ペルー:かつてのインカ帝国の残影とともに

 

ペルー(Peru)

正式名称:ペルー共和国、通称ペルー(漢字表記は「秘露」)、首都リマ。

 

概観

かつて南米に栄えたインカ帝国の国、ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家で、インドやブラジルなどを追いかける「ポスト新興国」の一つに位置づけられるます。しかし、経済規模は小さくて、1人当たりの国内総生産(GDP)は約70万円と日本の約6分の1程度しかありません。また、首都リマの郊外には貧困地区が多く残り、国民の経済格差が大きいという現実があります。

 

スペインの統治を受けた歴史の影響で、白人が上層社会を形成し、宗教はキリスト教(ローマ・カトリック)、公用語はスペイン語です。

 

人口

インディオが人口の半数を占める人種の構成は、以下のようになっています。

インディオ(原住民):約50%、

メソチソ (白人とインディアンの混血)約40%、

クリオーリョ(ペルーで生まれた白人)約10%

その他(黒人、アジア系住民など)(日系人は1%にも満たない)

 

産業

高原地帯が経済活動の中心。クスコが旧インカ帝国の首都として観光で有名。

鉱業

最重要産業で、銀と銅の生産は世界屈指、その他に金、石油、亜鉛もとれ、特に、ペルーは、メキシコともにお世界最大の銀生産国。世界全体の年間銀生産量の約17%を誇っています。

漁業

ペルー海流の影響で世界的漁業国。アンチョビー(かたくちいわし)で有名。

農業

大土地所有制のアシェンダによる大規模な牧畜が盛んですが、農業開発遅れ。

 

 

略史

 

  • 古代

カラル文明

今から、2万年前、最初の入植者がペルーに到着しました。当初、彼らは狩猟採集民でしたが、農業が発展するにつれ、最初の集落と文明が出現し始めました。それが、約5,000年前にアメリカ最古とされるカラル文明でした。

 

アンデス文明

その後、アンデス山脈の中央高地を中心に独特のアンデス文明が発達しました。アンデス文明はペルーのさまざまな地区に拡大し、あちこちで小さな文化圏が複数生まれていました。例えば、紀元前1000年~同200年ごろまで、標高3200mの中部高地にチャビン文化が栄え、チャビン・デ・ワンタルという都市が築かれていました。

 

また、西暦600年ごろまでに、巨大な地上絵で知られるナスカ文化が発達しました。ほかにも、モチェ文化(灌漑農業や日干し煉瓦の都市が発達)や、ワリ文化(二重の壁で都市を囲んだ遺跡などが発見)などがありました。

 

インカ帝国

これらにもまして、13~16世紀に繁栄したインカ帝国が有名です。1200年ごろ、アンデス高原(ビルカノタ川渓谷の中腹)に興った帝国は、南部のクスコを都とし、北には空中遺跡のマチュピチュがありました。このインカ帝国の誕生で、初めてペルーを中心としたアンデス一帯が一つの国になったと言われ、領土は現在のボリビアおよびエクアドル全域を含む、コロンビア、チリ、そしてアルゼンチンにまで及びました。

 

このように、インカ帝国は、5000年以上前に始まった古代文明発展の頂点を極めたと言われています。

 

 

  • 中世~近代

スペイン支配

しかし、この偉大なインカ帝国は、1533年に、スペインのコンキスタドール(征服者)によって滅ぼされ、スペイン王権の属国になりました。植民地では、1542年にペルー副首都が形成され、その領土は南アメリカの大部分が含まれていました。住民は、銀山での奴隷労働など過酷な環境で、およそ200年間支配され続けました。

 

独立運動

18世紀以降、トゥパック・アマル2世が先導した暴動が象徴するように、原住民の不満が高まり、各地で暴動が次々に起こりだしました。19世紀になると、ヨーロッパでナポレオンが台頭し、ナポレオンの兄が強引にスペイン国王に即位したことなどをきっかけにして、スペインからの独立運動が加速していきました。

 

ペルー国家の誕生

1821年、アルゼンチン出身のスペイン軍人ホセ・デ・サン・マルティンによってペルーは独立国を宣言しました。また、1824年には、ベネズエラで生まれたクリオーリョのシモン・ボリバルが独立戦争を主導し、1826年に、ついに最後のスペイン軍残党を降伏させ、ペルーは独立を果たしたのでした。

 

しかし、その後のペルーの道のりは平坦ではありませんでした。独立後(19世紀半ば)、奴隷制度を終了させ、黒人奴隷は解放されましたが、代わりに、日本や中国などからの移民を奴隷同然に働かせ、社会の亀裂は大きくなりました。

 

また、対外的にもペルーは、1879年に、ボリビアとともにチリとの「太平洋戦争」を戦いましたが、敗戦しました。戦後、軍事政権から民政となりましたが、大土地所有者により支配された、いわゆる「貴族共和国」と呼ばれる時代が始まりました。

