2020年11月25日

仏教:釈迦の一生と仏教の始まり

これまでの投稿では、キリスト教についてまとめてました。今回から仏教シリーズです。仏教というと、宗派がいくつもあって経典も難解な印象がありますが実際はどうなのでしょうか?キリスト教には、イエスの教えに戻ろうとする宗教改革がありました。仏教にはそうした歴史はありませんが、ここでは、そもそも釈尊が開いた仏教とはどうい教えだったのかというとろから始めてみたいと思います。まず、原始キリスト教ならぬ原始仏教の成り立ちを追ってみましょう。

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<お釈迦さまの名前>

 

仏教の開祖はといえば、お釈迦さまと答えるかもしれませんが、お釈迦さまの名前は、ゴータマ・シッダールタ(父親の氏姓がゴータマ、名はシッダールタ)です。シッダールタの漢訳が悉達多(シッダッタ)となります。

 

シッダールタは、修行によって悟りを開いた後、出身部族であるシャークヤ(釈迦)族の聖者(ムニ)という意味で「シャークヤ・ムニ(釈迦牟尼)」と呼ばれました(括弧は中国で音写された呼び方)。さらに、中国や日本では、「釈迦牟尼」が短縮されて、「釈迦」と呼ばれるようになりました。また、僧侶などが釈迦を指す時は、釈尊と呼びます。釈尊は釈迦牟尼世尊を略したものといわれます。世尊(せそん)とは、幸運・繁栄を有するものという意味で、仏(釈迦)の尊称です。

 

さらに、インドの言葉で、「(真理に)目覚めた人、(真理を)悟った人」のことを「ブッタ」といっています。つまり、悟りを開いたシッダールタ(釈迦)を「ブッタ」と呼ぶのです。仏はブッダの音写語で、中国では、漢字で「仏陀」と書きました。日本には、仏陀がそのまま伝わり、さらに上の1字の「仏」だけをとって「ほとけ(仏)」と呼ばれるようになりました。ですから、日本ではお釈迦さまを仏さまと呼ぶのです(お釈迦様=仏様)。お釈迦さまを釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と呼ぶこともありますが、これは釈迦を仏(ブッタ)として敬う呼び名です。このように、仏教の開祖のゴータマ・シッダールタには、釈迦、釈尊、仏陀、仏(様)などさまざまな呼び方があります。

 

(本投稿では、悟りを開く前のお釈迦さまをシッダールタ、悟りを開かれた後のお釈迦さまを釈迦と表記します。)

 

 

<釈迦の誕生>

 

仏教は、今から約2500年前の前5世紀頃、ガータマ=シッダールタが悟りを開いてブッダ(仏陀)となり、ガンジス川中流のマガダの地でその教えを人々に説いたことに始まります。

 

シッダールタは、ヒマラヤ山脈の南方、ちょうどインドとネパールの国境地域にあった釈迦族の国(釈迦国)の王子として生まれました。都はカピラバスト(カピラ城)と呼ばれ、シッダールタが生まれ育った場所は、現在のネパール領のルンビニーというところです。

 

古代のインド人は歴史の年代を残さなかったそうで、シッダールタについても、その生没年は紀元前463~383年頃、紀元前566~486年頃、紀元前624~544年頃と様々で、正確な年代は解っていません(一般的には紀元前5世紀頃とされる)。シッダールタ(釈迦)の生誕に関しては、多くの伝承・伝説が残されています。例えば、お釈迦さまは、天界から牙が六本ある白い象の姿になって、カピラ城の母になるマーヤ(摩耶)の胎内に入られたそうです。マーヤが出産のためお里に帰る途中、産気づいて、ルンビニー園という花園でお休みになった時、マーヤがアショーカの枝に手を伸ばした時、右の脇から王子が生れたと言われています。この時、九頭の龍があらわれ、天から甘露の雨(甘い味のする雨)を注いで、産湯としたそうです。

 

また、お釈迦さまは、ルンビニーという花園で、生まれてすぐ、(東西南北に向けてそれぞれ)七歩あゆまれて、右手は天を、左手は地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(天にも地にも、ただ独り、(個としての)我が尊い=誰もが皆、平等に尊い存在である)」と唱えたとも言い伝えられています。

 

 

<釈迦の四門出遊(しもんしゅつゆう)>

 

