世界史(近代)

ルネサンスと宗教改革

 

封建制が崩れてきたヨーロッパでは、人々はこれまでのカトリック教会の教えや封建社会の倫理にとらわれない生き方を求めはじめた。この新しい動きは人間精神の全般的な革新を促す一大運動であり、ギリシャ・ローマの古典文化の再生という意味でルネサンスと呼ばれた。ルネサンスはまずイタリアで始まった。

イタリアでルネサンスが最初に興った理由としては、東方貿易によって都市が栄え、市民が経済的実力を持っていたことなどがあげられる。フィレンツェのメディチ家など大商人が芸術家や学者を保護する風潮が当時のイタリアにはあったのである。

 

フィレンツェでは、商業や銀行業によって富を築いたメディチ家が市政を独占し、芸術の振興に努めたため、ルネサンス芸術が花開いた。

 

この頃ヨーロッパでは東方との新貿易路を開拓する必要が生じていたが、宇宙観の転換と新しい科学技術の発展は新航路の発見を可能にし、ヨーロッパ人の活動舞台は全世界に拡大され、交易圏はインド・新大陸を含めたものとなっていった。また、ルネサンスの人文主義が広まると、アルプス以北では教会に対する人々の不満はさらに高まり、まず、ドイツにおいて宗教改革が起った。宗教改革は各国の社会情勢とも結び合って、政治・社会運動にまで拡大し、ヨーロッパの近代化の一つの源となった。

 

ルネサンスの影響で、ローマ教会も世俗化が進みすぎたため、その反動として、聖書中心主義の宗教改革が行っていった。

 

ルネサンスは、14世紀のイタリアで始まった。当時のイタリアでは、ギリシャ・ローマの古典文化の復興を目指し、人間性を重んじる動きが広がった。こうした思想は、文学や芸術だけでなく、宗教界にも浸透していったため(世俗化、脱宗教度が進みすぎたため)、(その反動として)イタリア・ルネサンスは宗教改革と結びついて展開することとなった。

 

 

 

ミケランジェロは、ローマ・カトリック教会のローマ教皇ユリウス2世の依頼で、システィナ礼拝堂の天井壁画「天地創造」や、教皇パウル3世の依頼で、正面祭壇画「最後の審判」を描いた。(1508~12)

 

イタリアのダンテは、イタリア語(トスカナ語)で「神曲」を著し、イギリスのシェークスピアは英語を用いて作品を書いた。

ポーランドのコペルニクスは、ローマ・カトリック教会の支持する天動説に対し、科学的な立場から地動説を唱えた。

 

ネーデルランドのエラスムスは16世紀最大の人文学者であり、ローマ・カトリック教会を批判した「愚神礼賛」を著した。

 

フィレンツェの外交官であったマキャヴェリは、その著書「君主論」において、統治者は愛や善意、道徳よりも、暴力や狡智で(「獅子の勇猛と狐の狡智を兼ねた人物」が)政治を治めるべきと唱えた。

 

 

(15、16世紀)

従来のローマ=カトリック教会の権威を否定する宗教改革がルターやカルヴァンによって進められ、彼らの教えがヨーロッパの北部を中心に広まった。

 

コペルニクスやガリレオの地動説に基づく天文学上の業績が、人々の世界観・宇宙観を大きく転換させるきっかけとなった。キリスト教では地球中心の宇宙観(天動説)をとっていたが、地動説の正しさが証明されると、教会の権威が否定され、人々の宇宙観を根本的に転換させることになった。

 

ルネサンスの合理的な考え方は、自然科学や技術を進歩させた。コペルニクスは天動説を疑いを抱き地動説を唱え、ガリレオ=ガリレイは望遠鏡による観測によって地動説の正しさを主張した。また、ルネサンスの三大発明の一つである活版印刷はドイツ人グーテンベルグが発明したといわれ、製紙法と相まって、新しい思想の速やかな普及に影響を与えた。

 

ローマは教皇領をして繁栄した。歴代教皇は、ルネサンス芸術の中心地をめざし、多くの芸術家を招いた。ミケランジェロは、バチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂の天井壁画や祭壇画の「最後の審判」を描いた。、

 

フィレンツェの外交官であったマキャベリは「君主論」で、統治者は「獅子の勇猛と狐の狡智を兼ねた人物」である必要性を説き、徳がなければあるふりをし、約束は必ずしも守らなくてもよいとし、国家の統一の重要性を唱えた。

 

イベリア半島では、国土回復運動(レコンキスタ)が進み、1492年にはイスラム勢力の最後の拠点であるグラナダを陥落させ、イスラム勢力を一掃した。スペイン国王が封建諸侯を抑えて中央集権化をなし遂げた。

