アメリカ近現代史

 

イギリスからの植民者たちは、キリスト教の宗派も、植民地成立の事情もさまざまであった。

先住民を排除して領土を拡大していったが、17世紀前半(1619年)は、バージニア植民地の議会を最初として植民地議会など自治制度を作りだした。

 

1607年のバージニア植民地から1732年のジョージア植民地まで、東部海岸に建設された13の植民地に入植したイギリスからの植民地はさまざまな宗派から成り立っていた。ニューイングランド植民地(北部植民地)はピューリタン、南部植民地はカトリックの勢力が強かった。

中部植民地のペンシルベニアはクウェーカー教徒のウイリアム=ペンにより建設された。

植民地人とその子孫には本国の国民と同じ権利が与えられるとされ、1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれた。

 

ルイジアナ植民地は、1682年にフランス人 ラ=サールによって探検され、ルイ14世に献上されたフランス植民地である。

 

イギリスは印紙条例による課税を強化し、植民地側の「代表なくして課税なし」とする反対運動に対して、条例を撤回したが、課税の試みは続けられた。

 

英国によって重税を課せられるなどの圧迫を受けていたアメリカ植民地では、トマス=ペインが自著「コモン=センス」(1776年)の中で「万機公論に決すべし」と唱えて独立の機運を高めた。(植民地はイギリス本国から独立して共和国になるべきだと主張した。)

 

18世紀前半のイギリスの植民地であったアメリカは、植民地議会や大学を設立するなど自治的な政治体制を発展させる一方、本国の植民地政策による重税に苦しんでいた。1765年の印紙法、1773年の茶法に苦しみ、1775年にボストン北西のレキシントンでイギリス本国と武力衝突した。、

人々はロックの啓蒙思想の影響を受けた独立宣言を発表した。

 

 

植民地で反乱が起きると英国は鎮圧を試みたが失敗し、アメリカ合衆国が建国された。フランスは植民地側に参戦した。

 

東海岸にあった13植民地による憲法制定会議で合衆国憲法が制定されたことにより、アメリカ合衆国が成立した。同国はその成立を認めないイギリスを戦争で打ち破った後、ジェファソンやフランクリンらが起草した独立宣言を発表して自国の正統性を主張した。

 

 

独立戦争の勃発(1775)⇒ 独立宣言(1776)⇒ 合衆国憲法の制定(1787)の順が正しい。

 

 

アメリカの植民地代表は、1774年、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定した。その後、ボストン近くのレキシントンとコンコードで、いわゆるアメリカ独立戦争は勃発した。

 

1776年の大陸会議では、トマス=ジェファソンらが起草した独立宣言を発表し、アメリカ合衆国と名乗ることになった。この宣言は、基本的人権と暴政に対する革命権が述べられており、ロックの啓蒙思想の影響が見られる。国民の平等権、自由権、主権在民などの基本的人権を示すことにより独立の正当性を表明した。

 

アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦した。ロシアは武装中立同盟を唱えてイギリスの海上封鎖に対抗し、イギリスを孤立させた。また多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦した。

 

イギリス軍は1781年、ヨークタウンで大敗を喫し、アメリカ独立戦争は実質的に終結した。その後、パリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認することになった。ミシシッピ以東のルイジアナを割譲した。

 

1787年、フィラデルフィアで開かれた憲法制定会議において、合衆国憲法が制定され、その後、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたワシントンが就任した。

 

独立後のアメリカ合衆国では、強力な連邦政府の樹立を望む声が高まり、アメリカ合衆国憲法が制定された後、ワシントンが初代大統領に就任した。

 

1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが衝突した事件が独立戦争の発端である。植民地側は、同年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議を開き、ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を進め、翌1776年7月4日、独立宣言を発して13州の独立を宣言した。戦争は、1781年のヨークタウンの戦いで植民地側の勝利が確定し、1783年のパリ条約で正式にイギリスはアメリカの独立を認めた。

 

レキシントンでの武力衝突は発端となり、アメリカ独立革命(戦争)が起こった。革命中、トマス=ジェファソンが独立宣言を起草し、1776年に発表した。

 

次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国とした。しかし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体にすぎず、中央政府の権限は弱かった。そこで戦争終了後の1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めるアメリカ合衆国憲法を制定したのである。なお、憲法は1788年に9州が批准して発効し、翌1789年、ワシントンを初代大統領とする連邦政府が発足した。