実母のマーヤ(摩耶)は、シッダールタが誕生してから七日目に亡くなられましたが、シッダールタは、学問、武芸ともにすぐれ、心のやさしい王子として成長し、何不自由のない生活をしていました。しかし、シッダールタは、王族としての生活を捨てて29歳で出家するのです。その時のエピソードとして四門出遊(しもんしゅつゆう)の逸話があります。

 

ある時、シッダールタが、東西南北にある四つの城門から郊外に出かけたところ、東の門から外出され老衰した人を、次の日は南の門で病人を、その次の日には西の門で、死人とその弔いの行列を見かけ、この世界のさまざまな苦しみを知りました。そして、最後の北の門で修行者をご覧になって、出家することを決心されました。

 

人が生まれた限りにおいては、老い、病気し、いつかは死ぬことからは逃れられない。この思い通りにならない生老病死の「苦」を超克するための智慧を求めて出家し修行したと考えらえています。

 

 

<釈迦の成道(じょうどう)>

 

シッダールタは、カースト制度のように生まれが全てを決してしまう伝統的なバラモン教の考え方に反対していたので、バラモン教の修行をせず、努力によって解脱を得ようとする自由修行者(沙門)の道を選びました。

 

釈迦(シッダールタ)が生れた時代のインドは、農耕が営まれ、かつ貨幣が流通して商工業も盛んになるなど都市国家が生まれていました。当時、バラモンという聖職者たちが、絶対の権威を持って振る舞い、ヴェーダ聖典を用いて祭祀を司っていました。それと同時に、釈迦の生れた地域は、思想的に自由な空気があり、そうした権力者の姿勢を批判したり、自ら家を出て自由に修行し思索に励む人々が多く現れていました。彼らは、バラモン教の伝統にとらわれず、合理的な考えを自由に説いたので、自由思想家と呼ばれました。シッダールタもその一人だったのです。

 

シッダールタは、アーラーダ・カーラーマ、ウドラカ・ラーマプトラという仙人のもとで、瞑想の修行をし、苦行もしましたが、悟りは得られませんでした。その後は、マガダ国の山林に籠って、生死の境を行き来するような難行苦行を6年間続けましたが、それでも悟りをえることはできず、「苦行のみでは悟りを得ることはできない」とその無意味さを知り苦行を捨てました。

 

シッダールタは、苦行で責めやつしすぎた身体を清めるため、やっとの思いで、近くの川で沐浴(もくよく)していました。その様子をみていたスジャーターという娘から乳がゆの供養を受け(乳粥供養といわれる)、体力を回復することができました。悟りを得るまではそこを動くまいと決心したシッダールタは、菩提樹の下に座り、瞑想を続けた結果、七日目の12月8日の夜明け、ついにそこで悟りを得られました。御年35歳、(今のビハール州)ブッダガヤ(仏陀伽耶)の地での成道(じょうどう)でした。

 

シッダールタは、この世の道理を知ることによって、生老病死に代表される苦しむ生の連続から、いかに解放するかの術を認識するに至ったのでした。その後7日間、足を組んだままの姿勢で「解脱 の安楽」を味わったと言われています。

 

このように、悟りを開いたシッダールタは、仏陀になられ、この時から釈迦族の聖者、釈迦牟尼(お釈迦さま)と呼ばれるようになりました。

 

ただし、その後、釈迦はいったん、自分のさとった縁起の理法を世間の人々に説くのをためらわれたといいます。釈迦の悟ったこの真理は深遠で、難解であり、かつ絶妙で、思考の域を超えたものであるので、この真理を、世の人は理解しないかもしれないことを憂慮されたのです。

 

そのような釈迦の前に、梵天(インドで最高位にあるとされる神)が現れ、悟りの真理を人々に説き、苦しみにあえぐ人々を救済するように三度にわたって願い求められました。そこで、釈迦は、梵天の声に従い、衆生のために法を説き、悟りに導くために布教することを決意し、救いに立ち上がるのです。

 

 

<釈迦の初転法輪(しょてんぽうりん)

 

最初の説法(初転法輪)は、インド北東に位置し、古来、宗教上の聖地と見なされていたベナレス(ヴァーナーラシー)郊外にあるサールナート(鹿野苑)(ろくやおん)と呼ばれる「鹿の園」にてなされました。なぜ、サールナートだったかと言えば、そこには、かつて苦行をともにし、釈迦が苦行を捨てたのを、落伍者とか臆病者と言ってとがめた5人の旧友がいたからです。

