2020年12月06日

仏教:原始仏教から部派仏教へ

皆さんは、釈迦が開いた仏教が、後に小乗仏教と大乗仏教とに分かれていったことはご存知だと思いますが、今回は、釈迦の死後、仏教が2つに分裂するまでの仏教についてまとめてみました。

 

以下の投稿を合わせて読んでいただくとさらに理解が深まると思います。

釈迦の一生と仏教の始まり

釈迦は何を教えたか

―――

 

<初期仏教教団の創設>

 

仏教は、前5世紀頃、ガウタマ=シッダールタ(仏陀、釈迦)が、ガンジス川中流のマガダの地で、自ら悟ったことを人々に説いていったことに始まります。

 

ブッタ(仏陀=仏):悟りを開いた人の呼称

釈迦=釈迦牟尼:仏陀となったシッダールタに対する敬称

(出家修行者のことを比丘、比丘尼という)

 

仏教は、クシャトリヤ(武人・貴族層)やヴァイシャ(手工業者・農民層)など幅広い層に受け入れられていきました。すると、その教えを信じた人々の中から出家し、釈迦の弟子となる者たちが多く現れるようになると、仏教教団(サンガ)が作られました。サンガが初期仏教教団の原型です。彼らは一ヶ所に定住することなく、釈迦から教えを受けつつ、普段は旅をして村々こを歩きながら、托鉢をしたり、樹下で瞑想をするなど修業に励んでいました。

 

こうした弟子たちの中には、修行によって、阿羅漢(アラカン)という域に到達する優秀な者も輩出されるようになりました。阿羅漢(羅漢ともいう)とは、「アルハット」という古代インド語を音写した言葉で、「…するに値する人」という直訳から転じて、「悟りを得て尊敬するに値する人」という意味に使われれました。俗にいう聖者であり、長老、高僧で、中でも、「十大弟子」「十六羅漢」などと呼ばれた弟子たちが有名です。

 

 

<十大弟子>

 

■舎利弗(しゃりほつ)(サーリプッタ)(シャーリプトラ)

 

舎利弗は、同じ十大弟子で子供の頃からの友人であった目連と共に、それまで修行していた自由思想家サンジャヤの信徒250人を引き連れて釈迦の弟子になり、教団教団の上首となりました。

 

「智慧」に秀で(「智慧第一」と賞された)、その智慧によって多くの人に仏教を伝え、コーサラ国の富豪、須逹多(シュダッタ)と共に、祇園精舎を建立したことでも知られています。「般若心経」や「阿弥陀経」など多くの経典で、観音菩薩や仏の説法の相手として登場します。舎利弗は病気でお釈迦様より先に亡くなっています。

 

 

■目連(もくれん)(モッガラーナ)

摩訶目犍連(まかもっけんれん)

(パーリマハーモッガラーナ)、(マハーマゥドガリヤーヤナ)

 

目連は、未来や過去を知りことができるといったあらゆる超人的な神通力を身につけていいたとされています(ゆえに「神通第一」と賞された)。この能力により、地獄で苦しむ母の姿を知り、救うために供養をしたという逸話も残されています(これが「お盆」の起源となったという説になる)。

 

目連は、釈迦の護衛をしていたとされ、死因も釈迦を殺害しようとした外道によって撲殺されたと伝えられています。この時、自分の命を狙われたことは、自らの過去世の「業」が原因であると知り、最後は自らの意志で神通力を封じ、死を持って「業」を果たした言われています。

 

 

■摩訶迦葉(まかかしょう)

大迦葉(だいかしょう)、迦葉(かしょう)

(マハーカッサパ、マハー・カーシャン)

 

摩訶迦葉は、十大弟子の中で一番の長老で、釈迦の弟子となったときには、すでに悟りに近い域に達しており、弟子入りして八日目には阿羅漢となっていたと言われています。大富豪の家に生まれた摩訶迦葉でしたが、清廉潔白で非常な厳格さをもって生き抜いたことで知られ、少欲知足を意味する「頭陀(ずだ)第一」と賞されました。

 

釈迦生存中は、山林にこもり、自らの修行に没頭していましたが、釈迦の亡き後は、教団の指導的役割を担い、釈迦の教法を編集する結集(経典編纂会議)の座長を務めました。今に仏教が残っているのは、この時の迦葉の尽力によるとされています。

 

 

須菩提(しゅぼだい)(スブーティ)

 

「諸法皆空(あらゆるものは空であり実体がない)」という真理を、誰よりもよく理解したことから「解空第一」と称されました。解空(げくう)とは文字通り、「空」を良く理解しているという意味です。また、他人と争わないことから「無諍(むそう)第一」、さらに、多くの人々から尊敬され供養を受けたことから「被供養第一」とも賞されました。須菩提は、お釈迦様に祇園精舎を寄進した須達多(すだった)長者の甥といわれています。

