勅旨」を受けて決まります。神宮祭主のはじまりは不詳で、平安時代まではさかのぼると言われています。

 

現在の祭主は、上皇陛下の長女、黒田清子(さやこ)さんです。その前は、昭和天皇の4女の池田厚子さんで、戦後の祭主には、皇族出身の女性が就任されてきました(過去には、男性がなったり、華族らがなったりしていたこともある)。伊勢神宮成立の経緯からして、皇室の祖先の神である「天照大御神」にご奉仕する「斎王」と同様、伊勢神宮の祭事に携わる「祭主」は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例でした。

 

「祭主」は、神宮の祭事をつかさどる役職といっても、年間「千数百回」も行われていると言われるお祭りすべてに携わっているわけではなく、祭主が直接、神事に携わる(ご奉仕する)のは、神嘗祭(10月)など一部に限られています(このほかに出席するだけの「ご参列」もある)。ですから、祭主になると、伊勢への「常駐」が求められるかというと、祭主が直接関わる祭りは限られているため、伊勢に住みこむ必要はありません。黒田さんも、必要があるときに神宮を訪れるという対応をとられています。

 

  • 外宮先祭

 

さて、私たちが、伊勢神宮にお参りにいく場合、内宮と外宮、どちらから参拝したらいいのでしょうか?神宮のお祭りは、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、まず外宮から行われるのが慣例となっていることに倣い、伊勢参りの際も、外宮・内宮の順に参拝することが望まれています。

 

これは、豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神から「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」との御神託があったと伝えられていることに由来しています。

 

また、前述した神饌(しんせん)と呼ばれる神さまのお食事をお供えする外宮での祭祀(日別朝夕大御饌祭/ひごとあさゆうおおみけさい)が、内宮のお祭りに先立って行われています。

 

 

  • 私幣禁断の制

 

古来、伊勢神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りする、皇室にゆかりのある神社であることから、一般の人々は今のような自由な参拝はままなりませんでした。そのことを象徴的に示す制度に、天皇以外の幣帛(へいはく)(=食べ物以外のお供え物)を禁じる「私幣禁断(しへいきんだん)の制」がありました。

 

幣帛(へいはく)とは、麻や木綿など食べ物以外の品を箱に入れてお供えすることで、伊勢神宮にお参りして、これらの品々を奉納できるのは(天皇の)「勅使」や「斎王」のみに限られ、個人は禁止されていたのです。

 

この私幣禁断(しへいきんだん)の制の「伝統」から、一般の人が伊勢神宮をお参りする時、「個人的な願い事をしてはいけない」と言われています。伊勢の神宮は、天皇が天照大御神さまの前で、国民と国家安寧のための公的な祈りの場であるので、「個人的な願いをかなえようと手を合わせて祈ってはいけません」となったのですね。ですから、現在も外宮・内宮の正殿の前には、「賽銭箱」はありません。ただし、皆がお賽銭を投げ入れるので脇に「箱」が置かれるようになりました。

 

 

  • 伊勢参り

 

もっとも、私幣禁断の制によって、一般の人々の参拝までも禁止されたわけではありませんでした。ですから、勅使のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに伝えられていくうちに、次第に神宮の存在が広く知られるようになったと言われています。平安時代の後半には、神嘗祭に「千万人」、鎌倉時代中頃には外宮遷宮に「幾千万」と文献には残されているように、神宮への参向者は年々増えていきました。

 

江戸時代になると、全国に伊勢信仰が広がり、「お伊勢まいり」が流行するほどでした。この伊勢ブームに大きな功績があったのが御師(おんし)と称される人々です。伊勢の御師とは、神宮の外宮と内宮に所属して、参詣者の様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とする一種の下級神職でした。仏教の檀家制度に近く、檀家にお神札の頒布や祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をしたり、御神楽を行ったりしたそうです。

 

江戸の全盛時代には、二千人あまりの御師が活躍し、伊勢の外宮方面(山田)と内宮方面(宇治)に、御師の館が1,000軒あったと言う説もあるくらいです。ただし、御師制度は明治時代に廃止されてしまいました。