イベリア半島には、イスラム教徒が進出していたが、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が展開された結果、イスラムのナスル朝がスペイン王国に滅ぼされ、イスラム勢力が駆逐された。

 

 

宗教改革は、16世紀にドイツの修道士でヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターが、サン=ピエトロ大聖堂の改築費用を集めるという目的の下にローマ教皇レオ10世により行われた免罪符の乱売に反対し、「九十五カ条の論題」を公表したことにより端を発したものである。

 

カルヴァンは、魂の救済は人間の意思によるものではなく、神によって最初から決められているという予定説の下に、勤労の精神を説き、結果としての蓄財を肯定した。

 

カルヴァンは予定説を唱えたが、その精神は、勤労を尊びその結果としての蓄財を認めたことにつながる。このためカルヴァン主義は、折から成長し始めた商工業者を中心とする市民階級に支持され、西ヨーロッパに広く展開していった。

イギリスでは、カルヴァンの教えを信じる人々はピューリタン、フランスで信じる人々はユグノーと呼ばれた。カルヴァン主義は後の資本主義社会に勤労倫理として大きな影響を与えた。

 

カトリック教会の内部にも、(内部)革新的動きが、反宗教改革という形で広がった。教皇への絶対服従、清貧、貞潔を旨とするイエズス会が組織され、海外布教を強化することで、新教に対抗しようとした。

 

 

 

大航海時代

 

15世紀から16世紀にかけては大航海時代と呼ばれ、スペイン・ポルトガルが中心的な担い手として、ヨーロッパからアジアへの新航路の開拓が進められた。

この時期に新航路の開拓が進められた背景には、羅針盤の改良により遠洋航海が可能になったこと、造船技術が発達したこと、マルコ=ポーロの著作などにより、東方世界の情報が流入するなどして地理的な知識が普及したこと、などが挙げられる。

スペインとポルトガルがその中心的な担い手となったことの背景としては、両国が、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐するレコンキスタを長期間展開したことから、キリスト教世界拡大に強い使命感を持ち、対外進出にも意欲的であったことが挙げられる。また、この両国では早くに、中央集権的な統一国家が形成されていたために、国王が財源を求めて、東方の香辛料を、オスマン帝国のイスラム商人を経由せず、アジアに直接おもむいて香辛料を手に入れようとしたことなども、インドやアジアへの航路開拓の一因となっていた。アジアへの海路を求めて、いわゆる大航海時代が始まった。

ポルトガルとのアジアとの直接取引の成功によって、商業の中心が地中海から大西洋沿岸に移り、それまでイスラム商人とヨーロッパを中継していたイタリア諸都市の衰退を招くなど、以後の東方貿易の性格を一変させることになった。

 

 

大航海時代の背景として、15世紀後半に、オスマン帝国が東方貿易に介入したことを受けて、ヨーロッパ諸国が、香辛料貿易によって直接利益を得るため、新航路の開拓をめざしたことがあげられる。

 

 

16世紀後半のレパントの海戦で、イスラム勢力が敗れた後、世界商業の中心が大西洋に移り、16世紀末から17世紀にかけてオランダとイギリスが(大西洋)貿易で中心的役割を果たし、富を蓄積した。

(それ以前)ポルトガルとスペインは、それぞれアジア貿易、アメリカ貿易によって富を蓄積した。

 

 

イタリア人のコロンブスの船隊は、1492年に大西洋を横断したカリブ海の島に達した。

コロンブスを後援したスペインに対抗して、ポルトガル国王はヴァスコ・ダ・ガマの船隊を派遣してアフリカ南端経由のインド航路を開かせようとした。

 

ポルトガルでは、エンリケ航海王子(在1385~1433年)がアフリカ西岸を探検した。ヴァスコ=ダ=ガマは、ポルトガル王マヌエル1世(在位1495~1521年)の命令でインド航路を開拓し、喜望峰を経由してインド西海岸のカリカットに到着した。そして、インドのアラビア海に面した港市のゴアに、ポルトガルの総督府を置き、ポルトガルのアジア貿易の拠点とした。

 

ポルトガル人ガブラルは、1500年にブラジルに到達し、この地をポルトガル領とした。

 

スペインでは、女王イザベルが援助して、コロンブスは、地理学者トスカネリの説を信じて西航し、1492年に西インド諸島のサンサルバドル島に到着した。

 

スペインは、ポルトガルとの間で、1494年にトルデシリャス条約を結び、植民地境界線を定めた。その後、1521年にコルテスがメキシコのアステカ王国を、1533年にピサロがペルーのインカ帝国をそれぞれ征服して、アメリカ大陸における植民地を築いた。

