2022年12月18日

「反日の権化」江沢民の死と対中外交の失敗

中国の江沢民・元国家主席(以下敬称略)が、2022年11月30日、96歳で死去し、翌12月6日に、北京の人民大会堂で、追悼大会が行われました。江沢民時代の日中関係について顧みたいと思います。

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日本での江沢民に対する見方は、「天安門事件で失った国内の求心力を回復するため『反日』を利用することで、愛国主義教育を推進し、中国国民の反日感情を高めつつ、歴史問題をカードに対日強硬外交を展開した」というのが一般的です。その影響は、未来志向が期待された日中関係を後退させ、現在の両国関係にも禍根を残したと評されています。

 

江沢民は、1989年6月の天安門事件で、時の最高指導者・鄧小平の意向を受け、中国共産党総書記( 89年6月~02年11月)に就任後、国家主席まで上り詰めました(任期:93年3~ 03年3月)。

 

鄧小平の掲げた改革開放政策に従い「社会主義市場経済」路線を打ち出し、中国の経済成長を加速させた一方、民主化運動を武力弾圧した天安門事件を受けて、西側諸国の経済制裁によって、中国は外交的孤立を招きました。さらに、天安門事件の半年後にはベルリンの壁が崩壊、91年にはソ連が崩壊し、共産党支配の国内の引き締めも行わざるを得なくなるなど、江沢民は難しい舵取りを強いられました。

 

こうした中国の対外的窮地に真っ先に手を差し伸べたのが日本で、中国が国際社会に復帰する上で、重要なきっかけを提供しました。具体的には、主要先進国では、いち早く経済制裁を解除し、91年8月に西側の首脳としては天安門事件後初めて海部俊樹首相が訪中、さらに、92年10月には天皇、皇后両陛下までも中国を訪問されたのです。当時の中国の指導者らは、「天皇訪中は制裁を打ち破る最良の突破口だった」と述懐しています。

 

加えて、戦後50年を迎えた95年8月15日、当時の村山富市首相は、日本の「植民地支配」と「侵略」に「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明しました。日本としては、このいわゆる「村山談話」と、先の天皇訪中で、歴史認識問題に区切りを付け、新しい日中関係を構築しようと考えたとされています。

 

しかし、江沢民は、村山談話の発表から間もない9月3日の演説で、「日本は真剣に歴史の教訓をくみ取り、侵略の罪を深く悔い改めてこそ、アジアの人民と世界の理解と信頼が得られる」と述べました。歴史問題を収めるつもりはないことが表明されただけでなく、「愛国主義教育運動(愛国教育)」が積極的に推し進められました。「愛国教育」とは反日教育を意味しました。

 

江沢民の反日愛国教育

 

江沢民は、旧日本軍の残虐行為を強調した抗日戦争記念館などの施設を新増設させ、とりわけ、97年には全国規模で組織的に実施されるようになりました。中国人民抗日戦争記念館(盧溝橋)、侵華日軍731細菌部隊罪証陳列館(ハルビン市)、侵華日軍南京大虐殺偶難同胞記念館(南京市)、東北淪陥史陳列館(吉林省長春)などが有名で、こうした史跡は「愛国主義教育模範基地」に指定され、全国各地の学校で愛国教育が強化されました。

 

作家でジャーナリストの青沼陽一郎氏は、JBpressの記事 “江沢民、中国に「反日教育」深く浸透させた男”(2022.12.5)の中で、東北淪陥史陳列館について詳しく紹介しています(以下にその内容を要約)。

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東北淪陥史陳列館には、日本の中国侵略の歴史を伝える「日本侵略中国東北史実展覧」が江沢民によって常設された。この展示場の入口に「「日本が中国人のもたらした苦難と屈辱、忘れてはならない」と掲げられ、さらに、説明文として、「日本が武力で中国東北を侵略・占領して偽満州国をつくり、植民地支配を行って東北人民を奴隷化し、資源を収奪すること14年の長きにわたった」 などと書かれているという。

