中東の歴史

 

イスラム教を創始したムハンマドは、大商人の迫害のためメディナからメッカへ移った。

 

 

<正統カリフ時代>

 

ムハンマドの死(632年)の直後、ムハンマドの義父のアブー=バクルが初代カリフとなった。

 

イスラムは、正統カリフ時代、ササン朝ペルシャを滅ぼした。

 

7世紀半ばに、イスラム教はカリフの正統性をめぐる争いからスンナ派とシーア派に分裂した。スンナ派は、多数派でムハンマドのスンナ(言行)に従う人々で、シーア派は、第4代カリフのアリーの子孫だけがムハンマドの正統な後継者とみなし、スンナ派と対立してきた人々である。

 

アリーは、早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺された。

 

 

<ウマイヤ朝>

 

ムアーウィヤはクライシュ族ウマイヤ家の出身で、661年にダマスクスを都にウマイヤ朝を開いた。

 

ウマイヤ朝は、8世紀に入ると、アフリカ北部とイベリア半島を征服して、フランク王国に侵攻した。732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルの軍に敗れ、イスラム勢力は南フランス、ついてイベリア半島へと撤収した。

 

反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。

 

翌750年、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。

 

ウマイヤ朝に対して、アブー=アルアッバースが、カリフはムハンマドの一族であるべきだとして、革命運動を起こし、シーア派の協力を得て、バクダートを首都とするアッバース朝を開いた(アッバース朝はその後、シーア派を弾圧してスンナ派を保護している)。

アッバース朝は、バクダートを発祥の地としてアラビア半島を支配した。

 

 

<アッバース朝>

 

8世紀の時代、西アジアでは、アッバース家が、ウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を開いた。アラブ人の特権を廃止し、すべてのイスラム教徒を平等に扱った。

 

シーア派の力を借りてカリフの座についたアブー=アル=アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。

 

弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。

 

 

第5代カリフであるハ―ルーン=アラッシードの時代に最盛期を迎え、首都バクダットは国際都市として繁栄した。

 

アッバース朝は、当初帝国の版図を中央アジア方面へ拡大し、751年にはタラス河畔で唐と戦い、これに大勝した。製紙法はこの戦いを機に西伝したといわれる。

 

アッバース朝は、1258年、チンギス=ハンの孫のフラグが西征して、バクダットを占領したため、イル=ハン国によって、滅ばされた。

 

 

西アジアのイスラム社会では、初め官吏や軍人に国家から俸給が支払われていたが、中央権力が衰えると軍人に土地からの徴税権を与え、直接農民や都市民から徴税させるイクター制が各地に広まった。

 

10世紀になると(ブアイフ朝のもと)、国家の財政が困窮したことから、イスラムのアラブ王朝で、イクター制が採用されるようになった。初めは在職期間中だけ、セルジューク朝時代に一般化し、世襲による分与地制度へ変化した。イクター制はイスラム諸国の封建制。

 

 

9世紀以降のイスラム世界では、奴隷出身のトルコ系軍人が活躍した。彼らはイスラム教徒として教育と軍事訓練を受け、十字軍との戦いなどを通じて勢力を伸ばし、13世紀には小アジアにオスマン=トルコ帝国を建国するまでに至った。

 

9世紀頃から征服地の奴隷出身で、当初、傭兵であったトルコ人軍人が活躍した。その後、カラハン朝(992~1212年)、セルジューク=トルコ朝(1038~1194年)、ガズナ朝(962~1186年)、ゴール朝(1148~1215年)、ホラズム朝(1077~1221年)に代表されるトルコ系イスラム帝国があった。

 

11世紀にはセルジューク朝が小アジアに進出し、キリスト教の聖地であるエルサレムを占領した。これが十字軍の遠征を引き起こす原因となり、遠征の提唱者である教皇の権威はいよいよ高まった。セルジューク朝は西アジア一帯を支配した。

 

サラディン(サラーフ=アッディーン)は、エジプトのファーティマ朝を倒し、12世紀後半(1171年)にアイユーブ朝を創始した。

 

サラディンは、アイユーブ朝を建て、チュニジア・エジプトに存在したファーティマ朝を滅ぼした。サラディンは、1099年に十字軍が建てたエルサレム王国を攻撃してエルサレムの奪回に成功した(1187年)。それに対抗して第3回十字軍(1189~92年)が派遣された。

 

 

13世紀のころ、イスラム圏では、マムルーク朝が有力で、地中海・インド洋貿易によって利益を独占し、その首都カイロは世界文明の中心となった。

 

マムルーク朝は1250年にマムルーク(奴隷)出身の司令官によってカイロを都に開かれた王朝である。

 

 

 

イベリア半島では8世紀以降イスラム教徒の支配下にあったが、その後、11世紀頃からキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が起こり、イスラム勢力は次第に衰退した。

 

1492年に、イスラム教国のナスル朝の拠点グラナダが攻略され、イスラム教徒は半島から一掃された。イベリア半島、最後のイスラム教側の拠点となったのはグラナダ。

 

