一般的に、お正月と言えば、年末から各家庭で注連縄を飾り、門松をたてて、お正月の準備をして、元旦の日、お雑煮とおせち料理をいただいて、家族で初詣に出かける・・・・というように、家族で新年を迎える行事と思われる方が多いと思います。
しかし、日本の正月というのは、古来から、歳神(としがみ)と呼ばれる神さまをお迎えする祭りです。歳神さま、地域によっては「歳徳神(としとくじん)」と呼ばれる神さまとは、元旦になると山など高い場所から降りてきて、作物に実りをもたらし、家に幸せをもたらす神さまとされています(祖先神と同一視されることもある)。では、この歳神さまを迎える祭りという観点から、私たちがお正月に行う風習について解説してみたいと思います。
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<お正月準備>
神棚や仏壇などの煤払(すすはら)いや家の中をきれいにする大掃除、また、門松を立てたり、注連縄(しめなわ)飾りをするお正月の準備も、歳神さを気持ちよく迎え入れるために行われました(門松、注連縄については後述)。また、家族一人一人が、一年間、身についた罪や穢れを祓い浄めて、清浄な心身でお正月を迎えるために、神社では、12月31日には「年越祓(としこしのはらえ)」というお祓いの神事が行われます。
飾る日も重要で、12月31日に飾ることを「一夜飾り(いちやかざり)」と言って避けます。これは、「歳神様をお迎えする直前に慌てて飾り付けることは神様に対して失礼である」として縁起が悪いとされているためです。また、「一夜飾り」は、もともと葬儀の際になされるものであることも、31日が避けられる背景です。では、30日はと言えば、この日は、旧暦の大晦日なので、その日も「旧暦の一夜飾り」として避けた方がよいとされています。さらに、12月29日は、「9」が苦(9)の語呂になる、また、29そのものも「二重苦(にじゅうく)」となるので、縁起が悪いとされます。したがって、「お正月飾り」は、12月28日までに終わらせるのが最も良いと言われています。
◆年越しそば
大晦日には、日本全国、「年越し蕎麦(そば)」をいただくのが恒例となっています。新年の準備をすべて終え、除夜の鐘を聞きながら12時になるまでにいただくというのが理想とされ、年を越してから食すれば、白髪やしわが増えると言われている地域もあります。通常、おそばに入っている「葱(ねぎ)」は、神社の神官の位の一つである「禰宜(ねぎ)」に通じるとされています。そこで、年越しそばにネギを入れて食べるということは、「禰宜に今年一年をお祓いしてもらい、新年に備える」という意味が込められているそうです (「禰宜」は、「宮司」に次ぐ役職である)。
<元旦>
元旦の日は、神棚や仏壇にお正月料理を供えます。そして、家族そろって挨拶を交わし、お屠蘇(おとそ)やおせち料理、お雑煮などをいただいて、新年の訪れをお祝いします。子ども達は、お年玉をもらい、外では、男の子は駒しや凧揚げ、女の子は羽子板をやり、お家ではすごろくなどに興じて家族で楽しいひと時を過ごす…というのもお正月のありようです。
さて、新年を迎えて、元旦には家族がそろってお祝いをする際、最初にいただくのが「御屠蘇(おとそ)」です。
◆お屠蘇
お屠蘇(とそ)には、山椒、桔梗などの薬草が含まれており、これをいただくと一年の邪気が祓われ、寿命を伸ばすことができると信じられています。胃薬として効果があるほか初期の風邪にも効くと言われています。歴史的に、「屠蘇」は中国の三国時代の医者、華陀(かだ)が考案した「屠蘇延命散(とそえんめいさん)」いう漢方薬を、酒や味醂(みりん)に浸したものだそうです。お屠蘇は、一家の家長から年少者に注がれます。これは、年長者の知恵が分かち与えられると信じられています。「御屠蘇」でお祝いしたあとは「御雑煮(おぞうに)」です。
◆お雑煮
お雑煮は、一般的に、「年神さま」にお供えした神饌(お食事)と餅を合わせて煮て食べたことに始まると言われています。お雑煮は年神様から「お下がり」を頂いて、年神様の恩恵にあずかるという意味で食べられていたということですね。ですから、お正月にお雑煮を食べることは、古くから日本人にとって、特別な意味を持っていたと言われています。お雑煮を作るときも、その年最初に井戸からくみ上げたお水(若水)と、最初に点けた火で一番だしを引いて煮込んでいったそうです。