 

 

(略)———————————————————————————————————–

こうして、1774年に始まったアメリカの独立革命は、1783年のパリ条約でイギリスが独立を承認し、植民地アメリカの独立が実現しました。1787年には合衆国憲法が制定、その2年後に、初代大統領にJ・ワシントンが就任しました。

では、次に新生アメリカが、20世紀の大国として、どのように発展していったかをみてみましょう。

 

 

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスに対してだけでなく、アメリカにも報復として海上封鎖を実施しました。

 

。アメリカは、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止したが、イギリスは海上封鎖を継続、アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。

 

結果としてアメリカの貿易も阻害されることになり、結果としてアメリカの貿易も阻害されることになり、ついに1812年6月にアメリカイギリス宣戦布告する。

 

そこで1812年、アメリカは、イギリスへの宣戦布告を実施し、米英戦争となった。しかし、ナポレオンの没落で英軍が増強されてしまい、戦況はアメリカに不利となり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となった。米英の領土は戦前に戻された。

 

 

18121814  米英戦争(3代トーマス・ジェファソン)

   アメリカの経済的自立と資本主義の発展へ

 

1803年、フランスのナポレオンは、イギリスとの戦争資金の捻出のために、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナをアメリカに売却しました。アメリカはルイジアナ買収により、広大な西部の土地を獲得し、1840年代以降に本格化する「西部開拓」の足がかりとしていくことになります。

ナポレオンはルイジアナ売却後、イギリスと戦争を開始、アメリカはこの戦争で中立の態度を取りました(イギリスに味方しなかった)。

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスに対して、海上封鎖を実施しました。イギリスの海上封鎖は結果として、当時、イギリスを中心にヨーロッパへの農産物の輸出によって外貨を獲得していたアメリカの貿易も大きく阻害されることになり、1812年6月に、アメリカイギリス宣戦布告するに至りました。米英戦争の始まりです。戦況は、ナポレオンの没落で英軍が増強したことから、アメリカには不利に傾き、1815年のガン条約により停戦となりました。

 

19世紀前半、米英戦争終了を契機に、イギリスから経済的独立を果たし、モンロー宣言によって、アメリカ大陸諸国とヨーロッパ諸国との相互不可侵の外交政策を確認した。外交的には孤立主義をとった。

 

 

英米戦争は、後のアメリカにどういう影響を与えたのでしょうか?

米英戦争中に、イギリスや欧州大陸との関係が途絶えたことで、アメリカ人としてのナショナリズム(国民主義)が高まりました。産業政策的には、保護関税を図って自国内の工業を発展させるなど、アメリカ国内で自前の産業が発展する端緒となったのです。こうして、アメリカはかつての植民地時代から続いたイギリスからの経済的な独立を果たしていきました。この米英戦争を、「第二次独立戦争」と呼ぶこともあります。

また、米英戦争以降、外交的にはモンロー宣言(1823年)、政治的には民主主義が発展、経済的には産業革命が進展していくことになります。

 

1823年、モンロー主義宣言・・・「孤立主義」米外交の基本原理

米・欧州両大陸間の相互不干渉、独立の尊重、干渉を受けた場合の実力による反抗。

 

合衆国は、ラテン=アメリカ諸国の独立に際し、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉の排除を主張するモンロー宣言を行った。

 

アメリカ合衆国は、モンロー宣言(1823年)を公表して、

モンロー宣言は、1823年、ラテンアメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ諸国の介入を排除するために、第5代大統領モンロー(在1817~25)が年頭教書(モンロー教書)で宣言したものである。

その内容は、1)ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸を植民の対象にすることに反対する(非植民地主義)、2)ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸に対する干渉はアメリカへの非友好的態度と見なす、アメリカもヨーロッパも互いの国内問題には干渉しない(相互不干渉主義)というもの。これは、ヨーロッパの情勢には干渉しないという建国以来のアメリカの孤立主義政策を表明したものであり、同時にラテンアメリカ諸国の独立を支援したものでもある。

 

 

 

1830年代、ジャクソニアン・デモクラシー(7代ジャクソン大統領)

~民主主義と産業革命への道程~

 

1830年代のアメリカは、ジャクソン大統領(1829年3月~1837年3月)の時代で、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれるアメリカ流民主主義の花が開いていきました。