 

 

  • 現代

軍政から民政へ

1970年代になると、ペルーはホアン・ベラスコ軍司令官による軍事独裁によって支配されます。軍政は石油やメディアを国営化するなど、権力を集中させました。

 

1980年代に民主政治へと戻りましたが、85年に就任したガルシア大統領は、政府による強力な物価統制を敷きました。そのため、店頭から砂糖などの生活必需品が消え、インフレ率は年7000%と、極めて高いハイパーインフレーションを引き起こし、深刻な経済危機に陥りました。

 

また、左翼ゲリラ、センデロ・ルミノソ(「輝ける道」)のテロ行為が頻発し、治安は極端に悪化しました(ペルーではこの後、約20年間、テロとの戦いが続く)。

 

フジモリ時代

1990年には、日系のアルベルト・フジモリが大統領に就任、2期10年、ペルーを治めました。この間、92年には、軍との協力で「自作クーデター」を敢行し、権力基盤を固め、左翼ゲリラや麻薬組織を徹底的に抑え込みました。また、経済の立て直しに成功し、孤立していた国家をグローバル経済システムに再び合流させました。

 

さらに、在任中の1996年に反政府ゲリラが日本人ら数百人を人質に立てこもった「日本大使公邸占拠事件」が発生、この時も、大統領は躊躇なく特殊部隊を突入させて事件の早期解決を実現しました。

 

しかし、フジモリ氏は、軍特殊部隊による市民殺害事件や、ジャーナリスト誘拐事件に関わるなどした人権侵害の罪や職権乱用罪などに問われ、一部では有罪が確定するなど、現在も服役中(一時、恩赦されたが再び収監されている)。

 

フジモリ後

2000年代、ペルーは、アレハンドロ・トレド(01~)が反フジモリを掲げて当選して以来、アラン・ガルシア(再任)(06~)、オジャンタ・ウマラ(11~)、クチンスキ(16~)、ビスカラ(18~)と選挙ごとに指導者の交代が起きていますが(クチンスキは途中辞任)、民主政治は継続しています。

 

2011年の選挙から、フジモリ元大統領の長女で国会議員のケイコ・フジモリが大統領の椅子を狙っていますが、親子2代の大統領は、今のところ実現していません。現在、ケイコ・フジモリ議員は、最大野党「フエルサ・ポプラル」の党首を務めています。

 

2021年に実施された大統領選挙の結果、ペドロ・カスティージョ候補が、ケイコ・フジモリ候補を僅差で破り、当選しました(7月、大統領に就任)。しかし、議会との対立から、ほとんどの政策が実現されないまま、2022年12月、大統領が突如議会解散を宣言すると、これに反発した議会が大統領を罷免し、同政権は1年4か月余りで終焉し、副大統領職にあったボルアルテが任期を引き継いでいます。

 

 

日本とペルーの外交関係>

  • 概観

ペルーは、1873年に南米で最初に日本と国交を結んだ国であり(世界では14番目)、かつ、1899年に最初に日本人移住を受け入れた国です。2019年は移住120周年の記念すべき年となりました。(日系移民は。全部で数十万人規模になったとの推計もある)。

 

日系人が100万人以上いるブラジルや米国には及びませんが、ペルーにも日系人が10万人近くいて(ペルー人口の1%未満)、日系人コミュニティを形成しています。1989年から4月3日は「ペルー日本友好の日」として祝われています。一方、日本には6万人のペルー人が暮らしています。

 

外交関係の樹立

日本とペルーの関係はスペインがペルーを統治していた時代に始まります。マニラでは、スペイン人商人が日本人商人と取引し商品を当時の(ペルーを含む)スペイン領アメリカに輸送していました。

 

1821年、ペルーはスペインからの独立を宣言し、また1854年以降には日本が開国し、いくつかの国と外交関係を持つようになりました。両国が正式な外交関係を樹立するきっかけになったのが、1872年6月に発生した「マリア・ルース号事件でした。

 

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マリア・ルース号事件

 

1872年7月7日、ペルー船「マリア・ルース号」は、マカオを出港し、リマへ向かいましたが、途中に深刻な暴風雨に見舞われて損耗し、横浜港にに寄港していました。船には、ペルーの海岸地域で綿栽培ために働く予定であった「クーリー(苦力)」と呼ばれる約230名の中国人労働者が乗船していました。

 

その時、クーリーの一人が逃亡し、英国の船「アイアン・デューク」号に乗り込み、マリア・ルース号での労働者の扱いが酷いと、重度の虐待について訴え、保護と船上での仲間の労働者の救助を、船長に求めました。日本の当局は船に乗り込み、中国国民が非人道的な状況下で彼らの意思に反して拘束されていることを発見しました。多くの人が誘拐され、ほとんどの人は最終目的地の場所を知らなかったと言われています。

