2020年10月20日

古代史:インカ帝国(アンデス文明)とは?

前回のマヤ文明に続いて、今回はインカ帝国を中心にしたアンデス文明です。2019年8月、秋篠宮家の真子内親王のペルー・ボリビアご訪問の際、インカ帝国のマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に足を運ばれるなど、皇室ともゆかりのある地です。

 

大河沿いに誕生した世界の古代文明と違って、アンデス文明は山間部や高原地帯で発展しました。そのアンデス文明と言えば、まず上げられるのが、インカ帝国でしょう。インカ帝国は、1200年ごろアンデス高原に興り、現在のペルー・ボリビアを中心に南米に拡大した帝国で、マヤ文明、アステカ帝国と共に古代アメリカ文明を代表しています。インカ帝国誕生以前のアンデス文明から、インカ帝国の発展と滅亡の経緯をまとめてみました。

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  • アンデス文明(インカ帝国誕生まで)

 

<初期入植者の時代(ペルー)>

大航海時代にヨーロッパ人が進出する以前の南アメリカには、アンデス山脈の中央高地を中心に独特の文明(アンデス文明)が発達していました。

 

最初の入植者が、南米ペルーに到着したのは、今から約2万年前とされていますが、考古学上、1万2千年前、アジアのモンゴロイド(モンゴル人)が、マンモスやトナカイを追って凍ったベーリング海峡を渡り、それからゆっくりとアメリカ大陸全域に定住したと考えられています。彼らは、もともと狩猟採集民でしたが、農業が発展するにつれて、集落と文明が出現していきました。

 

カラル文明BC3000年~AD1500)

その中で、今から約4600年前に存在したペルーのカラル文明は、南米というよりも、アメリカ大陸における最古の文明として重要で、その歴史は、メソポタミア、インド、エジプト文明と同じ時代まで遡ります。カラル遺跡はリマ北方にある渓谷に位置し、現在まで大神殿や18の居住区が確認されています。カラル遺跡からは、円形劇場ピラミッドや住居が発掘されただけでなく、30本以上のフルートが見つかったことで話題となりました。

 

チャビン文化(BC1800BC

カラル文明の後、アンデス文明はペルーのさまざまな地域に拡大し、多くの文明を生み出しました。例えば、BC1800年頃から土器の使用が始まり、BC200年頃までに、標高3200mの中部高地に、チャビン・デ・ワンタルという都市が築かれ、いわゆるチャビン文化が発達しました。都市には、縦横に地下通路がめぐらされ、また、都市の外側は薄い石を綿密に積み重ねて作られており、この地域にかなり早い時期から高度な石造建築の技術があったと見られています。

 

このカラル遺跡やチャビン・デ・ワンタル遺跡を初期入植者の文明跡と捉えるとすると、次は、「プレ・インカ(インカ以前)」と呼ばれる、紀元が変わり10世紀までの間に数々の文化が生まれた時代で、複数の小文化圏が散在していました。

 

 

<インカ以前(ペルー)>

 

1世紀には、北部のモチェ川流域に、灌漑農業や日干し煉瓦の都市を生み出していたモチェ文化や、南部の海岸に「ナスカの地上絵」で有名なナスカ文化が興りました。また、ペルー南部の都市アヤクーチョ付近には、二重の壁で都市を囲み、多くの建造物が作られたワリ文化の遺跡が発掘されています。この中でも、プレインカの時代を代表すると言えば、ナスカ文化となるでしょう。

 

ナスカ文化AD10700

ナスカの地上絵とは、ぺルーの乾燥地帯に存在する超巨大な図形群のことで、飛行機で空中から観測して初めて全体を見ることができるという稀有な地上絵です。西暦10年から700年頃に、古代ナスカ人によって作られたとされています(ナスカ文化そのものは800年頃まで栄えた)が、彼らが何のために描いたのか、未だ多くの謎に包まれています。

 

