パルティアとバクトリア:残されたヘレニズムの余韻

 

アレクサンダー大王の大帝国の大半を継承したセレウコス朝から独立したパルティアとバクトリアの歴史を追ってみました。ペルシア文明をつないだパルティアと、かつて「最果てのアレクサンドリア」と呼ばれた地域に興ったバクトリア、両国の根底にあるのは、アレクサンダー大王が伝搬させたヘレニズム文化(ギリシャ文明)でした。

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<パルティア王国>

(250 B. C.-226 A. D.)

 

パルティア(パルティア王国/アルサケス朝)は、前3世紀半ばに、カスピ海南東地方に建国されたイラン系国家で、前2世紀半ばまでにユーフラテス川からインダス川に至る広大な領域を支配しました。都はいくつか移動した後、当初、イラン北部のヘカトンピュロスに置かれ、後にバグダッド南東に位置し、東西交通路の要となるクテシフォンに遷都しました。

 

◆ アスサケス朝の勃興

パルティアは、前3世紀に、バクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧民族であるイラン系パルニ族(ダーハ氏族の分派)が、カスピ海南岸のイラン高原北東部のホラーサーン地方に定住したのが始まりで、当初、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていました。

 

パルティアのサトラップ(行政官)(=パルティア総督)であったアンドラゴラスは、セレウコス朝がプトレマイオス朝エジプトとの争いに明け暮れる中、東方のバクトリアがセレウコス朝から独立すると、自らもすぐに反乱を起こし、前247年ごろ、セレウコス朝からの独立を宣言しました。

 

ところが、遊牧の民ダーハ族の首長であったアルシャク(ギリシア語ではアルサケス)(パルニ族長アルサケス)は、パルティアへ侵入し、前238年、アンドラゴラスを討ち、パルティア王国を創始したのです。(アサーク(未だ位置不明)で即位)。

 

パルティアを乗っ取ったアルサケス1世は、その後まもなく、カスピ海南東岸のヒュルカニア王国も占領し、遠征軍を送ってそれを阻止しようとしたセレウコス朝シリア軍を追い返すと、さらにセレウコス朝をシリアへと圧迫しながら領土を広げていきました。

 

イラン高原に確固たる支配権を確立したパルティアは、5代目のミトラダテス1世(前171~前138)の時代に強大になり、東方ではバクトリアを平定してインドに入り、西方では、イラン高原からメソポタミアへ進出、セレウコス朝の中心であるバビロニアにまで領土を拡大していきました。

 

イラン高原から領土を東西に拡張させたことから、その交易路を抑え、中継貿易で、東西利益を独占して国を繁栄させました。ミトラダテス1世は、パルティア独自の貨幣を発行するなど、帝国としての基盤を作ったと言われています。

 

また、パルティア王国の最盛期の王と称されるのが、ミトラダテス2世(在位前 123頃~前87頃)で、東部に侵入したサカ族を追払い,西では、セレウコス朝への侵攻を続け、メソポタミアを完全征服しました。前92年には、ローマと交渉して、ユーフラテス川を両国の境界と定めたとも言われています。また、アルメニア王国にも兵を進め、長年にわたってパルティアの影響下に置くことに成功しました。

 

◆ ローマとの抗争と衰退

しかし、このアルメニアをめぐって、ローマ帝国との対立を深めていくことになるのでした。特にセレウコス朝シリアが紀元前64年に滅亡すると、パルティアとローマは国境を接するようになり、両国は、長い抗争の歴史を繰り広げていきました。

 

前53年のカエラの戦いでは、数で圧倒的に上回るローマ軍に対して、パルティア軍は奇襲攻撃を仕掛けて大勝し、カエサルのライバルの一人であった将軍クラッススは戦死しました。前36年にはアントニウス(~前30)を撃破し、アウグストゥス(在位:前27年 – 14年)やネロ(在位:54~68年)の時代は、休戦協定が結ばれていました。

 

しかし、その後、アルメニアを巡り争いが再燃し、ローマのトラヤヌス帝(在位:98~117年)や、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝(在位:161~180年)との戦いでは、パルティアはともに敗れ、都のクテシフォンも一時占領されました。それでも、持ちこたえたパルティアは、クテシフォンを奪還し、217年には、東進してきたカラカラ帝を撃退するなど、西方の領土を一部失いつつも最後までローマと戦い切りました。

 

