古代エジプト:エジプトはナイルのたまもの

 

メソポタミア文明に次ぐ、世界最古のエジプト文明の勃興から、アレクサンドロス大王による支配で終わるエジプト古代王国の歴史を追いました。太陽神ラーへの信仰、クフ王のピラミッド、アメンホテップ3世の宗教改革、ツタンカーメン王の悲劇、リビア人支配、「黒いファラオ」など、ナイル川の悠久の流れとともに、古代エジプトの歴史は展開しています。

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 エジプト文明の勃興

 

ナイル川の恩恵

エジプトでは、紀元前5000年頃、ナイル川流域の下(しも)エジプト(ナイル川下流、大三角州地帯)で、農耕・牧畜が始まりました(メソポタミア地方より2000年ほど遅い)。「エジプトはナイルのたまもの」というヘロドトスが引用した言葉のように、ナイル川の恵みを受けて、豊かな土地と穀物が育まれました。エジプトはまた、金を中心とする鉱物資源を大量に保持していたことでも知られています。

 

ナイル川は、毎年7月から11月にかけて氾濫を起こし、肥沃な土壌を下流に運んでくれることから、土地が灌漑されました。そのため、エジプトは砂漠に囲まれていましたが、エジプトの農地は生産力がきわめて高く、地中海世界の中で貴重な小麦などの穀物の産地となることができました。ナイル川はまた、流域の各地を結ぶ交通路としての役割も担ったことも、産業の発展に寄与した形です。

 

一方、地形の面でも、エジプトは、砂漠と海に囲まれているため、メソポタミアとは異なり、異民族の侵入が限定的でした。逆に、エジプトを囲む地中海沿岸と紅海沿岸は、物の流通には欠かせない自然の港として機能しました。実際、エジプトは早い段階から、北部のパレスチナ、南部の下ヌビア(現スーダン北部)とは交易が行われていたようです。

 

そうすると、エジプトでは、ナイル下流を中心に、早くから、ノモスと呼ばれる多くの村落(小国家)が形成され、その過程で、青銅器や神聖文字(象形文字)(ヒエログリフ)、10進法、太陽暦などを活用したエジプト文明が発展していきました。

 

太陽暦と象形文字

エジプトでは、ナイル川の氾濫の時期を予知したうえで農作業を行う必要から、早く天文・暦法の研究が進んでいました。その結果、古代エジプト人は、1年を12ヶ月365日とする太陽暦を採用しました(これが後にローマで採用されてユリウス暦となる)。また、ナイル川が氾濫した後の耕地復元のために測地術が発達しました(これが後に、ギリシャの幾何学の起源となる)。

 

古代エジプト人が創始したエジプト文字には、主として、碑文や墓室・石棺などに刻まれる象形文字神聖文字)(ヒエログリフ)と、パピルス草から作った一種の紙にインクで書かれる神官文字(ヒエラティック)と民用文字(デモティック)に区別されました(前者は宗教書・公文書・文学作品などに、後者は日常的に用いられる)。なお、ナポレオンのエジプト遠征中に、アレクサンドリアで、ロゼッタ石(ロゼッタストーン)が発見され、そこに書かれた神聖文字の解読に成功しています。

 

なお、古代エジプト人は、以前はハム(語)系とされましたが、ハム(語)系そのものが存在しなかったとされ、現在ではエジプト語系という枠組みに入ります。

 

霊魂の不滅と「死者の書」

一方、エジプト文明は、神秘的、来世的で、宗教と結びついていました。古代エジプトでは、霊魂の不滅と、死後の世界が信じられていたため、死者の肉体は70日間かけてミイラにされ、様々なルールに従って葬られました。ミイラとなった死者の復活(再生)する日を待つのです。

 

また、死に際しては、「死者の書」やその他多くの副葬品を添えて葬られました。「死者の書」とは、来世に行った死者の幸福を祈ってミイラとともに埋葬した絵文書のことで、パピルス紙(古代エジプトで使用された文字の筆記媒体のこと)などに書かれました。

 

「死者の書」には、冥界を支配するオシリス神の前で、最後の審判を受けている様子などが描かれます。死者は、死後、心臓の重さ(=生前の善悪)を量られたあとで、オシリスの前へ尋問のために導かれ、死後の審判を受けるとされていました。

