カノッサの屈辱:叙任権争い、教皇権の隆盛

 

中世ヨーロッパにおいて、教皇権(教会)と世俗の権力とが対立していく中、ローマ教皇の神聖ローマ皇帝に対する優位性を確立したとされるのが、「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。

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◆叙任権をめぐる争い

 

カノッサの屈辱とは、1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4とローマ教皇グレゴリウス7が、聖職者の叙任権(選出権)を巡り対立し、皇帝が教皇に屈服した事件です。聖職叙任権とは、誰をローマ教会の聖職者(司教など)や修道院長にするかを決める権利で、西欧では、古代末期以来、私領に建てられた聖堂や修道院は、その土地の領主が叙任権を持つという慣例がありました。

 

中世においても、特に、神聖ローマ帝国においては、オットー1世が教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に叙任することで聖職叙任権を確保して以来、神聖ローマ皇帝がローマ教会を統制していました(これを帝国教会政策と呼ぶ)。

 

叙任権を持っていれば、自分の意にかなった聖職者が教会を「運営」するので、教会自体を管理できるようになります。同時にそれは、教会が持っている荘園や財産に介入できる(教会財産の管理権を握る)ことを意味していました。ですから、皇帝や国王からすれば、叙任権を有することは、自身の権力強化につながりました。とりわけ、神聖ローマ皇帝にとっては、聖職叙任権を握ることで、ローマ教皇の選出においてまで介入するようになったのです。

 

一方、ローマ教会においては、俗権によって叙任権が行使されたことで、聖職者の堕落という事態を招いてきました。当時、皇帝(国王)に任命された聖職者たちは、荘園を持って領主化し、司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引(聖職売買)したり、聖職を相続の対象としたりすることが横行するようになっていたのです。

 

こうした教会の腐敗と世俗化に対し、10世紀になると、ローマ教会の側からは、俗権による叙任を否定したり、聖職者の綱紀粛正をはかったりといった俗権からの影響力を否定した改革運動が起こるようになりました。その中心を担ったのが、910年にフランス東南部ブルゴーニュ地方(ブルグント王国)に建てられたクリュニー修道院でした。この修道院では、かつてベネディクトゥスがはじめた「ベネディクトゥスの戒律」の厳格な励行など、初期修道院精神に立ちかえることがめざされました。聖職売買や聖職者の妻帯は厳しく批判され、また、私闘の濫用も戒められました。クリュニー修道院の改革運動は、急速にヨーロッパ各地へと波及していきました

 

なお、ベネディクトゥスは、6世紀、イタリアのモンテ=カシノに修道院を建設し(529年)、清貧と勤労を旨に神に奉仕する生活を送る修道院運動を進めたイタリアの修道士です。「祈り、働け」をスローガンとしたベネディクトゥスの定めた厳しい会則は、「ベネディクトゥスの戒律」とよばれ、西ヨーロッパに広く普及し、ベネディクトゥスはやがて「西欧修道士の父」と称されました。

 

そうして、11~12世紀になると、俗権による教会の支配が、教会堕落の原因であるとの認識が強まり、聖職者叙任権を、教会の手に奪回する運動がおきてきました。その急先鋒がグレゴリウス7世でした。

 

教皇グレゴリウス7世(在1073~1085)は、キリスト教の教義をあるべき姿に戻そうと、聖職者の綱紀粛正、教会の刷新を図りました。1075年には「教皇教書」を出し、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言し、皇帝の持っている叙任権を教皇に移す意向を示しました。これに対して、皇帝としての支持基盤を失いたくない時の神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世は、当然、聞く耳を持ちません。やがて両者は決定的な対立を引き起こすことになっていきます。

 

 

◆カノッサ事件

 

ローマ教皇グレゴリウス7世は、1075年、司教叙任を続ける神聖ローマ帝国の皇帝・ハインリヒ4世に、叱責する書簡を送り、悔い改めを迫りました。しかし、これに激怒したハインリヒ4世は、独自に聖俗諸侯を集めて会議を開き、司教の同意のもとに教皇の廃位を決議してしまいます。そこで、教皇グレゴリウス7世も、翌2月、皇帝ハインリヒ4世の破門と皇帝権の剥奪(廃位)を宣言して対抗しました。

 

すると、ドイツの司教たちが動揺しただけでなく、それまで皇帝についていた世俗諸侯らも次々に反旗をひるがえしました。諸侯たちは集会を開き、1年後の1077年2月までに皇帝の破門が解かれなければ、ハインリヒ4世の皇位を廃すること、また適任の人物がいない場合は皇位を空にすることを決定したのです。

 