ナスカの地上絵に関する最古の記録は、1553年にスペイン人コンキスタドール(征服者)、シエサ・デ・レオンが書いた著書に登場しますが、当時、シエザは絵であるとは認識してはいませんでした。1927年になって、ペルー人の考古学者Toribio Mejía Xesspeが丘陵地帯をハイキング中に巨大な図形を発見しました。そして、1940年頃、アメリカ人考古学者のポール・コソックが飛行機で上空から調査を行い、その図形が鳥の形をしている超巨大な地上絵であることが確認されました。地上絵の解明作業は、ドイツの数学者マリア・ライヘに引き継がれました。日本でも、2004年から山形大学がその解明に力を入れて研究していてい、40点以上新しい地上絵を見つけています。

 

ここまでは、南米のアンデス文明を構成するペルーで生まれた文明についてみてきましたが、今度はボリビア側からインカ帝国に至る文明を先史時代から概観してみましょう。

 

 

<先史時代(ボリビア)>

 

チチカカ湖南東岸に文明

南米ペルーとボリビアの国境に位置し、またアンデス山中標高約4000メートルにある湖といえば、チチカカ(ティティカカ)湖が有名ですが、そのチチカカ湖周辺には、出土した尖頭器などから、氷期の終わりの頃に既に人類がなんらかの形で定着していたであろうと考えられています。実際、ティティカカ湖の湖水資源が、人類の生活の糧として活用され、チリパ文化へとつながっていったと見られています。

 

チリバ文明(BC1500~BC250)

チリバ文化は、紀元前1500年ごろに、チチカカ湖南東岸に出現しました。BC1000年までに、湖岸の動植物の採取・狩猟による生活が営まれており、BC800年までにはラクダ科動物の飼育や農耕などがなされています。さらに、文明の後期(BC800~BC250)には、祭事儀礼が開始され、基壇や地下式広場といった遺構を発見されています。

 

ティワナク(ティアワナク)文化(BC200~AD1150)

紀元前200年に入ると、ティティカカ湖周辺では、湖東岸にティワナク遺跡を中心としたティワナク文化が出現します。

 

300年から500年にかけて、ボリビアの先住民族アイマラ系の人々によって大神殿など大型祭祀建造物が建てられていました。中でも、祭祀場の跡とされる主要基壇(土台部分)・カラササヤ(遺跡の奥にある広場)には、一枚岩を削って作られた「太陽の門」や、両手で儀仗や儀器を捧げもった大型石彫が立てられています。

 

また、カラササヤ神殿の側には、様々な表情をした丸彫りの人頭像が壁面にはめ込まれた「半地下神殿」もあります。さらに遺跡周辺には、水路をともなった畑の跡も発見されており、作物栽培が行われていたと見られています。

 

ティアワナコ文化は、9 世紀から11世紀にかけて全盛期を迎え、その影響はボリビアだけでなく中央アンデス全域にまで拡大していきました。ティワナクの地は高度4000メートルという高地にあったことから、とりわけ、温暖な東部のコチャバンバや鉱物資源の豊富な南部のアタカマ砂漠方面へ広がりをみせました。さらに、同時期に発展していたワリ文化にも伝播しています。

 

2013年には、現在も観光地となっているティティカカ湖の湖底で、約1500年前の金銀細工や陶器だけでなく、インカ帝国時代の動物の石像など計2000点以上が見つかりました。ティティカカ湖に浮かぶ「太陽の島」はインカ帝国発祥地との伝説もあるくらいです。

 

このように、インカ帝国以前、ペルーではカラル文明に始まりチャビン文化と続き、ボリビアでは、チチカカ(ティティカカ湖)湖からティワナク(ティアワナク)文化が発展していました。こうした先史から古代にかけて興ったアンデス文明が、インカ帝国の誕生とインカ文明の発展に結実していきました。

 

 

  • インカ帝国

 

<概観>

インカ帝国は、13~16世紀(1200年~1500年)にかけて、アンデス山脈中で繁栄した国家で、5,000年以上前に始まったアンデス文明を継承し、高度なインディオの古代文明を発展させました。