 

王国の建設へ

さて、文明の発展に欠かすことができないナイル川の有効な治水を行うには、住民の共同作業が必要となりますが、そうすると、彼らを統率する強力な指導者が求められるようになり、エジプトは、まもなく統合への道を歩みはじめました。

 

多数あったノモス(村落/県)は、やがてナイル下流デルタ地帯の下エジプトと、それより上流の上エジプトの2つの王国にまとまっていくと、前3000年頃には、王による統一国家が、メソポタミア文明より早くつくられました。これは、ファラオと呼ばれた王が、太陽神の化身、生ける神として権威を高め、灌漑網の整備と対外交易の独占によって王権を強化していったことで、ノモス(村落/小国家)の首長の影響力から脱したことが要因とされています。

 

以後、エジプト王(ファラオ)は、国土の所有者として君臨し、専制的な神権政治を行いました。少数の神官・役人などは、王から土地を与えられた一方、住民の大部分は、租税と無償労働が課せられる不自由な身分の農民でしたが、人々の生活には安定がもたらされたと言われています。

 

 

  • 古代エジプト王国の時代区分

 

最初にエジプトを統一して第一王朝が成立した紀元前3150年頃から、紀元前332年、アレクサンダー大王によって滅ぼされるまでの時代のエジプトを古代エジプト王国(エジプト王朝)といいます。この間、31の王朝が交替し、そのうち、国内の統一を保つ時期が長く繁栄した時代を古王国、中王国、新王国と呼ばれました。

 

古王国:前2650年~前2160年頃

中王国:前2040年~前1782年頃

新王国:前1570年~前1070年頃

 

より正確にいえば、王朝時代に先行する「先王朝時代」、王朝時代の古王国、中王国、新王国に続き、さらに「末期王朝時代」を加え、その間にそれぞれ中間期が置かれています。

 

 

エジプト古王国

年代:前2650年~2160年頃(前2686~2181)

王朝:第3王朝~第6王朝

首都:メンフィス

 

エジプト古王国は、ファラオ(王)を長とする中央集権国家体制が完成し、エジプト文明の最初の繁栄期を迎えた時代の王国です。ファラオ(王)が神の化身として君臨し(王を神とする概念を確立)、全国土と人民を所有し支配するという、古代エジプト文明の政治体制を特徴づける神権政治の体制は、ほとんどこの時代に確立したと言われています。

 

古王国を象徴するのが、ピラミッドの造営で、ナイル西岸の砂漠のなかに建てられた今も残る大ピラミッドは、第3〜5王朝時代のファラオ(王)が自分の墓所(王墓)として造営させたと言われています。実際、巨大墳墓には、ファラオの遺体(ミイラ)を納められ、また、祈りの場としても利用されたとみられています。

 

もともとは、マスタバと呼ばれた坑道・墓室がついた長方形の巨石墳墓が、第3王朝期に階段ピラミッドに発展したものとみられ、第4王朝に建造の最盛期を迎えました。

 

キザに築かれたクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドが有名で、BC26世紀のエジプトを支配した第4王朝第2代王のクフ王のピラミッドが最大と言われています。ピラミッドは、当時、神である王の絶大な権力(王権の強大さ)を示すものでしたが、その後小形化して消滅しました。

 

また、エジプトは、石材が豊富であったので、有名なピラミッドだけでなく、スフィンクスやオベリスク(神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種)のほか、石造の壮大な神殿が数多く築かれました。クレタやギリシアの建築に影響を与えたといわれています。

 

このように、栄華を誇った古王国も、第5王朝になると王権の後退が始まり、州知事は各地で自立し、世襲化され衰退していきました。

 

 エジプト中王国(ちゅうおうこく)

年代: 紀元前2040年 – 紀元前1782年頃

王朝:第11王朝 – 第12王朝

首都:テーベ、イチ・タウィ

 

紀元前22世紀頃になると、上エジプト(南)のテーベにおこった王家が勢力を強め、前2040年ごろ、メンチュヘテプ2世が再び全土を統一して、第11王朝を開きました。都のおかれたテーベは、以後長くエジプトの政治・宗教の中心として栄えていくことになります。

