<香淳皇后例祭>
香淳皇后例祭は、昭和天皇の后(きさき)でいらっしゃた香淳皇后(こうじゅん)を偲び、逝去(せいきょ)された6月16日に行われている宮中行事です。
2020年には逝去から20年にあたり、「香淳皇后二十年式年祭の儀」が皇居と、武蔵陵墓地にある武蔵野東陵(東京都八王子市)で行われました。皇居の宮中三殿では、「皇霊殿の儀」が執り行われ、装束姿の天皇皇后両陛下が拝礼され、陛下は御告文(祭文)を読み上げられました。また、秋篠宮ご夫妻ら皇族方も参列されました。
一方、香淳皇后の武蔵野東陵では、「山陵に奉幣の儀」が執り行われ、天皇陛下の使者が玉串をささげた後、上皇ご夫妻の側近が代拝(上皇ご夫妻は欠席)されました。続いて参拝服でマスクをした秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さまがそれぞれ拝礼されました。
- 香淳皇后
香淳皇后は、1903年(明治36年)3月に久邇宮邦彦王(くにのみや-くによしおう)の長女として生まれ、良子(ながこ)と名付けられました。「久邇宮家」は、戦後に皇籍を離脱した宮家の1つでした。
1919年6月10日に皇太子裕仁親王との婚約が内定しましたが、時の権力者、山県有朋が、母方に色覚異常(色弱)があるとの疑いをかけ、結婚に反対し、婚約を取り消そうとしました(「宮中某重大事件」と呼ばれた)。しかし、山県の死後、「事件」は沈静化し、1924(大正13)年1月、無事結婚されました。
お二人は、お子様には恵まれ、2男5女が誕生されています。香淳皇后は、四人の内親王(一人は天折)を出産されましたが、親王に恵まれず、側室復活の声もあがったと言われています。しかし、昭和天皇はこれを固辞され、1933(昭和8)年12月、明仁親王(現、上皇陛下)が誕生されました(次男は常陸宮さま)。
戦争中、香淳皇后は昭和天皇と共に皇居にとどまり、靖国神社参拝や傷病兵慰問などを行われたと伝えられています。戦後、昭和天皇の公務に同行し、多忙な天皇を支えられました。昭和天皇とともに国民に溶け込もうとされ、その屈託のない笑顔から、当時は「国母」と慕われました。
2000(平成12)年6月、満97歳で崩御され、香淳皇后の誼号(しごう/おくりごう)を受けられ、武蔵野東陵に葬られました。諡(おくりな)の「香淳」は、日本最古の漢詩集『懐風藻』からとられたと言われています。
<参照>
香淳皇后しのび二十年式年祭 両陛下、皇居で拝礼
(2020/6/16、時事通信)
「国母」と慕われた香淳皇后 崩御から20年…
(2020/6/25 、FNNプライムオンライン)フジテレビ 解説委員 橋本寿史
2020年7月9日(最終更新日2022年3月22日)