ボリビア:「黄金の玉座に座る乞食」と言われて…

 

ボリビア Bolivia

正式国名:ボリビア多民族国

漢字一文字の略称では「暮国」が使われる。

 

<概観>

09年2月に発布された新憲法において、ボリビアはさまざまな先住民族や混血などからなる「複数民族国家」と規定され、国名が、「ボリビア共和国」から「ボリビア多民族国」に変更されました。

 

ボリビアは、南アメリカ大陸のほぼ中央部に位置し、北と東をブラジル、南をアルゼンチン、南東をパラグアイ、南西をチリ、北西をペルーに囲まれた内陸国です。

 

かつてはさらに、広大な国土面積を有し、太平洋沿岸部にも領土がありましたが、周辺国との戦争に負け続けたために現在は最大時の半分ほどです。それでも、国の面積はアメリカ大陸では8番目に、ラテンアメリカでは6番目に、世界的には27番目に大きい国です(日本の約3.3倍の広さ)。

 

その国土に4,000m以上の山々が連なるアンデス高地をはじめ、熱帯雨林やサバンナが広がる 低地を含むなど、多彩な自然環境に恵まれています。

 

人口:918万人

混血を含めると8割以上が先住民です。

 

首都:ラパス

標高4071メートルで、世界最高高度にある首都として有名です。ただし、憲法上の首都はスクレで、そこに最高裁判所が存在しますが、1900年に国会をはじめとする主要な政治・行政機関がラ・パスに移されてからは、ラ・パスが実質的な首都としての機能を果たしています。

 

1人当たりの国民所得:約1000ドル

南米最貧国の一つ。かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように、豊かな天然資源を持つにもかかわらず実際には貧しい状態が続いています。

 

主な輸出産品:金、亜鉛、スズ、天然ガス、コカ

コカは、精製すると麻薬コカインの原料となるため、各国で栽培が厳しく規制されています。疲労回復の効果などから、先住民が乾燥させた葉をかんだり、茶として飲んだりしているそうです。

 

 

<略史>

 

  • 先史時代

ボリビアは、チチカカ(ティティカカ)湖畔を中心に先史文明が栄えました。アルティプラーノという所では、後のティアワナコ文化の元となるような古い文化の痕跡が残されており、それらの中には少なくとも約3,000年前まで遡ることができるものもあるとされています。

 

チリパ文化(BC1500~BC250)

チチカカ湖の湖水資源は、その後も人類の生活の中心として機能し、紀元前1500年ごろにチチカカ湖南東岸にチリパ文化が出現しました。チリパ文化の前期(BC1500年~BC1000年)では、湖岸の動植物の採取・狩猟による生活が営まれており、中期(~BC800年)にはラクダ科動物の飼育や農耕などが興ったとされ、さらに、後期(BC800年~BC250年)に入ると祭事儀礼が開始され、基壇や地下式広場といった遺構を見ることができます。

 

ティワナク文化(BC200~1150年)

紀元前200年に入ると、チチカカ湖東岸のティワナク遺跡を中心としたティワナク(ティワナコ)文化が出現します。

 

ティアワナコは、ティティカカ湖から南東数kmのところに広大な遺跡が残されています。紀元300年から500年にかけては大神殿の建造物が出現するようになり、一枚岩を削って作られた「太陽の門」や、ポンセの石像などが代表的な遺跡です。また、遺跡周辺には、水路をともなった畑の跡も発見されており、作物栽培が行われていたと推察されています。

 

このティワナクの地は高度4000メートルという高地にあったことから、ティアワナコ文化は、東部や南部にも拡大していきました。同時に、アルティプラーノの人々とボリビア東部のアマゾン地方を拠点としていた狩 猟・採集を主とする人々との接触が持たれるようになり、時には戦闘も行われたこともあったようです。

 

 

  • インカ帝国の時代

 

一方、13世紀はじめにペルーのクスコ周辺から「インカ帝国」が勃興し、急速にその版図を拡大していきました。やがてその勢力は、ティティカカ湖周辺にもおよび、15世紀に入るとティアワナコを中心としたボリビアの地も、その勢力図に組み入れられました。

 

ボリビアは、インカ帝国の一領土となったことから、高度な技術水準の建造物や遺物を誇る都市文明が栄えました。また、現在の公用語のひとつとなっているケチュア語(インカ帝国はケチュア族が興した)が話されていました。

 

 

  • スペイン人による植民地時代

 

