- 紀元節とは?
紀元節(2月11日)は、日本書記によれば、紀元前660年1月1日(皇紀元年)に、初代の神武天皇が大和の橿原の地に宮を建て、初代天皇として即位した日(紀元の始まり)を祝う日です。紀元前660年1月1日が旧暦の元日で、1872(明治5)年に採用された新暦(太陽暦・グレゴリオ暦)に換算して2月11日を紀元節としました。
皇紀とは、初代天皇、神武天皇が即位した年を元年(紀元)とする日本独自の紀年法(暦の数え方)で、皇暦(すめらこよみ)ともいいます。なお、2022年は皇紀2682年ということになります。
戦前の日本では、重要な宮中祭祀が行われる日を「祝祭日」としていました。紀元節に関しても、明治政府は、明治6年に、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(太政官布告)を制定し、この日を日本の建国を祝ふ日として祝日と定めました(その後、大正元年の勅令「休日ニ關スル件」がこれを継承)。
戦前の紀元節は、四方拝(現在の元旦)、天長節(現在の天皇誕生日)、明治節(明治天皇の誕生日、現在の「文化の日」)と並ぶ四大節(しだいせつ)の一つでした。
- 紀元節祭とは?
「紀元節祭」は、紀元節を祝う宮中祭祀で、紀元節が導入された同じ明治6年に宮中三殿の一つで歴代天皇・皇族の御霊をまつる皇霊殿(こうれいでん)で行われたのが始まりです(最初の頃は皇霊殿でのみ祭祀が執り行われた)。
明治41年制定の「皇室祭祀令」では、紀元節を大祭と位置づけ、天皇は皇霊殿だけでなく、皇祖天照大御神をまつる賢所(かしこどころ)でも、神武天皇を親祭されました(但し玉串は皇霊殿のみ)。(親祭とは、天皇みずから神を祭り、御告げ文を奏上する祭儀のこと)。午前中に大祭が執行され、午後6時より大御霊を御める神楽が夜半まで奏し続けられたと言われています。
1914(大正3)年には、全国の神社で紀元節祭が執り行われるようになりました。また、1927(昭和2)年の皇室祭祀令改正で、紀元節祭は、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で斎行されるようになり、祭祀も、朝、昼、夕の三度行われ、朝の儀は御饌が供進され、昼の儀は親祭、夕の儀は親拝のあと御神楽が奏されたといいます。
- 紀元節と紀元節祭の廃止
しかし、敗戦後、GHQ(連合国総司令部)は、「祝祭日」が宮中祭祀、ひいては国家神道と関連が深いみて、「祝祭日」の廃止を指示しました。1947(昭和22)年に皇室祭祀令が、さらに昭和23年に、勅令の「休日ニ関スル件」がそれぞれ廃止されました。同年の「国民の祝日に関する法律(祝日法)」では、祝日から外されただけでなく、紀元節そのものが廃止されてしまいました。この結果、昭和24年以降、宮中において、神武天皇の建国を祝う紀元節祭は執り行われなくなり、現在に至っています。
- 臨時御拝として継続
それにもかかわらず、昭和天皇は、「2月11日、紀元節祭は行はなくても当日は特別に拝礼をする」との意向を示されたとされ、宮中三殿にて臨時御拝(りんじぎょはい)を毎年2月11日に欠かさずなされたと言われています。形式的には、2月11日の旬祭(毎月1日、11日、21日に宮中三殿で行われる定例祭)にお出ましの後、お供へ物を改め、再び「臨時御拝」と称して祭典が行われているそうです。この2月11日の臨時御拝は、上皇陛下も今上陛下も受け継がれていると言われています。なほ、紀元節祭(夕の儀)で行われていた「皇霊殿御神楽」は、4月3日の神武天皇祭の夜に行われています。
- 建国記念日
一方、GHQの圧力によって廃止された紀元節を復活させようとする動きも広がり、1966(昭和41)年に、祝日法が改正され、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と定める「建国記念の日」が制定されました(「国民の祝日」となる)。全国各神社はこれにより、紀元節祭を紀元祭として復活させ、奉祝行事を行っています。
こうして、紀元節は、「建国記念の日」の名称のもとに復活した形となっていますが、神武天皇による建国の神話に基づく由緒」はかき消された形で、単なる休日と化しているとの批判も避けられません。
<参考>
紀元節―日本の祝祭日
2月11日 紀元節 ~紀元節祭(大祭)の廃止~ 皇紀2679年
「皇室祭祀百年史」、八束清貫著
「昭和天皇のおほみうた」、鈴木正男著
「2月11日 建国記念の日にはどんな意味があるのですか?」京都府神社
Wikipediaなど
2020年4月9日(最終更新日2022年3月19日)