2020年11月19日

世界史:正教会からみたキリスト教史

前回の投稿で、ギリシャ正教(東方正教会)について、その概略をカトリック教会と比較しながら制度や教義を中心にまとめました。今回は視点を少し変え、正教会からみたキリスト教史についてみてみたいと思います。私たちは欧州中心の歴史観に慣れ親しんでおり、キリスト教も、カトリック教会(ローマ教会)からギリシャ正教が分離したような印象を受けてしまいますが、キリスト教の正統を謳う正教会から見れば、逆になります。視点を変えてみることで、読者のキリスト教の理解がさらに深められることを期待します。

 

(本稿では、イエス・キリストは、正教会が使うギリシャ語読みのイイスス・ハリストスを用います。)

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  • 十二使徒と初期キリスト教

 

イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)は、およそ30才の時に公に人々の前に現れ、神の国を教え、やがて、罪ある人間を救うために十字架に架けられ、後に復活したとされています。ハリストスは、「死」の直前、自分のそばに、ペトル(ペテロ)を初めとした特別な弟子12人(十二使徒)を選び招き入れていました。

 

イイススが昇天後、使徒たちのもとへ聖神(聖霊)が降臨した時、使徒たちはハリストスの「復活の証人」となりました。ここから、ハリストスの教えの意味、十字架と復活の意味を十分に悟った使徒たの福音の宣教が始まったとされています。

 

正教会では、聖神(聖霊)降臨の日を教会誕生の日と呼ぶ場合があります。使徒たちにとってハリストスは、やがてこの世の終わりに栄光のうちに再び来られる救世主(メシア)という存在です。教会も、ハリストスの昇天と再臨の間の期間のために与えられたものとみなされているのです。

 

使徒たちによる宣教によって、洗礼を受ける人たちが増えると、彼らは「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。クリスチャンたちは毎週日曜日には集まって共に祈り、パンを裂いて食し(現在の「聖体礼儀」の原型)、「洗礼」やその他の祈祷が、定型の祈祷文によって執り行われていたと言われています。

 

また、使徒たちは、布教する町々で自分の後継者を育て、その後継者を中心とした教会が地方毎に大きくなっていきました。この後継者たちが、現在、正教会でいう「主教」に当たる人たちです(聖書では「長老」と呼ばれた人たちのこと)。

 

一方、宣教そのものはというと、イイスス(イエス)の死後、キリスト教は邪教としてローマ帝国の弾圧されました。なかでも暴君ネロは、ローマ大火をキリスト教徒による放火として信者を多数処刑したことは有名です(このときペテロが殉教した)。また、初期のキリスト教は、イイスス(イエス)も試みたパレスチナの地、特にエルサレムでの布教が進まなかったので、人口が多い近くの都市での布教を目指しました。

 

私たちが慣れ親しんできたカトリック史観では、初期キリスト教の歴史は、ネロの弾圧を受けて、イエスが生きたエルサレムから帝都ローマへと移ってしまいますが、実際は、初期のキリスト教は、イイスス(イエス)も試みたパレスチナの地、特にエルサレムでの布教が進まなかったので、ローマ人への布教の前に、人口が多い近くの都市に住むギリシャ人への布教が目指されました。

 

もっとも、ギリシャ人といっても、アテネやスパルタといった古代ギリシアのポリスは衰退していたので、ギリシャという国に住むギリシャ人ではなく、文化や学問の中心となったエジプトのアレクサンドリアや、当時のセレウコス朝シリアの首都アンティオキアといった、当時ヘレニズムと呼ばれた地中海沿岸の諸都市に住む、ギリシア人の知識人たちへの布教でした。だからこそ新約聖書は、ギリシア語で書かれているのです。ある意味、キリスト教は「ギリシア人の宗教」として始まったと言っても過言ではありません。

 

いずれにしても、教会は、3世紀末までには、ギリシャ、エジプト、小アジア(トルコ)からローマ、アフリカ、さらにはアラビア、インドなどにも広がっていきました。

 