 

このように、伊勢神宮は、一生に一度は伊勢参りと言われるくらい、人々に定着していったのでした。しかしながら、天皇は、江戸時代まで、皇室の祖である天照大御神を祀る伊勢神宮を参拝したことはなかったという驚くべき事実がありますが、これについては改めて解説します。

 

 

では、最後に、「内宮」と「外宮」以外に、伊勢神宮(「神宮」)を構成する「別宮」、「摂社」、「末社」、「所管社」と呼ばれる社について説明します。

 

 

  • 別宮(14社)

 

別宮(べつぐう)とは、正宮と特に関わりの深い神さまをお祀りする格の高い神社で、御正殿に次ぐお宮です。正宮に準じて祭祀が行われています。別宮のお宮も、式年遷宮が行われます。

 

伊勢神宮の別宮は、外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に10社あります。別宮にも格付けのようなものがあり、外宮の第一別宮である多賀宮(たかのみや)や、内宮の第一別宮である荒祭宮(あらまつりのみや)には、大きな祭祀が行われる際、天皇陛下が幣帛(へいはく)(=絹の反物など)をお供えされます。

 

 

外宮別宮(4):多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮

 

多賀宮(たかのみや)>

御祭神:豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)

 

豊受大御神荒御魂とは、豊受大御神(とようけのおおみかみ)の荒く猛々しい時の御霊のことで、神道では、神さまの荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを「荒御魂(あらみたま)」、神さまの御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」といいます。

 

多賀宮の殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、小高い丘の上に鎮座しています。外宮の別宮では最も格式の高い「第一別宮」で、外宮ではこの多賀宮のみ、20年に一度の式年遷宮を、正宮と同じ年に行います。

 

 

土宮(つちのみや)>

御祭神;大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)

 

大土乃御祖神は、古くから山田原(やまだのはら)の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しました。他の別宮は全て南向きですが、土宮だけ東を向いています。

 

 

月夜見宮(つきよみのみや)>

御祭神

月夜見尊(つきよみのみこと)

月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)

 

月夜見尊は、天照大御神の弟神で、月の満ち欠けを教え、暦を司る神とされています。内宮別宮の月読宮でも祀られています(同じ祭神)。

 

 

風宮(かぜのみや)>

御祭神

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

級長津彦命と級長戸辺命は、伊弉諾尊(イザナギノミコト)の御子神で、特に風雨を司る神さまです。内宮別宮の風日祈宮(かぜひのみのみや)のご祭神と同じです。雨風は農作物に大きな影響を与えるので、正宮に準じてお祀りされています。また、鎌倉時代の元寇に際して神風を吹かして日本を守って下さったことから、国を救ってくれる祈願の対象ともなってきました。

 

 

内宮別宮(10)

荒祭宮、月読宮(4)、瀧原宮(2)、伊雑宮、風日祈宮、倭姫宮

 

荒祭宮(あらまつりのみや)>

御祭神:天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)

 

天照大御神の荒御魂をお祭りしており、内宮に所属している10社の別宮のうち、第一位(第一別宮)とされ、内宮では荒祭宮のみ、20年に一度の式年遷宮を、正宮と同じ年に行います。内宮の敷地内には、天照大御神をお祀りする御正殿(ごせいでん)の他に2つの別宮があり、一つはこの荒祭宮で、もう一つが風日祈宮です。

 

 

風日祈宮(かざひのみのみや)>

御祭神

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

外宮別宮の風宮と同じように、特に風雨を司る神さまをお祀りしています。

 

 

月読宮>

祭神:月読尊(月讀尊)

 

外宮別宮の月夜見宮(つきよみのみや)と同じように、天照御大神の弟神である月読尊(つきよみのみこと)をお祀りしています(外宮では月夜見尊と書く)。役割は、「月を読む」という名前の通り、月の満ち欠けを教え、暦を司ることです。外宮では、月夜見尊の荒御魂も祭神となっていますが、こちらでは、月読尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)は、月読宮とは異なる別宮(月読荒御魂宮)に祀られています。