 

スペイン人のピサロの率いる軍隊が、1533年に南米のインカ帝国を征服し、大量の金銀をヨーロッパに持ち帰った(略奪した)。

中南米産出の金銀は、スペイン・ポルトガルによってヨーロッパに持ち込まれた。通貨量が増大し、物価が急騰する価格革命が起こった。これにより人々は困窮したが、一方では資本の蓄積が進み、封建制の解体が決定的となった。

ポルトガルとスペインは、ブラジル・その他の中南米・北米をそれぞれの植民地として支配するトラデシリャス条約を結んで、植民地支配に関する勢力範囲を定めた。

植民地となった中南米の先住民は、鉱山やプランテーションでの酷使と、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病のため激減し、代替労働力としてのアフリカから奴隷が大量に連れてこられた。

 

新航路の開拓による影響として、ヨーロッパでは商業革命および価格革命が起きた。このうち価格革命とは、アメリカ大陸(南米)から大量の銀が流入したことにより、ヨーロッパの銀価が下落し物価が高騰したことをいう。

大航海時代の到来によって、ヨーロッパ経済の中心が地中海から北大西洋圏に移行するようになった商業革命が起こった。

 

 

西欧諸国の絶対王政

 

16~18世紀の西ヨーロッパでは、封建社会から近代社会への過渡期に、絶対主義と呼ばれる専制政治が成立した。王権は強大となり、国王は封建貴族から政治的な支配権を奪う一方、身分上の特権を保障して彼らの服従と支持を取り付けた。農村では、生産力の向上、貨幣経済の浸透、都市の発達などから農奴は開放されて農民となり、その中から商人・職人が生まれた。

他方、この時期には経済面でも注目すべき変化が起った。新航路の開拓以後、商業活動が活発化し、中世的な生産形態に代わって、マニュファクチュアが行われるようになり、商業資本家が勢力を伸ばした。彼らは海外市場を巡る争いに勝つために国王の積極的な後援と保護を必要とした。

彼ら新興勢力と封建貴族は王権を支持する有力な社会層となり、その基盤の上に国王は官僚制を整え、議会を閉鎖し、強力な中央集権体制を打ち立てた。また、国王に直属する常備軍を編成し、特にフランスはヨーロッパ最強の陸軍国となり、多くの侵略戦争を強行した。

国王は国家の統一支配を維持するために、産業を保護・育成し、金銀の獲得や貿易の発展に力を注ぎ、重商主義と呼ばれる経済政策を推進した。イギリスとオランダは「東インド会社」を設立した。

 

 

ロック

  国家権力を立法権、執行権(行政権と司法権)、同盟権に分立

立法権優位型、実質ニ権分立

 

 *同盟権:連合権(外交権)のこと。外国と交渉をする権力(戦争・講和を含む)のこと。

 

 

モンテスキュー(16891755)

  18Cのフランスの貴族。「法の精神」

  立法権、執行権(行政)、司法権の三権分立を提唱 三権均衡型

  貴族的な自由を擁護、人民主権は否定。

 

 

18世紀のヨーロッパ

文化の面では文明の無限の進歩を信じる風潮が生まれて啓蒙思想が広まり、芸術でもバロック式に代わってロココ様式が出現した。

17世紀に一応議会政治の基礎を確立したイギリスに比べ、18世紀にもなお絶対王権の強かった大陸諸国、特にフランスにおいて、イギリスを範としつつ、政治のあるべき姿を主張する啓蒙思想が表れた。

 

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  • 英仏植民地戦争

 

18世紀は、イギリスとフランスが覇を争った世紀という言い方ができる。舞台は、欧州での戦争に関連した北米とインドであった。

 

イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウン(バージニア州)の建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタン(清教徒)や毛織物工業の失業者などが移民してきたと言われている。

 

フランスも17世紀初めから北米に進出し、ケベックを中心にカナダを支配し、ミシシッピ川流域にもルイジアナ植民地を設立した。18世紀には、ガドループなどカリブ海の砂糖植民地をも発達させた。

 

両国は、以下のように、欧州での戦争に関わりながら、時を同じくして北米やインドの植民地でも争い、ほぼ全ての戦いでイギリスが勝利した。

 

ファルツ戦争⇒ウィリアム王戦争(北米)

スペイン継承戦争⇒アン女王戦争(北米)

オーストリア継承戦争⇒ジョージ王戦争(北米)

七年戦争⇒フレンチ・インディアン戦争(北米)、プラッシーの戦い(インド)

