イギリス近現代史

<イギリスの地誌>

イギリスは、高緯度に位置しながらも、暖流の北大西洋海流の影響により、国土の多くは温帯に属し、伝統的に小麦、大麦、ライ麦など甲穀物の栽培が盛んである。一方、北部のスコットランドを中心に冷涼な気候も目立ち、このような地域では酪農によるミルクやチーズ、バターなどの乳製品の生産や牧畜も行なわれている。そのため、イギリスの食料自給率は70%~80%にとどまっている。

 

イギリスは、EU諸国の中では経営規模の大きい農家の比率が高く(ヨーロッパ最大)、全就業者に対する農業就業者の比率は約2.0%となっている。労働・土地生産性とも高く、食料自給率は112%である。

 

イギリスは世界に先駆けて近代工業を誕生させた。工業地帯は石炭などの鉱産資源のある内陸部に発展したが、資源不足から海外へ原料を求めるようになって、輸入に便利な臨海地域に工業生産の中心が移ってきた。こうした資源不足を補う目的で1975年から油田開発が始まった。

 

 

<英王室に関する投稿>

ハリー王子と「王室高位メンバー」

ロイヤルハイネスと公爵の称号

 

 

 

イギリスでは、13世紀に諸候が王にマグナーカルタ(大憲章)を承認させるなど他のヨーロッパ諸国に比べて王権が弱かった。さらに15世紀、百年戦争でフランスに敗れると、バラ戦争と呼ばれる王位を巡る大内乱が起こった。(諸侯・騎士勢力は疲弊し)イギリスはバラ戦争後に成立したチューダー朝のときに中央集権化を推進し、絶対主義へと移行した。

 

百年戦争(1339~1453):フランス王位継承権を口実に、毛織物業地帯であったフランドル地方の支配を巡って、イギリスとフランスが争った戦争である。この反仏反乱を機に対英戦争に至った。

 

ばら戦争(1455~85年):英仏百年戦争の後に起こったイギリス王位争奪の内乱であるが、乱の終結後の貴族勢力は共倒れとなり、自滅した。

 

封建貴族の没落により16世紀には絶対王政となったが、17世紀には王権と議会の対立が起き、2度の革命を通じて議会主権に基づく立憲君主政が確立した。

 

イギリスでは、ばら戦争の後に王権が強化され、エリザベス1世の時代に絶対主義の全盛期を迎えた。

 

16世紀、エリザベス1世の父であるヘンリー8世は、英国国教会を確立させた。

イギリス女王エリザベス1世(在1558~1603)は、オランダのスペインからの独立を援助し、1588年にスペインの無敵艦隊を破って海外進出のきっかけをつかんだ。さらに、東インド会社を設立させて、毛織物貿易を保護するなど重商主義政策によってイギリス絶対主義の全盛期を築き上げた。

 

16世紀前半にヘンリー8世は、イギリス国教会を成立させ教皇と絶縁した。その後、エリザベス1世は統一法によって、イギリス国教会を国教とし、絶対王政を確立した。

 

イギリスでは、エリザベス1世が、1600年に貿易独占権を東インド会社に与えて、王室に膨大な利益をもたらした一方、フランスのような強力な常備軍と官僚機構は組織されず、地方の地主階級のジェントリ(郷紳)の協力の下に、王権を強化しながら、絶対王政は最盛期を迎えた。

 

17世紀、西欧列強の植民地抗争においては、イギリスは、モルッカ諸島の香辛料貿易をめぐる争いでオランダに敗れた後(1623年アンボイナ事件)、インド経営に重点をおいた。オランダとの対立が激しくなる中で、イギリスは航海法が引き起こした英蘭戦争でオランダを破り、さらに、18世紀の半ばには、フランス、ベンガル王侯軍に勝利して、インド植民地化の足場を固めた。

 

英蘭戦争(1652~74):クロムウェルによる航海条例でオランダは貿易の利益を奪われ、その奪回をめざしてイギリスと行った戦争であった。

 

 

イギリスは、1600年に東インド会社を設立し発展を遂げ、マドラス、カルカッタ、ボンベイを拠点とした。そしてプラッシーの戦いに勝利し、インドを植民地化した。

 

18世紀、植民地支配をめぐる英仏の対立が激化した。オーストリア継承戦争や七年戦争と並行して、北アメリカやインドでもその支配をめぐって両国は戦ったが、この世紀後半、両地域でイギリスはフランスに対して優位に立った。

ファルツ継承戦争―ウィリアム王戦争

スペイン継承戦争(1701~13)―アン女王戦争(北米)