アンドリュー・ジャクソンは1824年、米英戦争での活躍で有力な大統領候補として浮上し、一般投票でジョン・クインシー・アダムズを上回ったものの、過半数を獲得できず、下院の裁定の結果、落選してしまった。しかし、1828年の選挙で雪辱を果たし、米大統領として2期務める長期政権を実現しました。

ジャクソン大統領は選挙権を拡大させた一方、「官職は国民の財産」であり、「一人の人間が長期間、同じ地位にいれば権力は腐敗する、公職も同様である」、「永続的な官僚制は民主主義に反する」として、家柄にとらわれることなく、誰もが政治に参加することができる道を拓きました。

しかし、同時に選挙権の拡大は、大量に選挙人が出現することを意味し、選挙においても、候補者は大規模な選挙活動を行うこととなっていきました。結果として、当選した際には、選挙活動の協力者に役職を提供するという慣習で、今も残る猟官制度(スポイルズ・システム、情実任用制)が登場しました。

この政策に関しては、賛否両論があり、賛成する親ジャクソン派は民主党を結成、反ジャクソン派はホイッグ党(後の共和党)を組織し、後のアメリカの二大政党制につながっていくことになります。

一方、ジャクソン政権の時代、アメリカも主要国ではイギリス、ベルギー、フランスなどに次いで産業革命が本格化しました。アメリカの産業革命については、フルトンの蒸気船がハドソン河をさかのぼった1807年がきっけとなり、米英戦争以降進展していきました。

 

 

1840年代、西部開拓 ~マニフェスト・ディスティニー

 

西部開拓が盛んに行われ、その最前線の地帯(フロンティア)は時代とともに西へと移動した。さらに戦争や買収により周辺地域を併合し、19世紀半ばには大西洋岸から太平洋岸に至る広大な土地を獲得した。

 

一方、経済の発展とともに、領土としての国土も西へ拡大していきました。1845年にテキサスを併合した後、1848年には、メキシコとの戦争(米墨戦争)に勝利し、カリフォルニアとニューメキシコは1500万ドルでアメリカへ譲渡されました。こうして、アメリカの領域は太平洋岸に到達しました。

マニフェスト・ディスティニー(明白な運命、膨張の運命)とは、この頃に生まれた言葉で、「アメリカが西部へ膨張していくのは神から白人に与えられた使命だ」とする西部開拓を正当化した思想です。17C前半から始まったこの西漸(せいぜん)運動は、米英戦争後から南北戦争までの間に最盛期となりました。

さらに、1848年にカリフォルニアに金鉱が発見され、「ゴールドラッシュ」の時代を迎え、1850年初頭にはカリフォルニアの人口は20万人まで急増し、西部の開拓が急進展することになっていきました。

こうして、1890年頃までにフロンティア消滅しました。これはアメリカの全ての土地に入植者が入ったことを意味します。そして、この時には、工業生産高で、当時の覇権国イギリスを抜いて世界一になっていたのです。

 

さて、領土的には現在のアメリカがここで生まれたと言えますが、政治的、経済的な統一は、次の南北戦争を待たなければなりません。

 

 

ただし、アメリカの産業革命のピークは、ジャクソン後の1840年代から50年代です。航路や鉄道網が完成、鉄鋼産業も急速に拡大していくなかで、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んでいきました。これが後の南北戦争における「商工業の北部」と「大農園の南部」という対立にもつながっていくのです。

また、都市に労働者が集まりだし、彼らが大量に暮らす大都市圏が生まれました。企業に出資する資本家や企業経営を行う経営者も台頭しだし、アメリカに資本主義経済が根づいていきました。

 

大陸の東側では、北部と南部がそれぞれ独自の発展を遂げており、北部は商工業の発展を背景に、地方分権ではなく中央集権を、自由貿易ではなく保護貿易を主張し、奴隷制に反対した。

北部は、国内産業保護のため保護貿易を支持し、

南部は、伝統的にイギリスの綿工業と結びついた綿花栽培と輸出を経済基盤とするため自由貿易を支持し、地方分権的指向が強かった。

 

南北戦争は4年ほどで終結し、戦後は北部が南部を国内の商品市場とする形で中央集権化が進み、奴隷が解放されて近代的な国家として歩みだした。

 

 