16世紀に入ると、中南米地域にスペイン人たちが姿を現すようになり、各地で征服活動を繰り広げていきました。インカ帝国も例外ではなく、1533年に、フランシスコ・ピサロや、ディエゴ・デ・アルマグロらにより滅ぼされてしまいました。1559年までに、ボリビア地域はペルー副王領の管轄下に置かれ、アルト・ペルーと呼称されました。

 

なお、ペルー副王領の管轄範囲は、当初、現在のアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイの地域も含まれていましたが、1776年にリオ・デ・プラタ副王領が新たに創設されると、この3地域はその中に編入されました。

 

ポトシの銀

1545年、ボリビア南部でポトシ銀山が発見され、やがて膨大な量の銀を産出し始めました。セロ・リコの銀山では、1570年に、新しい精錬法が導入され、また先住民の強制労働力徴発制度が行われたことにより、その産出量が飛躍的に増えた。同時に、標高4000メートルを越える同地での鉱山労働は過酷を極め、事故や病気などにより、労働に従事した多数の先住民が犠牲となりました。

 

ポトシの町は鉱山が発見されて1年後の1546年に建設されましたが、1650年頃には推定人口約16万を抱える西半球で最大の都市へと発展しました。ちなみに、当時のスペイン本国の都市人口が首都のマドリードで約5万人と推定されていることからも、ポトシの町の繁栄ぶりが伺えます。

 

1570年代までには銀の道と呼ばれるリマからクスコを経てポトシへ至る道路が整備され、多くの人と物がポトシへ集中するようになったからです。この銀山の発見以降、ポトシはアルト・ペルーの支配のみならず、新大陸の経済と権力の中心地として機能するようになりました。産出された銀は、ポトシの町で精錬・鋳造され、パナマ経由で、スペイン本国まで運ばれて行きました。

 

しかし、スペインへもたらされた膨大な量の銀のかなりの量は、当時、スペインが行っていた戦争にかかった経費の借金返済に充てられ、他のヨーロッパ諸国に流れていきました。こうして、銀は当時のヨーロッパ経済に大きな影響を与えることになりました。

 

ポトシ銀の産出量は16世紀末に最大となりましたが、17世紀に入ると減少に転じ、18世紀にはいると、急激に枯渇しはじめました。これを受けて、カルロス3世は1776年に、アルト・ペルーのペルー副王領から、リオ・デ・ラ・プラタ副王領への編入、新税の創出、販売税(アルカバラ)の値上げといった大々的な改革を断行しました。しかし、この改革はアルト・ペルーの社会経済構造を根底から揺るがすほどの動揺を与え、各地で相次いで反乱が発生しました。

 

 

  • スペインからの独立

 

19世紀初頭、フランスのナポレオンが、欧州を席捲すると、スペインの植民地間の連携は脆弱し、独立運動の気運が高まってきました。ボリビアでも、1809年にはラパス、チュキサカでクリオーリョ(現地スペイン人)による独立運動が起きましたが鎮圧され、独立の指導者ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、捕えられ処刑されてしまいました。彼は、後に「ボリビア独立の先駆者」と呼ばれ、ボリビアの英雄となっています。

 

ベネズエラ、コロンビア、ペルーなどの国々が独立を実現するなか、ボリビアは、1825年、中南米諸国の独立を導いたシモン・ボリバルを旗印に、スクレ将軍率いる軍隊によって、独立を達成した。独立宣言は8月6日に行われ、ボリバルにちなんでボリビアと名づけられました。同年10月3日、ボリビア議会はスクレ将軍を大統領に選出し、ボリビア共和国が発足しました。11月にはボリビア憲法も公布されました。

 

ただし、独立後の経済は、大農園やプランテーションの発展により原住民は半農奴的な労働者となるなど、その地位はかえって低くなる一方、その救済策が逆に、保守的なクリオーリョ(植民地生まれのスペイン人、現地スペイン人)から反発を受け、スクレ大統領は1827年に国外へ追放されてしまいました。

 

スクレの後を受けて、アンドレス・デ・サンタ・クルスが大統領に就任し、この社会の混乱を鎮静化させ、さらに、チリやアルゼンチンに対抗するためにはペルーとの連携が不可欠としてペルー・ボリビア連合の構想を打ち出し、1836年10月にはペルー・ボリビア連合国を樹立しました。しかし、ペルー・ボリビア連合に反対して宣戦布告をしたチリに敗れ、サンタ・クルスはヨーロッパへ亡命したことで、ペルー・ボリビア連合はわずか3年後の1839年に瓦解してしまいました。