 

アマゾン川の源流の一つで、ペルー南部を流れるビルカノタ川渓谷の中腹から高地に定住したケチュア族が建国しました。「インカ」とは、ケチュア語で太陽を意味し、クスコに住んでいたケチュア族の代名詞となりました。やがて、帝国の皇帝も、帝国そのものも全て「インカ」と呼ぶようになったのです。

 

高度な農耕、金属器文化を有していたケチュア族は、高地の巨石文化を統一し、初めてペルーを中心としたアンデス一帯を統一しました。最盛期における勢力範囲は、現在のペルーから、ボリビアおよびエクアドル全域、さらに、コロンビア、チリ(北部)、そしてアルゼンチンにまで、南北4000kmにおよぶ大帝国となりました。

 

なお、インカ帝国の正式な帝国の名称は、タワンチン・スウユ(タワンティンスヨ)です。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、巨大な帝国を東西南北の4地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことからくる国名でした。

 

南部のクスコを都とし、北には空中遺跡のマチュピチュがあります。ケチュア語を公用語として、太陽を崇拝する太陽信仰の国でした。インカ社会には書き言葉がなかったため、人々や出来事、体験に関する正確な記録や日付は残されていませんでしたが、建築や農業に秀でており、高いレベルの富の分配における制度システムを有していたとされています。

 

 

<インカ帝国の成立>

 

アンデス世界では文字の記録がないので、その起源は定かではありませんが、インカ帝国は、1200年頃に、ケチュア族の中のインカ部族のマンコ・カパックが、中央アンデス(ペルー)南部のクスコに、地方の小王国を建国したことに始まります。この王国はインカ帝国の前身で、クスコ周辺から海岸部へと勢力を拡大していくことになります。インカ帝国では、初代のマンコ=カパックから13人の皇帝が即位しましたが、初代を除く12人の皇帝は実在の人物とされています。

 

 

<アンデス世界の統一>

 

2代から8代にいたる200余年のあいだは、帝国というよりも群雄割拠と呼んだ方がふさわしく、諸部族の小国家(スウユ)が多数あって、インカ部族は周辺諸国と戦闘を交えていました。ところが、15世紀の中ごろ、長年にわたる仇敵であった北方のチャンカ族に勝利すると、第9代皇帝パチャクテク(1438年に即位)は、現ボリビアのティティカカ湖周辺にも勢力を拡げ、近隣諸国を次々に征服しながら、その版図を拡大します。

 

パチャクチ皇帝の在位33年間で、帝国の版図は約一千倍に拡張したとも言われています。こうして、ボリビアの地はインカ帝国の一領土となり、ケチュア語が普及し、高度な都市文明が栄えていきました(この時期の遺跡からは極めて高度な技術水準の建造物や遺物が発見されている)。

 

第11代のワイナ=カパック(在位1493-1525)の時代になると、さらに領土を拡張して、エクアドル、ボリビアからチリにおよぶ、アンデス世界の100万平方km、南北の距離は4000kmに至る広大なインカ帝国が形成されていきました。

 

 

マチュピチュ遺跡

 

インカ帝国といえば、ペルー南部に残る遺跡のマチュピチュで有名です。15~16世紀の建造とされるマチュピチュ遺跡には、標高約2500メートルの断崖上に石組みの神殿や邸宅があり、麓(ふもと)からは見えず「天空の都市」と呼ばれます。ケチュア語で、老いた峰という意味のマチュチュは、ペルー南部のアンデス山中、ビルカバンバの更に山奥にあります。マチュピチュは、第9代皇帝パチャクテクが造った王族や貴族のための避暑地とも、スペイン人侵略期の応急の避難所ととも言われています。

 

マチュピチュ遺跡は、インカ帝国の滅亡から400年後の1911年、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見されました。発見者ハイラム・ビンガムは、映画インディ・ジョーンズの主人公のモデルとなっています。

 