「雑煮」の語源は、肉や野菜など色々な種類の具材が煮られ、食されたということに由来し、当初は、「煮雑ぜ(にまぜ)」と呼ばれていたそうです。このため、地方によって味の違いや具材の違いがあります。例えば、公家風か武家風かの違いで、関西のお雑煮は、丸餅を白味噌仕立てにするのに対し、関東では長方形の形をしたののし餅を清汁(すましじる)仕立にするとよく指摘されます。
様々な具材がある中で、お雑煮に必ず入っているのがお餅です。お餅は「よく伸びる」ことから、長生きできるように、という願いが込められていると伝えられています。お餅は、稲作が始まった縄文時代からすでに人々の間に広まっていたと言われ、時が経つにつれ、収穫を祝う行事やその他お祝い事、神様へのお供えなどに欠かせない具材となります。
一方、お雑煮の始まりは、室町時代だと言われ、武家の間で、お祝いの席でお酒のおつまみとして、最初にお雑煮が出されていたそうです。お雑煮が宴の初めに食べられていたということは、お雑煮が縁起の良い料理と考えられていたことが伺えます。また、それは、お雑煮が当初、お正月以外にも食べられていたということでもありますが、お目出たいときに食べるお雑煮がやがて、お正月に食べる風習となってみられています。
これに対して、武家社会とは別に、一般庶民も同時期にお雑煮を食べ出したようですが、当初は、お米の値段が高かったことから、餅の代わりに里芋が使われていたそうです。一般庶民もお餅が食べられるようになり、お雑煮にも餅が入るようになったのは、江戸時代になってからだと言われています。地域色もこの頃から出始め、当時、北海道と沖縄を除いた、日本全国の地域でお雑煮が食べられるようになりました。(北海道へは明治以降に本州から伝えられ、沖縄ではお雑煮を食べるという食文化はあまり育たなかった)。
なお、お雑煮は年神さまへのお供えを煮込んだことに始まるとする説以外にも、神話に遡ればさらに興味深いお話しがありますが、別の機会に紹介することにします。
◆お節料理(おせちりょうり)
お雑煮を食べた後は、お節料理を頂きます。御節料理(おせちりょうり)とは、もともと、お正月や、ひな祭り、七夕など節句に、神さまにお供えするご馳走のことをいいました。おせち(御節)の語源も、節句にお供えするという意味の「御節供(おせちく)」からきているとされています。その時、豊作や健康、家の繁栄などを願って、身近に採れる材料を利用して縁起をかついだ料理を作るという風習が続くなか、江戸時代中頃には、その中の正月の料理のみが「御節料理」と呼ばれるようになりました(かつては、「節会(せちえ)料理」と呼ばれた)。
ですから、御節料理の品々には、それぞれに祈りが込められています。御節料理に何を詰めるかは、土地柄や家によっても異なり、縁起をかついだり、語呂合わせでめでたいものが選ばれてきました。その中で、数の子、ごまめ、黒豆の三種は「祝儀肴(いわいざかな)」(三種肴という)として欠かせないものとされています。地方によって黒豆の代わりにたたきごぼうを入れることもあります。
数の子
数の子はにしん(鰊)の卵(腹子)。その由来は、二親(にしん=両親)から多くの子供が生まれるという縁起をかついだもので、子孫繁栄が祈られました。
黒豆
まめに暮らせるという願いが込められています。
ごまめ(五万米)
ごまめは片口鰯(かたくちいわし)の稚魚。「五万米」という字が示すように五穀豊穣が願われます。かつては、片口鰯を田の肥料として使われたことから「田作り」ともいわれます。
たたきごぼう
根が地中に深く張るごぼうに、家の基礎がしっかりするようにとの願いが込められます。
そのほかにも、長寿を願う「海老」、めでたい「鯛」、喜びや運を広める「昆布まき」、学業や仕事の成功を祈る「日の出蒲鉾」など、重箱を賑わせてくれますが、一品一品に意味があります。お雑煮やおせち料理を食べるときに「祝い箸」と呼ばれるお箸は使います。このお箸は両端が丸く細くなっています。これは、片方が歳神さまが使われ、もう片方が私たち使うからだそうです。別名「両口箸」ともいわれる祝い箸を使って、神さまと私たちが一緒にお祝い膳を食べるのです。まさにお正月行事は一種の神事なのですね。