 

五人の比丘(出家修行者)は、釈迦の姿を目にした時、一緒に修行をした頃の釈迦の姿や雰囲気と違い驚き、自然と釈迦の語る言葉に耳を傾けたと言われています。

 

  • 中道

 

釈迦が最初に説いたのは、悟りを得るためには「極端に偏らずに生きてゆく姿勢が何より大切」で、二つの極端を離れる「中道」が重要である、ということでした。その二つの極端とは、心地よい生活ばかりに溺れて、常に何かを欲しいと求め続けること、逆にその欲望をすべて捨て去って、自分を苦しめ、極限まで追いつめるということで、ひとつの極端な生き方に固執して、人間としてのバランスを欠いてはいけないと説いたのです。これは苦行を続ける比丘たちの心を射抜いたと言われています。

 

ただし、中道とは、一方に片寄らない、ちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の状況や立場に応じて、真理に沿った調和のとれた生き方を意味しています。そして、釈迦は、中道をえるためには、、八つの道(八正道)を歩むことであると説かれました。

 

 

  • 八正道

八正道(はっしょうどう)とは、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の8つの道のことをいいます。

 

正見(しょうけん)(正しく見る)

正思(しょうし)(正しく考える)

正語(しょうご)(正しく話し語る)

正行(しょうぎょう)(正しく行動する)

正命(しょうみょう)(正しく生活する)

正精進(しょうしょうじん)(正しく努力する)

正念(しょうねん)(正しく思いめぐらす)

正定(しょうじょう)(正しく心を決定させる)

 

 

  • 四苦八苦

 

また、釈迦は、この世にある四つの真理(四諦)を示しながら、この八正道を歩むことで、私たちが持つ生きる苦しみから逃れられると説きました。人生はすべて苦である(一切皆苦)というのが釈迦の教えです。「苦」は「思いどおりにならない」という意味で、生(しょう)・老・病・死の4つの苦しみを「四苦」と定義づけられました。

 

また、四苦(生老病死)に以下の4つの苦を加えて、八苦という場合もあります。非常に苦労することを現在でも、四苦八苦(しくはっく)すると言いますね。

 

愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れる苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者と会う苦しみ

求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ

五蘊盛苦(ごうんじょうく):人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)や心から生じる一切の苦痛や苦悩のこと、五陰盛苦(ごおんじょうく)、五取蘊苦(ごしゅおんく)ともいう。

 

 

  • 四諦

 

このような人生の苦しみを解決するために説かれたのが、苦、集、滅、道の四諦(四つの真理)です。四諦(したい)は、釈迦が菩提樹の下で悟りを開かれたときに悟られた内容だといわれます。日本語では、四諦の「諦」は「あきらめる」という意味にとられますが、ここでは「真理」を意味します。

 

苦諦(くたい)

人生はすべて苦しみに満ちている(四苦八苦)という真理。

集諦(じったい)

苦しみの原因は心の迷い、煩悩にあるという真理。

滅諦(めったい)

煩悩を消すことで苦を取り除くことが出来るという真理。

道諦(どうたい)

正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理。

 

この正しい実践が前述した八正道ということになります。このように、釈迦のなされた最初の説法は、初めて法(教え)の輪が車輪のように回りながら広がったことから、「初転法輪(しょてんぽうりん)」といいます。

 

これらの教えは、苦行でも快楽主義でもない中道を得るための具体的実践方法であり、人生の苦しみを滅する方法が説かれました。とりわけ、四諦の教えは、初転法輪から入滅の直前まで、釈尊が一貫して説かれた人生の真理とされています。

 

 

<釈迦の弟子たち>

 

さて、釈迦の説法に感銘した、かつての仲間であった五人の修行僧(比丘)たちは、悟りの境地に至り、釈迦の弟子(仏弟子)になりました。

 

この時、悟りを開きブッダ(仏)となった釈迦が、言葉によって法を人に伝え、子弟関係が生れたとき、5人の僧侶による僧団としての仏教が誕生したことになります。同時にそれは、仏教徒にとって帰依の対象となる「仏・法・僧」の「三宝」が確立したことを意味しました。

 