仏・スペインvs 英・蘭・オーストリア

オーストリア継承戦争(1740~48)―ジョージ王戦争(北米)

七年戦争(1756~63)―フレンチ・インディアン戦争(北米)プラッシーの戦い(インド)

 

 

イギリスは、ルイ14世の孫のフィリップのスペイン王位継承に反対して、オーストリア、オランダなどともに、フランスに宣戦(スペイン継承戦争1701~13年)し、(ユトレヒト条約で)スペインからジブラルタル、ミノルカ島を、フランスからはカナダ方面の広大な領地(ハドソン湾地方、ニューファンドランド、アカディア)を獲得した(ことで、ブルボン家のスペイン王位継承を承認した。

 

イギリスは、プラッシーの戦い(1757年)でフランスとベンガル太守の連合軍を破り、ついでベンガル地方を領有した。

 

英国では、議会を解散した上で増税を強行しようとしたチャールズ1世に対し、議会派のクロムウェルは、国王チャールズ1世を処刑した後、最高官の護国卿に就任して共和制を敷いた。

 

17世紀、ピューリタン革命が起こされ、国王チャールズ1世が処刑され、短期間のイギリス史上初の共和制をクロムウェルが実現した。その後、王政が復古してチャールズ2世、ジェームス2世が王位に就くが、やがて名誉革命でジェームス2世は追放され、権利の章典が発布された結果、立憲君主制が確立した。

 

ピューリタン革命以前に、議会はチャールズ1世に対して、権利の請願を可決して要求した(1628年)。その後、王党派と議会派の間で内戦が起こり(1640年)、クロムウェルが議会派を勝利に導いた。クロムウェルは国王を処刑し、共和政を樹立した。これをピューリタン革命という。

 

クロムウェルの死後、ジェームス2世は、カトリックと絶対王政の復活を図ったため、議会はオランダ総督のウィリアム3世、メアリ夫妻を王として、名誉革命に至った。議会は、1689年、権利の章典を制定した(権利宣言を認めさせた)。

 

清教徒革命によって一時共和政が実現したが、1660年に王政が復活し、1688年オランダから迎えられた新国王のウィリアム3世とメアリ2世は、議会が提出した権利章典を承認したうえで王位に就いている(その結果、議会が王権に対する優越を確立することになった)。

 

イギリスは、毛織物業によって大量の資本を蓄え、囲い込み運動によって土地を失った農民が都市に流れ込んで賃金労働者となっており、また、それまで世界商業の支配権を有していたスペインを破って世界市場を握っていた。資本・労働力・市場などの条件がほかの諸国に比べて整っていたことが、世界に先駆けて産業革命が起こる基盤となった。

 

新農法が普及して生産技術が向上し、18世紀半ば以降人口が急増した。大地主は供用地や小作地を囲い込んで市場向けの大規模な穀物生産に乗り出し、囲い込みによって土地を失った人々が都市に流れ込んで工場労働者となった。(第二次囲い込み)

 

 

産業革命に先立つ「第二次囲い込み」は、共同体が再生産の場として共有してきた土地(農民の共同所有地)を私有地として囲い込んだものであったが、この頃になると農民は近代農法により市場向け生産を始めた。

 

 

イギリスの産業革命は、木綿工業の部門から始まった。東インド会社がインド産の綿織物を輸入したことから、綿織物の需要が急増し、インドの綿花を原料としてイギリス国内で綿織物を生産する機運が高まった。クロンプトン、カートライト等が相次いで紡績機や織布機を発明し、綿織物の大量生産が可能となった。

 

産業革命はワットの蒸気機関の発明や、国内で産出される石炭や鉄の天然資源に支えられて、繊維・紡績などの軽工業で始まり(第一次産業革命)、その後、金属・機械工業へ波及した(第二次産業革命)。

まず、紡績機や力織機で始まり、その後、製鉄業、炭鉱業、機械工業へ波及した。

 

イギリスでは、機械の動力は、最初は風力を用いていたが、ニューコメンが蒸気機関を発明したことからポンプに応用され、ワットがこれを改良して動力として実用化されるようになった。蒸気機関の実用化は、大量生産を可能にしただけでなく、スティーブンソンの発明による蒸気船、蒸気機関車など新しい交通手段を発達させ、流通速度を早め、資本主義的な市場の形成・拡大に大きく貢献した。

 

イギリスでは、産業革命によって、機械制大工業が発達すると、従来の小規模な手工業や家内工業は急速に没落し、多数の労働者を雇用する工業制度が広まった。工業制度の発達とともに都市に人口が集中し、大工業を経営する資本家が現れ勢力をつけた。

