世界史(現代)

帝国主義の時代

 

19世紀末になると、欧米先進諸国は、石油と電力を動力源とする技術革新に成功し、巨大な生産力と軍事力を背景に、アジア・アフリカ、更には太平洋地域を次々と植民地に設定した。この植民地獲得の動きを帝国主義といい、植民地は、本国工業のための資源供給地、さらに工業製品の輸出市場として、そして新たに余剰資本の投資先としてその重要性が見直され、世界全体が資本主義体制に組み込まれた。

ヨーロッパ列強はアジア、アフリカ、太平洋地域を植民地あるいは勢力範囲として、資本主義の世界システムに編入していった。

 

1870年以降19世紀末に至る時期には、後発資本主義国でも産業革命がようやく進展した。

ドイツは、1890年代以降も、リストの唱える保護貿易を採用した。1834年にドイツ関税同盟が発足し、先進工業国のイギリスなどからの安価な生産物に保護関税を課した保護関税政策(1879年)を実施shちあ。

 

 

ドイツやアメリカで鉄鋼・化学・電気などの重工業が発達し、それらの企業を中心に独占資本が形成された。ドイツでは反独占をめざす中小産業家層の運動や独占に対する公的規制がみられた。アメリカでも、シャーマン反トラスト法に代表される、各種トラスト規制法が制定されているが、大企業の独占を弱めるほどの有効な力を持たなかった。

 

鉄道網の拡充、スエズ運河の開通など交通革命の進展で輸送コストが大幅に低下したために、アメリカ・ロシア・エジプト・インドなどから安価な穀物がヨーロッパに流入し、穀物価格が暴落して、ヨーロッパでは慢性的な農業布教が引き起こされた。

帝国主義時代には、穀物以外にも世界の分業が進められた。

 

列強は市場を求めて対外膨張主義をとり、植民地や勢力圏の拡大を巡って争った。

 

 

ベルギーは、19世紀後半にコンゴ川流域地方に進出し、植民地経営を始めた。これを契機にヨーロッパ列強は、アフリカ分割のための会議を開き、ベルギー国王によるコンゴ支配を認め、また、内陸部を含めたアフリカにおける列強の先取権を相互に承認することを決めた。

ベルギー国王レオポルド2世は探検家スタンリーを派遣し、植民地経営を進め、1908年にはベルギー領コンゴになった。

 

ベルギーから始まったアフリカ分割は、1935年にイタリアがエチオピアを併合したことをもって、終了し、アフリカにおける独立国は、リベリア共和国以外は消滅した。(20世紀初頭には、アフリカにおける独立国は、リベリア共和国とエチオピア帝国があった。)

リベリアは、アメリカ合衆国の援助で19世紀半ばから独立した。

 

オーストリアは、トルコの混乱に乗じてボスニア・ヘルツェゴビナを併合した後、パン・ゲルマン主義を唱えるドイツとつながり、ロシアを中心としたパン・スラブ主義に対抗したので、バルカン半島の緊張が高まった。

 

欧州列強諸国は、帝国主義政策の競合から、イギリスなど古くからの植民地保有国とイタリアなど後発の植民地保有国に分かれて対立し、イギリス・フランス・ロシアの間では三国協商が、ドイツ・オーストリア・イタリアの間では三国同盟が結ばれた。こうして列強の二極化は、小国が分立するバルカン半島の民族主義的対立を激化させ、同半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

 

 

第一次世界大戦(1914~1918)は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの間では三国協商との戦いであり、セルビア人青年が、オーストリア皇太子夫妻を暗殺したサラエボ事件をきっかけに始まった。

イタリアは、1915年に同盟から離れ、協商側に参戦した。

 

サラエボ事件を契機にオーストリアがセルビアに宣戦布告をすると、ドイツがオーストリアを、ロシアがセルビアを支持して戦争に加わった。また、イギリスもフランスもドイツに宣戦したことから、戦争の規模は一気に拡大した第一次世界大戦となった。

 

 

第2インターナショナルは反戦の立場をとっていたが、各国の社会党が政府支持に回ったため、戦争を支持し、連合国側(協商側?)は挙国一致体制で第一次世界大戦に臨んだ。

第2インターナショナルとは、1889年にパリで開かれた社会主義者大会で成立した国際的連合組織のことで、反戦の立場に立つ組織であったが、第一次世界大戦直前に戦争を支持することを表明し、崩壊した。