紀元後2世紀以降も、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら生き延びていたパルティアでしたが、長年に及ぶローマとの戦いや、王位をめぐる有力氏族間の争いで、国力が消耗し、国内に反乱が多発するようになりました。このように、476年もの長期間にわたり、イラン高原を支配したパルティアも、226年に、同じイラン系のササン朝ペルシアによって滅ぼされました。

 

なお、パルティアは中央アジアを経由して中国とも接触があったとされ、中国では、アルサケスの音がなまった「安息」として知られていたようです。

 

◆ パルティア文化

パルティア王国においても、ヘレニズム文化の影響を強く受けました。ギリシア人の工人を使って鋳造させた貨幣には、公用語であるギリシャ語で、王は「ギリシアを愛する」という銘が刻まれていました。

 

紀元1世紀頃、イランの伝統文化が復活しはじめると、ヘレニズム文化と融合する独特の文化が形成されました。イラン人の伝統的宗教であるゾロアスター教やミトラ(ミスラ)教は、パルティアにおいても存続し、その伝統は維持された一方で、初期パルティア文化で信仰されたギリシアの神々も一部はイランの神々と習合しました。パルティアで鋳造された貨幣には、ゾロアスター教のアフラ=マズダやミスラ神などの神が、ギリシアの神々(ゼウスやアポロ)の姿で刻印されていたと言われています。

 

 

<バクトリア(グレコ・バクトリア王国)>

前255年頃~前139(130)年

 

(国名としてのグレコ・バクトリアとは、「ギリシア人のバクトリア」という意味で、地方としてのバクトリアと混同しないように用いられる場合もあるが、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれることもある。)

 

バクトリア王国は、前3世紀半ば~前2世紀半ば、アレクサンドロスの遠征に従って来たギリシア人が建てたヘレニズム諸国の一つで、ヒンドゥークシュ山脈からアム川上流域、現在のアフガニスタン北部からタジキスタン、カザフスタンの一部を支配しました。一時は北西インドに進出して、インドにギリシア風の文化を伝えるなど、ヘレニズム文化の中心地でした。

 

中央アジアは、中国、インドとヨーロッパ、西アジアなどを結ぶ交通路の大部分を占めていたため、大規模な隊商を組んだ交易(隊商貿易=キャラバン))が発展し、早くから大きなオアシス国家を形成したバクトリアは、繁栄していました。

 

しかし、(グレコ・)バクトリア王国は、王統交替が頻繁に起こり、王権が弱い一方、地方の王が権力を持ち、支配体制は脆弱でした。 では、そうしたバクトリアの歴史をみていきましょう。

 

◆ バクトリア王国の独立と発展

アレクサンダー大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人のセレウコスが、セレウコス朝シリアを建国し、前308年にはバクトリア地方を平定して、バクトリアはその一州になりました。その際、アレクサンダー大王の時代からの従軍ギリシア人の一部は、引き続きこの地に住み続けました。

 

しかし、セレウコス朝のバクトリア総督(サトラップ)で、ギリシア人のディオドトスは、前256年、反乱を起こし、バクトラ(アフガニスタン北部、バルフ)を都とするバクトリア(グレコ・バクトリア)王国を建国しました。

 

このとき、北部のソグディアナ(現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州一帯、フェルガナ盆地にあったソグド人の国家)、西方のマルギアナ(現在のトルクメニスタン)などを征服しました。

 

また、ほぼ同時期に同じくセレウコス朝から独立したアルサケス朝パルティア王国とは、当初、対立することとなりましたが、ディオドトス2世の時代(前240~前230/223年)、パルティアと同盟を結び、西方を固めました(この同盟は、紀元前189年まで続いた)。

 

前3世紀末(前230年頃)、アレクサンダー大王の曾孫とも比定されるエウテュデモスが、ディオドトス2世を殺害し、王位を簒奪(さんだつ)、自らバクトリア3代国王に就きました(在位:前230~前200)。これを受け、セレウコス朝のアンティオコス3世は、前208年頃、軍勢を東へ進め、都バクトラを包囲しましたが、エウテュデモスは2年にわたって包囲に耐え、アンティオコス3世と和睦し、名実ともにバクトリアの独立は認められました。

 

当初、マウリヤ朝が強勢であったことから、バクトリア王国がインドに影響を及ぼす事は少なかったのですが、独立が認められたバクトリア王国は、インド方面への拡大を開始しました。エウテュデモスの子で、バクトリア王国の4番目の王デメトリオス1世(在位:紀元前200年 – 紀元前180年)は、ヒンドゥークシュ山脈を越えて南下、ガンダーラに進出し、タクシラを占領しました。その後も、北西インドの侵略は続けられ、アラコシアやゲドロシアを支配下に置き、勢力範囲はアラビア海に到達しました。