 

産業革命のシンボルともいえる蒸気機関が鉄道に利用されて19世紀前半にその建設が急速に進み、陸上交通に大変化がもたらされた。

 

綿工業における生産技術が向上し、19世紀初頭には蒸気機関の改良に加え、綿織物生産のための機械?が発明された。道路の整備や鉄道建設などにより交通量が増えただけでなく、運河の利用によって石炭の運搬が容易になった。

 

産業革命によって産出された大量の製品の市場を求めて、イギリスはインドや中国に進出した。

18世紀中頃のイギリスは、他国に先駆けて産業革命を果たして資本主義体制を確立し、自由主義的政策を推進した。

 

 

1832年に選挙法が改正されて産業ブルジョワジーの政治的発言力が増大し、また19世紀半ばに穀物法が廃止されて自由貿易の原則が確立された。

 

機械の使用が進んで仕事を奪われた労働者は、機械打ち壊し運動を起こし、男子普通選挙を目標に掲げるチャーチスト運動が(1848年をピークに労働者の間で)盛り上がるなど、労働者の権利を求める運動が展開された。

機械打ち壊し運動(ラッダイト運動、ラダイト運動)はイギリスで起こった動き。

 

 

 

18 世紀のイギリスでは他国に先駆けて、綿織物業の部門で技術革新が進み,産業革命が進展した。さらに技術革新は動力部門にも及び,近代的な工場制機械工業が発達した。産業革命の進展した背景には,農村における農業革命の進展により,離農者が都市に流入して労働力となったことがある。産業革命の進展は一方で様々な社会問題を生み, 社会主義思想が発達することとなった。19 世紀に入るとイギリスでは産業資本家が台頭し,選挙権を獲得して議会に進出していった。

 

産業革命における技術革新は,ジョン=ケイの飛び杼の発明を契機として綿織物分野で進展した。また東インド会社は 1600 年の絶対王政期に,東方との貿易を独占させるために設立された。18 世紀に産業革命が進展して産業資本家が台頭すると、東インド会社の貿易独占権は廃止された。

 

技術革新はワットが蒸気機関を実用化したことで新たな段階に入り(フルトンは蒸気船を発明したアメリカ人)、蒸気機関を織機に利用した力織機の発明に至った。またアメリカの南部では綿繰り機が発明され た結果,綿織物業が発展した。ただし、これによりアメリカの南部はイギリスに綿花を輸出し,原料供給地としてイギリスの産業革命を支えた。アメリカで産業革命が進展するのは,19 世紀初頭に入ってからのことである。

 

産業革命の進展により,都市に人口が集中すると、農村には腐敗選挙区が形成された。このため産業資本家の意向により第1回選挙法の改正がなり,産業資本家が参政権を獲得した(第1回選挙法の改正は男子普通選挙を実現したものではない)。

ツンフト闘争は,中世の都市で展開されたものである。手工業者が市政を独占していた親方層に対して展開した。

 

織機部門での機械化の進展は、職を奪われると考えた未熟練労働者の機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)を招いた。また産業革命期の動力となった石炭の採掘には,年少者や婦人が酷使 されるなど,労働問題も生じた。そして、労働問題などの社会問題を生み,19 世紀には社会主義思想が登 場する。イギリスでは初期の空想的社会主義者のロバート=オーウェンが工場法の制定に尽力した。

 

産業資本家は,議会に進出すると穀物の輸入を制限する穀物法や,オランダ船をイギリスから締め出す航海法を廃止するなど自由貿易政策を採用した。

産業資本家が選挙権を獲得して議会に進出すると,19 世紀半ばには産業資本家の意向によ り自由貿易体制が樹立された。具体的には穀物に高い関税をかけていた穀物法の廃止と,イギリスに入港する船を制限していた航海法を廃止した。他国に先駆けて産業革命を進展させ たイギリスでは,自由貿易体制が樹立されたのに対して,遅れて産業革命を進展させた国々 は,イギリス製品に対抗する必要上,保護政策を採用している。

 

 

イギリスは、ナポレオンが共和暦ブリュメール18日のクーデター(1799年11月)で総裁政府を倒し、武力によって統領の位を獲得したことから、フランスの強大化を恐れ、オーストリアおよびロシアと第二回対仏大同盟を形成して対抗した。1802年にアミアンの和約で解消。

(1804年3月、ナポレオンは、私有財産制の不可侵や契約自由を定めた民法典を制定した。)

