2020年09月29日

キリスト教:異端と魔女狩り

前回の投稿「修道院運動の盛衰」でドミニコ修道院が積極的に異端尋問に関わったことにふれましたが、今回は中世におけるキリスト教会の異端尋問と魔女狩りについてまとめてみました。

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  • 異端とは?

 

ローマ・カトリック教会において、異端は、「悪魔が神の意に反する誤った教えを神の教えのように見せかけて人々を騙すこと」と考えられ、異端者とは、「キリスト教徒を名乗りながら、正統な教えから外れる信条を持つ人」のことを言うと定義づけられています。

 

もっとも、最初は、多神教徒をキリスト教化する布教の段階では、まずキリスト教徒にすることが重要と考えられ、教義の細かな違いには寛容だったそうです。ですから、各地の教会では現地の異教由来の風習が残っている所もあり、初期キリスト教会は、地域色が強くでていたと言われています。

 

それが、11世紀のグレゴリウス7世による教会改革(グレゴリー改革)で、「教皇庁(教会本部)で決めた教えが全てのカトリック教会で同じように伝えられるべき」と教義の統一が重視されるようになりました。それ以降、異端とは、「ローマ教皇庁の見解から外れる考え方や信条」とされ、異端(者)は忌み嫌われるようになりました。この11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教社会では教皇権が絶頂に向かう時期でもありました。

 

その一方で、1095年から始まった十字軍の影響で盛んになった東西の交流の過程で、新たな思想も流入するようになると、ローマ教会の権威を否定し、ローマ教皇庁の教義とは異なる「異端」の考え方も各地で広まるようになりました。

 

 

  • ワルド派とカタリ派

 

異端とされた中世の代表的な宗派が、12世紀末に現れたワルド派とカタリ派です。いずれもペルシア起源のマニ教の影響を受け、善と悪、精神と物体など二元論的な世界観を持っています。その教義は、教会の権力や富を否定し、イエスの時代に帰り、清貧を有るべき信仰の姿と考えて実践しようとする共通性がありました。

 

ワルド派

ワルド派は、フランス王国のリヨンの富裕な商人であったピエール=ワルドーが、1173年に、その家財をなげうって、使徒の生活にならった清貧を実践しながらキリストの福音を広めようとしたことから始まりました。その信奉者は「リヨンの貧者たち」と言われ、ワルド派は、リヨンを中心にフランス南部に広がっていきました。

 

当初は熱心な布教団体としてローマ教会からも認められていましたが、彼らの活動が教会の聖職者の統制の外で広がっていくことに警戒するようになったローマ教皇庁は、1179年、ワルド派の信仰に対し、神学者に審判に当たらせ、1184年に異端と断定しました。しかし、ワルド派は南フランスからイタリアのロンバルディア、さらにドイツ、スペイン、ボヘミアに拡大していきました。

 

カタリ派

カタリ派は、もともと10世紀半ばに現れ、12世紀にワルド派とともに広く知られるようになり、中世の最大異端セクトと言われました。彼らは南フランス、アルビを中心としたトゥールーズ伯領に集中していたことから、アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれました。

 

その根本思想は、「神により創造された精神が、悪により創造された肉体・物質に囚われている」というもので、清浄派・清純者の意であるカタリ(Cathari)という宗団名からも類推できるように、彼らは、極度に禁欲的な戒律を奉じました。また、カタリ派(アルビジョワ派)は、旧約聖書やローマ教皇の権威を認めず、ローマ教会を悪魔の教会として攻撃するなど、過激に教会制度を否定し、自らがキリストの真の教会と主張しました。

 

当初は正しい教えの説教・説得により解決を計ったローマ教皇庁でしたが、その広がりを抑えられず、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、フランス国王フィリップ2世に十字軍派遣を要請し、1209年から20年にわたる「アルビジョワ十字軍」が実行され、ルイ9世の時代、1229年に殲滅され消滅してしまいました。

 

ワルドー派やカタリ派は、もともとはキリスト教を改革しうという民衆運動に端を発したもので、特に清貧運動をルーツとしています。その意味では、フランシスコ会などの托鉢修道会と共通するものがあるという見方もできます。しかし、両派の拡大や過激な主張(特にカタリ派)は、当時、領主のような地位であったカトリック教会のローマ教皇以下の高位聖職者にとっては、自己の権力や富を否定されることであるので、異端として弾圧したと見られています。

 

 

  • 異端審問から魔女裁判へ

 

「アルビジョア十字軍(1209~1229)」の後、ヨーロッパにおいて激しい異端審問が実施されるようになりました。インノケンティウス3世の時代から、反教会的な異端の取り締まりの最前線の役割を担うこととなったのが、ローマ教皇公認の修道会でした。中でも、13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになりました。フランシスコ会も、その極端な清貧の勧めで、当初は自らが異端認定されそうだったのだが、公認を受けると、やがて異端審問を担うようになったのは皮肉なことです。

 

異端の撲滅のために、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)は異端審問官を設置し、異端狩りのために各地の司教から独立した権限を与えました。異端審問を独自に行うことが出来るようになった異端審問官は、強引な異端審問と認定で怖れられ憎まれる存在となり、教皇から直接異端審問官に任ぜられた最初の一人であったドイツのコンラート・フォン・マールブルクは、悪名高い審問官の一人で、1233年暗殺されています。

 

