2020年09月12日

仏教:最澄と天台宗

今回から「仏教」の投稿については、日本の仏教の歴史を、気の赴くままに紐解いてみたいと思います。まずは、最澄の天台宗についてです。

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  • 智顗と最澄の天台宗

 

天台宗は、隋代において、智顗(ちぎ)(538-597)が天台山(中国浙江省天台県)で開いた、法華経を根本経典とする中国創始の大乗仏教宗派です。宗祖智顗(ちぎ)が講述したものを門人の灌頂が筆録した書である「摩訶止観(まかしかん)」の中に、法華三昧(法華経を通して真理に悟入する方法)の実践が説かれています。

 

日本の天台宗は、伝教大師・最澄(767~822)を開祖として平安時代初期に始まりました(総本山は比叡山延暦寺)。ただし、この時、日本には法相宗や華厳宗など、奈良の南都六宗が中国から伝えられていましたが、中国では天台宗の方が古い宗派でした。

 

804(延暦23)年、還学生(短期留学生)として遣唐使船で唐に渡った最澄は、霊地・天台山に赴き、台州竜興寺で天台大師智顗(ちぎ)の直系である道邃(どうすい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を伝授され、また、天台修禅寺(しゅぜんじ)で行満座主(ぎょうまんざす)からも天台教学を学びました。さらに、越州の龍興寺では順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)から密教を授かり、禅林寺で翛然(しゅくねん)禅師から禅を究めました。

 

最澄は、このように「法華経」を中心として、天台教学()・戒律()・密教()・四宗をともに学び、805年に帰国して、翌年、天台宗を開創しました。天台宗とは、円・密・禅・戒の四宗を、法華経の精神で綜合する(このことを「四宗相承(ししゅうそうじょう)」という)ことによって、大乗仏教全般を布教する宗派(学派)と言えます。

 

天台宗において、一切経(釈迦の経典の総称)を体系づけ、法華経こそが釈迦の多くの経文の中で最高の経典と位置づけられていますが、法華経が絶対というわけではありません。「朝題目夕念仏(あさだいもくにゆうねんぶつ)」という言い方もあり、僧侶たちは、朝は法華経中心、夕方は阿弥陀経を中心に勤めることになっているそうです。

 

ですから、天台宗では、特に定められた本尊(信仰の対象となる仏像)がないとされています。ただし、強いてあげれば、「法華経」を根本経典としているので、お釈迦様すなわち釈迦如来です。また、延暦寺の根本中堂(総本堂)の本尊である薬師如来や、阿弥陀如来なども天台宗の本尊としてあげられます。では、天台宗では何を教えているのでしょうか?

 

 

  • 天台宗の教義

 

法華一乗一乗思想

一乗思想とは、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の教え、とも呼ばれ、一切の生きとし生けるものは、ことごとく仏になる因(仏性)を有しているという意味で、すべての衆生は成仏できると教えています。

 

 

一心三観(いっしんさんがん)

究極の真理は一つであるという考え方に基づいて、空観、仮観、中観の三観を同時に心に観じてさとりを得ようとする修行法をいいます。

 

空観(くうがん):一切の存在には実体がないと現象世界を否定的に観想すること

仮観(けがん):それらは仮に現象していると肯定的にとらえて観想すること

中観(ちゅうがん):この両者がともにそなわってはじめて真理を把握しうる(二つも一つである)として観想すること

 

 

三諦円融(さんたいえんゆう)

実相の真理を明かすものとされた空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦は独立した真理ではなく、それぞれが他の二諦を含んで三者が相互にとけ合っているという考え方です。

 

空諦(くうたい):すべての存在は空無なものであるとする見方

仮諦(けたい):すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする見方

中諦(ちゅうたい):すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする見方

 

 

天台宗の開祖智顗は、この「一心三観」や「三諦円融」などをさらに発展させて「一念三千」を発想(創案)しました。

 

一念三千(いちねんさんぜん)

自分の一瞬の心(一念)に、ありとあらゆる現象(三千の諸法)が備わっていること、言い方を変えれば、日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっているということを悟るために瞑想する修行法をいいます。

 

また、天台宗の中心的修行法に止観があります。止観(しかん)とは「一切の妄念を止めて心を統一し、正しい知恵で、自己と存在の実相(対象)を観察すること」などと定義づけられています。また、天台宗では、実践行も重視し、教観双修(きょうかんそうしゅう)(=止観の実践を教理によって保証し、教理は実践の有効性によって証明される」を標榜しています。

 

 

  • 天台宗の修行

 

修行に関して、前述した四宗(円、密、禅、戒)の教えを融合し(これを四宗融合(ししゅうゆうごう)という)、人それぞれ縁に応じてどの分野から入っても良いとされ、四種三昧と呼ばれる四通りの方法があります。