イスラム商人は、8世紀頃から東南アジア経由で中国に赴き貿易活動を行った。彼らが東南アジアに定着するようになると、現地人へのイスラム教への改宗も進んだが、バリ島(16世紀マタラム王国)を除けば、東南アジアは大乗仏教もしくはヒンズー教国家であり、イスラム教が普及したとは言えない。

 

長期間にわたり広大な地域を征服したイスラム国家は、製紙法・火薬・羅針盤を中国からイスラム圏を介してヨーロッパへ、医学・天文学・数学は、インドから古代ギリシャ・ローマからヨーロッパへとイスラム圏を介して伝えられた。東西文化の交流に大きく貢献した。

 

 

<ティムール帝国>

 

ティムールはサマルカンドを首都としてティムール朝を開き(1370年)、小アジアやインドにまで領土を拡大した。ティムールは、イル=ハン国が内乱で滅亡した後、その領土を併合した。しかし、1405年にティムールが明遠征途上で病死すると、トルコ系ウズベク人によって滅ばされた。

 

ティムール帝国の創始者ティムールは、現在の中央アジア地域を中心に勢力を伸ばし、15世紀初頭(1402年)には、アンカラの戦いでオスマン帝国を破り、パヤジット1世を捕虜にした。また、都としたサマルカンドは文化、商業の中心として繁栄した。

 

 

<オスマン・トルコ>

 

13世紀末小アジアに興ったオスマン朝は、1453年にビザンツ帝国を滅ぼして勢力を伸ばし、スレイマン1世のとき領土が最大となった。

 

小アジアに建国されたトルコ系のオスマン帝国は、バルカン半島に進出した後、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを陥れ、ビザンツ帝国を滅ぼした。

 

小アジア地域で建国されたオスマン帝国は「イェニチェリ」と呼ばれる精鋭部隊を擁してバルカン半島にも領土を拡大した。「イェニチェリ」はキリスト教徒の子どもたちを集めて特殊訓練した歩兵軍団で、オスマン帝国の皇帝の常備軍として14世紀末に創設された。(1826年に廃止)

 

オスマン帝国の全盛期の皇帝スレイマン1世はハンガリー征服後、1529年にウィーンを包囲したが、攻略することはできなかった。ウィーン包囲では、陥落寸前に寒気の到来と兵糧不足のためオスマン帝国軍が包囲を解いたので、ウィーンは陥落していない。

 

ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、スレイマン1世の時に最盛期を迎えた。南イラクや北アフリカの領土を広げ、また、ヨーロッパ方面ではハンガリーを征服し、ウィーンを包囲して(1529年)、ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。

 

オスマン帝国は、北アフリカおよびバルカン半島に勢力を広げた後、ウィーンを包囲し、プレヴェザの海戦(1538年)で、スペインなどを破り、地中海の領海権を手中にした。

 

16世紀後半のレパントの海戦(1571年)で、イスラム勢力がスペインに敗れた後、スペインが地中海の覇権を確立した(地中海貿易で中心的な役割を果たした)。

 

オスマン帝国は全盛期には地中海の制海権を握って、アジアとヨーロッパの中継貿易の利益を独占した。これが、インド洋を経由せずにアジアと交易しようというヨーロッパ人の意欲を促し、大航海時代の到来の原因の一つとなった。

 

大航海時代の新大陸の発見や、アジアとの直接交易を行うためのルート確立によって、16世紀に世界商業に中心が地中海から大西洋に移動した。

 

オスマン帝国は、第一次世界大戦による打撃を受け、領土はほぼ小アジア半島だけになった。このとき、トルコの再建をめざしたケマル=パシャは、進入したギリシャ軍と戦ってこれを退けて、スルタン制を廃止し、トルコ共和国を樹立した。

 

第一次世界大戦に敗れたトルコは、ケマル・パシャ(アタチュルク)が、1922年にスルタン制を、24年にはカリフ制を廃止するなどの政教一体の改革を行い、トルコ共和国を建国した。

 

 

<第一次世界大戦後>

 

 

イランでは、レザー・ハーンがカージャール朝を倒してパフレヴィー朝を開き(1925年)、自ら国王に即位し、国内の近代化に努めた。1935年には国名をペルシャからイランに改称した。

 

ホメイニは、パフレヴィー2世の独裁に対し、1979年にイラン革命を成功に導いた。

 

イラクはイギリスの委任統治を経て、1932年に独立した。

フセインは1979年にイラクの大統領になり、独裁政治を行った人物である。

 

イスラエルは、第二次世界大戦後、国際連合の分割案を受け入れ(パレスチナ側は拒絶し)、

 

イスラエルの領土は、1967年の第三次中東戦争で、ヨルダン川西岸とガザ地区を占領した。

 

エジプトは、ワフド党が、イギリスから独立運動を展開した。

 

エジプトは1922年から王政が行われ(翌年イギリスは独立を承認)、1952年に共和国となった。大統領になったナセルが56年にスエズ運河の国有化を宣言した結果、イギリス、フランス、イスラエルとの間で、スエズ戦争(第二次中東戦争)が起こった。