<お正月飾り>
◆門松(かどまつ)
門松は、歳神さまが家においでになるときの依り代(よりしろ)(=神霊が依りつく目印)とするために飾ります。門松は歳神さまを家に招く目印でもあるのです。歳神さまは松の葉や竹のように尖っている部分を好まれるとされているので、松の葉や枝に乗せて家々にお迎えするのです。ちょうど、お盆の時、先祖の御霊を迎え、送りだすために、迎え火や送り火を焚くのと同じ考え方です。
◆注連縄・注連飾り
家の門や玄関に、注連縄(しめなわ)を張ったり、注連飾り(しめかざり)を飾ったりするのは、家が清められていることを示すと同時に、歳神さまがいるという目印にもなるからだそうです。
◆鏡餅(かがみもち)
床の間に飾る鏡餅は、もともと歳神さまにお供えするためのものです。御餅は、稲の霊が宿った神聖なものとみなされ、お正月には歳神さまが宿ると言われています。語源からみても、「鏡餅」の「鏡」は、「神さま」に通じます。鏡は、日の光を反射し太陽のように光ることから、神話の時代から、太陽神(天照大神)に見立てられ崇拝の対象(ご神体)となりました。このため古来、日本では鏡は神様が宿るものと考えられるようになったのです。
昔の鏡というのは銅鏡で、お餅のように丸い形をしていました。そこで、歳神様に捧げるお餅を、神が宿る丸い鏡に見立てて「鏡餅」と呼ぶようになりました。こうして、鏡餅は、年神さまの依り代(居場所)として正月にお供えするようになったのでした。鏡餅は、大小二段重ねにすることが一般的です(三段重ねにするところもある)。大小二つのお餅は、「陰」と「陽」、「月」と「太陽」を表し、それらを重ねることで、円満に年を重ねる、転じて、夫婦和合などの意味も込められています。
お年玉
お年玉は、もともと、歳神さまに供えられた鏡餅を人々に分け与えた古来の習慣に由来するものでした。前述したように、鏡餅は、文字通り鏡をかたどったものとされ、鏡は神さまの魂を映すものといわれてきました。魂は玉に通じます。それで、歳神(としがみ)さまの魂、すなわち歳(年)霊(玉)(としがみ)から転じて、「年玉」となりました。また、私たちは、歳神様が宿った鏡餅をお雑煮として分けていただきます。これを「御魂(みたま)分け」と呼ばれ、転じて「歳魂(としだま)=年玉」に通じるとの見方もあります。いずれにしても、年神さまから頂く、鏡餅のお下がりなので、敬って「お」をつけ「お年玉」と呼ぶようになったといわれています。
◆絵馬(えま)
絵馬は、祈願や感謝のために奉納する馬の絵を描いた額のことをいいます。絵馬の起源は、神さまに生きた馬を献上する古代の風習にあるとされています。馬は、古来より神さまの乗り物であると考えられてきたので、歴代の天皇は祈願の際に、生きた馬を神馬(しんめ)として神社に奉納していました。絵馬の発祥は、水の神さまをまつる京都の貴船神社だと言われています。貴船神社には、雨ごいの祈願のときには黒い馬を、晴れの祈願のときには灰色または赤毛の馬が献上されていたそうです。
しかし、平安時代から、本物の馬に代わりに、次第に木彫りの馬や粘土製の馬が代用されるようになり、やがて、板に描いた馬の絵が奉納されるようになりました。室町時代になると、個人も絵馬を奉納するようになり、江戸時代にはさらに、家内安全や商売繁盛といった身近なお願い事を書く風習が庶民にも広がっていったそうです。これに伴い、現在のように、馬以外の絵馬も描かれるようになっていったと言われています。
◆破魔矢(はまや)
破魔矢は、魔除け(まよけ)に欠かせぬ縁起物(えんぎもの)で、本来、破魔弓(はまゆみ)と一式になったものを指していました。
破魔矢は、宮中の正月行事の一つであった「射礼(じゃらい)」を起源としています。これは、子どもたちの弓の技術を試す競技で、清寧天皇(在480~484)の時代にその最古の記録が残っているそうです。この時、使用されていた的(まと)を「はま」と呼んでいたことから、そこから弓を「はま弓(浜弓)」、矢を「はま矢(浜矢)」と呼ぶようになりました。また、破魔矢の由来としては、弓矢を射って作物の豊凶を占う「年占」もあげられます。この行事は、二組が対抗して(弓矢で的を射る)勝負を行い、年間の運勢を予想する破魔打(はまうち)という正月遊びに発展していきました。