 

四種三昧(ししゅざんまい)は、比叡山で最も歴史の古い、天台宗の基本的な修行で、中国天台宗の開祖、智顗(ちぎ)が創案した常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種類の行を指します。これらは、智顗が、行の仕方を、動作、唱え方、心、の三方面から分類して、立ち振る舞いの違いから、4つのカテゴリーに分けたものとされています。

 

常坐三昧(じょうざざんまい)

常坐三昧は、静寂な堂内に一人で入堂し、90日間坐り続け、坐禅に没頭する行です。

 

常行三昧(じょうぎょうざんまい)

常行三昧は、約10m四方のお堂の中で行われ、ひたすら阿弥陀様の名前だけを唱えながら、ご本尊の阿弥陀様の周りをまわり続けます。90日間を一期として、僧侶が交替で昼夜24時間歩き続けます。ご本尊の周囲にある手すり(横木)を頼りに歩いたり、天井から下げられた麻紐につかまったりして、歩を休めることはできますが、決して坐臥しません。常行三昧は、念仏を唱える浄土信仰や、密教の普及につながったと言われています。

 

半行半坐三昧(はんぎょうはんざざんまい)

半行半坐三昧では、歩いて行う行と、坐って行う行の組み合わせで、比叡山では五体投地(ごたいとうち)(=両肘両膝と額を地面につけて行う拝礼)や法華経の読誦をしながら行ないます。

 

非行非坐三昧(ひぎょうひざざんまい)

非行非坐三昧は、あらゆる起居動作が仏道につながるとして、毎日の生活そのものを修行とする行です。期間や行法も定まっておらず、かたちを超えた本質に通じなければならないとされることから、逆に難しい修行とされています。

 

 

回峰行

修行には、常行三昧の発展した、峰々を毎日歩きまわる回峯行もあります。比叡山では、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)が有名です。平安時代の高僧、相応和尚(そうおうかしょう)により開創された、千日回峰行は7年間かけて、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。出会う人々すべての仏性を礼拝したとされる常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)(=法華経に出てくる菩薩)の精神を受け継ぎ、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝するものです。

 

 

  • 最澄の生涯

 

次に、最澄の生涯を概観することで、天台宗をさらに掘り下げてみたいと思います。

 

最澄は、767年8月18日、中国後漢の王族で、応神天皇の頃の帰化人の子孫と伝えられている三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、近江の国・比叡山山麓の坂本で誕生したとされています(三津首氏そのものは、新羅系の一族である志賀漢人(しがのあやひと)系とされる)。

 

12歳のときに出家し、近江国分寺に入って、大国師・行表(だいこくしぎょうひょう)の弟子になり修業生活を送ります。15歳で、国分寺僧として得度(受戒すること=戒律をうけ僧として認めれる)し、名を最澄と改めます。翌年785年4月、東大寺の戒壇に入って、正式な具足戒(ぐそくかい:僧の守るべき戒律)を受戒し、国家公認の僧となりました。

 

しかし、同年7月、世間の無常を観じ、出奔し、故郷の比叡山に登って禅行生活(山岳修業)に入りました。この間、日本に初めて戒律を伝えた鑑真がもたらした天台大師・智顗(ちぎ)の著書にふれ、天台教学に傾倒するに至ったとされています。788年、21歳のときに、自ら彫った薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)という草庵を建てました。この小堂が延暦寺に発展することになります。

 

それから6年後、桓武天皇が平安京に遷都しました。都の東北に位置する比叡山にある一乗止観院は、仏法力で都の鬼門を守る守護寺と位置づけられるようになりました。797年、和気清麻呂で有名な和気氏(わけうじ)の推薦で、国家安泰を祈り天皇に助言する内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命され、その後、和気氏の氏寺である高雄山神護寺で行われた天台会で講義を行うようになりました。

 

こうした和気氏とのつながりから、最澄は入唐還学生(げんがくしょう)(=短期の国費留学生)に選ばれ、803年、遣唐使として唐に渡りました。奇しくもこの入唐船の一行に空海も含まれていました。二人は互いに面識はなく、航海中の交流はなかったとされています。

 

明州に到着した最澄は、既に紹介したように、天台山にて、天台教学を究め、さらに密教と禅と戒律の伝授も受けるなど、在唐わずか9ヵ月の間に、仏教の総てという意味の「円密禅戒」を受け継ぎました(これを「四種相承」という)。帰国後、最澄は唐で学んだ円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を綜合する天台宗(天台法華宗)を、806年に立宗しました。

 