 

また、月読宮には、天照大御神と月讀尊の父母神である「父:伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「母:伊弉冉尊(イザナミノミコト)」も、伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)と伊佐奈弥宮(いざのみのみや)にそれぞれ祀られています。このように、内宮の月読宮の敷地には、月読宮だけでなく、以下の3社の別宮が並んで存在しています。

 

月読荒御魂宮(祭神:月読尊荒御魂)

伊佐奈岐宮(同:伊佐奈岐命)

伊佐奈弥宮(同:伊佐奈弥命)

 

 

瀧原宮(たきはらのみや)>

祭神:天照大御神の御魂

(天照坐皇大御神御魂/あまてらしますすめおおみかみのみたま)

 

瀧原宮は、伊勢市から40kmほど離れた渡会郡の山間に位置し、文字通りの「瀧原宮」と、「瀧原並宮(たきはらならびのみや)」の2つの別宮が並立しています。昔から神宮の遙宮(とおのみや)(遠い宮という意味)と呼ばれ、品格があることで知られています。祭神は、どちらも「天照大御神の御魂(あまてらすおおみかみのみたま)」とされていますが、瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原並(竝)宮は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られるとする説明もあります。

 

伝承では、かつて、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀るため、相応しい聖地を探し求めていたところ、内宮より先に、この渡会の地に瀧原宮を建てて、天照大御神を祀ったという話しが残されています。しかし、その後、現在の内宮のある伊勢の地に新宮を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったと言われています。

 

内宮の雛形といわれている瀧原宮は、「ミニ内宮」の様相を呈しているとされ、五十鈴川と同じように清流が美しい御手洗場もあります。入口の鳥居から参道を抜けると、奥に社伝がたたずんでいます。

 

 

伊雑宮(いざわのみや)>

祭神:天照大御神の御魂

 

志摩市に鎮座している伊雑宮(いざわのみや)は、別名「いぞうぐう」とも呼ばれています。天照大御神の御魂をお祭りしていて、地元の人々からは海の幸、山の幸の豊饒が祈られてきました。毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、「磯部の御神田(おみた)」の名で知られ、日本三大田植祭の一つとされます(後の二社は香取神社と住吉大社)。瀧原宮(たきはらのみや)と同様、別宮の中でも「遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、地元からも篤く崇敬されています。

 

 

倭姫宮(やまとひめのみや)>

祭神:倭姫命

倭姫宮は、天照大御神を伊勢にお連れした、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)を祭神としています。内宮と外宮を結んでいる御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、別宮の中で最も新しいお宮です。

 

 

  • 摂社(せっしゃ) 43社

 

摂社は、平安時代中期(927年)にまとめられた国家の官帳である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されているお社で、外宮(豊受大神宮)に16社、内宮(皇大神宮)に27社あります。いくつかの摂社を紹介します。

 

 

草名伎神社(くさなぎじんじゃ)>(外宮摂社)

祭神:標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)

 

外宮の摂社として格式が高く、1210年に、月夜見宮が別宮に昇格してから、第一摂社となりました。

 

度会氏の祖とされる大若子命(おおわくこのみこと)は、祭神である標劔仗神から剣を賜り、越の国の阿彦という賊徒を討伐したことから、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の名を賜ったという伝承が残されています。「草奈伎」の社号も、この剣を日本武尊の「草薙の剣」に例えたものと言われています。

 

大若子命は、天照大御神の伊勢遷座の際、南伊勢の豪族として協力した功績から、官職の一つである神国造(かみのくにのみやつこ)と、神宮の大神主(おおかんぬし)(=神官で禰宜ねぎの上位)に任じられたとされています。

 

また、「草薙の剣」は、倭姫命(やまとひめのみこと)から日本武尊へ授けられる以前に「神宮」にあったとされ、草奈伎神社では、草薙の剣の御魂を祀るという説も残されています。

 

 