 

ところが、デメトリオス1世の後、弟アンティマコス1世(在位BC180年~BC171年)の時代、王がインド経略に専心する最中の紀元前175年頃、バクトリア本国の留守を任されていた将軍エウクラティデスが反乱を起こすという事件が発生しました。このためアンティマコス1世は、エウクラティデス1世を討伐に向かいましたが、パルティアの支援を取りつけたエウクラティデス1世に逆に討たれてしまいました。

 

この結果、グレコ・バクトリア王国は、バクトリアの本土を拠点に、自ら王位に就いたエウクラティデス1世(在位:前171年~前145年)の王朝(エウクラティデス朝)と、北西インドのパンジャーブに拠った王朝(インド・グリーク朝)に分裂しました。

 

◆エウクラティデス朝とインド・グリーク朝

 

こうした経緯から、エウクラティデスのバクトリア王国とインド・グリーク朝は、対立を深め、戦争を繰り返しましたが、エウクラティデス軍は強固で、紀元前150年には、インド・グリーク朝のデメトリオス2世(在位:前155年~前150年)と戦って敗死させました。結果的に、エウクラティデス1世は、インド・グリーク朝の支配地を含む西北インドを再び支配下に置くなど、一時は再び両国は統一されました。

 

このように、最盛期の王とも評されたエウクラティデス1世でしたが、紀元前145年頃、バクトリア本国への帰還途中、共同統治者で息子でもあったヘリオクレスに暗殺され、強力な統治体制を築けぬまま、インド地方の支配権は大部分が失われました。

 

父を殺したヘリオクレスが(グレコ・)バクトリア王国の君主となりましたが、父殺しの汚名で人心を失い、ヘリオクレスの治世は長く続きませんでした。結局、バクトリア王国は、西隣のパルティア、イラン系とされる北方のスキタイ人の圧迫を受け、前139年頃、スキタイ系遊牧民トハラ大夏)によって滅ぼされました。

 

なお、(グレコ・)バクトリア王国はギリシア人がたてた国であったため、ヘレニズム文化が栄えました。また、その文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すことになるのです。

 

一方、インド・グリーク朝は、グレコ・バクトリアのエウクラティデス1世に討たれたデメトリオス2世の後、インド(パンジャーブ)における勢力基盤は、当初、アポロドトス1世、その後メナンドロス1世に継承されました。

 

インド・グリーク朝は、このメナンドロス1世の時代(在位:前155年頃 – 前130年頃)(在位:前150~前125年)に再び強勢になり、最盛期を迎えます。メナンドロス1世は、パンシャーブ地方のシャーカラ(現シアールコット)を都に定め、イラン高原のパルティアとは友好関係を保ち、マウリヤ朝の衰退に乗じて、インドの西北のマガタ国まで侵入するなど、アフガニスタンから北インドにまたがる大きな領土を支配しました。

 

メナンドロス1世は、インドにおいて、単に武勇に優れた征服王というだけではなく、偉大な哲人王として記憶されています。というのも、メナンドロス1世は、「ミリンダ王」の名で、仏教に帰依し、仏教を保護したからです。メナンドロス1世が残した仏典「ミリンダ王の問い」は、王本人と仏僧ナーガセーナとの対談と、王が改宗した経緯などを中心に記録されたものです(なお、ミリンダとはメナンドロスの名がインド風に訛って伝わった名のこと)。

 

しかし、メナンドロス1世が死後、王妃アガトクレイアが権力を握ると、王国は分裂・衰退し、前1世紀半ば頃、パミール高原からカスピ海沿岸で活動していたイラン系の遊牧民族のシャカ(サカ)族に滅ぼされました。紀元後100年前後には、サカ族が西北インドの支配権を握っていたとされているので、インド・グリーク朝はその頃までには完全に消滅していたとみなされています。

 

ギリシア人の王国であったインド・グリーク朝のアポロドトス1世やメナンドロス1世は、ギリシア・ローマの歴史家達にはインド王として言及されています。

 

 

<参考>

アレクサンダー大王の東征:ヘレニズム世界の統一

ササン朝ペルシア:最後の古代イラン文明

 

 

<参照>

世界史の窓

世界の歴史マップ

コトバンク

Wikipediaなど

 

(2022年6月11日)