- 祈年祭とは?
「祈年祭(きねんさい)」は、毎年2月17日に、宮中の賢所で、五穀豊穣と国の繁栄、国民の幸福などを祈る祭祀で、天皇が御親拝にされます。もともと、立春の日である旧暦の2月4日に行われていましたが、明治維新の折、旧暦から新暦へ改暦されたことを受け、2月17日に固定されました。
祈年祭は、「としごいのまつり」とも呼ばれます。「とし」とは稲の美称で、「こい」は祈りや願いを意味し、稲(米)を始めとする五穀の豊作を祈る祭りであることが確認できます。
- 祈年祭の由緒
祈年祭の起源は、春に「田の神」に対して、年穀の豊穣(ほうじょう)を祈る農耕儀礼でした。豊作をあらかじめ祈るので、前祈りを意味する予祝(よしょく)祭という位置づけです。「田の神」は、稲の生育を守護する古来からある民間伝承の神です。稲作の豊凶を見守り、稲作の豊穣をもたらすと信じられています。
そうした民間の祭りが、天武天皇の時代(675年)、神祇官で行われる国家祭祀にまで発展し、国家規模で行われるようになりました。これは、古来からの農耕儀礼と、国をあげて穀物の実りを祈る中国の「大祀祈穀(たいしきこく)」という儀式の要素が取り入れられたからです。日本の社会は、弥生時代以降、稲作中心の農耕社会を基盤として成立しており、豊作を祈ることは国家の安泰、国民の繁栄を祈ることに他なりませんでした。ちなみに、稲などの収穫を神々に感謝する祭りが秋に行われている新嘗祭(にいなめさい)です。
こうして、奈良時代には、祈年祭は、五穀豊穣に加えて、国家安泰と民の平穏を祈るという儀式に変わり、宮中だけでなく、日本のすべての神社で行われるようになったと言われています。
さらに、平安時代になると、天照大御神に天皇が豊作を祈願するという祭祀形態にまで、進化していきましたが、室町時代に入り、応仁(おうにん)の乱から戦国時代になると祈年祭は行われなくなりました。それでも、明治になって、重要な国家祭祀として復活、神祇官とともに、宮中や伊勢神宮、諸国の神社で祈年祭が再興され、官祭として執り行われるようになりました。
しかし、第二次世界大戦後、GHQの占領政策によって、祈年祭は、国家祭祀ではなく、天皇家が行う宮中祭祀となりました。宮中祭祀は国事行為ではなく皇室の私的行為という位置づけです。
皇居では、天皇陛下が「祈年祭の儀」に臨まれ、宮中三殿で拝礼され、新たな年の豊作ご祈願され、各地の神社においては、祈年祭、またはそれに類する同様の神事が行われています。
2020年4月10日(最終更新日2022年3月19日)