 

 

■富楼那(ふるな)

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)

(プンナ・マンターニープッタ、プールナ・マイトラーヤニープトラ)

 

富楼那は、釈迦が悟りを開いて初めての説法(初転法輪)後の第一の弟子で、十大弟子の中では一番早く弟子となった人です。大変な雄弁家で、他の弟子より説法が優れ(「説法第一」と賞された)、60種類の言語にも通じていたといわれます。インド西方の伝道を釈尊から許可されるなど、さわやか弁舌と解りやすい説教で人々を仏の道へと導き、仏教興隆の大きな柱となりました。なお、富楼那と呼ばれた人は複数いたといわれます。

 

 

■迦旃延(かせんねん)

摩訶迦旃延(まかかせんねん)(マハーカッチャーナ)、(マハーカートゥヤーヤナ)

 

迦旃延は、論義の人(「論議第一」)と賞され、釈迦の教えを良く理解し、詳細に解説する第一人者と言われています。西インドのアバンティ国出身の迦旃延は、釈迦に出会う前に仕えていたとも言われる国王を仏教に導いています。

 

 

■阿那律(あなりつ)(アヌルッダ、アニルッダ)

 

釈迦の従弟。釈迦の説法中に居眠りをして叱責をうけた阿那律(あなりつ)は、自らの行いを恥じ、眠らぬ誓いをたて、不眠・不臥の修行をした結果、視力を失ってしまいました。しかし、そのためにかえって、天眼(何でも見通す真理を見る眼)を得、「天眼第一」と仰がれるようになりました。

 

 

■優波離(うばり)(ウパーリ)

 

優波離は理髪師で、釈迦の髪を剃ったことがきっかけで弟子となりました。インドの階級制度において最下位の身分(カースト)に生まれながら、釈尊の教団の中で、高弟として活躍しました。とりわけ戒律に精通し、戒律の第一人者となりました(「戒律第一」と賞された)。釈迦の後、経典を編纂する結集において、戒律部門の編集の中心人物として活躍しています。

 

 

羅睺羅(らごら)(ラーフラ)

 

羅睺羅は、釈迦の実子で、釈迦の出家直前に生まれました。釈迦が悟りを得て帰郷した時、12歳になった羅喉羅は出家して、初の沙弥(少年僧)となりました。戒律の微細な規則まで厳密に守り「密行」を完成させ、「密行第一」と賞されました。密行とは緻密、厳密、手抜かりのないことをいいます。

 

 

阿難(あなん)

阿難陀(あなんだ)、(アーナンダ)

 

釈迦の従弟であった阿難は、阿那律(あなりつ)とともに出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人(従者)として仕えていました。釈迦の秘書的役割を勤めていたため、説法を最も多く聴聞することができ、「多聞第一」と称されていました。経典の編纂(結集)の時には、記憶力に優れた阿難の記憶に基づいて、お経が編纂されていったと評されています。

 

なお、十六羅漢と呼ばれる高僧たちもいました。その中には、須菩(しゅぼだい)(スブーティ)、富楼那(ふるな)(プンナ・マンターニープッタ)、優波離(うばり)(ウパーリ)を除く、七人の十大弟子を含む16人を指摘する経典もあれば、他の教典では、十大弟子とは異なる16人の名前があげられたりしています。

 

いずれにしても、こうした阿羅漢(長老)たちは、最高の悟りを得られて後、各々各地へ伝導の旅を続けていきました。釈迦の弟子が増えて、直接、釈迦に教えを受けられないようになると、それぞれの専門分野に優れた長老(高僧)について教わるようになっていきました。釈迦入滅後も、布教に尽力した十大弟子や十六羅漢らがいたからこそ、その後の仏教の興隆につながったと言われています。

 

 

<釈迦入滅>

 

釈迦が亡くなったのは、日本では一般に紀元前383年頃とされています(ただ、釈迦の生没年には諸説があり、前565年~前486年説、前465年~前386年説などが有力視されている)。ブッダの死後も、仏教はインド各地で布教され、マウリヤ朝(BC317~BC180年頃)の保護のもとで全インドに広がりました。仏教団にあって、釈迦の十大弟子で一番の長老であった摩訶迦葉(まかかしょう)(マハーカッサパ)が、釈迦に代わって教団を統率していました。

 

師の教えが散逸してしまうことを懸念した迦葉(かしょう)は、その教えを正しく継承していくために、阿羅漢の悟りを得た五百人の長老(高弟)をラジギールの七葉窟(しちようくつ)に集まるよう呼びかけ、釈迦の教え(お経と戒律)を整理して体系化することにしました。これは、いわば経典の編集会議(これを「結集」という)で、釈迦の生前と同様の僧団の維持が期されたといえます。ちなみに、この時集まった500人の弟子達は五百羅漢と呼ばれています。