 

12王朝の支配地はナイル上流のヌビア地方にまで及び、クレタ文明との交易も行われたと言われています。官僚制度も高度に組織され、政権は安定したとされていますが、12王朝末期に後継者争いが生じ、エジプト中王国は第13王朝で分裂しました。

 

――オリエントの民族大移動――

紀元前2000年紀(1000年代)、オリエント全体で、シリア・パレスチナに進む民族移動が頻発し出し、その動きがナイル川流域まで及ぶようになります。

 

前16世紀から前15世紀にかけて、インド・ヨーロッパ系のヒッタイトが北方からオリエントに侵入すると、その後、ミタンニ人、フルリ人、カッシート人らが、ミタンニ王国カッシート王国などを建国しました。それに押される形で、前18世紀中ごろ、ヒクソス(ヘカウ・カスウト「異国の支配者達」の意)と呼ばれるセム語系を中心とする西アジア系の遊牧民族がエジプトに侵入してきました。

 

 第2中間期

年代:前1782~前1570

王朝:第13王朝 – 第17王朝

 

エジプト第2中間期は、ヒクソス支配の時代です。エジプト中王国が13王朝で分裂し衰退したことに乗じて、シリア方面から侵入してきたヒクソスは、前1663年頃、エジプトを支配し、第15王朝(~前1555頃)を建設しました。アヴァリス(現在のテル=エル=ダバア)に都を築き、シリア、パレスチナからエジプトにまたがる地域を1世紀にわたり治めました(その後、第16、17王朝とヒクソスの時代が続いた)。

 

ヒクソスによる支配が、エジプト史上、最初の異民族支配による王朝となりましたが、彼らはエジプトの文化を採り入れ、王もファラオを称したので、エジプトの王朝として加えられています。馬と戦車を駆使したヒクソスは、武力に優れ、エジプトにも騎馬と戦車がもたらされました。

 

エジプト新王国

年代: 前1570(1552)~前1070年

王朝:第18王朝 – 第20王朝

首都:テーベ、テル・エル・アマルナ

 

紀元前16世紀にテーベに創設された第18王朝は、ヒクソスの軍事技術を学び、軍事力を高めると、前1542年頃、ヒクソスを駆逐してエジプトを解放し、エジプト全土の再統一を果たしました。その後、第20王朝までの約500年を新王国時代といいます。

 

トトメス3世の治世

第18・19王朝が最盛期で、エジプト最大の王といわれる第18王朝6代王トトメス3世(在:前1479~前1425)は、シリア・パレスチナにまで支配領域拡大したため、小アジアのヒッタイトと戦闘を繰り広げました。さらに、ナイル川上流のヌビアを征服するなど、対外的に積極政策がとられました。

 

アモン・ラー信仰の隆盛

古代エジプト人の宗教は、太陽神ラーを主神とする多神教でしたが、新王国時代になると、首都テーベの守護神アモンアメン)とラーが一体化し、アモン・ラー(アメン・ラー)の信仰が盛んになりました。それに伴い、アモン神殿の建設や多数の神官が組織されるようになりました。

 

すると、トトメス3世などエジプト新王国のファラオの対外出兵で、戦勝祈願の多額な寄進や、戦勝後の戦利品などがアモン(アメン)神殿に集まるようになると、神殿を管理するアメン神官団は莫大な財産を獲得していきました。やがて、アモン(アメン)神殿の神官団の勢力は、王位継承などにも介入するようになるなど、ファラオ(王)の王権をも凌駕するようになってきました。そこで、ファラオの権力と権威を回復させる対抗策にでた王が、アメンホテプ4世です。

 

アメンホテップ4世の宗教改革

アメンホテプ4世(在:前1364~前1347)は、紀元前1364年、従来のアモン神中心の多神教にかえて、唯一神アトンの崇拝を強行する宗教改革を断行しました。首都もテーベから、ナイル川中流域に位置するテル・エル・アマルナ(アケト・アテン)に遷都し、みずからもイクナートン(「アトンを喜ばせるもの」)と改名しました。

