四大文明
メソポタミア文明は、チグリス川、ユーフラテス川流域のメソポタミアにおいて生まれた文明で、バビロニア王国において全盛期を迎え、ハムラビ法典はこの時代に制定された。
アッカド人はシュメール人の都市を滅ぼして、最初の統一王朝を築いた民族。
最古の文字は、紀元前3000年頃にメソポタミア文明を築いたシュメール人によって発明された楔形文字で、次いでエジプト文明の神聖文字やインダス文明で用いられたインダス文字、紀元前2000年頃、黄河文明の殷で用いられ、漢字の最古のものとされる甲骨文字がある。
楔形文字は、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方に、「粘土の文明」といわれる文明をつくり上げたシュメール人によって発明された。
楔形文字はシュメール人が発展させた象形文字で、粘土板に葦の茎や金属などの硬いもので、刻み込まれた。
紀元前2000年頃にフェニキア人によって発明されたフェニキア文字は、紀元前700年にギリシャ人に伝えられ、ギリシャ・アルファベットとなり、のちのラテン文字やロシア文字に影響を与えた。
フェニキア文字は、アルファベットのもととなった表音文字であり、前12世紀頃に現在のレバノン海岸付近で活動したフェニキア人が発明した。
神聖文字と呼ばれる象形文字は、ナイル川中・下流にファラオと呼ばれる国王によって支配され、発達した測地術や太陽暦の使用で知られるエジプトで発明された。この文字は後に表音文字に発達し、パピルスや陶片に記された。
象形文字の中の神聖文字(ヒエログリフ)は絵文字の中から発達した最初のエジプト文字である。この文字で書かれた遺物としてはナポレオンが発見したロゼッタ石がある。
インダス文字は、インダス川中・下流域に都市国家をつくり、下水道を持つ立派な街路や公共浴場など建造物が整然と並ぶハラッパーやモヘンジョ=ダロの遺跡に代表される文明をつくり上げたドラヴィタ人によって発明された。
インダス文字は、ドラヴィタ人が使用した印章に刻まれた象形文字で、印章文字ともいわれているが、未解読である。
甲骨文字は、漢字の始まりとされ、黄河流域に優れた青銅器を持つ都市国家をつくり上げた中国最古の王朝である殷の時代に発明された。この文字は、獣の骨に刻まれており、殷の首都である殷墟から出土した。
ギリシャ
エーゲ海地域を中心に栄えた青銅器文明であるエーゲ文明は、はじめはエーゲ海のクレタ島のクノッソスを中心に栄えたクレタ文明が中心であった。クレタ文明を支えた民族は不詳であるが、首都クノッソスに大規模な宮殿を築き、海洋的文化を展開した。
エーゲ文明は、ギリシャ本土にギリシャ系のアカイア人を中心に勃興したミケーネ文明によって滅ばされた。
古代ギリシャ文化は、ポリス市民の自治と独立の精神から生まれた文化であり、ペリクレス時代のアテネにおいて全盛期を迎え、イスラム文化にも大きな影響を与えた。
古代ギリシャにおいて、三大悲劇作家、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらが人間の本質を抉る(えぐる)作品を残した。
紀元前8世紀頃からギリシャ各地にポリスが相次いで成立した。諸ポリスは、地中海や紅海の沿岸に進出し、多くの植民市を建設したため、ギリシャに敵対するアケメネス朝ペルシャとの間でペルシャ戦争が起こった。
ペルシャ戦争において、諸ポリスは、ペルシャ軍をマラトンの戦いやサラミス海戦で破った。その中心となって勝利したアテネがペルシャの来襲に備える目的でデロス同盟を創設した。
アテネでは、18歳以上の成年男子が民会を組織し直接政治に参加する直接民主政であった。
ペロポネソス戦争後、マケドニアのフィリッポス2世は、アテネ・スパルタの連合軍を破ってギリシャの支配権を確立し、その子のアレクサンダー大王は、ペルシャを討つために、東方遠征を行った。
アレクサンダー大王は、エジプトを征服した後、アケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらにインド北西部にいたり、(インダス河までの)東西にまたがる大帝国を建設した。その大帝国は、大王の死後、部下同士の争いの中で分裂したが、この地域では、東方文化と融合したヘレニズム文化が栄えた。
ヘレニズム文化は、アレクサンドロス大王の遠征でギリシャから北インドにいたる大帝国が建設されたことにより生まれた文化であり、遠く中国や日本にも影響を与えた。
ガンダーラ文化は、ヘレニズム文化などの影響を受け、カニシカ王が中央アジアからガンジス川中流域までの地域を支配したことにより生まれた文化であり、仏像に代表されるガンダーラ美術が中国および日本にも影響を与えた。
ローマ
ローマは共和制時代と、帝政時代に2分される。
イタリア半島で成立した都市国家ローマは、共和制を樹立した後、半島内の他の都市との同盟を強めてイタリア半島の統一を完成した。その後、カルタゴを滅ぼしてからは、地中海の商業権も握るようになって政治的にも経済的にも安定した状態を実現し、96年から(180年にかけての1世紀から2世紀の間)、約100年にわたり「ローマの平和」と呼ばれる時期が続いた。
