キリスト教史

 

キリスト教は、ローマ帝政時代の初めころ、パレスチナ地方に生まれたイエスの教えに始まった。キリスト教は帝国各地に広まった。

 

ペテロとパウロは、紀元前1世紀にイエスの教えをローマ帝国各地に伝道し、伝道の記録をイエスの教えとともに「新約聖書」にまとめた。

 

キリスト教の迫害は、民衆の強い反発を招き、ローマに内乱が起きたため、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認(313年)した。コンスタンティヌス帝は、ビザンティウムに首都を建設し、コンスタンティノープルと名づけた。

 

コンスタンティヌス帝(在位306- 337年)は、ミラノ勅令でキリスト教を公認し、ニケーア公会議を開いて、三位一体説をとるアタナシウス派を正統とし、キリスト教の教義の統一をはかった。

 

テオドシウス帝は、392年にキリスト教を国教とした。

 

アウグスティヌスは、ローマ帝国末期における教父の一人で、初期キリスト教学の確立者の一人。著書に「神の国」。

 

末期のローマ帝国では、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が有力となっていた。

 

東西ローマ帝国の分裂後、東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝レオ(レオン)3世が聖像禁止令を発したことを契機として、両教会は対立し、1054年には、ローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会と、ビザンツ皇帝が支配するギリシャ正教会とに二分された。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、皇帝レオ3世が聖像禁止令(726年)を出したため、ローマのカトリック教会と対立し、1054年にはカトリック教会との関係を絶ち、ギリシャ正教会が成立した。

 

6~7世紀の時点で、既にローマ教会は、ゲルマン人との提携を図るために聖像崇拝を積極的に推し進めており、その結果フランク王国との提携が8世紀に急速に進んだ。

 

ヨーロッパでは、ローマ=カトリック教会の聖職売買などが生じていたため、クリュニー修道院を中心に改革の運動が起き、教皇グレゴリウス7世と、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世との間で叙任権闘争が始まった。教皇が皇帝を破門したため皇帝はイタリアのカノッサで教皇に謝罪した(1077年、カノッサの屈辱)。

 

ローマ教会は、宗教裁判所を設けて、異端審問を強化する一方、修道院を中心として改革運動を進めた。

 

13世紀の初めに絶頂を極めていた教皇権は、十字軍の失敗や封建制度の動揺を背景に教皇のバビロン捕囚や教会大分裂などが起こり、衰退を見せ始めた。

 

教皇のバビロン捕囚は1309年にローマ教皇クレメンス5世がフランス王によってフランスのアヴィニョンに強制的に移住させられたことに端を発し、1377年までアヴィニョンに教皇庁が置かれた事件である。その後、1378年から1417年までローマとアヴィニョンに2人の教皇が存在した事件が教会大分裂である。

 

このような中で教会の世俗化や腐敗が進み、教会改革を主張したフスが異端として処刑されたことから、フス派が反乱を起こした(1419~36年)。ウィクリフの影響を受け、教会改革を唱えたチェコのフスは、コンスタンツ公会議で1415年焚刑となった。

 

中世では神学が最高の学問であり、これはイスラムの哲学や科学を取り入れてスコラ哲学に体系化され、修道院に設けられた大学で医学や法律などともに教えられた。西欧の公用語は中世においてはラテン語だった。

 

トマス・アクィナス(1225頃~74)は中世の人物で、アリストテレス哲学の導入により、「神学大全」を著し、スコラ哲学を大成し、神と教会の権威の確立を図った。

 

 

(15、16世紀)

ローマは教皇領をして繁栄していたが、歴代教皇は、ルネサンス芸術の中心地をめざし、多くの芸術家を招いた。ミケランジェロは、ラファエロらとともに、サン=ピエトロ大聖堂の建築に携わった

 

ルネサンスの人文主義が高まる中、ローマ教皇レオ10世は、大聖堂の建築費を得るために免罪符を販売させると、ルターがこれを批判した。ルターの主張は、教皇に反感を抱く層に支持され、教皇権から独立したいくつかの教派を生み出した。これらは一般に新教と呼ばれる。

 

マルティン・ルターは、16世紀に魂の救済は善行によるのではなく、福音の信仰によるとして、95か条の論題を発表し、教皇の権威を批判した。カルヴァンは、人間の救済は神の絶対的意思に基づいて予定されているとする予定説を唱えた。

 

従来のローマ=カトリック教会の権威を否定する宗教改革がルターやカルヴァンによって進められ、彼らの教えがヨーロッパの北部を中心に広まった。ルターの説は北ドイツや北欧諸国に広まり、カルヴァンの説はネーデルランドやイギリス、南フランスなど商工業の盛んな地域に普及した。

 

イギリスではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン、フランスではユグノー、ネーデルランドではゴイセンと呼ばれた。

 

15世紀半ばになると旧教と新教の対立が深まり、しばしば宗教戦争が引き起こされた。旧教国フランスでは新旧両教派の対立に貴族の権力闘争がからみ、ユグノー戦争(1562~98年)が起こった。一方、旧教勢力はパリにイエズス会を結成し(1534年)、アメリカ大陸やアジアで積極的な布教活動を行った。

 

イエズス会(別名ジェスイット)は、厳格な規律と組織のもとに積極的な宣教、教育活動を繰り広げた。

 

トリエント公会議は、1545年から63年にかけて開かれたカトリックとプロテスタントの調停を目的とした宗教会議であったが、プロテスタントの欠席で、ローマ教皇の正統性と至上権を確認し、宗教裁判を強化した。

 

 

聖像崇拝に反対し、ローマ教会の支配から離れた正教会は、東ローマ帝国皇帝を兼ねる首長?大司教?の正統性と至上権が確立した。

 

ビザンツ帝国では、皇帝レオ3世が発した聖像禁止令をめぐる対立を契機に東西教会が分裂し、ビザンツ皇帝を首長とするギリシャ正教が確立した。帝国では、ギリシャ語が公用語とされ、イスラム文化とギリシャ正教を融合させたビザンツ文化が生み出された。ギリシャ正教は、ロシア、セルビア、ブルガリアなどの地域において受容された。

 

ロシア正教会は、ギリシャ正教会の一派で、10世紀末にロシアの国教となり、ビザンツ帝国滅亡後、モスクワ大公国がギリシャ正教会の後継者とされ、ピョートル1世時代に皇帝に従属する教会とされた。

 

 

 

 

< 参考>

キリスト教と仏教

 

キリスト教の愛(アガペー)が基本的に人間中心主義であるのに、仏教の慈悲は人間の範囲を超え、すべての生きとし生けるものに及ぶとされる。

 

キリスト教の愛は、神の普遍愛の反映として、隣人愛から人類愛へとひろがる。

キリスト教の愛は、広く普遍的に、すべての隣人へと向けられる。

キリスト教の愛は、神の無償の愛ということを強調。

キリスト教の愛は、敵をも愛するという無条件にして絶対の愛である。

 

仏教の慈悲(愛)は、人間は平等であるとして、人類愛につながる。

仏教の慈悲は、対象の価値にかかわりなく注がれるものである。

仏教の慈悲は、もろもろの「衆生」に対して、一切の区別なく向けられる。