 

この展示場内では、「文化」「教育」「宗教」などとテーマ別に、日本がこの東北の地をいかにして侵略し、「偽満州国」を建国して、どれだけ酷いことをしてきたかを示すコーナーが続いている。

 

例えば、「文化」についての解説では、「植民地支配を維持・強化するために、日本侵略者はあらゆる方法で中国固有の思想を破壊し・…」と続き、「実行 白色恐怖」というコーナーでは次のように説明されているという。「東北の人民には人身の自由と言論の自由は全くなく、少しのことにも嫌疑をかけられ、逮捕監禁されることになり、いわゆる“思想矯正”を受けたり、さらには殺害さえされた。銃剣が支配する東北の大地は極度の白色テロ(為政者が反政府運動や革命運動に対して行う激しい弾圧のこと)にさらされた」。

 

なお、この東北淪陥史陳列館は、満州国最後の皇帝だった溥儀の皇宮に隣接しており、その皇宮の真ん前にも、「9・18を忘れるなかれ 江沢民」と書かれた石碑が置かれている。「9・18」とは満州事変のきっかけとなったとされる柳条湖事件のあった日付を指す。

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こうした江沢民が進めた「反日教育」の一環で、「反日施設」が中国全土に建設されて、学校でも徹底して教育されたということは、当時の教育を受けた若者たちが何億人もいることを考えただけでも末恐ろしく感じます。

 

また、別のエピソードで、歴史認識にこだわり続けた江沢民は、「日本軍国主義復活」を言及しては、反日の姿勢を崩しませんでした。98年8月、中国の外交当局者を集めた会議で、「日本軍国主義者は非常に残忍だった。(戦時中の)中国の死傷者は3500万人に達した」「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示していたと言われています(江氏の演説などをまとめた「江沢民文選」で明らかになっている)。

 

江沢民の「非礼」

 

江沢民自身も反日の権化となりました。98年11月、両国の平和友好条約20年を記念し、国家主席として初めて公式に訪日した際、執拗に日本批判を繰り返しました。とりわけ、宮中晩餐会における天皇陛下と江沢民のスピーチの「異様な」違いが特筆されます。

 

天皇陛下は、歓迎の挨拶の中で「貴国とわが国が今後とも互いに手を携えて直面する課題の解決に力を尽くし、地球環境の改善と人類の福祉のため、世界の平和のため貢献できる存在であり続けていくことを希望しております」と未来志向のお言葉を述べられました。

 

これに対して、江沢民は、天皇、皇后両陛下を前にして、あろうことか「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国国民などに大きな災難をもたらした」、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければならない」と強い口調で歴史認識問題に言及しながら日本批判を展開しました。

 

政治家同士の首脳会談ならまだしも、政治とは関係がない国民の象徴としての天皇陛下に招かれた宮中晩餐会の席で、日本は過去にこんな過ちをしたと「非礼」なスピーチを行ったのです。デイリー新潮(2022年12月07日)は、「常識として、どこかの家に食事に招かれた時、お前の親父にこんな迷惑を俺は受けたんだ、と言ってのける人がどれだけいるでしょうか」と、この江沢民の発言がいかに非常識だったかを強調していました。

 

さらに、この時の宮中晩餐会では、江沢民が黒い人民服を着用して出席したことも物議を醸しました。実際のこの時の服装は、作業服として使われることの多い「人民服」ではなく、酷似していますが、中山服(ちゅうざんふく)で、中国では正礼装(正式な服装)であり、儀礼上問題があるわけではありませんでした。しかし、中山服を着た江沢民には深慮があったようです。

 

有名な逸話として、鄧小平の指導の下、軍を使って民主化運動を徹底的に弾圧する側に回った李鵬首相は、中山服嫌いで知られていたにもかかわらず、威厳部隊を激励するために、黒い中山服を着て登場したそうです。中国の指導者が中山服を着用するのは、非常時の厳しい姿勢を示すときなのだと言われています。江沢民も、平時において中山服を着るのは、中央軍事委員会主席として人民解放軍幹部に訓示する場面だったそうです。