孤立して一気に窮地に陥ったハインリヒ4世は、使いを送って教皇に許しを請いましたが、聞き入れてもらえません。そこで、翌1077年1月末、ハインリヒ4世は、トスカナ女伯マティルダの仲介により、自ら真冬のアルプス山脈を越え、カノッサ城に滞在する教皇に会いに出向きましたが、それでも、教皇は捕縛を恐れて城から出ず面会を拒否しました。万策尽きたハインリヒ4世は、武器を捨て、修道服に身を包み、雪の城門で3日間、素足のまま祈りと断食を続け、破門の取り消しを求めた結果、ようやく、破門が解かれました。これが、「カノッサの屈辱」として知られる事件です。

 

 

◆ 終わらなかったカノッサ事件

 

破門されなかったとはいえ、この一連の騒動で皇帝の権威は大きく地に落ち、カノッサ事件は、教皇権の王権に対する優越を示しました。もっとも、神聖ローマ帝国(ドイツ)に限れば、ハインリヒ4世は勢力を回復し、教皇側と再度対立しました。グレゴリウス7世は、改めてハインリヒ4世を破門しましたが、今度は、効果はなく、逆にカノッサ事件で禍根を持つハインリヒ4世は、1081年、「倍返し」とばかりに、大軍を率いてローマ教会を武力包囲し、グレゴリウス7世は捕らえ身柄を拘束したのです。さらに、1083年、グレゴリウス7世を退位させ、自らが立てたクレメンス3世を教皇の座に就けました。

 

教皇グレゴリウス7世は、辛くも包囲を脱出しましたが、1085年にイタリア南部のサレルノで客死(憤死)してしまいました。グレゴリウス7世からすれば、カノッサ事件の際、ハインリヒ4世を温情で許した結果、逆に死に追いやられてしまったことは皮肉な結果です。

 

一方のハインリヒ4世も、恨みを果たした後、神聖ローマ帝国(ドイツ)領内の領主の反乱に加え、自分の任命したクレメンス3世とも対立し、失意のうちに死を迎えるという、こちらも悲劇的な結末が待っていました。結局、二人の死後も、叙任権闘争の明確な決着はつかず、教皇と皇帝・国王の対立は続きました。

 

 

◆ヴォルムス協約

 

この聖職叙任権をめぐるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の対立を終結させたのが、1122年に締結されたヴォルムス協約(1122)です。ローマ教皇カリストゥス2世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた宗教和議の主な内容は以下の通りです。

 

・ドイツ以外(イタリアとブルグント)の叙任権はローマ教皇が掌握すること,ドイツでは司教選挙に関して,皇帝に選挙への出席と俗権の授与、教皇側に選挙と司教職の叙任権を認めること

・司教や修道院長は教会法によって選出されること

・指輪と杖など霊的権威の授与は教皇が、教会領などの世俗的権威(笏)の授与は皇帝が行うこと

 

こうして、12世紀前半に両者の対立は一応の妥協を見ましたが、和解とはいえ、神聖ローマ皇帝側が、長年の聖職叙任権をてこに教会を統治するという帝国教会政策を放棄した形となりました。

 

実際、ヴォルムス協約が成立する間にも、ローマ教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)は、十字軍(1096~1291)を宣言して教皇権の強さを示しました。その後、第176代ローマ教皇インノケンティウス3(在位:1198~1216年)は、国王や大司教の選任や、王妃離婚問題に介入して、神聖ローマ皇帝オットー4世、イギリスのジョン王、フランスのフィリップ2世を破門にするなど、各国君主を意のままに操れるほどの影響力を持っていました。

 

イギリスのジョン王を破門した事件は、カンタベリー大司教叙任問題が原因でした。カンタベリ大司教の地位は、慣例で、イギリス国王が任命することが続いていましたが、インノケンティウス3世は、その叙任権を行使して、自身の意にかなった人物を大司教に任命したのです。これに反発したジョン王は、教会の所領を没収する措置に出て、ローマ教会と争いとなりました。1209年、破門されたジョン王は、インノケンティウス3世に屈服し、イングランド全土を教皇に献上、いわゆる臣下の礼をとって、改めて封土として領土を受けざるをえませんでした。

 

インノケンティウス3世の時代、教皇権は最高潮に達したと言え、彼自身の「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉が、その強さを象徴しています。

 

<参考>

十字軍:幻のエルサレム王国

アナーニ事件と大シスマ:キリスト教会の大混乱

 

 

<参照>

カノッサの屈辱(世界の歴史マップ)

カノッサの屈辱(世界史の窓)

5分でわかるカノッサの屈辱

Wikipediaなど

 

2020年9月20日、最終更新日2022年6月13日)