 

  • キリスト教の公認

 

一方、ローマ帝国は、紀元1世紀から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(五賢帝)の時代に最盛期を迎えたのち、混乱と分裂の時代となりました。なおも弾圧され続けたキリスト教にとっても、4世紀以降大きな転換点が訪れました。

 

コンスタンティヌス1(在306~337)は、313年のミラノ勅令で、キリスト教を公認し、325年のニケーア公会議では、三位一体論を唱えるアタナシウス派を正統としました。330年には、首都をローマからビザンティウムに移しています(コンスタンティヌス帝の死後「コンスタンチノープル」と改名)。さらに、テオドシウス1世は、392年、(アタナシウス派)キリスト教を国教とし、それ以外の宗教、宗派を禁止したのです。

 

ローマ帝国で公認され、政治的には平和の時代を迎えたキリスト教は、教義の統一と組織の整備を図るために、また後を絶たない教会内の異端に対応するため、教義の確立が求められました。この役割を担ったのが、主教や特別な聖人、「聖師父」(「教父」)と呼ばれる指導者たちでした。

 

もっとも、教義といっても、最初は、使徒たちがハリストス(キリスト)について語ったことばが書き留められていきました。それが膨大になってくると、そうした様々な文書からどれが正統であるかを決める必要が生じてきました。

 

こうして、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた伝承の記録(聖伝)が編集され、新約聖書として正典化されていきました。その中身は、何千人もの目撃者が実際に見たことの記録であり、「新約」と名づけられているように、ハリストスにより神と新たに結ばれた契約が書かれています。

 

西暦367年、神学者のアタナシウスは「マタイによる福音書」から「ヨハネの黙示録」まで、今日と同じ27の書を、正式に新約聖書として定め、後に教父アウグスチヌス(354~430)らが各地に普及させていったとされています。

 

そして、聖書の「何をどのように信じるか」を端的にあらわした信仰箇条が各教会で作られるようになり、やがて「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」(後述)に集約され固定されることになるのです。

 

 

  • 7つの全地公会

 

このように、キリスト教として教義が確立されていくのですが、それでも、内部から異端者は後を絶たちませんでした。そこで、325年のニケヤ公会議と同じように、全地公会と呼ばれる会議が、さらに6回開催されました。

 

七回の全地公会

 

第一ニケヤ会議(325年)

☞ハリストスを被造物(神が創った)と唱えるアリウスの異端を断罪

 

第二コンスタンチノープル会議(381年)

☞信経(信仰箇条)の決定。

 

第三エフェス(エペソ)会議(431年)

☞マリアを生神女と認めないネストリウスの異端を断罪

 

第四カルケドン会議(451年)

☞ハリストスに神性しか認めない単性論の異端を断罪

 

第五コンスタンチノープル会議(553年)

☞ハリストス(キリスト)に関する再定義。

 

第六コンスタンチノープル会議(680年)

☞ハリストス(キリスト)に神の意志しか認めない単意論の異端を断罪。

 

第七 ニケヤ会議(787年)

☞イコンを偶像として破壊した聖像破壊論者を断罪

 

この時、第一ニケヤ会議と第二コンスタンチノープル会議の結果、前述した信経(しんけい)と呼ばれる信仰箇条が確立され(正式には「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」という)、すべてのキリスト教会は、「一つの聖なる公なる使徒の教会」(ニケヤ・コンスタンティノープル信仰告白)と宣言されました。

 

正教会は、これらの全地公会で定義された教義的内容を、永遠に揺るぎないものとして、修正や付加したり削除したりすることなく、忠実に守り、また「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」のみを、信仰の具体的な指針としての信仰箇条として、現在も正式に採用しています。

 

一方、381年に、テオドシウス1世が召集した第二コンスタンティノポリス公会議では、ローマ帝国内に5つの大きな教会の中心地が形成されつつあったことなどを受けて、5大聖地に「総主教区」を置くことが決められました。