ただし、四宗すべてを伝授されたと言っても、1年に満たない滞在期間では限界があり、天台教学ほど、密教を究めていたわけではありませんでした。しかも、最澄らを遣唐使として送った桓武天皇が期待していたのは、新しい密教に関する知識や法具であったと言われています。当時、朝廷は、それまで政治に関与し圧力をかけてきた奈良仏教と一線を画すためにも、密教を中心とした新しい仏教の導入をめざしていました。

 

その意味で、最澄は、完全に期待に応えらなかった状況でしたが、それでも、天皇の命により、不十分ながら、密教儀式や祈祷を行っていました。

 

そこで、最澄は、同じ遣唐使として密教を究めて帰国した空海から教えを請おうと、812年、空海が唐から受け継いだ仏縁儀式である結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け、師弟関係を結びました。この時、最澄45歳、空海38歳でした。

 

しかし、友好な関係は長く続きませんでした。最澄が空海に経典「理趣経(りしゅきょう)(=完全なる悟りへの道を述べた経典)」の解説本を借りたいと申し出たところ、これを拒絶されたことや、最澄の愛弟子であった泰範が、空海の教えに心酔し、ついには最澄から離れていってしまった「事件」があり、両者は袂を分かつことになってしまったのです。さらに、後ろ盾だった桓武天皇が崩御されたこともあって、最澄は、密教の教えを究めることを断念します。

 

そこで、最澄は、晩年の目標を、比叡山に大乗戒壇院を創設することに注力しました。戒壇院とは、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるための施設で、奈良時代、渡来僧鑑真が初めて東大寺に設置し、最澄の時代、東大寺以外には、薬師寺(下野)と観世音寺(大宰府)の合わせて3か所しかありませんでした。しかも3つの戒壇院は南都六宗に属していました。そこで、天台宗の僧侶たちが東大寺で受戒しなければならないことを嫌がった最澄は、大乗仏教である日本には独自の戒律が必要であると訴え、運動しますが、南都仏教の官僧の抵抗を受け続けました。

 

結局、最澄は、822年6月4日、55歳で入滅しました。866(貞観8)年に、伝教大師と諡(おくりな)を受け、日本では最初の大師号となりました。

 

なお、その死から7日後、最澄を支持していた時の実力者、藤原冬嗣の協力もあって、延暦寺に大乗戒壇院の開創の許可が下りています。また、生前、最澄が実現できなかった天台宗における密教の確立も、最澄の弟子たちによって完成されることになるのです。

 

 

  • 最澄後の天台宗

 

天台宗はもともと密教を含んでいましたが、最澄の死後、天台宗では、円仁(えんにん)(794〜864)や円珍(えんちん)(814〜891)など、唐に渡り、密教を学び習得する高僧が相次いで現れ、加持祈祷を行う天台密教が確立されました(真言宗の東密に対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる)。

 

こうして、最澄後の天台宗は、法華経の教えよりも天台密教が盛んになっていきましたが、円仁などは、唐から密教のほかに、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている五台山の浄土念仏を伝え、日本に浄土教や浄土思想がもたらされました。

 

一方、比叡山では10世紀半ばには宗門の争いから僧兵が跋扈し、天台宗自体、山門派(さんもんは)、寺門派(じもんは)、真盛派(しんぜいは)などと分裂していきました。

 

具体的には、円仁と円珍との密教をめぐる仏教解釈の相違から,その末流が対立し、993年に、円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったことをきっかけに,円珍門下の余慶が比叡山延暦寺を下り園城(おんじょうじ)に入って独立し、寺門派となりました。円仁門流は、そのまま延暦寺にて山門派と称しました(園城寺は現在、三井寺(みいでら)と称する)。

 

また、室町時代になると、円戒国師・真盛(しんせい)(1443~1495)が、滋賀県大津市坂本の西教寺に入寺して繁栄させ、戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えて、真盛派を形成していきました。

 

山門派:比叡山延暦寺、慈覚大師・円仁

寺門派:園城寺(三井寺)、智証大師・円珍

真盛派:西教寺、円戒国師・真盛

 

 

  • 時代の魁

 

天台宗の教義は、総合仏教でしたので、総本山の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は「総合大学」としての性格を持ち、数々の名僧を輩出しました。特に、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮といった新仏教の開祖(宗祖)の多くが、若い日に比叡山で修行していることから、比叡山は「日本仏教の母山」とも称されます。各宗祖は、天台宗の教えの一部、その教えの専門的な教えを説き、鎌倉仏教の多くの宗派が生まれました。

 

このようにみてみると、最澄が日本における仏教の発展に果たした役割は極めて大きいことがわかりますね。

 

 

<参照>

最澄|新版 日本架空伝承人名事典

最澄とはどんな人物?簡単に説明

仏教の歴史〈下〉 ~天台教学が日本へ 最澄が中国で学ぶ …

Wikipediaなど