朝熊神社(あさくまじんじゃ)>(内宮摂社)

祭神

大歳神(おおとしのかみ)
苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)

 

朝熊神社は、内宮摂社の中で格式が高い、内宮第一摂社で、桜の名所(朝熊山)としても知られています。上記した祭神の三柱は、この土地を守る神(熊野平野の守護神)、五穀の神、水の神とされています。

 

ただし、別の資料では、大歳神(おおとしのかみ)ではなく、その子の桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)とする説もあります。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名ともされています。

 

 

多岐原神社(たきはらじんじゃ)>(内宮摂社)

祭神:真奈胡神(まなこのかみ)

 

真奈胡神は、倭姫命(やまとひめのみこと)が宮川を渡るのをお助けした土地の神で、社も倭姫命を出迎えたとされる瀧原の近くの場所に建てられたとされています。

 

 

  • 末社(まっしゃ) 計24社

 

末社は、延喜式神名帳には載せられていませんが、807年に成立した伊勢の神宮の儀式帳で、鎮座の由来などについて記した「延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)(「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」と「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」の併称)」に記載されている神社です。

 

なお、末社は、外宮(豊受大神宮)に8社、内宮(皇大神宮)に16社、あります。ここでは以下の2社を紹介します。

 

 

<伊我理神社(いがりじんじゃ)>(外宮の末社)
祭神:伊我利比女命(いがりひめのみこと)

 

伊我利比女命は、かつて存在した外宮の御料田(神宮の神田)の井泉の神で、古く外宮御料田の耕種始めの神事、鍬山伊我利神事(くわやまいがりしんじ)が行われていました。このお祭りは、猪の害を防ぐためのもので、社名の「伊我理(利)」も猪狩(いかり)に由来するといわれています。

 

 

小社神社(おごそじんじゃ)> (内宮末社)

御祭神:高水上命(たかみなかみのみこと)

 

高水上命は、この土地の神で灌漑用水の神と伝えられ、内宮神主の荒木田氏が、この地域を開拓した当時、産土神として尊ばれた神さまです。小社神社は、この地方では「雨の宮」と呼ばれ、ひでりの折には雨乞祈願をしたといわれます。

 

 

  • 所管社(しょかんしゃ) 計42社

 

所管社は、摂社と末社以外に、正宮や別宮にゆかりがあり、水やお酒、お米、塩、麻、絹などの御料(ごりょう)(=お供え物)、宮域鎮護など、祭祀にあたり深く関係を持つ神々がお祀りされている場所です。

 

外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に30社、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)に3社、伊雑宮(いざわのみや)に5社あります。ここでは、数ある所管社の中で、まず、内宮の域内にある2つの所管所をみてみましょう。

 

 

子安神社(こやすじんじゃ)>(内宮所管社)
祭神:木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

 

祭神の木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)は、猛火のうちに御身無事に、三柱の御子をお生みになられたという神話から、子授け、安産、厄除けの神として篤い信仰を受けています。もっとも、木華開耶姫命は、元々は伊勢・宇治館町の「産土神(うぶすながみ)」という土地の守護神という伝承があり、木華開耶姫命に対する信仰はこの地に根付いています。

 

木華開耶姫命は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘神であることでも知られています。木華開耶姫命の御神体は「富士山」と云われており、父神の大山祇神からゆずり受けたとされています。子安神社の奥には、その大山祇神を祀る大山祗神社があります。

 

 

大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)>

祭神:大山祇神

 

大山祇神(おおやまずみしん)は、木華開耶姫命の父神で、山の神として全国から崇敬を集めています。子安神社と大山祇神社はともに、内宮の衛士見張所の近くにあり、親子神で並んで内宮の宮域でお祀りされています。なお、両社は、伊勢神宮の所管社ではありませんでしたが、1900年(明治33年)に再び、内宮(皇大神宮)の所管社として登録されています。

 

次に、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)にある若宮神社、長由介神社、川島神社をとりあげます。

 

若宮神社(わかみやじんじゃ)>(瀧原宮所管社)

