中国思想

 

春秋時代の孔子は、人間の道が、人間関係における親愛の情である仁と、人間の徳性と社会性が社会生活の中で習俗として確立した礼の二つからなると考え、君主が仁の徳をもって治める徳治主義を理想とした。

 

孔子は、人として最も大切なものは仁であるとし、仁とは人を愛することであり、自分が欲しないことを他人に行ってはならないと説き、また、政治の上では、法や刑罰よりも道徳によって統治する「徳治主義」を理想とした。

 

 

戦国時代の孟子は、孔子を聖人として崇め、孔子の説を儒学として広めた。孟子は、仁・義・礼・智の四端が、人間に先天的に備わっているとして、仁義を重視する王道政治の必要性を主張した。

人間が自然との調和の中で守るべき五倫の道を説いた。

 

孟子は、力によって民衆を支配する政治に反対して、仁義にもとづいて民衆の幸福をはかる王道政治を説き、さらに、易姓革命の思想を展開した。

 

孟子は、孔子の教えを受け継ぎ、発展させ、「…無惻隠之心、非人也。無羞悪之心、非人也、無辞譲之心、非人也、無是非之心、非人也。」と述べ、これらの心を四端と呼び、四端を磨き育てることによって、人間は仁・義・礼・智の四徳を身に付けることができると説いた。

孟子は、人間は生まれながらにして、「四端の心」があるとした。それは、他人の悲しみに同情する心(惻隠(そくいん)の心)、不善を恥じ憎む心(羞(しゅう)悪(お)の心)、へりくだり譲る心(辞(じ)譲(じょう)の心)、善悪を判断する心(是非の心)の4つである。

 

孟子は、人の性質は生まれながらにして善であるとする「性善説」の立場に立ち、人には惻隠(そくいん)の心)、羞(しゅう)悪(お)の心、辞(じ)譲(じょう)の心、是非の心の四つの心があるとする「四端説」を説いた。

 

「惻隠(そくいん)の心」は仁、「羞(しゅう)悪(お)の心」は義、「辞(じ)譲(じょう)の心」は礼、「是非の心」は智に対応している。

 

孟子は、性善説を唱え、人の心に備わっている、惻隠の心など4つの徳の芽ばえを四端(したん)とよび、四端を育てることで、仁・義・礼・智の四(し)徳(とく)を実現できると説くとともに、基本的な人間関係のあり方としての五倫の道を示した。

孟子は、為政者が力によって民衆を支配する覇道政治を否定し、仁義に基づいて民衆の幸福をめざす王道政治を主張した。

 

 

戦国時代の荀子は、生まれながらに利を好む人間の本性が悪であり、端正によって誰もが得られるものではないという性悪説を唱え、外部的、社会的な規則である「礼」によって人間を教化指導しなければならないと説いた。

 

荀子は、争乱を防ぐ世を治めるには、内面的な仁よりも人びとの行為を規制する社会規範としての礼が必要であるとし、礼治主義を唱えた。

 

儒家の荀子は、乱世が続く現実を前にして、世の中を治めるためには、性悪説に立って礼による政治(礼治)を主張した。

 

荀子は、孔子の教えを継承しながらも、「人之性悪。其善者偽也。」と述べ、人間は本来私利をむさぼり他人を憎む性質をもつものであるから、自然のままにしておくと欲を追い求め、たがいに争うことになると考え、規範としての礼によってその性質を人為的に矯正していく必要があると説いた。

 

荀子は、人の生まれながらの性質は利己的なものであるとの「性悪説」をとなえ、そのままにしておけば争いがおこるため、規範としての礼によって人々の性質を端正しなければならないと説いた。

 

 

韓非子によって大成された法家の思想は、法によって国家を統治しようとするもので、法の尊厳性を強調した。この説の主眼は君主本位の富国強兵にあり、秦はこの思想を採用した。

 

韓非子は、礼の思想を発展させ、「道之以政、斉之以刑、…」と述べ、刑罰を伴い、強制力を持つ法律によって人びとを統治することが、社会の安定につながっていくと主張し、さらに家族の道徳がそのまま社会に妥当するとは限らず、国家の法律は道徳の上に立つものであると説いた。