 

イエス自らが布教を行ない殉教したエルサレム、使徒たちが拠点としたアレクサンドリアとアンティオキア、帝国の首都ローマ、そして帝国の新首都であるコンスタンティノポリスです。同時に決定された「五大総主教区」の序列も以下の通りです。

 

ローマ

コンスタンチノープル

アレキサンドリア

アンティオキヤ

エルサレム

 

5つの聖地一つ一つには、信徒を監督し指導しまとめる「総主教」が置かれましたが、5人の総主教のうちだれが支配権をもつかなどは話し合われませんでした。神のもとでみな同じであるということで一致していたからです。しかし、町の規模としてはコンスタンチノープルとローマが大きかったため、首位権をめぐる確執が表面化するようになり、次第に両者に亀裂が生じてきました。

 

 

  • 西ローマ帝国の滅亡

 

また、ちょうどその頃から、これまでも混乱は続いていたローマ帝国の体制がさらに揺らぎ始めます。キリスト教を国教としてわずか3年後の395年、テオドシウス1世が死去、「自分の死後は帝国を2つに分け、2人の王子にそれぞれに継承させるように」との遺言に従い、ローマ帝国は東西に分離したのです。このうち、西ローマ帝国は4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動によって、476年に早くも滅亡しました。

 

これによって、政治的・軍事的に危機的状況に立たされたのが、ローマ総主教区でした(他の4総主教区は東ローマ帝国内にあった)。このときローマ教会が選んだ道は、西ローマ帝国を実質的に引き継いだ形となったフランク王国の宗教的権威者になることで、生き残りを図ることでした。そのためには、ローマ教会が「キリスト教の5つの総主教区のひとつ」ではなく、「独立」して、ローマ教会の総主教が、神の唯一の「地上での代理人」=法王(教皇)となることだったと解されています。

 

こうして、ローマ教会は西方教会、コンスタンチノープルなど4総主教区の教会は東方教会と呼ばれるようになりました。この後、1054年に東西教会は分裂しますが、正教会の立場からすれば、ローマ教会が、5大総主教区の制度から離れていったとみなされています。

 

 

  • 聖像禁止令

 

一方、一般的に東西教会の分裂の原因とされているのが、東ローマ皇帝が出した聖像禁止令でした。本来、キリスト教では、モーゼの十戒にあるように、偶像崇拝は厳しく禁止されていました。しかし、キリスト教が4世紀にローマ帝国に公認され、広く布教されていく中で、特に、ゲルマン民族への布教のためにイエスやマリアの像が使われるようになっていました。

 

これに対して、7世紀以降、偶像崇拝を徹底するイスラムの影響を受けて、ビザンツ帝国領の聖職者の中にも、イエスやマリアの聖像を偶像として、その崇拝を否定する考えを持つ者が出てきました。これを受け、ビザンツ皇帝レオ3世は、726年、聖像禁止令を出し、聖像の製造禁止と聖像破壊を命じました(ビザンツ帝国各地でイコノクラスムと言われる聖像破壊運動が広がった)。

 

ビザンツ皇帝が出した聖像禁止令に対して、西方教会(ローマ教会)の教皇グレゴリウス2世が反発します。ローマ教会ではむしろ、聖像破壊は悪質な反教会的行為とされ、聖像を破壊する者は異端者であるとみなされるようになり、次第に東西教会の対立は決定的となっていったのです。こうして、最終的に、両教会は1054年に、互いに破門し合って、キリスト教会は、東の正教会と西のローマ・カトリック教会に分離してしまいました。

 

なお、東方教会において広がったイコノクラスム(聖像破壊運動)は、787年の第7回公会議で一旦禁止令は廃止され、その後復活したものの、最終的には、843年には聖像禁止令は廃止されました。ただし、彫刻や立像は認められず、平面像のみの条件で「イコン」の使用のみ可能となっています。