 

その後のボリビアは、内政面において指導者(カウディーリョ)たちが入れ替わり交代して政情は安定しませんでした。また外交においても隣国との戦争に相次いで敗れるなど苦難の時代を向かえます。

 

 

  • 対外戦争の時代

 

太平洋戦争

ボリビア太平洋岸で、リン酸肥料として活用されるグアノの採掘が本格化し、またアタカマ砂漠で硝石鉱床が多数発見されると、採掘権をめぐって国境が未画定であったチリとの対立が鮮明になってきました。

 

1879年に4月、チリ側が宣戦布告する形で、太平洋戦争(1879~83)が始まり、終始戦局を優位に進めたチリの勝利に終わりました。1884年4月4日、バルパライソ条約が結ばれ(最終的な講和は1904年)、アタカマ地方はチリに割譲されてしまいました。この結果、ボリビアは、太平洋岸の領土を失い、海への出口を持たない内陸国となってしまったのです。

 

アクレ戦争

アマゾン上流アクレ地区のブラジル人ゴム採集者たちが、1899年にボリビアからの分離独立を宣言したことを契機とした紛争は、ブラジルとの戦争に発展しました(1899~1903)。兵力差は歴然で、ボリビア政府は、1903年11月、ペトロポリス条約が締結し、アクレ地方はブラジルへ編入されました。

 

さて、当時のボリビア経済状況は?といえば、欧米諸国が金本位制を採用したことから、価格が低迷した銀に変わりスズの採掘が推進され、輸出額で銀を抜いたスズ(錫)は、1913年に輸出全体の70%を占めるまでに成長しました。これによって、パティーニョ、アラマヨ、ホッチホルドといった錫財閥も生まれました。また、内政も、こうした新興資本家と結びついたロスカと呼ばれる一握りの権力者が大多数の先住民を支配する身分制度的な社会構造を維持し続けました。しかし、1929年に起きた世界恐慌は、ボリビアも直撃し、スズの輸出低迷から経済的苦境に陥りました。

 

 

チャコ戦争

1932年、ダニエル・サラマンカ大統領は、国民の関心をそらすため、未確定国境地帯であった南部の広大なグランチャコ地方の開発独占を狙って、パラグアイとの戦争を仕掛けました。しかし、チャコ戦争(1932~35)と呼ばれたこの戦いで、ボリビアは敗れ、1935年、アメリカの仲介でブエノスアイレス講和条約を結びましたが、24万平方キロという広大な大地を失いました。

 

このように、ボリビアは、太平洋戦争、アクレ戦争、チャコ戦争という相次ぐ国際紛争の結果、ボリビアは広大な領土を失ってしまいました。これに伴い、軍部の権威は地に堕ち、白人支配層への嫌悪感が住民の間に広がると同時に、国民のナショナリズムが高揚することとなりました。結果として、政権を巡るクーデターが続き、国内政治は不安定な状態にありました。

 

 

  • ボリビア革命

 

1941年、民族革命運動党(国民革命運動党、MNR)が、ビクトル・パス・エステンソロや、ゲバラ・アルセらによって結成されました。MNRは、中間層や農民をも含めた労働階級の支持を獲得して力を持つようになり、51年の大統領選挙では、党首のビクトル・パス・エステンソロが当選するまでに躍進しました。

 

軍部はこの選挙結果を認めずクーデタを起こして政権を掌握したものの、MNRに率いられた鉱山労働者や市民たちが1952年4月9日、ついに武装蜂起し、軍部を圧倒して臨時政府を樹立、革命政権は、亡命先から帰国したパス・エステンソロを大統領に選出しました。こうして政権の座についたパス・エステンソロは、錫鉱山の国有化(三大錫財閥の解体)、農地改革、旧軍隊の解体、選挙制度の改革、インディオに対する差別的法律の撤廃など全面的な社会改革に着手していきました。

 

これらの一連の改革はボリビア革命と呼ばれ、メキシコ革命に次ぐラテンアメリカ第二の社会革命として近代国家の構築が期待されましたが、鉱業や農業の生産活動は停滞し、インフレが進行したため、失敗に終わりました。1964年、軍事クーデタが起こるとパス・エステンソロ政権は崩壊し、以後82年の民政移管まで、ボリビアは軍の支配下に入り、軍の右派(保守派)と左派(革命派)にわかれて抗争を続けました。