1804年に5月、ナポレオンが皇帝に即位するとその翌年に、イギリスの提唱でオーストリア、ロシア、スウェーデンが参加して、第三回対仏大同盟が結ばれた。

 

イギリスでは、ビクトリア女王の時代(1837~1901)に、保守党のグラッドストンと自由党のディズレイリのもとで議会政治が進展した。

 

セポイと呼ばれるインド人傭兵部隊が、北部インドから中部インドにかけて大反乱を起こしたが、イギリス軍に鎮圧された(1857~59年)

 

19世紀、イギリスは、アジアを中心とした地域で貿易独占権を与えられ、主にインドの植民地経営を行っていた英国東インド会社は、セポイの乱の失敗の責任をとって解散した。以後、インドはイギリス政府の直轄統治となった。

 

 

18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスが推し進めたいわゆる三角貿易はアヘン戦争を引き起こした。

イギリスの綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへ輸出する貿易

 

「世界の工場」といわれ他を圧していたイギリス経済も、19世紀末には停滞を始めたが、大英帝国維持の要となるインドを・・・・。1875年にはスエズ運河の株の半分を取得して、かつ1882年にはエジプトを事実上の保護国とした。(正式には1914年)

 

イギリスは、(ディズレーリ首相のとき)エジプト政府からスエズ運河の株式を買収したことを契機に同国の内政に干渉して保護下においた(1882年に占領)。また、南アフリカではオランダ系移民の子孫であるボーア(ブール)人の建国した国を征服し(南ア戦争1899~1902)、ケープタウンとカイロをつなぐ縦断政策を企てた。後にケニアも植民地とした。

 

20世紀初頭、イギリスは、ベルリン、ビザンチウム、バクダットを結ぶ3B政策を推し進めるドイツに、3C政策(ケープタウン、カイロ、カルカッタ)で対抗した。

第一次世界大戦に突入すると、イギリスはフランスとともに、「未回収のイタリア」と呼ばれていたトリエステ、イストリア、チロルをイタリアに約束して(1915年のロンドン密約)、ドイツ・ロシアとの三国同盟から脱退させ、三国同盟を崩壊させた。

 

 

19世紀半ばから20世紀の前半にかけて、イギリスは、アイルランド、カナダなどの独立を認めるとともに、独立した諸国とイギリス連邦を結成した。

 

カナダが自治領となったのは1867年、アイルランド自由国が自治領として認められたのは1922年で、イギリス連邦成立の基礎となるウェストミンスター憲章は1931年(英帝国会議宣言は1926年)に成立。

 

イギリスは、アイルランドでの自治要求の高揚に直面した。20世紀初めに、アイルランド独立を目指すシン=フェイン党が結成され、その後、アイルランド自治法が成立したが、イギリス人の多い北アイルランドはこれに反対してシン=フェイン党と対立し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。

 

 

イギリスの統治下にあったインドでは、1885年、対英協調を求める穏健な知識人たちによって、インド国民会議が創設された。しかし、民族意識の高まりとともに次第に反英的となり、政治的結社として組織化された(国民会議派)。

これに対して、イギリスは、ベンガル分割令を発表し、ヒンズー教徒とイスラム教徒の両教徒を反目させて反英運動を分断することによって事態の鎮静化を図った。

これに対して、国民会議派は、1906年、カルカッタで開かれた大会で、英貨排斥、自治獲得(スワラージ)、国産品愛用(スワデーシ)などの急進的な主張が決議された。

 

ローラット法(1919)により、民族運動が弾圧されたため、ガンジ―(ガンディー)を中心とする非暴力・不服従運動が広がった。

第一次世界大戦中、イギリスはインドの協力を得るために戦後の自治を約束したが、戦後はかえってローラッド法を施行して弾圧を図った。

 

フサインーマクマホン協定(1915年)に基づいてアラブ諸国の独立を承認する一方、パレスチナ在住のユダヤ人の独立国家構想を支持した(1917年のバルフォア宣言)が、これが後のパレスチナ問題を生む原因となった。

 

(世界恐慌時)イギリスは、先進国に対して、アフリカやインドの植民地と排他的に貿易を行うブロック経済圏を構成し、保護主義的な貿易を行った。

 

イギリスでは、第一次世界大戦後の著しい経済不振のために労働党が躍進してマクドナルド内閣が誕生し、また、イギリス帝国議会が、大戦で本国に協力した自治領に本国と同等の地位を認め、イギリス連邦が組織された。

 

イギリスでは、挙国一致内閣(1931~35年)の首相となったマクドナルドが、イギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議)を開き、連邦内の特恵関税制度を設けるなどのブロック経済政策を行った。