 

テーベのアメン神を祭る神殿を破壊し、その神官の職を廃止した一方、アトン神こそが唯一最高神であると定めてアトン神殿を次々に建築していきます。しかし、このアマルナ革命と呼ばれた宗教改革は、多神教国家であったエジプト王国の人々の反発や不満が急速に高まり、アメンホテプ4世の死によって一代で終わりました。

 

王の死後、新ファラオとなったツタンカーメン王(在:前1333年頃 – 前1324年頃)が即位すると、アモン(アメン)=ラー信仰(アモン神崇拝)は再興され、都もテーベに戻されました。ただし、この宗教改革の影響で、新しい宮廷を中心に、古い伝統にとらわれない自由で写実的なアマルナ美術が生まれたという副産物もありました。

 

また、アメンヘテプ4世の都テル=エル=アマルナの王宮跡で、粘土板に楔形文字で記された大量の外交文書(アマルナ文書)、約370枚が、1887年に発見されました。この外交文書は、アメンホテップ4世時代のエジプトが、カッシート、ミタンニ、ヒッタイト、アッシリアなどと外交交渉を盛んに行っていた当時の国際政治の様子が明らかになり、古代オリエント史上最高の資料のひとつとなっています。なお、紀元前14世紀のオリエント世界で国際共通語であったバビロニア語(アッカド語)で書かれていました。

 

ツタンカーメンの呪い

一方、アメンヘテプ4世を継いだツタンカーメン王についても、後に「世紀の大発見」がありました。1922年11月、テーベの近くの「王家の谷」(新王国のファラオたちの王墓)の一角の墓室からは埋葬時そのままの王のミイラ、それを覆う黄金のマスク、王の玉座、さまざまな装飾品、武器などが見つかり、それらがツタンカーメン王のものだとわかったのです。

 

ちなみに、エジプトには、ファラオの墓を暴いた者は呪われるという言い伝えがあるのですが、この時も、発掘隊のスポンサーや関係者が相次いで死んだので、わずか9歳で即位し18歳の若さでこの世を去った「ツタンカーメンの呪い」ではないかと騒がれたことでも注目されました。

 

ラムセス2世の時代

一方、第19王朝期(前1306~前1186)には、ラムセスラメセス2世の時代、シリア方面への盛んに外征が行われました。特に、強国ヒッタイトとこの地方の領有をめぐり激しく争いましたが、前1286年のカデシュの戦いでは決着がつかず、シリアの要衝カデシュを回復することはできませんでした。なお、この時、エジプト新王国がヒッタイトと結んだ講和条約は、世界最古の条約とされています。

 

鉄器時代の到来と「海の民」の侵攻

ヒッタイトは、馬、戦車、鉄製武器を持ち、前⒕世紀に最盛期を迎えていましたが、前1200年ごろ、民族移動してきた「海の民」によって滅亡すると、それまでヒッタイトに独占されていた製鉄技術が諸地域に広がり、オリエントは鉄器時代を迎えました。

 

しかし、鉄資源を輸入に依存し、自給できなかったエジプトは、この波に乗り遅れ、紀元前12世紀ころから、次第に衰え始めました。第20王朝になると、ラムセス3世(前1185年頃~前1155頃)は「海の民」の侵略を撃退したものの、同王朝の終焉期には、エジプト新王国は植民地をすべて失い、前1069年、再度侵攻してきた「海の民」によって滅ぼされてしまいました。

 

 第3中間期

年代:前1069年~前525年

王朝:第21王朝~第26王朝

 

新王国滅亡後の第21王朝以降も、エジプトの衰退は止まらず、エジプトの中央権力は弱体化し、異民族の侵入や外国勢力による支配を相次いで受けました。

 

第21王朝(前1069~前945頃)では、下エジプトと上エジプト北部が統治され、下エジプト北部のタニスに都が定められました。上エジプトの南部はどうなったかというと、新王国時代に台頭してきたテーベのアメン神官団が、「アメン大司祭国家」などと呼ばれるほど勢力を維持し、事実上の独立勢力を築くに至ったのです。その長たるアメン大司祭はあたかも王のように振舞ったそうです。

 