祭神:若宮神(わかみやのかみ)

 

若宮神は、瀧原の地に縁のある水の神といわれていますが、由緒など詳細は不明とされています。天若宮(あめのわかみや)と呼ばれることもある若宮神社は、瀧原宮所管社3社のうち第一位です。

 

 

長由介神社(ながゆけじんじゃ)>(瀧原宮所管社)

祭神:長由介神

 

長由介神(ながゆけのかみ)は、瀧原宮の御饌(みけ・食物)の神といわれています。御饌の神だから、豊受大神の御霊あるいは分霊とする説もあります。長由介(=長生き)と解され、長生きの神であるとの民間信仰があり、江戸時代には、長寿祈願の参拝者でにぎわったそうです。

 

 

川島神社(かわしまじんじゃ)>

祭神:川島神

 

由緒など詳細は不明。川島神社は、1874年(明治7年)以降、長由介神社に合祀されるようになりました。

 

瀧原宮を訪れると、周る順番も、瀧原宮→瀧原並宮→若宮神社→長由介神社(川島神社は長由介神社と同座)が推奨されています。

 

一方、所管所の中には、社殿を持たず、石畳の上に祀られる石神(磐座)祭祀など原初的な形式で祀られている所管所もあります。

 

瀧祭神(たきまつりのかみ)>
古代より、瀧祭神は氾濫が多かったとされる五十鈴川の守り神であったとされ、五十鈴川の龍神(水神)を鎮めるために祀られていると言われています。従って、瀧祭神は、五十鈴川の御手洗場近くの杜の中に鎮座し、板垣の内側に御神体の石がお祀りされています。元々は、対岸となる五十鈴川の西側の川辺に鎮座していたという説もあります。

 

四至神(みやのめぐりのかみ)>

四至神は、神の神域(大宮)の四方の境界を守護する神で、内宮と外宮に1箇所ずつ鎮座しています。元々はそれぞれの境内に数十箇所以上も存在しと言われていますが、それらが統合されて1箇所にまとめられました。なお、四至とは宮の四方の意味です。

 

内宮の四至神の鎮座地は、神楽殿・五丈殿のやや東方、忌火屋殿の程近くにある石畳の上の白石で、そこで、石神としてまつられ、白石の石神(=四至神)のみがお祀りされた神域となっています。江戸時代までは、神様の依り代としての一本の桜の木=「桜大刀自神桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)」が祀られていたそうです。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名との見方もあります。

 

なお、どの社が、別宮、摂社、末社、所管社となるかは、各時代によって制定された神祇制度(じんぎせいど)により神社の格(社格)が定められ、その格に応じて摂社・末社と分類されています。

 

(2021年3月3日更新)

 

<参照>

神宮の歴史と文化(伊勢神宮HP)

教えてお伊勢さん(伊勢神宮HP)

日別朝夕大御饌祭(伊勢神宮HP)

BUSHOO!JAPAN 日本史データベース:寺社・宗教

伊勢神宮への参拝で日本人なら知っておきたい7つの秘密

伊勢神宮誕生から現在までの歴史 | 神ズム

かつて桜の神もいた!伊勢神宮内宮、太古の神祭りに触れる参拝

(Lineトラベルjp)

たけしの“教科書に載らない”日本人のなぞ(日テレ)2010/1/3)

別宮、摂社、末社、所管社とは

心のふるさと「伊勢の神宮」と神道のあれこれ@れーじん

春秋 (日経新聞,2013年1月10日)

天皇家長女、黒田清子さんが就任 (2012/5/ 8、Jcastニュース)

BUSHOO!JAPAN 日本史データベース:寺社・宗教

伊勢神宮への参拝で日本人なら知っておきたい7つの秘密

伊勢神宮誕生から現在までの歴史 | 神ズム

伊勢神宮はゼロ磁場!?

伊勢志摩観光ナビ

お伊勢さん125か所参り(伊勢神宮崇敬会)

草奈伎神社・延喜式神社の調査

Wikipediaなど