さらに、中国の民間伝承にある「鍾馗(しょうき)という強い武神が弓でもって悪霊を祓った」という逸話が入ってきたことから、「弓矢は邪気から身を守る力がある」と信じられるようになりました。ハマヤのハマに「破魔」の漢字が当てられるようになったのは、この影響からだと推察されます。実際、「破魔」は仏語で悪魔を打ち破るという意味があります。もともと、的(まと)という意味の「ハマ」という言葉に対して、鬼や悪魔を破り、祓うという「仏語」としての「破魔」の意味の文字を兼ね合わせ、「破魔(ハマ)」になったというわけですね。
こうした様々な要素があいまって、奈良時代には、前述した、弓で的を射る「射礼(じゃらい)」が儀式として定着化し、平安時代になると「追儺(ついな)」と呼ばれる鬼や悪魔を祓う儀式も行われるようになったとされています。江戸時代以降、破魔矢と破魔弓は、広く民衆に伝わり、子供の成長を祈る縁起物として装飾が施され、「健やかに、強くたくましく育ってほしい」「魔除け」という願いを込めて、男子の初正月や初節句に贈られるようになりました。とくに江戸の末期には、中国の鍾馗(しょうき)を五月人形にしたり、魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習も地域によってはあるようです。なお、破魔矢の「矢」には「無患子(むくろじ)」という鳥の羽をつけてありますが、「無患子」という漢字が、「子が患(わずら)わ無い」と書くことから、「無病息災」のお守りの意味があるとされています。
このように、現在の「破魔矢」は、本来、歴史的にみると、的(まと)も含めて弓と矢のセットで「魔除け・厄除け」の意味があるのですが、今では矢だけが神社で授けられるようになりました。これは、矢は邪気を破る力を持つ神や神主が放つものであり、一般の人にはその力は必要ないからだそうです。
◆ 羽子板(はごいた)
羽子板の由来は、奈良時代に宮中で行なわれていた「毬杖(ぎっちょう)」という遊びだとされています。「毬杖(ぎっちょう)」は、先が小槌のような形をした杖(つえ)で木製の毬(まり)を打ち合う遊びです。それが時代とともに変化して、この杖が羽子板の形となり、木製の毬は変化し黒くて固い玉になっていったそうです。さらに、その玉には羽根が付けられ、羽子板遊びは、女の子の間で行なわれお正月の風物詩となったのでした。
また、「羽根ついた黒い玉が飛び交う様子」が「トンボ」に似ていることが当時、話題となったようです。トンボは、作物の害虫や、当時の子どもの病気の原因の一つと考えられていた蚊を食べることから、羽根をトンボに見立て空中に舞わせることで、羽子板は、五穀豊穣と子供の無病息災という願いを込めた縁起物とみられるようになりました。まさに、羽子板で「魔をはね(羽根)のける」ということですね。なお、羽根の黒玉にも破魔矢と同様、「無患子(むくろじ)」の実を使っています。こうして、男子に破魔矢・破魔弓を贈る習慣と同時期に、女子に羽子板を贈る習慣として広まりました。
ここまでみてきた、門松、しめ縄、破魔弓、羽子板など正月の飾りものを総称して、「お正月節句飾り」「お正月飾り」と言います。
<初詣>
初詣は、年が明けてから始めて神社に参拝することをいい、氏神さまや、その年の恵方(えほう)にあたる神社などにお参りして、新しい年の無事と平安を祈る行事です。
氏神:自らの住む土地をお守りくださる神さま
恵方:その年の干支(えと)に基づいてめでたいと定められた方角。
初詣する時期ですが、古くは「年籠もり(としごもり)」といって、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、社寺にお籠もりして、新年を迎えるのが慣わしでした。やがて、この年籠もりは、除夜の鐘が鳴り終わると同時にお参りする「除夜詣で」と、元旦の朝からお参りする「元日詣で」の二つに分かれ、初詣のもとの形となったとされています。