ローマはイタリア半島を支配下に治めた後、カルタゴとポエニ戦争を戦い、これに勝利し、北アフリカに領土を広げた。
ローマは、数回にわたって行われたポエニ戦争によりカルタゴに勝ち、次第に領土を広げて、アフリカ大陸進出の足がかりを築いた(地中海の覇権を握るようになった)。
カルタゴは、フェニキア人の植民市(現在のチュニジア)
ポエニ戦争。紀元前264~紀元前201年にかけて3回
ポエニ戦争後、貴族を代表する元老院と、平民を代表する民会が対立し、政治的混乱が生じたが、その収拾を名目に軍人による三頭政治が出現した。(第一回:ホンペイウス、カエサル・クラッスス)
カエサルは、ホンペイウス、クラッススと紀元前60年に、第1回三頭政治を始め、ガリア地方を平定した後にホンペイウスを破って独裁者となった。
カエサルの死後、国が乱れたが、これを平定したオクタヴィアヌス(アウグストゥス)は、長期間在位して内政の改革・防衛体制の確立などに力を尽くし、世界帝国となるための国家の基礎を固めた。
オクタビアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。元首政(プリンキパトゥス)を開始して、事実上の初代ローマ皇帝になった。
オクタビアヌスは、クレオパトラと結んだアントニウスを破り、地中海世界を統一し、元老院からアウグストゥスの称号を受け、帝政が始まった。
オクタビアヌスがエジプトを滅ぼし、アウグストゥスの称号を得て以降、ローマは帝政時代となり、地中海沿岸一帯だけでなく、メソポタミア、黒海北部、ドナウ川・ライン川やブリテン島にまで達し、3世紀には帝国内の全自由民にローマ市民権を認め、ローマの一体化が進んだ。
五賢帝時代は、ローマが最も安定した時期で、トラヤヌス帝(在位98~117)のとき領土は最大に達し、ローマ市民権が市国内の全自由民に与えられた。
最盛期を迎えた五賢帝時代(96~180年)は、国が繁栄し、文化が栄えたが、その末期には異民族の侵入が見られるようになり、軍人が次第に政治に介入するようになった(軍人皇帝時代へ)。
軍隊によって擁立されたロボット的な皇帝が即位するようになった。
ローマ帝国内で、軍人が発言力を強めるようになり、皇帝の交替を迫り始めた軍事皇帝による支配が始まった。235年から
軍人皇帝時代の混乱は、帝国の規模が一皇帝の統治能力を超えていたことが明らかになったことなどを受けて、ディオクレティアヌス帝(在位284~305)は、2人の正帝と2人の副帝をおく四分(しぶん)統治を始めた。
ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国の分裂状態が深刻化した3世紀後半以降、専制君主政(ドミナートゥス)を開始した。権力を徹底的に集中させることで帝国の危機を打開しようとした。
コンスタンティヌス帝は、財政基盤を整備するため、コロヌス(土地付き小作人)を土地のしばりつけて税収入を確保し、人々の身分や職業を世襲化した。
コンスタンティヌス帝は、キリスト教を公認(313年)し、また、ローマ帝国の首都を、330年にローマからビザンチウムに遷都し、コンスタンティノープルと改称した。
375年から、ゲルマン人の大移動が開始された。
395年、テオドシウス帝の時、ローマ帝国が東西に分裂して成立した西ローマ帝国は、476年にゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって滅ぼされた。
帝国を東西に分割したテオドシウス帝(395年)の死後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はなお1000年以上続くが、西ローマ帝国は、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。
4世紀後半、ゲルマン民族の大移動が起こり、西ローマ帝国が滅亡した
西ローマ帝国滅亡後も、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、コンスタンチノープルを首都として存続し、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた。コンスタンティノープルを占領されて滅びた。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、キリスト教文化を基調としつつも、西アジアの要素やイスラム教の雰囲気をおりまぜた独自のビザンツ文化を生み出した。キリスト教圏とイスラム教圏の架け橋として、相互の文化の伝達に貢献したが、9世紀後半にアレクシオス1世が十字軍を支援したのが原因でイスラム諸国の反発を招き、攻撃を受けたことが滅亡につながった(1453年)?
ローマの文化は、ローマ帝国において、最も平和で繁栄した五賢帝の時代に生まれた文化であり、ギリシャ文化の影響の下に、コロッセウムやパンテオンなどの優れた建造物を残した。
古代ローマ人は、芸術・文学などの分野では、独創性を発揮することなくギリシャの模倣に終始したが、上下水道・コロセウムなどの土木建築や法律・暦といった実用的な分野においての能力に秀でていた。特色をみせた。