:悟りを開いた人(釈迦)
:仏の説いた教え。
:仏の教えに従って悟りを目ざして修行する人達、仏と法に帰依する人たち。

 

五比丘

阿若・憍陳如(あにゃ・きょうちんにょ)

阿説示(あせつじ)

摩訶摩男(まかなまん)

婆提梨迦(ばつだいりか)

婆敷(ばしふ)

 

この初転法輪以降、釈迦は、80才で生涯を閉じられるまでの45年間、人々に法を説き伝え続けられるのです。

 

釈迦の布教活動の地域は、東北インドのマガタ国周辺でした。、当時、古代インドで強大だったマガダ国の王舎城(おおしゃじょう)(現在のインドのビハール州のラージギール)は、霊鷲山(りょうじゅせん)など五山に囲まれ、マガダ最大の都として文化的・経済的に栄えていました。釈迦は、ここに最も長く居住、主にガンジス河中流域を歩いて旅をしつつ教えを説かれたとされています。また、竹林精舎(ちくりんしようじや)や、霊鷲山などで多く説法をされたことが、多くの仏教経典の冒頭から類推されています。

 

説教の方法は、決して自ら信者を集め教えを垂れるという姿勢ではなく、集まり来る弟子たちや悩みを抱える人たちの求めに応じてお諭しになるというように、相手の状況や能力にあわせて、そのひとに相応しいことを説かれました(この手法を対機説法という)。ですから、歴史上の釈迦が、仏教教義を体系的に説かれたということはなかったと言われています。

 

釈迦の教えの中には、前述した一切皆苦、四諦、八正道以外にも、三法印、縁起の法、慈悲の教えなど広範な教えが含まれています(思想内容については次の機会で解説)。

 

また、マガダ国のビンビサーラ王の帰依を受けましたが、王たちと釈迦の関係も、弟子と師の関係であり、王権からは一切の規制を受けることなく、自由に諸国を往来することができました。このことは、その後の仏教が確固たる地位を築き発展する大きな礎となったと言われています。

 

このように、インドの国中に教えを説いて歩かれる釈迦の評判も日に日に高まっていき、迦葉(かしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、目連など「十大弟子」を含めて、多くの弟子がいました。彼らもまた一ヶ所に定住することなく、普段は旅をしながら、早朝には村へ托鉢に行き、食事の間や長老から教えを受ける他は樹下で瞑想に励んでしました。当時すでに王たちや裕福な商人の寄進した精舎(しょうじゃ)と呼ばれる宿泊施設もあったそうです。

 

十大弟子

舎利弗(しゃりほつ)

目連(もくれん)

摩訶迦葉(まかかしょう)

阿那律(あなりつ)

須菩提(しゅぼだい)

富楼那(ふるな)

迦旃延(かせんねん)

優波離(うばり)

羅喉羅(らごら)

阿難(あなん)

 

 

<釈迦の入滅>

 

こうして布教を続けた釈迦でしたが、80歳になり、体の具合が悪くなる中、釈迦は、マガダ国から故郷を目指して旅をされました。しかし、今のラジギールからパトナ、ヴァイシャーリーを通ってインド北部のマッラ国のクシナーラー(クシナガラ)に達したところで、最期を迎えられます。

 

釈迦は、クシナガラのシャーラ双樹(沙羅の樹林)の下に横になられました。「わが亡き後は、わが教えを守り精進せよ」というお言葉を残されて、頭を北に向け安らかに涅槃に入ったとされています。

 

釈迦の遺体(「仏舎利」と呼ばれる)は、地元のバラモン僧の手によって火葬された後、遺骨は8等分され、残った灰は2つに分けて周辺の10カ所の寺院に舎利塔として祀られることとなりました。その後、舎利塔は掘り起こされ、仏舎利はさらに細かく分けられ、最終的には八万余りの寺院に再配布されたと伝えられています。

 

 

<参照>

仏教ウェブ入門講座

仏教とは?全日本仏教会

広済寺HP

仏教のルーツを知る(小冊子「ダンマサーラ」)

初めての説法:サールナート

その18 初転法輪(最初の御説法) – お釈迦様のお話 –

仏舎利とはなんですか?仏舎利の意味(大人のためのbetterlife)

仏様のお話し(養老山・立國寺HP)

仏様の世界(Flying Deity Tobifudo)

世界史の窓

Wikipediaなど