初詣の歴史は意外と浅く、明治時代以降に始まった慣習だと言われています。江戸時代後期までは、その年の恵方に参拝する「恵方参り」が行われていましたが、明治になって、各地で鉄道が開業すると、1890年代(明治23年)頃から、人々が郊外の大きな寺社に参拝できるようになり、元日の参拝(「元日詣で」)が定着していきました。
また、本来、非常に複雑なものだった寺社への参拝や祈祷が簡略化したことも、一般の人の寺社詣(で)が広がる一因となったと言われています。例えば、神社で手を洗い口をすすぐ手水(てみず、ちょうず)も、本来は全身を海や川で清めるのが作法でした。また、柏手を打つ前に鈴を鳴らすのも、もともと、鈴を使って巫女(みこ)さんが舞うというのがしきたりでした。さらに、おみくじも、本来は巫女(みこ)さんに神が乗り移って神の言葉を(巫女が)聞く「託宣(たくせん)」を起源としています(おみくじについては後に詳説)。こうして、初詣は、日本人の75%が出かけると言われるほど、国民的行事となって、全国的に広まっていったのです。
なお、初詣に行くのは神社かお寺か、ということになると、参拝客の数の順位を見れば、神社が混在していることからもわかるように、どちらでも良いとされています。
初詣の参拝者数、全国平均ランキング
第1位 明治神宮(東京)
第2位 成田山新勝寺(千葉)
第3位 川崎大師 平間寺(神奈川)
第4位 浅草寺(東京)
第5位 伏見稲荷大社(京都)
第5位 鶴岡八幡宮(神奈川)
第7位 住吉大社(大阪)
第8位 熱田神宮(愛知)
第9位 武蔵一宮氷川神社(埼玉)
第10位 太宰府天満宮(福岡)
◆お賽銭(さいせん)
現在では神社にお参りすると、お賽銭箱に金銭でお供えしますが、このように金銭を供えることが一般的となったのは、近年のことだそうです。もともと、御神前には海や山の幸が供えられました。秋になるとお米の稔りに感謝をして刈り入れた米を神様にお供えしました。そもそも米は、日本の神話でニニギノミコト(瓊瓊杵尊)がこの地上に降りてこられる天孫降臨の際に、天照大御神がお授けになられた貴重なものとされ、人々はその恵みを受け、豊かな生活を送ることができるよう祈ったと言われています。
お賽銭のはじまりは、こうした信仰にもとづき、神前にお米をまく「散米(さんまい)」や、洗ったお米を白紙に包んでお供えする「おひねり」という形でお供えしていました。しかし、時代が下り、貨幣の普及とともに、米に代わって、お金をお供えするようになりました。これを「散銭(さんせん)」といい、これが後に「賽銭」というようになりました。お賽銭は、お参りする前に賽銭箱に投げ入れますが、お供物(お金)を投げてお供えすることには、祓いの意味があるともいわれています。
お賽銭を神さまに捧げることは、日々お守りいただいていることを感謝する心の表れとして、あるいはお願い事を叶えていただくためのお祈りのしるしです。金額は、よく「ご縁がありますように」などと語呂合(ごろあ)わせで、五円玉をあげるのがいいという言い方がありますが俗説です。昔から、○○して下さいという願かけの際には「身削り(みけずり)」などと言って、自分の生活を切り詰めて、贅沢(ぜいたく)をがまんしてお賽銭を上げていたそうです。なお、神さまに上げられたお賽銭は、神殿の修理や境内の整備などに使われます。
◆おみくじ
神社に参拝した際に、参拝者の多くは「おみくじ」を引きます。一般的におみくじは、個人の運勢や吉凶を占うために用いられます。その内容は、吉凶判断・金運・恋愛・失(う)せ物・旅行・待ち人・健康など生活全般にわたります。生活の指針となる和歌などを載せている神社もあります。
ただし、前述したように、本来おみくじは、巫女(みこ)さんに神が乗り移って、神の言葉を(巫女が)聞く「託宣(たくせん)」を起源としています。おみくじは神さまのメッセージという訳です。ですから、占いの一種である「おみくじ」は、人々では決められない事を問う神事の手段ということができます。また、おみくじは、物事の始めにあたって、まず御神意を仰ぎ、これに基づいて懸命に事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れであるという見方もあります。