 

この会議で、お経については、「多聞第一」のアーナンダ(阿難)長老が代表して唱え、また、戒律(律)については、持戒堅固なウパーリ(優波離長老が釈迦の言葉を述べ、それをみんなで確認し合い、編集されました。こうして、釈迦の教えが整理、体系化され、初めて経典(釈迦の教えを集大成した聖典)が成立したのです。

 

ただし、経典と言っても、文字にされたのは、最初の教典編集会議から、かなり後代であり、それまでは記憶され口から口への伝承でした。しかし、紀元前1世紀頃(BC35-32年)、スリランカで、口伝えされた釈迦の教えが、紙代わりのシュロの葉(ヤシの葉)を用いて、鉄筆ではじめて文字として書かれました。これが現代に伝わる経典の写本としては最古のものとされ、釈迦入滅から400年から500年近くも経っていました。

 

ですから、このパーリ―語による経典を、2500年前の釈迦の肉声が蘇ったと評価する向きもあれば、原始仏典といえども、必ずしも釈迦の生の声による教えを網羅しえていないという見方もあります。いずれにしても、釈迦の説かれすべての教えは経典として文字化され、お経だけで、今日、一切経(いっさいきょう)七千余巻が書き残されています。

 

現在、最古層の原始仏典として、「阿含経」という経典の中の小部(クッダカ・ニカーヤ)の経典である「スッタニパータ」、「ダンマパダ」、「テーラガータ」などがあげられており、これらの教典は、釈迦の生の言葉が韻文として伝えられているのではと考えられています。

 

なお、釈迦の教えである経典は、真理を説き示した教理である「(お)」と、教団を運営するために必要な規則「」とに分かれます。また、釈迦の死後、弟子たちは師の教えをさまざまに研究し、解釈した解釈書を「」と言います。この「経」と「律」と「論」を合わせて「三蔵」と呼びます。

 

 

仏教団の分裂>

 

さて、話しを元に戻すと、マハーカッサパ(摩訶迦葉)長老、アーナンダ(阿難)長老、ウパーリ(優波離長老など釈迦の高弟たちの尽力で、釈迦入滅後も、釈迦の教えと僧団の護持が図れました。しかし、その成果も長くは続かず、僧侶は、お金を布施として受け取ってもよい(当時はお金にさわることも禁止されていた)、正午までと決められた食事の時間を少しのばす、といった戒律上の変革を求める人たちが現れました。やがて、仏教団の中で、そうした改革派と呼ばれる人たちに対して、今まで通り伝統を継承しようとする保守派とに分かれて対立するようになりました。

 

保守派の上座に座る長老たちは、700人の僧侶をヴァイシャーリーに結集し、再度仏典の編集会議(第2回結集)を開いて、釈迦の時代に守られていた規則を時代に合わせて修正していくかどうかについて、話し合いました。結果は、修正せず、自分たちの主張を再確認しました。しかし、この会議に対抗し改革を求める僧侶たちが1万人近く集まり、それまでの僧団からの離脱を宣言してしまったのです。

 

こうして、釈迦の死去(仏滅)後、100年にして、仏教教団は、戒律の解釈の違いから、保守派の上座部と、改革派(進歩派)の大衆部との二つの分裂することになったのです(これを「根本分裂(こんぽんぶんれつ)」という)。

 

時は、仏教の拡大に貢献したマウリア朝のアショカ王(在位BC268~232)が即位する15年ほど前の出来事であったと推定されています。なお、原始仏教と呼ばれる仏教は、釈迦が亡くなられてから、この部派に分裂する前の、一つにまとまっていた仏教をいいます(釈迦の生きた時代を含める場合もある)。

 

その後も、釈迦の教えに対する解釈の違いなどから、上座部、大衆部それぞれの中でも分裂を繰り返し、最初の分裂からさらに100年の間に約20の部派(上座部が11部、大衆部が9部)が成立しました。この部派に分かれた時代の仏教を部派仏教と呼ばれます。部派仏教の時代は、釈迦 入滅後100年ごろから約300年の間、紀元前2世紀から1世紀頃までをいいます。

 

ただし、その時代の部派僧団は、あくまでも釈迦の教えや戒律の解釈に対する食い違いから生じた学派で、部派仏教の僧侶たちは皆、同じ袈裟衣を着て、ほとんど同じ様な戒律や実践方法を採っていました。(ゆえに一般の人々からみれば差異はわからなかったとされる)。

 