 

ファルツ戦争(1689~97)

フランスのルイ14世が、ドイツの選帝侯ファルツ伯領の相続問題に乗じて、継承権を主張し、領土の割譲を求めましたが、反対するドイツ諸侯に味方して、イギリスが、スペイン・オランダとともにフランスと戦った戦争。

 

 

スペイン継承戦争(1701~13)

スペインの王位継承をめぐり、ルイ14世が孫をスペイン王に即位させたことから、イギリスはオーストリア、オランダと対フランス同盟を結び戦った。この戦いに対応して起きた北米でのアン女王戦争の結果、イギリスはフランスからニューファンドランドやハドソン湾沿岸などを獲得した(ユトレヒト条約)。

 

 

オーストリア継承戦争(1740~48)

オーストリアの女帝マリア・テレジアの継承をめぐり、プロシアのフリードリヒ2世が異議を唱えたことがきっかけとなって、英仏西を巻き込んだ国際戦争に発展した。イギリはオーストリアと組んで、プロシアを支援したフランス・スペインと対抗した。

 

 

七年戦争(1756〜1763)

オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして起こした戦争で、フランスは、ロシアともにオーストリアを支援して、プロシアについたイギリスと戦った。

 

この時、16世紀以来、宿敵同士であったフランスのブルボン家と、オーストリアのハプスブルグ家が組むという「同盟の逆転」が起きた(「外交革命」と評された)。両家の和解の印として、ハプルスブルク家のマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)が、フランスのルイ16世に嫁いだ。

 

七年戦争と並行して戦われた、北米でのフレンチ・インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いは、両国の植民地獲得競争の最終決戦となった。戦後、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナなどをえた(パリ条約)。

 

この条約によって、フランスは、一時、北アメリカ大陸での植民地をすべて失った。逆に、イギリスは、カリブ海の西インド諸島とアメリカ大陸の13植民地を中心とした広大な帝国を完成させた。

 

インドでは、イギリス東インド会社軍が、フランスとムガル帝国ベンガル太守の連合軍を破り、インドにおけるイギリスの優勢を確立しました。敗れたフランスは、インドから撤退し、インドシナ(ベトナム・カンボジア)に進出の方向を求めることになるのです。

 

このように、欧州の覇権を目指すフランスに対して、イギリスがオーストリア、またはプロイセンなどと同盟して戦った。また、同時にアメリカ新大陸・インド植民地でも両国は衝突しましたが、ほぼイギリスの勝利に終わった。

 

しかし、負けたフランスは言うまでもなく、勝ったイギリスもこの後、大きな犠牲を払うことになる。両国とも、長い戦いの間に財政がひっ迫、その戦費捻出のために、増税策をとろうとした。イギリスでは植民地アメリカに対する新たな課税からアメリカの独立、フランスでは特権階級への課税をきっかけに、革命によって政体そのものの倒壊するのである。

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封建社会から近代市民社会へ移る際に起こった社会的変革を市民革命という。

市民階級を中心とする人々が絶対主義を倒し近代社会を創設しようとして、市民革命を起こした。最初の市民革命は17世紀にイギリスでおこった。

変えるべき体制(旧体制):専制政治、絶対王政や特権階級の優遇など。

変える側(市民):都市の富裕な有産者が中心である。

アメリカとフランスの市民革命に影響を与えた啓蒙思想、ロック、モンテスキュー、ルソー。

 

百科全書派と呼ばれるディドロ、ダランベール、ヴォルテール、ルソーなどの啓蒙思想家は、市民社会の思想的基礎を築いた。

 

 

英国では、議会を解散した上で増税を強行しようとしたチャールズ1世に対し、ピューリタン革命が、また、英国によって重税を課されるなどの圧迫を受けていたアメリカ植民地では、反乱が起き、フランスでは、絶対王政に対する民衆の不満から革命が勃発した。

 

フランス

ナポレオン・ボナパルトは、フランス国内の反乱の鎮圧やイタリア・エジプトへの遠征で名をあげ、実権を握ったのち、ナポレオン法典を制定した。さらには国民投票で皇帝の位に就いたナポレオンは、欧州大陸にも覇を唱えたが、モスクワ遠征の失敗を機にその勢いは減速していった。

 

 

ウィーン体制

ナポレオンを退けたヨーロッパ諸国は、ウィーン会議で新しい国際秩序を打ち立てた。その指導原理となったのは、フランス外相タレーランが主張した正統主義であるが、これはフランス革命前の状態を正統とすることによって、ヨーロッパの安定と平和を達成しようとする考え方であった。