 

第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパでは経済が停滞したが、大戦前に債務国であったアメリカは世界大戦中に連合国(協商側)の物資提供などで巨額の利益を得たことから、第一次世界大戦直後に債務国から債権国となって、国際金融市場の中心となった。

 

アメリカは、第一次世界大戦の開戦後に連合国側に加わり、ドイツに宣戦した(1917年))。ドイツが、連合国側の物資輸送を困難にするための無制限潜水艦作戦の被害を受けたことがアメリカの参戦を促すことになった。

 

ドイツは西部戦線では、マルヌ会戦でフランス軍の反撃を受け、東部戦線ではタンネンベルクの戦いでロシアを破ったが、いずれも膠着して、戦争は長期化し交戦国の国民の生活を巻き込む総力戦とんった。

 

ロシアでは、1917年に三月革命と十一月革命が起こり、ツァーリズムが打倒され、ソビエト政権が樹立された。成立したボリシェビキ政権は、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結びドイツと講和した。

 

レーニン率いるソビエト革命政権が、単独でドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで講和すると、英・仏・日・米の4ヶ国は、革命の普及を防ぐため、軍隊を派遣してロシア国内の反革命軍を助ける対ソ干渉戦争を起こした。

 

4年余にわたった第一次世界大戦は、キール軍港での水平の反乱がきっかけでドイツ軍は戦争続行が不可能となり休戦協定を結んだ。1919年、戦後処理のために開かれたパリ講和会議において、対独講和条約(ベルサイユ条約)が調印され、ドイツは海外の植民地をすべて失い、多額の賠償金を課された。

 

第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約をはじめとする講和条約によって、ヨーロッパの国際秩序が確立された。これがヴェルサイユ体制である。民族自決の原則によって東欧諸国が独立し、敗戦国ドイツ、オーストリア、オスマン=トルコの軍事力が削減されたが、1936年になると、ナチス・ドイツのヒトラーはヴェルサイユ条約を一方的に破棄し、ヴェルサイユ体制は崩れていく。

 

第一次世界大戦の終了後、パリ講和会議において、アメリカ大統領ウィルソンの提唱によって、国際平和を維持するために国際連盟の設立が決定されたが、アメリカは上院の批准拒否を受けて加盟していない。

 

第一次世界大戦の終結後、国際平和の維持を求める機運が高まるなか、アメリカ大合衆国大統領ウィルソンが提唱した十四カ条の平和原則に基づいて国際連盟が発足した。

 

アメリカ大統領ウィルソンは、1918年に国際平和機関である国際連盟を組織することを提唱したが、上院の反対で、アメリカは国際連盟に参加しなかった。

 

史上初の本格的な国際平和維持機構として設立された国際連盟では、敗戦国ドイツと、社会主義国ソビエトは当初は排除され(独26年に加盟、33年脱退、ソ連34年に加盟、39年に除名)、イギリスとフランスは大戦の疲弊から立ち直れずいた。またアメリカも上院の反対で加盟しなかった。

 

1919年に連合国とドイツの間で結ばれたベルサイユ条約で、ドイツは1320億金マルクという巨額の賠償金を支払うこととなり、植民地や海外領土すべてを失った。

 

 

ベルサイユ体制において、ドイツに対しては、巨額の賠償金や海外領土の没収、アルザス・ロレーヌ地方の割譲に象徴されるように厳しい態度で臨んだ。

 

パリ講和会議では、民族自決の原則がとられたが、ドイツの旧植民地やオスマン帝国の領土は、国際連盟の委任統治という形で戦勝国間に分配され、結局民族自決の原則は東ヨーロッパにしか適用されなかった。

 

民族自決の原則で貫かれていたパリ講和会議で、

ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどはオーストリア・ハンガリー帝国から独立を果たした。中国では、パリ講和会議に反対して五・四運動が起こった。

 

オーストリア=ハンガリー帝国は、第一次世界大戦後解体し、この国の領内からチェコスロバキア、ユーゴスラビア、ポーランド、ハンガリーが独立した。ロシア革命の波及を恐れた各国は改革を行い農民の支持を得ようとしたが不徹底な改革に終わった。(東欧がソビエトの影響を受けたのは第二次世界大戦後である。)

 

東欧では、ウィルソン大統領が提唱した民族自決の原則が適用され、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドなど民族ごとに国家が生まれ(独立国家となり)、安定した民主政治行われた?

チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国から独立し、共和国となって民主政治が行われた。

 

インドは、戦時中にイギリスに対し、自治の約束と引き換えに物資や兵員を提供したが、戦後、イギリスはローラット法により民族運動を弾圧した。これに対し、ガンディーによる非暴力・不服従運動が展開された。

 

大戦中に日本が勢力を伸ばした東アジア・太平洋間に対処するため、アメリカの提唱でワシントン会議が行われたが、主力艦の軍備制限や太平洋の現状尊重を柱とする四ヶ国国条約、中国の現状尊重を柱とする九ヶ国条約、日英同盟の破棄などが決められた。

 

 

第一次世界大戦から、世界的大国として国際社会の場に躍進したアメリカは、1920年代に、大繁栄時代を築き、資本主義社会の理想像となった。また、社会主義国家ソ連は、それとは別の社会像を示して、アジア・アフリカ地域の民衆にまで巨大な影響力を及ぼした。敗戦国となったドイツは、戦後一転して民主的な制度を持つ社会国家として再出発し、中規模国民国家の期待を担った。

民主的なワイマール憲法を制定したが、社会民主党を中心とする共和国政府に対し、帝政派、保守派、左派政党が対立して政情は安定しなかった。

 

しかし、それぞれに希望を託された3国の歩みは挫折・変質を経験することになる。アメリカは、大恐慌によって一挙にマイナス・モデルへと転落し、ソ連は一国社会主義の下で人権や民族の抑圧国家に変容し、ドイツのワイマール民主主義は、ナチズムという醜悪な国家に道を譲った。

ナチスは、主に失業した労働者たちに支持され、共産党を弾圧し、ユダヤ人の排斥や言論の規制を行った。

 

世界恐慌

第一次世界大戦後、金本位制は多くの国で再開されたが、ドルは第一次世界大戦後、徐々に国際通貨として発展していった。

 

第一次世界大戦後多くの国が、金本位制への復帰を果たしたが、ドイツも、アメリカからの資金援助を受け、実質的に1924年のライヒス・マルクの制定により、金本位制となった。

 

多くの国が第一次世界大戦後の復興に苦しむ中で、いち早く復興したアメリカでは、1920年代、ロストウのいう高度大衆消費社会へと転換して、自動車や家電等の当時の新興産業が目覚ましい発展をした。

 

欧州諸国の工業生産は第一次世界大戦による生産設備の破壊と、大戦後の資本の流出によって国内経済の復興が進まなかったものの、戦前の水準にまで復興をして、第二次世界大戦に突入した。

 

1930年代に入ると多くの国が復帰した金本位制を停止する中で、イギリスも1932年から管理通貨制度をとるようになった。

 

 

第二次世界大戦

 

ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約を結び、ソ連は中立の立場からドイツの東欧諸国への侵入を黙認した。しかし、1941年に独ソは開戦し、スターリングラード攻防戦など、第二次世界大戦中、最大の死傷者を出した激戦を展開した。

 

アメリカは当初中立を宣言したが、後に大量の軍需品をイギリスに送り、大西洋憲章によって戦後の基本構想を示した。軍事介入はアジアだけでなく、ヨーロッパの戦闘にも参加した。アメリカはシチリア島上陸作戦で、イタリアを降伏に追い込み、ノルマンディー上陸作戦でドイツの敗北を決定づけるなど、欧州戦線にも積極的に参戦した。

 

スペインでは、ファシズムと反ファシズム勢力の対立で内乱となったが、最終的には、独・伊の支持を受けた親ファシズム派のフランコ政権が、人民戦線内閣を倒した。フランスでは、大戦中、ドイツに国土の大部分を占領されたが、レジスタンス(抵抗)運動がド・ゴールを中心としてイギリスに逃れて行われた。

 

 

大戦中の会談

1945年2月のヤルタ会談で、対独作戦、ドイツの戦後処理、ソ連の対日参戦が決まり、ドイツ降伏後、日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表された。他方、同年4~6月のサンフランシスコ会議で、国際連合憲章が採択された。