 

要するに、宮中晩餐会で、歴史認識問題に厳しい姿勢を示すことをあらかじめ決めていた江沢民は、「強硬姿勢」のイメージが演出できる中山服を選んだと見られています。外務省は、「何もよりによって宮中晩餐会に着てこなくても」というのが本音だったようです。

 

なお、この訪日中、江沢民は、首脳会談や各界との会見をはじめ、宮中晩餐、早大講演、日本記者クラブでの記者会見など、ほとんどすべての場で「過去」に言及しました。

 

早稲田大学での講演でも、学生を前に「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み」と指摘、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らねばならない」と宮中晩餐会と同じ趣旨の発言をしただけでなく、「日本軍国主義は全面的な対中国侵略戦争を起こし、中国は軍民3500万人が死傷し、6000億ドル以上の経済的損失を被った。正しい歴史観で国民と若い世代を導くべきだ」などと語りました。

 

ここまでくると、江沢民の反日姿勢は、「日本への恨みを忘れない、忘れさせない」とする怨念を感じてしまいます。

 

「江沢民派」の末路と遺産

 

江沢民は03年に一線を退いた後、自身の権力基盤である、いはゆる「上海閥」を率いた影響力を維持しようとしました。江沢民の後任の胡錦濤が後継者に、同じ中国共産主義青年団(共青団)出身の李克強を据えようとすると、江沢民は、共青団の影響力が強くなることを嫌い反対し、習近平を擁立しました。

 

習近平からすれば、江沢民はある意味、「恩人」に近いわけですが、習近平は、自らの権力基盤を強化するために、汚職や利権政治を排除すると銘打って、徹底した「反腐敗運動」を展開しました。その最初の標的となったのが、江沢民が率いる「上海閥」の共産党幹部たちで、江沢民の権力は完全に削がれてしまいました。

 

では、現在の習近平体制が、江沢民の反日を継承していないかというと、その強度の差はあれ、指導者が変わっても中国の「反日教育」は変わりません。江沢民の残した反日愛国教育の影響だけは健在なのです。そもそも、中国共産党にとって、抗日戦線こそが、中国を統治する正当性の根拠となっているので、共産党が中国を支配している限り、「日本への恨みを忘れない、忘れさせない」という反日政策は継続されます。

 

対中外交の失敗

 

そう考えると、江沢民時代の対中外交戦略は失敗であったと言わざるをえません。89年の天安門事件後、中国が直面した国際的孤立に手を差し伸べ、未来志向の外交を構築しようとした日本でしたが、結果的に、92年の天皇陛下の訪中、95年の村山談話も、未来志向の日中関係が推進されるきっかけにはなりませんでした。逆に、中国に政治利用された形になり、中国は日中関係をテコに天安門事件後の国際的孤立から脱却することに成功しました。

 

日本の「善意」は通じなかったわけです。日本の「善意」を中国があうんの呼吸で理解し答えてくれるとでも思ったのでしょうか?日本の「お人好し外交」もそろそろ終わりにしなければ、日本の国益を大きく損なうことになるかもしれません。

 

 

(参照)

日中関係後退させた歴史観 愛国教育で反日デモ拡大―江沢民氏

(2022年12月01日、時事通信)

江沢民死去で思い出す1998年11月26日の宮中晩さん会 日本人が不快感を覚えた中国の非礼 2022年12月07日、デイリー新潮

江沢民・元国家主席が死去 中国の反日を強化、歴史戦に火ぶた

( December 2, , Japan Forward)

江沢民、中国に「反日教育」深く浸透させた男

「忘れるなかれ、九・一八」(2022.12.5、JBpress)

愛国教育の強化、日中関係に波風が立つことも 江沢民氏死去

(2022.11.30、毎日新聞)