 

自由主義・国民主義に逆行する保守反動体制で、国王・貴族による支配への復帰をめざした。

 

 

ギリシャでは、19世紀初め頃、オスマン帝国からの独立戦争が起きると、ロシア、イギリス、フランスがバルカン半島に対する利害からこれを支援したので、ギリシャの独立は達成された。これを契機に、自由主義・国民主義の流れに逆らうウィーン体制は次第に崩れ始めた。

 

 

ビザンツ帝国滅亡後(1453年)、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島では、19世紀初めにギリシャ独立運動を起こした。ウィーン体制の中心人物であるメッテルニヒは干渉を企てたが、ロシア、イギリス、フランスはバルカン半島への進出を目的にギリシャを援助し、オスマン帝国からの独立を達成させた。

 

 

産業革命

 

第1次囲い込み運動は、15世紀後半から17世紀前半のイギリスで進行した運動で、農民的囲い込み牧羊業の発展に媒介されて、領主の大規模な牧羊囲い込みに発展したものである。

 

第2次囲い込み運動は、大農場だけで採用できるノーフォーク型輪作農法の普及や、「囲い込み法」の制定によって、この運動は進行し、残存していた開放耕地制度と領主的土地所有者を駆逐した。

土地所有者は、近代的地主ないしは農業資本家となった。第2次囲い込み運動は議会の承認の下に行われた。

 

第2次囲い込み運動は、開放耕地制度を破壊し、農業資本家による土地集中と、農業の機械化大経営が行われ、領主的土地所有者を地主的土地所有者に転化することができた。

 

第2次囲い込み運動は、貴族最下層のジェントリーや富裕な一部の独立自営農民(ヨ―マン)によって進められた運動で、彼らは、三浦農法から引き上げた帯地を統合して、一つの耕地として囲い込み、領主に規制されることなく自由に耕作する権利を得た。

 

産業革命は、18世紀後半に、軽工業分野の綿工業から始まり、インドから輸入された綿花によって綿織物の生産量が増えるにつれて、紡績機が発明され普及し、機械工業も発展した。イギリスが機械(技術)の輸出を解禁すると、産業革命の影響は世界各地に広まった。

 

イギリスは19世紀半ばに他国に先駆けて近代化を成し遂げた。産業革命

 

イギリスは、毛織物産業によって大量の資本を蓄え、囲い込み運動によって土地を失った農民が都市に流れ込んで賃金労働者となっており、また、それまでに世界商業の支配権を有していたスペインを破って世界市場を握っていた。資本・労働力・市場などの条件がほかの諸国に比べて整っていたことが、世界に先駆けて産業革命が起こる基盤となった。

 

イギリスで産業革命が実現できたのは、イギリス国内で石炭と鉄鋼石に恵まれていたため、自国で資源を調達でき、また、絶対王政下で資本の蓄積が進んでいたからであり、また、第2次囲い込みによって土地を失った農民が都市の労働者となって、必要な労働力にも恵まれていた。

 

スティーブンソンによる蒸気機関車の発明で、輸送手段が格段の進歩を遂げ、人口の都市集中をもたらし、大都市を生み出した(産業革命は人口の分散化ではなく集中化)。この一方で、労働環境の悪化など新たな問題が発生した。

 

生産手段が機械化されると、低コストの大量生産が可能となり、問屋制家内工業や手工業は衰退を余儀なくされた。工場労働者は時間給で賃金を受け取るようになり、労働時間と生活時間が分離し、人々の生活の「商品化」が始まった。

産業革命で、問屋制家内工業や手工業は、工場制機械工業に取って代わられ、人々の生活様式も変化した。

産業革命によって、封建的な生産様式が崩壊した産業革命後に、産業資本家が現れた。

 

イギリスでは、産業革命後、長時間労働を課せられた労働者たちが、待遇改善を求める労働運動がおこり、社会主義の思想が生まれた(階級意識に目覚め、他の諸国に先駆けて社会主義が誕生した)が、団結禁止法が制定されるなど、労働運動を弾圧する動きが見られた。

 

19世紀半ばから後半になると、ベルギー、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本と産業革命を達成した。特に、19世紀末には、アメリカが「世界の工場」となった?ので、イギリスは20世紀初めまで「世界の工場」としての地位を維持することはできなくなった。

 

イギリス中心の世界市場の中で、北アメリカは独立革命によって、イギリスの植民地経営から逃れた?。アメリカでは1850年代に産業革命が開始されたが、奴隷問題が南部、北部の対立点となりつつあった。

フランスのおける産業革命は、19世紀前半の1830年代に開始されている。