テンプル騎士団:ソロモン神殿とモレ―の呪文

 

中世の時代に産声をあげた宗教騎士団のうち、今回はマルタ騎士団ドイツ騎士団とともに中世三大騎士団の一角とされたテンプル騎士団を取り上げます。

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  • テンプル騎士団とは?

 

テンプル騎士団、正式名称「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」は、中世ヨーロッパの宗教騎士団の一つで、第1回十字軍(1096年~1099年)」の遠征後の1119年に誕生しました。

 

第1回十字軍は、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還し、エルサレム王国を創設しましたが、内部対立などから、「事後処理」をすることなく帰国してしまいました。第1回十字軍の後、聖地エルサレムには、ヨーロッパから多くのキリスト教徒が巡礼に押し寄せました。しかし、エルサレムの周りの地区はイスラム教徒の支配地で、エルサレムに向かうキリスト教徒は攻撃の対象になるなど、パレスチナでは、キリスト教とイスラム教の対立が激しさを増していました。

 

そうした状況下、1118年、十字軍国家であるエルサレム王国のボードワン2世の下に、フランスのシャンパーニュ伯ユーグ1世の臣下であったユーグ・ド・パイヤン(ペイヤン)以下9人の騎士たちが集結し、十字軍に代わり、清貧・貞潔・服従をモットーとして、聖地巡礼に向かうキリスト教徒を保護する誓いを立てました。こうして、翌1119年、パイヤンを初代の騎士団長とするテンプル騎士団が生れたのです。

 

これに対して、エルサレム王ボードワン2世は、騎士達の本拠地として、王宮の東側に位置する、かつてソロモン王が創建し、「ソロモンの栄華」で有名な、古代のソロモン神殿(エルサレム神殿)があった場所(「神殿の丘」)を騎士達に与えました。

 

このソロモン神殿(テンプル)にちなんで、パイヤンらの騎士団は「テンプル騎士団」と命名され、9名の修道騎士達は「キリストとソロモン神殿の騎士達」と呼ばれる騎士団の正式名称にもつながりました。

 

さらに、創設から10年後の1128年、騎士団は、ローマ教皇ホノリウス2世(在1124~1130)から「キリストの貧しき騎士にしてエルサレムなるテンプル騎士修道会」として、教皇に直属する修道会として、公認されました(マルタ騎士団の公認は1113年)。この教皇認可は、シトー修道会の聖ベルナールから教皇への強い働きかけがあったとされています(聖ベルナールはテンプル騎士団創設にも深く関わったと言われている)。

 

もともと、騎士団のメンバーは、勇敢であるばかりか高潔であるという評判があった中、騎士団にローマ・カトリック教会の正式認可が下ると、ヨーロッパ中の富裕層からは豊富な資金援助が集まり始めるとともに、騎士団には名門一族の子弟たちからの入会志望者が続出するようになりました。ただし、入会できるのは、騎士の誇りを守るために男子のみで、その祭服は、白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけているのが特徴です。

 

 

  • 十字軍とテンプル騎士団

 

ローマ教会は、1147年、イスラム勢力が再び攻勢に出てきたことを受けて、第2回十字軍(1147~1148)を興しました。この時、テンプル騎士団は十字軍に初参加し、フランス王を救援する活躍をみせました(この時の十字軍そのものは目的を達することができずに退却した)。

 

その後も、約150年近く続いた十字軍の遠征に参加したテンプル騎士団は、常に士気も高く、十字軍の当初目的に忠実に活動した結果、失敗が続く十字軍側で随一の成果を上げたと評価されています。

 

聖地での活躍と幾多の功績に対して、騎士団には数多くの寄進が集まるとともに、様々な特権も与えられました。例えば、修道士や騎士団は貴族らから支援を受けた場合、捧げ物の十分の一を教会に納めなければならないという「十分の一税」をテンプル騎士団は免除されていたと言われています。

 