マチュピチュと日本人

なお、マチュピチュは70年前、日本からの移住者が村長だったという歴史があります。福島県大玉村出身の農民だった野村与吉さんは1917年にペルーに移民として渡ると、マチュ・ピチュまでの鉄道建設に携わるなど、マチュ・ピチュの発展に貢献しました。これを契機として大玉村とマチュ・ピチュ村は、友好都市提携を結んでいます。

 

 

<インカ帝国の政治システム>

インカ帝国は宗教と政治が一体化していました。太陽信仰が国家の基本であり、インカ帝国の人々は太陽を崇拝していました。皇帝は「太陽の子」または太陽の化身として統治するという「太陽の帝国」でした。

 

創造神ビラコチャ

インカ神話に現れる最高神が、創造神という意味のビラコチャという名の神です。実際、ビラコチャは、太陽も含めてあらゆる神の上位にいる神で、伝説では、原初の混沌の中に最初に立ち現れた世界の創造主です。

 

ビラコチャ神は、まず、暗闇と人間を創りました。ティアワナコの地で石に彫って創られた人間を、地下にもぐらせ、呼びかけに応じて,各地の山,湖,洞穴などからその地に住む人間として姿を出させたとされています。しかし、ビラコチャが作り出した世界は一片の光もない暗黒に包まれ、人間は闇を這いずり回っていました。そこで、ビラコチャは、再びチチカカ湖に現れて、世界の再創造を行いました。太陽と月、人間、動物を作り、人間たちを特定の地域に配置してその地の民族の起源にしたと伝えられています。

 

太陽神インティ

ケチュア族の人々は、インティという名の太陽の神を天の序列の第一位に置きました(そもそも、ケチュア語で「インティ」は太陽の意)。それは、インカの人々にとって、太陽は農作物の収穫をもたらしてくれる絶対的存在だからです。インティだけが農作物を育て、病気を治してくれる存在であるとみなされていたのです。インティは、世界創造の基礎となる3要素(水・土・火)を統べ、しばしば雷光によって権力を示したとも言われています。

 

伝承では、インティは天の階級の一つの「月」であるママ・キジャを妻としたとされています。ちなみに、マチュ・ピチュには太陽の神殿があり、遺跡の奥に位置する高い山がワイナ・ピチュには月の神殿があります。

 

インカ皇帝

インカの支配者である皇帝は、太陽の化身、すなわちインティの現人神であるとされていました。あるいは、白い顔立ちに髭を生やした姿に変化することもできたと伝えられる創造神ビラコチャが降臨したとも信じられていました。ですから、インカ皇帝は専制的な権力をふるうことができ、数多くの神殿や要塞、道路を建設したのです。

 

このように、インカ帝国は祭政一致の国でしたので、皇帝を支える貴族層と太陽の神殿の儀礼を司る聖職者が存在しました。なお、インカ帝国の正式な名称は「タワンチン・スウユ(タワンティンスヨ)」です。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、国土は東西南北の4地域に分かれ、それぞれ地方長官が置かれていました。

 

 

<インカ帝国の経済>

 

インカ帝国では、内婚制(婚姻を集団内部で行う制度)の下で、2~3の胞族(フラトリー)が構成され、人々は、「アイユウ」という母系的な氏族集団、または生活領域を同じにする集団に所属していました。賦役や兵役の義務もあったとされています。

 

経済は統制経済で、貨幣はなく、物々交換によって経済活動が行われていました。大部分の国民は農民として、トウモロコシやジャガイモなどの栽培や、毛織物の原料であるヤーマ(リャマ)、アルパカなどの牧畜に従事していました。インカ帝国は、文字を持ちませんでした。伝達は口頭によるものでしたが、文字の代わりにキープ(結縄)と呼ばれる結縄が使われていました。キープは、縄の結び目の形や数で、人口や産業、税額や取引額など、数字(数量)情報を記録し伝えていました。

 