 

 

  • 東ローマ帝国の発展

 

では時代の針を若干、戻して、ローマ帝国の分裂後、生き残った東ローマ帝国(ビザンツ帝国)についてみてみると、東ローマ帝国のキリスト教は、コンスタンチノープル、アレキサンドリア、アンティオキア、エルサレムの4総主教区を中心に、帝国の国教として、長らく発展していきました。

 

最盛期のビザンティン帝国の領土は、首都のコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を軸に、アナトリア半島(現在のトルコ)は言うまでもなく、バルカン半島から黒海周辺(ブルガリア、ルーマニア)や地中海東岸(シリア)まで広がっていました。

 

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンチノープルの人々は当然のごとく、自分たちが住む東ローマ帝国が、ローマ帝国の正統な後継だと考えるようになります。なお、コンスタンチノープルの人々とは、帝国の首都の住人であったギリシア人で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、東西帝国の分裂後、およそ1000年にわたってギリシア人の国だったと言うことができます。それゆえ、東ローマ帝国の国教としてギリシア人が奉じていた東方教会が「ギリシア正教」と呼ばれるようになったのです。

 

 

  • イスラムの台頭

 

しかし、正教会の後ろ盾だったビザンツ帝国はやがて、イスラム勢力に押されて衰退していくことになります。歴史の次の大きなうねりとして、7世紀には、ムハンマド(モハメッド)を祖とするイスラム教が創始され、イスラム勢力が勃興します。彼らは、アラビア半島を統一した後も、勢力を広げ、638年には、聖地エルサレムを攻略し統治下に置きました。イスラム勢力はその勢いで東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を攻めますが、頑強な抵抗に会い、いったんは西進をあきらめ、進路を南にとると、一気にエジプトから北アフリカ一帯さらにイベリア半島(現在のスペイン)南部にまで勢力を拡げていきました。

 

この過程で、キリスト教の5大総主教区のうちエルサレムだけでなく、アレクサンドリアも異教徒の手に落ちてしましました。さらに、アンティオキアも、ビザンツ帝国に圧力をかけるイスラム勢力と対峙する最前線となったことから、荒廃・衰退していきました。

 

また、ビザンツ帝国の南側をイスラム勢力に抑えられてしまった以上、東方教会は、布教のためには北を目指ざすしかありませんでんした(後述)。

(前述した聖像禁止令が出されたのはこの時代で、やがて、東西両教会の相互破門と分裂につながった。)

 

一方、イスラムの攻勢に対して、聖地エルサレム奪回の目的で、カトリック教会から派遣された軍隊が「十字軍」(1096~1272)でした。第1回十字軍で、一度はエルサレムを奪還するもののすぐに奪い返され、第四回十字軍に至っては、1204年、こともあろうに、エルサレムではなく、コンスタンチノープルを攻略し、ラテン帝国というカトリック教会の国家を建設してしまいます。その後、約半世紀の間、ギリシア正教は否定され、ローマ教会の信仰が強要されました。(この十字軍の「蛮行」こそが、正教会とカトリック教会の分離を決定付けた事件と言われている)

 

もっとも、1261年には、東ローマ帝国の亡命政権の軍隊によって、コンスタンティノープルは奪回されて、ビザンツ帝国は復活(ラテン帝国は滅亡)し、コンスタンチノープルも再び帝国の首都となりました。

 

しかし、その後、強力となったオスマン・トルコによって、ビザンツ帝国は徐々に領土を奪われ、最後には、領土がコンスタンティノープルの城壁の中だけとなり、1453年には、メフメット2世によって、コンスタンティノープルも陥落して、ローマ帝国の東西分裂から、1000年以上続いた正教の国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は滅亡してしまいました。

 