アメリカ合衆国では、奴隷制の拡大に反対し、イギリスに対抗するため保護関税政策を推進したリンカーンが大統領に就任した(1860)ことで、南北戦争(1861~65)が勃発した。リンカーンはこの戦争中、奴隷解放宣言を発表(1863)し、激戦地のゲスティスバーグで「人民の、人民による、人民のための政治」を訴える演説を行った。

 

奴隷制廃止等をめぐる南北の利害対立が激化する中で、北部出身のリンカーンが大統領に当選すると、南部は連邦を脱退し、南北戦争が勃発した。

 

南北戦争の背景には、奴隷制をめぐる立場の違いとともに、北部と南部の経済上の対立があった。工業化の進んだ北部はイギリスとの対抗上、保護貿易を求める一方、南部では主に綿花が栽培され、綿工業の発達したイギリスに輸出する体制がとられていたので、自由貿易を求めた。

 

地下資源が次々に開発され、大陸横断鉄道が完成し、独占資本が形成され、19世紀末の工業生産はイギリスを抜いた。

アメリカではしばしば反トラスト法が制定されているように、トラストは発達し、巨大な独占企業が形成された。イギリスを抜いて世界最大の工業国となっていた。

 

19世紀後半には、全国的な高速自動車道路網が完成して国内市場が統一され、またアジアから移民が大量に流入した。これにより、20世紀初頭には、アメリカ合衆国において自動車や家庭電化製品などの大量生産・大量消費をもとにした生活様式が出現し、大衆消費社会が到来した。

 

19世紀末にはデパートに象徴されるような「大衆消費社会」への転換期であるが、問題文にある自動車や家庭電化製品の大量生産・大量消費を背景にした大衆消費社会が始まるのは20世紀初頭である。その象徴とも言うべき、大衆車「モデルT」の大量生産にフォードが成功するのは1908年である。最初の劇映画とされる「大列車強盗」の上映は1903年、ラジオ放送の開始は1907年、蓄音機が家庭にまで普及するのは20世紀の初頭である。

 

 

19世紀後半に完成したのは、大陸横断鉄道である。1869年、セントラル=パシフィック鉄道とユニオン=パシフィック鉄道がプロモントリーで連結され、大陸横断鉄道が開通した。以後、1883年に南太平洋鉄道と北太平洋鉄道が開通し、19世紀末には国内市場が統一された。なお、アメリカで高速道路の建設が始まるのは1907年のニューヨーク州が最初である。

 

また、19世紀後半に、アジア系の移民が奴隷に代わる鉄道建設などの労働力(クーリー)として導入されたのは正しい。ちなみに、セントラル=パシフィック鉄道の建設には中国人労働者が使われた。

 

マッキンリー大統領は、アメリカ・スペイン戦争(米西戦争1898年)でスペインに勝利し、キューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから獲得した。

 

米西戦争の結果スペイン領フィリピンを植民地化し、中国との通商の機会均等を求める門戸開放宣言を行うなど帝国主義外交を展開した。

 

 

アメリカ合衆国は、1929年のニューヨーク株式市場での株価の暴落から、深刻な不況に見舞われた。この間、企業の倒産が一挙に進んで工業生産は急落し、農業生産も打撃を受けた。また、1930年になると恐慌は金融機関にまで拡大し、有力な銀行などの閉鎖や倒産が起こり、預金者が銀行へ殺到する取り付け騒ぎが頻発した。

 

数年間にわたる過剰生産と異常な投機熱の中でニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌につながるかつてない大恐慌が起こった。

 

アメリカ合衆国では、大統領のフランクリン=ルーズベルトが、ニューディール政策を実施し、公共事業を実施することで、国家的な経済統制を課した。

 

FDルーズベルト大統領は1933年以来、農業調整法、全国産業復興法を中心とするニューディール政策を行い、世界恐慌の克服を図った。

農業調整法:生産制限と農産物価格の引き上げを行った法律。

全国産業復興法:生産制限と労働者の賃金引き上げを行った法律。

 

政府が積極的に経済に介入し、生産の調整による価格の安定化、大規模な公共投資、農産物価格の引き上げなどを行うニューディール政策を実施した。

 

アメリカ合衆国では、株式相場の大暴落により生じた恐慌の打開を図るため、フランクリン=ローズヴェルトが全国産業復興法や農業調整法などを中心としたニューディール政策を実施した。対外的には、中南米諸国との善隣外交を展開するとともに、ソ連と国交を開き、貿易を拡大させた。