こうした富の蓄積によって、テンプル騎士団は、「軍事力」に加えて、「経済力」も兼ね備えるようになっていきました。十字軍から護衛料、入会者から入会金をとり、さらに免税特権などもあって、騎士団は財政を自由に運営することができました。また、テンプル騎士団に限らず、修道会は原則、会員は私有財産をすべて喜捨して入会したそうです。そのため会員数が多く、しかも貴族会員の割合が大きいテンプル騎士団には、それだけ入ってくるお金は膨大でした。

 

このように、テンプル修道会は富裕化し、やがて金融業を営むようになりました。現代の「トラベラーズ・チェック TC」も騎士団から始まりました。巡礼者達は、現金を持ち歩かなくてもいいように、ヨーロッパ本国で騎士団にお金を預け、その金銭に相応しい手形書類を受け取り、聖地で現地貨に換金することで、安心して巡礼に旅立つようになったのです。こうした確かな安全と精度の高い金融システムを多くの国にまたがって構築し、テンプル騎士団は巨大な組織に成長していきました。

 

 

  • テンプル「金融帝国」

 

しかし、「第8回十字軍」の遠征後の1291年、十字軍最後の拠点であったアッコンが陥落し、十字軍は失敗のうちに終焉しました。このため、テンプル騎士団の聖地防衛と巡礼者の保護という「聖なる大義」は消滅してしまい、騎士団は、本部をエルサレムからキプロスに移し、本国フランスをはじめヨーロッパへ撤退していきました。

 

十字軍終了後、聖地エルサレムをイスラムに再び奪われたことにより、テンプル騎士団は多くの領地と名誉を失いましたが、それでもそれまで蓄積された莫大な富を生かして、財務管理を含めた今日の「銀行」業務を行うことで、その活動の幅を広げていきました。

 

騎士団は、欧州の王侯貴族への資金の貸し出しを増やしていき、欧州の君主国にとってメインバンク(主力銀行)の機能を果たすまでになっていきました。これは、テンプル騎士団が国際取引を行うことができる銀行システムが歴史上初めて構築していたことを意味しています。このヨーロッパ内の国際金融システムの運営によって、テンプル騎士団は、後に財宝伝説も語り続けられるぐらい財政で巨万の富を築いていきました。

 

テンプル騎士団はまた、ヨーロッパから中東にいたる広い地域で多くの土地を買い占め、農園や果樹園などを運営し、さらに莫大な収益を上げました。アッコン陥落後、本部機能をエルサレムから移したキプロス島もテンプル騎士団が所有していた土地でした。

 

 

  • フィリップ4世の謀略

 

これに対して、一修道士の団体にすぎない彼らが、貪欲なまでに富を追求し、ヨーロッパ諸国の財政を牛耳っていることに対して、「恐怖の騎士団」と批判する王侯貴族や商人が現れてきました。その急先鋒でテンプル騎士団にとって致命的な存在となったのが、フランス国王で端麗王とも呼ばれたフィリップ4(在1285~1314)でした。

 

フィリップ4世と言えば、ローマ教皇・ボニファティウス8世を捕らえたアナーニ事件(1303年)や、教皇庁をローマからプロヴァンス地方アビニョンへ移した「教皇のバビロン捕囚」(1309~1377)を実行した人物です。

 

この当時のフランスは、北方イングランドやフランドルとの戦争が続き、「テンプル騎士団への莫大な借金に喘ぎ、国の財政が危機に瀕していました。この時、フィリップ4世が目をつけたのが、騎士団の膨大な資産でした。

 

巨大な資金力と支配力を誇示していたテンプル騎士団の存在を嫌ったフィリップ4世は、騎士団に対して、負債免除(借金を帳消し)をさせ、その財産を手に入れようと報復を企てます。さらに、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を一つにして、宗教騎士団を自身の管理下に置こうと考えていたと言われています。

 

フィリップ4世は、テンプル騎士団のジャック・ド・モレー総長(団長)にその要求を突きつけますが、当然拒否されます。すると、1307年10月、国王の意を受けたとされる教皇クレメンス5の命令により、モレーを含む数百人の騎士(団員)が逮捕され、異端の罪で起訴されました。