ビザンティン帝国が滅亡後、正教会はイスラム教の下に置かれ、かつては正教信徒がたくさんいた町や地方はイスラム教徒で満たされました。首座を失った正教会は、ブルガリア、セルビアなど東ヨーロッパ各地やロシアへと散っていき、最終的にはロシアのモスクワが実質的に、コンスタンチノープルの後継となっていくのです。では、ロシア正教会がいかに発展していったのかをみてみましょう。

 

 

  • ルーシとキリル文字

 

現在のルーマニアやウクライナのある黒海北岸は、当時は、文字や文化もない蛮族の(未開の)(遊牧民)土地でした。しかし、ゲルマン人が西へと移動し、フン族の勢力が衰退すると、北からスラブ民族が流入してくるようになり、8世紀になるとキエフ(現在のウクライナ)にルーシ(ロシア)という東スラブ人の国が生まれました。

 

こうして9世紀になって、ビザンティン人は、帝国の北縁に住むようになったスラブ民族(ルーシ、東スラブ人)の存在を知るようになりました。そして、前述したように、南方をイスラムに抑えれらた東ローマ(ビザンティン)帝国は、北方に勢力を伸ばすためにキリスト教の布教に力を入れました。

 

スラブ民族(ルーシ)に、最初に、キリスト教(正教)を伝道(布教)したのが正教の修道士・聖キリルと兄のメフォディでした。しかし、布教をしようとしても、その頃、スラブ語には文字がなく、聖書を読んでもらうこともできませんでした。そこで、二人は、ギリシア文字とヘブライ文字を組み合わせて、スラブ語のアルファベット(無文字言語であったスラヴ語のために文字)を考案しました。この文字は、聖キリルにちなみ「キリル文字」と呼ばれ、現在のロシア文字になりました。こうして、キリル文字を使って、聖書や、祈祷書など教会の諸文書が翻訳され、奉神礼が行なわれるようになったことで、北方(ロシア)への伝道と繋がっていきました。

 

 

  • キエフ公国とウラジミール大公

 

945年にブルガリアがキリスト教を国教とし総主教座が設置されると、キエフ(現在のウクライナ)やセルビアにもキリスト教は伝えられました。

 

9世紀後半にはキエフ公国(キエフ朝ロシア)が台頭し、ウラジミール大公(在980~1015)の時代に、国土の統一を成し遂げ最盛期を迎えました。そこで、国王(大公)は、王国にふさわしい宗教を取り入れようと、自ら正教の洗礼を受けて(国民にとって最良の宗教を選ぼうと使節団を派遣した結果)、ギリシア正教を選択しました。これは、ウラジミール大公がビザンティン帝国皇帝バシレウス2世の妹アンナを妻とし、ビザンティン皇帝と親族関係を結んだことがきっかけでした。

 

さらに、988年に、ギリシア正教を国教とし、国民全員に洗礼を受けさせ、宗教的統一が図られました。これが、ロシアの正教会の始まりとされ、この時、キエフ総主教座が設置されました。11世紀には、修道院も建設され、ハリストスの福音が実践されました。

 

 

  • 「タタールのくびき」とモスクワ大公国

 

しかしその後、キエフ公国は、モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって(モンゴルの襲来を受け)、1240年に滅ぼされて、ロシアは混乱期を迎えました。ロシアはその後、「タタールのくびき」と呼ばれたモンゴル人(タタール)の支配を受け続けます。

 

それでも、1380年には、モスクワ公ディミトリイがモンゴル軍を打ち破ってことを契機として次第にタタール支配は崩れ、1480年に、イヴァン3(在1462~1505)が独立を回復し、ロシアを再統一させました。この困難の時代、精神的支柱となり、国家の復興に貢献した人物が、聖セルギイ(セルギイ・ラドネシスキイ)で、今もロシアで最も敬愛されている聖人の一人とされています。

 

モンゴルは宗教に関心を示さなかったので、正教会は、モスクワ大公国(1328~1547)の下で、勢力を維持し、ロシアが「タタールのくびき」から解放されると、正教会の総主教座もキエフからモスクワへと引き継がれました。