 

チェ・ゲバラ

一方、1959年にフィデル・カストロが達成したキューバ革命が社会主義化すると、キューバは、ラテンアメリカ全土への社会主義革命を目論んでいました。ボリビアは、キューバにとって「最も弱い環」とみなされていました。

 

そうした中、カストロと決別したキューバの革命家チェ・ゲバラが、1966年11月4日、南米大陸革命運動の拠点を求めてボリビアへやってきました。ゲバラは、農民のゲリラ戦によるラテンアメリカの武力革命を理論化していましたが、ゲバラ率いる革命軍は農民層の支持は得られず、1967年、ボリビア政府軍に捕らえられ、射殺されました。これにより、南米の革命運動における武装闘争路線は重大な挫折を来すこととなったとされています。

 

 

  • 民政移管

1978年にアメリカのジミー・カーター大統領の主導で、ボリビアでの民主化が始まりました。国内では、業績を上げることもできなくなっていた軍事政権は、1982年10月に退陣し、民政移管が完了しました。ただし、1984年8月から1985年8月の1年間で26,000%の価格上昇というハイパー・インフレを呼び起こし、経済は破綻しました。この状況で1985年の大統領選挙に勝利したのは、74歳になったビクトル・パス・エステンソロでした。パスは、緊縮財政や市場改革に着手し、失業者が続出する痛手を伴う結果になったものの、経済の安定化を図りました。

 

このように、1964年から1982年までの間に5回のクーデターと9回の政変が発生し、1825年の独立以来からなら、188回を数えたクーデターに見られるように、ボリビアは、著しく不安定な国でした。

 

先住民政権の成立

2005年12月の大統領選挙において、左派先住民指導者で、社会主義運動党(MAS)のフアン・エボ・モラレス・アイマが当選、初の先住民大統領が誕生しました。

 

また、モラレスの指導の下、新憲法が09年2月に発布されました。ボリビアはさまざまな先住民族や混血などからなる「複数民族国家」と規定され、国名が「ボリビア多民族国」に変更されました。先住民の権利拡大、地方分権推進、農地改革・土地所有制限、天然資源の国家所有なども定められました。

 

ただし、先住民人口が少なく、石油や天然ガス、輸出向け農産物の生産が増大している東部4県(いわゆる半月地帯)は、自治を求めるなど激しく抵抗したことから、新憲法には地方自治の確立が規定されました。(もっとも、天然資源の管轄権は国家に所属するものとされている)

 

モラレスの政治姿勢は強硬な反米主義で、グローバリズムの新自由主義に対して徹底的な対決姿勢をとり、一時、ベネズエラのチャベス政権、キューバのカストロ政権との連携を強めた時期もありました。それを反映して、経済運営に関しても、代々続いた親米政策を転換して、中国寄りに転じました。

 

中国から巨額の投資を取りつけ、大規模な公共事業を実施した結果、毎年約5%の経済成長を続けています。また、貧困層を優遇する政策を掲げ、貧困率も半分以下となっており、総じて、国民からの高い支持を得ています。

 

モラレス大統領は2019年 10月の大統領選で再選されましたが、不正選挙疑惑から抗議デモが勃発し、大統領を辞任しました。現在は、経済財政大臣であったルイス・アルセが2020年 11月から、大統領を務めています。

 

 

<日本とボリビアの関係>

 

1914年4月、通商条約が締結され、外交関係が樹立されましたが、1942年、ボリビアが第2次世界大戦に参戦した際、外交関係が途絶しました。それでも、戦争終了後、1952年12月20日に外交関係が再開しました。現在、両国は良好な友好協力関係にあり、日本人移住120周年に当たる2019年には、秋篠宮家の眞子さまがご訪問されました。

 

現在、ボリビアには約1万人強の日系ボリビア人がおり、日本人町もあります。毎年2名程度のボリビア研究留学生が来日しています。

 

経済的な関係として、ボリビアの対日貿易輸出は、亜鉛、鉛、ごま、キヌア、チアシードなどで、日本からの輸入は、自動車・自動車部品、エンジン、機械などです。

 

 

<参考>

ボリビアってどんな国?(日本ボリビア協会)

混迷 南米のいま④ ボリビア 親中国政策に国民が“待った”(NHK)

ボリビア(Wikipedia)

 

(2019年10月13日、最終更新日2022年7月26日)