また、鉄器はなく、新石器文明に近かったようですが、金・銀や青銅器の鋳造は発達していたとされています。(ただし、青銅器の利用も少なかったとも言われている)。車輪の発明もされず、運搬に車を使うこともなかったので、戦車や荷車は作られませんでした。急峻な地形のアンデス地域では、物資は、人力か、ラクダ科のリャマやアルパカに載せて輸送されました。

 

農業や牧畜、さらに道路網の建設、灌漑施設、鉱山などの事業も公営で行われたころから、インカの社会は「太陽の社会主義」とも呼ばれました。その一方で、文字や鉄器、車輪を知らなかったため、スペイン人に簡単に滅ぼされてしまったとも指摘されています。

 

ここまでの説明なら、インカ帝国の経済基盤を脆弱に感じられますが、道路は、全長3万キロにも及び、エクアドルからペルー、チリ中部まで帝国を縦断するだけでなく、首都のクスコを中心として、東西南北に向かう幹線を道路網が広がっていました。道路は限りなくまっすぐに、二つの地域を最短距離で結びつけるように設計されていたとされ、谷には吊り橋がかかり、石畳の道や階段が整備されていました。インカ帝国は広大な支配地を統治するために、アンデスの産地やアマゾンの密林をつらぬく道路=王道(「インカの道」)が建設していたのです。

 

さらに、沿道にはチャスキと呼ばれる飛脚が、半レグア(2~3km)おきに配備され、クスコまで走って情報が伝えられました。彼らの踏破力は、一日140kmとも250kmとも言われ、情報は猛烈なスピードで伝えられたそうです。

 

 

<スペインの侵略>

 

この偉大なインカ帝国も、1533年に、征服者(コンキスタドール)、フランシスコ・ピサロに率いられたスペイン軍によって征服され滅亡し、以後300年間、スペインの植民地になりました。

 

スペイン人がやってきた頃、インカ帝国内では、皇帝ワイナ=カパックの死後、皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となっていました。1532年、結局アタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣ぎましたが、時を同じくして、ピサロは、北端のツンベスから上陸して進撃してきました。

 

完全武装したスペイン軍の上陸に対し、アタウワルパは当然警戒しましたが、神託を占ったところ、「しばらく静観して監視を続けよ」という答えだったので、迎え撃つことをせず、(現エクアドル国境に近い)カハマルカという所で、ピサロと会見することにしました。

 

1532年11月、皇帝アタウワルパは、金色の玉座に腰を下ろし、400人の高官と数千のインカ兵に守られて、歩兵110名、騎兵76名、火縄銃13丁などで武装したピサロの「使節」を迎えました(実際、広場にきたのは20人の歩兵で、残りは広場の周囲に潜伏)。「使節」はキリスト教の布教のための平和使節であると称したといいます。

 

ドミニコ会修道士で、従軍司祭バルベルデが、皇帝に対して、キリストの教えを説き、皇帝がキリスト教に改宗することを求めて聖書を差し出しました。アタウワルパはこれを拒否して聖書投げ捨てると、その瞬間、広場の周囲に隠れていたスペイン兵が一斉に射撃を開始し、騎兵が突進してきました。武器を持たず、鉄器(剣)や鉄砲を知らなかったインカ兵は、次々と鋼鉄の剣でなぎ倒されるか、射殺され、広場は一瞬のうちに殺戮の場と化しました。

 

生け捕られ、幽閉されたインカ皇帝アタウワルパは、スペイン人が金に異常な関心を示すことを知り、部屋一杯の金銀を身代金として差し出すなどして、釈放を求めたが、認められず、1533年8月、処刑されました。ピサロは、かつて本国スペインで、アステカ帝国を征服したコルテスと会ったとき、インディオは王が殺されたら抵抗できなくなるから、まず皇帝を殺すことだと助言されていたとの逸話も残されています。

 

処刑の前日、アタウワルパは、改宗したら火あぶりではなく絞首刑にするという、修道士の勧めに従って、死の直前に改宗しました。インディオは火あぶりにされた者の魂は神のもとに行くことも、この世に戻ることもできないと信じられていたそうです。洗礼名はフランシスコ・アタワルパでした。こうしてインカ帝国は、崩壊しましたが、まだ完全に滅亡というわけではありませんでした。