また、彼らは、釈迦の時代なら、樹下に自らの住まいを求め旅をして修行していましたが、部派に分かれた時代になると、アショーカ王など権力者の保護のもと、一人にひとつ部屋割りされた僧院の中で、規則正しい生活をしながら、厳しい戒律を守り、瞑想と思索、他派との論戦に明け暮れていました。そうすると、次第に民衆の悩みや苦しみを救済するという実践的な布教活動からは離れて行き、部派仏教は、学問的な研究を主体とする貴族仏教(学問仏教)になっていったと言われています。

 

一方、仏教そのものは、根本分裂の後(部派仏教の時代となる前)、インドを初めて統一したマウリア王朝のアショカ王によって、インド国内だけでなく、周辺の諸外国にまで宣布されていました。例えば、紀元前250-210年頃、アショーカ王の王子マヒンダ長老らが、上座部の仏教をスリランカにもたらしています。

 

 

<大乗仏教の成立>

 

しかし、そのマウリヤ朝も前180年ごろには滅亡し、その後、紀元前2世紀から、ギリシア系のバクトリア王国など、現在のアフガニスタン地方から、北西インドに進出してきました。ギリシャやペルシャなど西域からの侵入した外来民族は、誰をも許容する仏教の信仰を得ていくと同時に(西域の人々によるアジャンターの巨大石窟寺院の建設などが有名)、仏教側も、ギリシャのヘレニズム文化や、ゾロアスター教など西域の宗教の多大な影響を受けたと言われています。

 

ただ、この地域の民衆にとって、彼らは侵略者でもあり、生活そのものを脅かされる受難の日々が続きました。このような混乱した時代にあって、人々は僧侶たちの教えに聞き入り、沈思黙考する余裕はなく、むしろ、疲弊する多くの人々を救済し、心の安穏を見いだしてくれる新しい仏教の信仰を求めるようになりました。

 

こうした背景下、紀元前後、インド北西部の進歩派仏教信仰者の中から、広く衆生の救済をめざし、仏教を大衆のものにしようとする変革運動が起きてきました。これは、これまでの部派仏教が、出家による自己救済を主眼とし、民衆の信仰から離れてしまったことに対する批判でもありました。

 

この新しい仏教は、紀元後1世紀に成立し、中央アジアから北西インドにかけて支配したクシャーナ朝の保護を受けて盛んになり、自らを大乗仏教と称するようになりました。大乗(マハーヤーナ)とは「大きな乗り物」という意味で、釈迦の教えに従って出家して悟りをひらくことは、自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという思想です。大乗の仏教徒は、上座部仏教に代表される部派仏教を、人を救済することの出来ない「小さな乗り物=小乗」であると非難し、小乗仏教と蔑称しました。彼らは、自分たちを大乗と名乗り、仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を強調したのです。

 

このような考え方の違いは、根本分裂のきっかけとなった第2回結集(経典編集会議)の時に始まっていたとされていますが、1世紀頃になって、新たにインドを統一したクシャーナ朝から支持されたことを背景に、大乗仏教が成立することとなりました。仏教の中心もインドの北東から、西北地域に移っていきました。

 

これに対して、上座部仏教(部派仏教)側は、本来、仏陀の弟子となって出家するのは自分自身の煩悩を払い、解脱を求めるものであるとして、大乗仏教の思想を釈迦の教えを拡大解釈するものとして否定しました。日本は大乗仏教を受け入れた国なので、小乗仏教を否定的にとらえる見方が支配的で、こうした上座部仏教(小乗仏教)側の姿勢を批判し、当時の僧侶たちは僧院に閉じこもり、自分たちの修行や思索に耽るだけだった一様に解釈されています。

 

しかし、保守的・伝統的な上座部仏教(小乗仏教)の僧侶たちは、定住する場を得て、釈尊の教えを分類整理し、個々の概念の意味内容を吟味しながら、体系化していきました。こうした作業は、仏教を後世に残すためになくてはならないことでした。前述したように、「経」・「律」・「論」の「三蔵」がこうして集大成され、今日の仏教の礎が出来上がったとされています。「三蔵」がまとめられたのは、大乗の仏教者が、上座部(部派)仏教を「小乗」「小乗」と批判していた時代のことであり、大乗仏教の思想的探求が可能になったのも、上座部仏教の僧侶たちの努力のお陰です。

 

いずれにしても、1世紀以降、仏教は、大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)に大きく二分されることになりました。今日スリランカを始めミャンマー、タイなど南方の各国で行われている仏教(南伝仏教)は、この上座部の仏教によって伝播されたものであり、大乗仏教は中央アジアを経て、北伝仏教として、中国、朝鮮、日本に伝えられることとなりました。次回は、大乗仏教についてまとめます。

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る

文化を築く施設 十大弟子 of 念仏宗 ナーランダ僧院

世界史の窓

Wikipediaなど