 

韓非子は、性悪説に基づき、人間を自然のままに放任すれば、争いが起こり、社会が混乱すると説き、人間不信の立場から、法治主義によって社会の治安を保つとともに、民衆に対して厳正な賞罰を行うことが重要であるとした。

荀子は、礼に基づく教化指導で望ましい人間関係を現出できると考えていた。

 

 

墨子を祖とする墨家は、儒家の仁愛を差別する愛として批判し、無差別の愛(兼愛)を説き、戦争を否定し(非攻)、平和を主張した。しかし、この時代以降はほとんどその勢いを失った。

 

墨子は、独自の立場から親愛を重んじ、「凡天下禍纂恕恨、其所以起者、以不相愛生也。是以仁者非之。」と述べ、利他心の欠如が社会の混乱の原因であるとして、自他を区別しない兼愛のもとに人びとがたがいに利益をもたらし合う博愛平等の社会をめざし、非戦論や倹約を説いた。

 

墨子は、儒家の家族愛敵な仁に対して、自分の家族や国に限定されない無差別・平等の博愛を説き、非攻説を唱えた。

 

墨子は、すべての人を差別せずに愛する平等主義と博愛主義の考え方を説き、これを兼愛と呼んだ。

 

 

老子・荘子の説を奉ずる道家は、儒家の思想を人為的な無用の礼儀を説くものとして退け、無為自然を主張した。この説は後に、神仙思想などと結びついて、中国思想界に大きな影響を与えた。

 

老子は、人間の本来のあり方は、人為にとらわれず、自然のままにあること、つまり「無為自然」が理想であるとし、天地をはじめとして、宇宙の万物を生み出す根源的なものを「道」と呼ぶ道家思想を説いた。

 

老子は、人間の本来の生き方は無為自然であると説くとともに、自然とともに生きることができる社会は、少数の民が住む自給自足の小規模な共同体であるとし、小国(しょうこく)寡(か)民(みん)を理想とした。

老子は、「道」にのっとって無為自然に生きることを主張した。

 

老子は、人間の考え出した道徳を必要としない自然のままの世界を理想として、「道常無為而無不為。」と述べ、人間の理想的なあり方は、作為を労しないで一切の自然のなりゆきに任せることであるとし、政治のあり方も同様で、このように生きられる農村共同体程度の小規模な国家こそ理想社会であると説いた。

 

老子は、「大道廃れて仁義有り」として、人間は、無為自然の道に従って生きるべきだと説き、柔弱謙下の生き方を理想とした。

 

 

荘子は、善と悪、美と醜といった区別は人為的なもので、あるがままの世界ではすべて同一であるとする「万物斉同」をとなえ、天地自然と一体となった境地にある人間を「真人」と呼び、これを理想的な生き方であると説いた。

 

荘子は、万物斉同の境地に立ってものごとにとらわれず、自由に生きる人を真人と呼び、人間の理想とした。

 

荘子は、宇宙の根源としての道を説き、ありのままの世界は一切の対立や差別を超えて同じであるという、万物(ばんぶつ)斉(せい)同(どう)を唱えるとともに、心のままに自由の境地に遊ぶ人間を真人(しんじん)とよび、理想の人物と考えた。

 

 

 

南宋時代の朱子は、宋代の儒教における、行為主体である人間の心と客観的な規範である天の理を区別する理気二元論を唱え、客観的な規範を尊重して情欲を抑える「格物到知」を主張した。

 

明代の王陽明は、心即理の理一元論を唱え、生まれながらにして人間の心に備わっている良知をきわめること(致良知)をめざした。

 

王陽明(1472~1528)は儒家の思想をさらに展開させて、善悪を感得し判断する先天的な能力である良知のままに行動することを尊重した。そして「知は行の始めであり、行は知の完成である」と説き、知行合一の立場から実践を重んじた。

王陽明の知行合一は、自己の心(心即理)を原点として実践によって良知を実現しようとするものである。