例えば、その年の豊作を祈り、その年の作柄や天候を占う「粥占神事」(かゆうらしんじ)や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ「頭渡し行事(とうわたしぎょうじ)」などの際、御神意を伺うために、また御神慮に適う者を選ぶために「くじ」を引いて決めることなど古くから続けてこられました。
国の祭礼や政(まつりごと)においても、後継の選定の段に御心(御神意)を伺う手段として、占い(おみくじ)は使われてきました。例えば、鎌倉時代には、源頼朝が鶴岡八幡宮の移転先をおみくじで決め、戦国の世においては、戦国大名は、戦さの日取りや陣営配置などを占ったりしていました。織田信長を裏切ったとされる明智光秀は、本能寺の変で出陣を決起するため三回みくじを引き直したと伝えられます。
ただし、現在のように、参詣者の吉凶を占うようになったのは、鎌倉初期の頃からと言われます。おみくじの順番は、大吉・中吉・小吉・吉・末吉・凶・大凶という並び方が標準です。神社で引いたおみくじは、「凶」なら木の枝に結び付け、吉のおみくじはお守りとして持ち帰るのがよいと言われたりしています。引いたおみくじを結ぶという行為は、木々の生命力にあやかり、「願い事が結ばれるように」という祈願が込められています。「おみくじ」は吉凶判断を目的として引くだけでなく、神さまのお諭(さと)し(大御心、おおみこころ)として、その内容を今後の生活指針としていくことが大切なこととされています。
一方、おみくじは、神社だけなく、お寺にもあります。仏教の観点から、おみくじの発祥の地は、比叡山延暦寺の「元三大師堂」と言われています。元三大師堂(がんざんだいしどう)は、名僧「元三大師=良源(912~985年)」の住房(じゅうぼう=すまい)です。良源は、平安時代の天台宗の僧侶で、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています(諡号は慈恵大師じえだいし)。その元三大師(良源)が観音菩薩様に祈念し授かった、五言四句の偈文(げもん)百枚がおみくじの原型だとされています。これを、江戸時代初期の名僧、慈眼大師・天海が発見し、「元三大師百籤(ひゃくせん)(「観音百籤」)」となり、天台宗以外でも広まっていきました。
仏教のおみくじは、将来を予言するものでも、吉凶を占うものでも、また、ご自身の決意を後押しするものでもないとされ、神社のおみくじとは異なります。どうすべきか自分では判断できないという人生の岐路に立たれた時に、大師に決めていただくものだそうです。
<七草>
1月7日の朝、七草粥(ななくさがゆ)を食べる風習があり、正月行事として定着しています。一般的には、お正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわり、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給をするために七草粥を食べる…と言われていますが、実際はもう少し、深い意味があります。
七草粥は、本来1月7日の「人日」の日に行われる「人日(じんじつ)の節句」の行事で、五節句*のひとつです。人日とは文字通り「人の日」という意味です。
五節句:江戸幕府が定めた式日(儀式のある日のこと)で、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽をさす。
古く中国では、前漢の時代、元日から六日までの各日に、動物をあてはめて占いを行う風習がありました。元日には鶏、2日は戌(いぬ)(狗犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬をというように占っていき、それぞれの日に占いの対象となる動物を大切に扱いました。そして正月7日目に人を占うことから「人日の節句」と呼ぶようになったのです。なお、8日には、穀(こく)を占って新年の運勢をみて、その日が晴天ならば吉、雨天ならば凶の兆しであるとされていました。
さらに、6世紀頃の唐の時代の書物に、「正月七日を人日となす。七種の菜を以て羹(あつもの)(=熱く煮た吸い物)をつくる」と書かれてあり、七日に「七種菜羹(ななしゅさいのかん/しちしゅのさいこう)」という7種類の若菜を入れた汁物にして食べると年中無病でいられるという俗信が生まれてきました。