 

日本の裁判所はマリア・ルス号の船長、リカルド・エレーラを不正行為で国際法に違反したとして告発しました。日本の外務省も、調査を開始し、多くの法的手続きと外交交渉を経た後、中国人労働者を解放しました。リカルド・エレラ船長は罪を許され同船の乗組員と日本を後にしましたが、マリア・ルース号を日本に残していきました。しかし、ドイツなど欧州の外国人領事はこの裁判に介入し、日本には治外法権がないとして、日本政府の裁判における権限を認めませんでした。

 

こうした状況下、ペルー側は、事件の完全解決と、治外法権と最恵国待遇の条項を含む条約を日本と締結することを望み、使節団を日本に派遣しました。交渉の結果、最終的にロシア皇帝に事件を付託されることになり、全面的に日本に有利な仲裁裁定が下され、約400万メキシコペソでの売却により、船は横浜に残ることになりました。

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事件の解決の過程で、両国間で条約の交渉も続けられ、1873(明治6)年8月21日に、日秘修好通商航海条約が結ばれ、外交および領事関係が開かれました。ペルーは日本が南米で最初に外交関係を結んだ国であり、ペルーにとっても日本がアジアで最初に外交関係を樹立した国となります。2023年8月21日、日本ペルー外交関係樹立150周年の記念式典が開かれました。

 

移民の受け入れ

外交関係樹立後、1899年(明治32年)4月3日には、ペルーに日本人移民が初めて到着しました。790人の日本人移民が農園で働くために佐倉丸で海を渡ってきたこの時から、ペルーへの移民が始まり、日系人社会が築かれていくことになります。ペルーは、南米で最初に日本人移住を受け入れた国となりました。

 

ただし、初期の移民は、ブラジルの移民と同様、劣悪な労働環境や風土病などのため、2年もしないうちに120人以上が亡くなったといわれています。それでも、両国の移民契約が廃止されるまで、日本人移民が数多くペルーに渡り、1936年までに、約23000人の日本人移民がペルーに移住したとされています。現在、ペルーの日系人は約20万人で、ブラジル、アメリカについで3番目の規模を誇り、日本とペルーを結ぶ重要な懸け橋となっています。

 

移民の中には、地域に貢献した人もいます。福島県大玉村出身の農民だった野村与吉さんは1917年にペルーに移民として渡ると、「天空の都市」で有名なマチュ・ピチュまでの鉄道建設に携わりました。与吉さんの次男のホセさんは、1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めました。こうした縁で、野内さんの出身の大玉村とマチュ・ピチュ村は友好都市提携を結んでいます。

 

戦中・戦後の関係

1942年1月には、日本の真珠湾攻撃を受けて、両国の国交は断絶しました。大戦中、リマで日本人が住む家や企業が攻撃を受け、日本人が殺傷されたと言われています。また、ペルー政府は、アメリカからの要請をうけ、1700人の日系ペルー人をアメリカに国外追放し、アメリカの収容所へと送りました。

 

戦後、ペルーは日本との国交を回復し、1959年に岸信介首相がペルーを訪問、1961年には、ペルーのマヌエル・プラド(マヌエル・カルロス・プラド・イ・ウガルテチェ)大統領がラテンアメリカの首脳で初めて日本を訪問しました。

 

ペルーと日本の皇室の関係も深く、1963年と1967年に、皇太子同妃両殿下(現在の上皇上皇后両陛下)がご訪問されました。また、1999年、ペルーで開催された日本人ペルー移住100周年記念式典には、(当時の)清子さやこ内親王(紀宮のりのみや殿下)が出席されました。2000年に入ってからは、14年に秋篠宮ご夫妻、19年7月に秋篠宮家の眞子内親王殿下、2023年11月に佳子内親王殿下がご訪問され、秋篠宮家がペルーを含む南米の皇室外交を担っていらっしゃいます。

 

経済関係

日本はペルーにとって6番目の輸出国で、日本には銅や亜鉛、魚粉などを輸出しています。ペルーは日本が最初に海外投資した国の一つでもあり、セロ・デ・パスコ山近くの銀鉱脈や、ペルー最大のアンタミナ鉱山へ投資しています。ペルーは環太平洋経済連携協定(TPP)にも参加しており、今後の貿易拡大が期待されています。

 

 

<参照>

ペルーと日本の外交関係(在日ペルー大使館)

歴史―Peru Travel

ペルーの歴史が5段階で超わかる!

ナスカの地上絵→マチュピチュ→そして独立へ

(武将ジャパン、世界史データベース)

ペルー、日本との関係は移民機に日系人社会築く

(2016/4/26 日本経済新聞 プラスワン)

ペルー(Wikipedia)

 

(2019年10月11日、最終更新日2023年11月13日)