しかし、リビュア(リビア)人傭兵の子孫シェションク1世が紀元前945年頃、第22王朝(前945年 – 前715年頃)を開くと、南方のアメン大司祭国家の権力も手中にしてエジプトを再統一しました(もっともアメン神官団はその後も一定の勢力を維持した)。

 

第22王朝から第24王朝まではリビア系の王朝が続くのですが、下エジプトに複数の王が並立する事態となってしまいます。紀元前8世紀後半には、タニスを都とする第22王朝だけでなく、レオントポリスに拠る第23王朝(前818年 – 前715年頃)、サイスの第24王朝(前727年 – 前715年頃)などが打ち立てられたのです。

 

こうしたエジプトの混乱を目の当たりにして、エジプトの南に位置するヌビアクシュ)王のピアンキは、紀元前730年頃、複数の王朝が並立していたエジプトに侵入してこれを征服、統一しました。ここに、ヌビア人達の王朝(クシュ朝とも呼ばれる)、エジプト第25王朝が成立しました。

 

ヌビア(現スーダン)は、新王国時代にエジプトから支配を受けていましたが、衰退した新王国がヌビアから撤退した後、ヌビア(クシュ)人達はナパタを都として独自の黒人王国「ヌビア(クシュ)王国」(前747年~前656年)を建設しました。その過程で、エジプト文化を吸収、定着させ、アメン神を信仰し、エジプト同様、アメン神官団も形成されました。ピアンキのエジプト遠征の動機も、「旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す」ことであったとされています。

 

王たちはファラオの称号を用いるなど高度にエジプト化させた強固な王国を築き、1世紀近くエジプトを支配しました。しかし、台頭してきたアッシリアが、前663年、アッシュール=バニパル王のとき、エジプトを征服すると、クシュ朝はヌビアへと引き上げました。

 

アッシリアは、メソポタミアからアジプトを含む全オリエントを初めて統一し、アッシリア帝国を出現させましたが、その際、エジプトの管理を、サイスの王家に委ねました(サイス朝とも呼ばれた)。これがエジプト第26王朝(前664~前525)です。

 

その後、急速な統一が災いし、アッシリアは、612年には早くも帝国が崩壊すると、サイス王朝のもとで一時エジプトの独立が回復されました(アッシリア帝国は、新バビロニア王国(カルディア王国)、メディア王国、リディア王国とエジプトの4国に分立)。しかし、エジプトの独立は長く続きませんでした。

 

 エジプト末期王朝時代

年代:紀元前525年 – 紀元前332年

王朝:第27王朝 – 第31王朝

 

前525年には、イラン人のアケメネス朝ペルシアのカンビュセス王がエジプトに侵攻し征服、第27王朝を立てました。エジプトは、アケメネス朝の1州となりましたが、その後の第28王朝から第30王朝は、エジプト土着王朝が独立を回復しました。

 

しかし、前341年には、アケメネス朝ペルシアのアルタクセルクセス3世が軍隊を派遣してエジプトを再び支配下におき、第31王朝を建てました。ところが、今度は、紀元前332年に、アレクサンダ―大王がメンフィスを占領してエジプトを征服し、翌年、アレクサンドリアを建設したことで、古代エジプト王国の歴史はその幕を閉じました。

 

なお、アレクサンダー大王のエジプト征服からローマ支配の末期までを「グレコ・ローマン時代」と呼ぶことがあります。「グレコ・ローマン」とは、フランス語で「ギリシャとローマの」、「ギリシャローマ風の」と言う意味です。紀元前1世紀中ごろから4世紀初めごろ、ギリシャの影響を受けてローマ帝国で制作された彫刻・絵画など、ヨーロッパの美術用語です。

 

なお、グレコ・ローマン・スタイルというレスリング用語がありますが、これは、腰から下を攻めることは禁じられ、上半身だけで戦うレスリングの競技種目の一つで、ギリシャとローマ式のレスリングを元にできたアマチュアレリングでは、最も古い歴史のあるスタイルです。

 

 

<参照>

詳説「世界史」山川出版

世界の歴史まっぷ(エジプト統一王国の形成と展開 )

Wikipediaなど

 

(2022年6月10日)