 

 

インカ帝国後…・

 

インカ帝国の皇帝アタワルパを処刑した後、ピサロは、インカ帝国を完全支配するために、傀儡皇帝を立てて、抵抗軍を制圧しながら、インカ帝国の首都クスコを目指し、1533年11月に入城しました。インカでは、人を動かすには皇帝の命令が絶対であったので、ピサロを傀儡皇帝を必要としたのでした。

 

クスコのあまりにも大きく美しい町並みに驚いたスペイン人たちでしたが、すぐに掠奪を開始し、クスコの神殿や宮殿などを徹底的に破壊し、金銀を集めるだけ集めて、延べ棒に鋳造し直しました。黄金で輝いていたとされる太陽の神殿(コリカンチャ)も壊され、その石組みの上にサンドミンゴ教会が建てられました。

 

1535年、ピサロは、本国スペインとの交易の利便性を考え、新しい首都リマを太平洋岸に建設し、そこに移り住みました。もちろん、インカから奪った金銀がつぎ込まれました。

 

一方、この頃、クスコの傀儡皇帝マンコ=インカは、脱走して山岳地帯に逃れ、クスコより北西に位置するビルカバンバを拠点にして、「インカ皇帝」を名乗り続けました。先祖のミイラをクスコからこの地の神殿に移したと言われており、これを「ネオ=インカ国家」と呼ぶこともあります。

 

マンコ=インカは、しばしばスペイン側と交渉し、和平を実現しようとしましたが、スペイン人の際限のない金銀の要求に対して交渉を諦めた後の1536年、マンコ=インカのもとに集結した18万のインディオとともに、クスコを包囲し、インカの反乱を始めました

 

しかし、スペイン軍の火砲、騎兵によって敗れ、翌年までに反乱は鎮圧されました。その後、マンコ=インカも死を迎え、子のティトゥ=クシ=ユパンギ、さらにはユパンギの弟のトゥパク=アマルが皇帝位を継承して抵抗を続けましたが、勢力は次第に弱まり、1572年にトゥパク=アマルは捕らえられて処刑されました。ここに、インカの反乱は終焉し、インカ帝国は完全に消滅しました。インカの皇統も完全に途絶え、インカ帝国、最後の皇帝「トゥパク=アマル」の名は、今でもインディオのスペインに対する抵抗の象徴的な名前となっています。なお、住民らは征服前に宝物を隠そうと湖底に沈めたという伝承も残されています。

 

インカの抵抗を鎮圧する一方、スペイン人たちは、インカ帝国後のアンデス支配の基盤を固めていました。インカを実質的に滅ぼした後の1542年にはペルー副首都が形成され、スペイン王権の属国となりました。スペイン王は植民地を支配するため、王の代理人である副王を派遣していましたが、ペルー副王はリマを首都としてブラジルを除く南米全域を統治しました。スペインの中南米支配は19世紀のラテンアメリカ独立運動が起こるまで続き、この間、カトリックの修道会がペルーの人々にキリスト教を伝えました。

 

一方、ピサロはと言えば、インカの反乱軍を制圧しようとする最中、征服者同士で、財産をめぐる内輪もめの内戦も繰り広げ、ピサロは、インカ帝国征服後、ヨーロッパ人として初めてチリ遠征を行った盟友アルマグロを処刑しましたが、1541年、アルマグロの息子によって、暗殺されました。インカを征服し、彼らの生命と財産を略奪して莫大な富を手に入れた男の最後はあっけないものでした。

 

 

<参考>

世界最大のミステリー「ナスカの地上絵」はどうやって作られた?

(2019/06/21 ディスカバリー・ジャパン)

湖底からインカの石像 ボリビア・ティティカカ湖

(2013.10.9、産経)

ラテンアメリカ文明の興亡(網野徹哉他、中央公論社)

インカ帝国(泉靖一、岩波新書

世界史の窓、Wikipediaなど