 

ロシア人の中には、モンゴルに支配されたことを、屈辱の歴史とする見方もありますが、その間、ロシアにとって歴史的な転換点につながる事件が発生します。それが、1453年にビザンティン帝国がオスマン・トルコに攻め滅ぼされてしまったことです。

 

 

  • 第三のローマ:モスクワ

 

ビザンティン帝国滅亡後の1473年、イワン3世(イヴァン大公)はビザンティン最後の皇帝の姪を妃に迎えました。これによって、ロシアはビザンティン帝国の正統な後継者を名乗ったのです。ゲルマン民族によって滅ぼされた「第一のローマ」に続いて、「第二のローマ」であるコンスタンチノープルが崩壊した後、モスクワが「第三のローマ」として、ローマ帝国の正統を継ぐとしました。

 

これによって、イワン3世は「大公」から「皇帝」となり、ツァーリの称号を得ると同時に。東ローマ(ビザンツ)帝国の「双頭の鷲」のシンボルをも継承しました。なお、ツァーリとは、ローマ帝国のカエサルがロシア語に転化したもので、その称号は全ロシアの支配者の意味として使われました。

 

「ビザンティン史観」に立つと、ローマ帝国の正統は、コンスタンティノポリス(新ローマ)を経て、モスクワ(第三のローマ)に継承され、最終的には、ロシア皇帝がメシアとなって神の王国に君臨するとさえ一部では信じられていました。

 

また、ビザンティン帝国の滅亡(コンスタンティノープルの陥落)で、正教会の4つの総主教区は、すべてイスラムの手に落ちたことになり、正教の主座も、「第三のローマモスクワに移りました。さらに、キリスト教の正統である総主教の座も、ローマ(バチカン)ではなくモスクワにあると主張されるようになりました。

 

その後、ロシアでは、雷帝と異名をとったイヴァン4世の時代(在1533~84)となり、ツァーリズムと呼ばれた皇帝専制体制を始めました。この体制は、ロマノフ朝ピョートル1世(在1682~1725)と次の女帝エカチェリーナ2世(在1762~96)の時に完成されました。

 

ただし、ピョートル大帝の時代、西欧化政策が採られました。ピョートル大帝は、ロシアの伝統に否定的な態度をとり、ヨーロッパ文明を極端に、強引に取り入れました。西欧化は教会の制度にも及び、ピョートル大帝は、1721年ロシアにおける「総主教制度」をも廃止し、かわりに「聖務会院」という制度を作りました。これは、皇帝の指名する役員によって教会を運営していく組織で、正教会の伝統とはかけ離れたプロテスタント的な制度でした。そのほかにも、神学や奉神礼、イコンや聖歌などにも西欧化の影響は及びましたが、正教会の根幹は揺るぐことはなかったとされています。

 

しかし、その後、第一次世界大戦の最中の1917年、ロシア革命が起こり、ロシア(ソビエト連邦)は無神論の国なりました。聖務会院は廃止され、総主教制度が復活しましたが、信徒は迫害されました。スターリンは、「宗教の自由」と同時に「反宗教の宣伝の自由」を憲法に掲げ、公式に教会を迫害した。聖堂は壊され、修道院は没収されました。

 

それでも、1991年、共産主義国家のソ連邦は70年で崩壊しました。その迫害に耐え抜いた正教会は、ペレストロイカ以降、息を吹き返し、スターリン時代に爆破されたモスクワの救世主大聖堂が1997年に再建されています。

 

 

<参照>

東方正教会の歴史(日本正教会HP)

ギリシャの東方正教会(ワールド航空サービス)

ビザンティン帝国=ギリシアが答えだった

(橘玲の世界投資見聞録)

キリスト教の正統は、ローマではなくロシアにある

(橘玲の世界投資見聞録)

世界史の窓

Wikipediaなど