ただし、日本には、もともと1月7日に、若菜を神さまにお供えし、それをいただいて豊作を祈る風習がありました。そこに、中国の「人日」に七草の汁物をいただいて無病を祈る風習が、奈良時代に日本へ伝わってきたことから、七草粥を食べるようになったと解されます。江戸時代に「人日の節句」(七草の節句)として五節句のひとつに定められると、この日に七草粥を食べることで、新年の無病息災を願う風習が、人々の間に定着していきました。では七草粥には何を入れているかというと、一般的には現在、七草粥の七草は「春の七草」をさします。
春の七草
芹(せり)……水辺の山菜
薺(なずな)……別称はペンペン草
御形(ごぎょう)……別称は母子草で、草餅の元祖。
繁縷(はこべら)……ナデシコ科の食物で、薬草として使用。
仏の座(ほとけのざ)……別称はタビラコ。
菘(すずな)……蕪(かぶ)のこと。
蘿蔔(すずしろ)……大根(だいこん)のこと。
このように、七草粥には、新春に若菜を食べて、寒い季節を乗り越え、自然界から新しい生命力をいただきたいとの思いが込められています。
<小正月(こしょうがつ)>
お正月が一段落した15日には、小正月の行事が行われます。小正月は、元日(または元旦から7日)を大正月(おおしょうがつ)というのに対して呼んだ名で、1月15日に相当します。これは、かつて太陰暦を採用していた日本は、一年で一番最初の満月(旧暦1月15日)の日を「年の始まり」としていたことからきています。つまり、明治時代になって太陽暦となった現在でも、その名残から15日を小正月と呼んでいるのです。
「大正月」が、新年に歳神さまをお迎えするのに対し、「小正月」は五穀豊穣や無病息災を祈る行事が多く行われます。
左義長(さぎちょう)
左義長は、大正月にお迎えした歳神さまをお送りする行事で、注連縄や門松などのお正月飾りや書き初め、古いお神札(おふだ)などを集めて焚き上げます。その燃やしたときの火や煙に乗って、歳神さまが天上にお帰りになるといわれています。その火でお餅を焼いて食べることで万病を防ぐとされています。また左義長は、地域によって「どんど焼き」などとも呼ばれます。
粥占神事(かゆうらしんじ)
粥占はおかゆを炊いて、この1年間の天候や作物の豊凶などについて占う行事で、各地の神社で祭礼として行われます。その様式は呪術的と評されています。
ほかにも、その時期、餅花(もちばな)などを飾って豊作を祈る風習があります。お正月には家の外に門松を飾りますが、小正月では柳などの枝に小さく切った紅白のお餅や団子をさした餅花(もちばな)を飾り、1年の五穀豊穣を祈ります。また、この1年の健康を願って小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習があります。小豆(あずき)の赤い色には、昔から邪気を払う力があると考えられています。
さらに、正月飾りのうち破魔矢・羽子板は、小正月の1月15日に片付けるのが慣例です。なお、しめ縄や門松は1月7日とされています。
以上、お正月行事・風習についてのまとめてみました。1年の最初の月に、多くの日本の風習や文化が散りばめられている感じがしました。お正月は、本来のこうした伝統や風習などにも思いをはせながら過ごしたいものですね。
<参考>
お正月―その伝承と由来さまざま〈季節のおいしいコラム〉
お節料理(おせちりょうり)(辻調おいしいネット)
お正月と言えば「お雑煮」その起源と由来
初正月の祝い方、破魔矢・羽子板の意味
絵馬とは?意外と知らない絵馬の由来と書き方(ホトカみ)
神社お寺が好きになる記事(ホトカみ)
おみくじ、神社本庁
お賽銭、神社本庁
暮らしの歳時記/正月の行事・楽しみ方(年末年始)
七草粥の由来と春の七草の意味や覚え方・七草の日はいつ?
七草がゆの豆知識、七草研究会
お正月飾りに欠かせない「ウラジロ」(生薬ものしり辞典)
なぜ鏡餅を飾るの? 鏡餅の意味や由来・飾り方・飾る時期
おみくじの由来・神社参拝の前に知っておきたいお話し
破魔矢とは?(日本神道)
またお正月? 1月15日は「小正月」
正月とは(奥宮)など
(2020年2月13日、最終更新2022年5月20日)