異端に対する徹底的な撲滅がめざされるなかで、異端は魔女と結びついているとされ、14世紀には魔女そのものを取り締まる「魔女裁判魔女狩り)」が行われるようになりました。「魔女狩り」とは、中世のキリスト教世界で行われた異端を排除するために行われた宗教裁判のことで、13世紀当たりから盛んになっていきました。

 

そもそも魔女とは、キリスト教以前の多神教の時代から存在していた古いヨーロッパの俗信で、古来の神や精霊など超自然的な力を得て、奇跡を起こした人々をいい、一般的に、魔女は呪術を使って人々に害を及ぼすと信じられていました。後に、キリスト教が盛んになってくると、魔女は、悪魔と契約して、超自然的な力を持って妖術(邪悪な術)を行い、悪魔と通じて人を破滅に導く者(女性)を指すようになりました。もちろん男性を指す場合もあり、魔女は、魔術師・呪術師とも呼ばれました。

 

魔女が行う人の心を惑わす不思議な術(行為)が魔術で、悪い魔術を黒魔術といい、黒魔術を使ったと見なされれば容赦なく拷問や神判に掛けられ、有罪ならば処刑されました。一神教のキリスト教では、最初から魔術を多神教徒の迷信として否定していました。ただし、悪魔は、人々を惑わせ、神の教えから離れさせ、悪の道に誘い込む存在ですが、それほど強い力は持たず、全知全能の神の下で、人間の信仰を試す役割を持つとされてきました。「この世は神の摂理に従っており、正しい信仰を持っていれば怖れるに足らない」とされてきたのです。

 

しかし、既にみてきたように、急激に異端に対する恐怖心が煽られた11世紀以降、多くの人が魔女として迫害されるようになり、特に、14世紀はこの傾向が顕著になったのでした。その背景には、「14世紀の危機」と言われた社会不安がありました。天候不良による飢饉に加えて、この世紀の半ばに大流行した黒死病(ペスト)が社会不安を一気に煽る形となりました。

 

ペストは、総人口の3割以上が死亡したとされ、地域によっては人がいなくなった村もあったとすら言われる、前代未聞の大災害となりました。当時、これを悪魔の仕業と考え、聖書の黙示録にあるように、悪魔とその信奉者たちがキリスト教徒に戦いを仕掛けていると考え、恐怖に怯えるようにさえなったと言われています。

 

また、十字軍の失敗に続く、教会大分裂(大シスマ)(1378~1417)で、ローマ教会の威信が低下し、教会への批判が強まります。カトリック教会はこの批判を抑えるために、ますます、厳しい異端尋問を行うだけでなく、魔女そのものを取り締まる「魔女裁判(魔女狩り)」が行われるようになったのです。

 

15世紀に入ると、異なった信仰を持つ者はもちろんのこと、悪魔と契約した魔女、悪魔の力を呼び出す黒魔術を使う者も積極的に異端審問で裁かれることになりました。「魔女」は異端とは違う悪魔崇拝者として激しい迫害を受けました。密告によって、女性でも男性でも魔女だと訴えられると魔女裁判で拷問にかけられ、自白させられて魔女と断定されると、火刑などに処せられました。魔女裁判が盛んに行われると、「魔女狩り」はあらゆる反社会的存在に及ぶこととなり、その犠牲者が増えていきました。村落内でも、異分子を探し出し異端として弾劾することで秩序を維持する傾向が出てきました。

 

また、社会の中で孤立している弱者を、魔女に仕立て上げて、社会の不満をそらす意味合いがあったとされています。実際、黒死病の流行した時代には、魔女の仕業として、ユダヤ人が捕らえられました。

 

さらに、1414年のコンスタンツ公会議では、聖書中心の信仰を説いたウィクリフフスは、異端として処刑されました。また、英仏の百年戦争(1339~1453)の最中、フランス軍の救世主となったジャンヌ・ダルクも、イギリス軍によって捕らえられ、魔女として焼き殺されました。異端尋問や魔女裁判はしばしば政治的にも利用されたのです。加えて、王権も異端審問を主導するようになり、不満分子を異端として一方的に弾圧したり、財産を没収することが行われました。

 

 

  • ルネサンス・宗教改革と魔女狩り

 

近代の曙と呼ばれるルネサンス時代には、ヒューマニズム思想が興り、人間の尊厳や自由が意識され、文学や科学の面でも新しい知見がもたらされましたが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、時代の流れに対応できませんでした。結果的に、教会の権威はさらに揺るがされました。

 

民衆の中の魔女に対する恐怖心も無くならず、16世紀の宗教改革の時代に、むしろ魔女狩り(魔女裁判)は頻発するようになりました。これは、魔女狩りが、カトリック教会だけでなく、プロテスタント側も盛んに行ったことにあります。新旧両派が、敵対する他宗派の人間を魔女であると告発するようになり、共同体から排除しようとしたからです。彼らの非寛容の行為は、1600年頃を最盛期に、18世紀まで続きました。理性と合理性の時代とされる近代になっても、また魔女の存在は信じられ、恐れられていたわけです。最後の魔女裁判は、イングランドが1717年、フランスが1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、イタリアが1791年という記録が残されています。

 

現在では、異端審判や魔女狩りは、人類史上でもまれな「神の名による大犯罪」とされ、そこに、イエスの精神はほとんどありませんでした。最終的に、ローマ教会は、1971年2月4日、「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、20世紀後半になってようやく、異端と破門の問題は終わりを告げました。

 

 

<参照>

Zorac歴史サイト – 魔女と異端

世界史の窓、Wikipediaなど