 

テンプル騎士たちは、黒魔術や悪魔信仰、男色行為、児童虐待、キリスト冒涜(反キリストの誓い)などさまざまな罪状で異端審問にかけられました。尋問は凄惨を究め、自白強要のため鞭打ち、足砕き、睾丸責めなどの拷問が行われたと言われています。拷問に耐えた者は衰弱して死亡し、判決は自白した者は終身刑、自白を拒否または撤回した者は偽証罪で火刑となったと言います。彼らの罪状はでっち上げであったとされ、濡れ衣を着せられた多くの騎士たちは火あぶりで処刑されてしまったのです。

 

1311年、ヴィエンヌ公会議開催され、教皇クレメンス5世は、テンプ騎士団の活動停止命令を出し、翌年、テンプル騎士団は、強制的に解散(廃止)させられました。その巨万の資産も大半も政府によって没収されました。また、残されたテンプル騎士団の利権は、聖ヨハネ騎士団に有償で譲渡されています。

 

5年を超える拷問を耐え抜いた騎士団長ジャック・ド・モレーやメンバーの一部は、解散命令から2年後の宗教裁判を経て火あぶりの刑に処されました。団長モレーは、処刑の日、公衆の面前で「我々は今ここに真実を告げる、騎士団員は全員無実で、自白は偽りで、全て拷問による強要であった」と演説しました。火中でも最期まで祈り、騎士団の正義とフィリップ4世の非道を主張し続けたと言われています。なお、余談ですが、モレ―は、火中、呪いの呪文をかけたと噂されました。

 

というのも、フィリップ4世もクレメンス5世もその1年以内に死亡しただけでなく、フランス国王となったフィリップ4世の3人の息子たちは皆、父の死後15年以内に全員死亡、さらにフィリップ4世の孫たち、特に男子が全員夭折したため男系は途絶えてしまったからです。また、カペー朝最後の国王シャルル4世が、34歳の若さで亡くなった1328年で、フィリップ4世のカペー朝は断絶しました。

 

いずれにしても、中世の時代に名をはせたテンプル騎士団は、突然の王権の介入によって、滅亡してしまいました(もっとも、ポルトガル王国の支部のように「キリスト騎士団」と名を変えて存続しているところもある)。

 

 

  • 回復された名誉といま

 

テンプル騎士たちの逮捕と処刑から騎士団の強制解散は、負債免除と彼らの資産没収を行おうとしたフィリップ4世による策略であったことが明白だったのですが、その後、何年も、テンプル騎士団の異端という汚名は、無批判に受け入れられていました。

 

しかし、ようやく、19世紀以降、歴史学者らからこれに疑義が呈されるようになり、現代のローマ・カトリック教会は、「テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったこと、また、テンプル騎士団の解散の決定も、当時の社会からの批判に流されたものであった」と結論づけたことから、テンプル騎士団は、名誉を回復しています。

 

なお、テンプル騎士団は、その栄華と没落が極端でかつ唐突であったことから、様々な伝説が語りづかれています。中には、数々の財宝伝説やフリーメーソン発祥伝説など陰謀論(都市伝説)もあります。映画「ダ・ヴィンチ・コード」でもテンプル騎士団が登場しました。

 

また、テンプル騎士団の入会は、秘密儀式が行われていたとか、テンプル騎士団の人たちは、錬金術、数秘学、ユダヤ教のカバラ思想の研究が行われいたとか言われ、謎めいた宗団であったとの指摘もあるなど、現代でも話題を提供してくれています。

 

<参考>

マルタ騎士団:「地中海の看護婦」から主権実体へ

ドイツ騎士団:北方十字軍・フス戦争・プロシアまで

 

 

<参照>

テンプル騎士団とは(ピクシブ百科事典)

テンプル騎士団について(バラ十字会日本本部公式ブログ)

5分でわかるテンプル騎士団!

世界史の窓

Wikipediaなど

 

(2022年6月14日)