2020年07月19日

世界史:アメリカ独立戦争とフランス革命

7月は、アメリカの独立戦争と、フランス革命が起きた月です。どちらもその後の世界の歴史に大きな影響を与えた出来事でした。世界の三大市民革命に数えられる、二つの「事件」を概観してみます。ただ、この2つの市民革命が起きた背景には、その約100年前から始まったイギリスとフランスの植民地戦争がありました。今回はこの時代から紐解いてみましょう。

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  • 英仏植民地戦争

 

18世紀は、イギリスとフランスが覇を争った世紀という言い方ができます。舞台は、欧州での戦争に関連した北米とインドでした。

 

イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウン(バージニア州)の建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタン(清教徒)や毛織物工業の失業者などが移民してきました。

 

フランスも17世紀初めから北米に進出し、ケベックを中心にカナダを支配し、ミシシッピ川流域にもルイジアナ植民地を設立しました。18世紀には、ガドループなどカリブ海の砂糖植民地をも発達させました。

 

両国は、以下のように、欧州での戦争に関わりながら、時を同じくして北米やインドの植民地でも争い、ほぼ全ての戦いでイギリスが勝利しました。

 

ファルツ戦争⇒ウィリアム王戦争(北米)

スペイン継承戦争⇒アン女王戦争(北米)

オーストリア継承戦争⇒ジョージ王戦争(北米)

七年戦争⇒フレンチ・インディアン戦争(北米)、プラッシーの戦い(インド)

 

ファルツ戦争(1689~97)

フランスのルイ14世が、ドイツの選帝侯ファルツ伯領の相続問題に乗じて、継承権を主張し、領土の割譲を求めましたが、反対するドイツ諸侯に味方して、イギリスが、スペイン・オランダとともにフランスと戦った戦争。

 

 

スペイン継承戦争(1701~13)

スペインの王位継承をめぐり、ルイ14世が孫をスペイン王に即位させたことから、イギリスはオーストリア、オランダと対フランス同盟を結び戦いました。この戦いに対応して起きた北米でのアン女王戦争の結果、イギリスはフランスからニューファンドランドやハドソン湾沿岸などを獲得しました(ユトレヒト条約)。

 

 

オーストリア継承戦争(1740~48)

オーストリアの女帝マリア・テレジアの継承をめぐり、プロシアのフリードリヒ2世が異議を唱えたことがきっかけとなって、英仏西を巻き込んだ国際戦争に発展しました。イギリはオーストリアと組んで、プロシアを支援したフランス・スペインと対抗しました。

 

 

七年戦争(1756〜1763)

オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして起こした戦争で、フランスは、ロシアともにオーストリアを支援して、プロシアについたイギリスと戦いました。

 

この時、16世紀以来、宿敵同士であったフランスのブルボン家と、オーストリアのハプスブルグ家が組むという「同盟の逆転」が起きました(「外交革命」と評された)。両家の和解の印として、ハプルスブルク家のマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)が、フランスのルイ16世に嫁ぎました。

 

七年戦争と並行して戦われた、北米でのフレンチ・インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いは、両国の植民地獲得競争の最終決戦となりました。戦後、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナなどをえました(パリ条約)。

 

この条約によって、フランスは、一時、北アメリカ大陸での植民地をすべて失いました。逆に、イギリスは、カリブ海の西インド諸島とアメリカ大陸の13植民地を中心とした広大な帝国を完成させました。

 

インドでは、イギリス東インド会社軍が、フランスとムガル帝国ベンガル太守の連合軍を破り、インドにおけるイギリスの優勢を確立しました。敗れたフランスは、インドから撤退し、インドシナ(ベトナム・カンボジア)に進出の方向を求めることになるのです。

 

このように、欧州の覇権を目指すフランスに対して、イギリスがオーストリア、またはプロイセンなどと同盟して戦いました。また、同時にアメリカ新大陸・インド植民地でも両国は衝突しましたが、ほぼイギリスの勝利に終わりました。

 

しかし、負けたフランスは言うまでもなく、勝ったイギリスもこの後、大きな犠牲を払うことになります。両国とも、長い戦いの間に財政がひっ迫、その戦費捻出のために、増税策をとろうとしました。イギリスでは植民地アメリカに対する新たな課税からアメリカの独立、フランスでは特権階級への課税をきっかけに、革命によって政体そのものの倒壊するのです。

 

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  • アメリカ独立戦争

(1774年7月4日:米独立記念日)

 

イギリス人は、1607年のバージニア植民地を皮切りに、1732年のジョージア植民地まで、北アメリカの東海岸地帯に13の植民地を作り入植しました。1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれるなど、18世紀前半までに、イギリスの植民地アメリカは、それぞれ植民地議会や大学の設立といった自治的な政治体制を持っていました。

 

このように、アメリカの植民地の人とその子孫に、本国イギリス国民と同じ権利が与えられるとされましたが、13の植民地それぞれの代表をイギリス本国の議会へ送ることはできませんでした。ですから、植民地の人たちは、イギリス本国の植民地政策に口をはさむことはできなかったのです。こうした状況下、イギリスは、前述したように、度重なるフランスとの植民地戦争による負債を賄うために、植民地アメリカへの課税を強化しました。

 

 

「代表なくして課税なし」

 

イギリスは、1765年、植民地アメリカで発行される証書・新聞・広告などの印刷物に印紙税を課す(印紙を貼る)ことを定めた印紙条例印紙法)を制定しました。これに対して、植民地側は、「代表なくして課税なし」とする反対運動を起こし、条例は翌年、撤回されましたが、1773年4月には、イギリス東インド会社に、植民地アメリカへの茶の専売権を与えた茶法茶条例)を課しました。

 

これに強く反発した植民地側の貿易商人など一部の急進反対派は、同年12月、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱を海中に投棄する行動に出ました(ボストン茶会事件)。

 

イギリス当局は犯人を捕らえようとしましたが検挙できず、激高したイギリスは、翌1774年、報復措置として、ボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定し損害賠償を求めました。しかし、反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、これを拒否、アメリカの植民地代表は、1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定しました。

 

 

「独立宣言」と「独立戦争」

 

そんな中、ボストン市民5人(植民地民兵)が、駐留英軍に殺傷される事件を機に、1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが武力衝突して、アメリカ独立戦争が勃発しました。さらに、植民地側は、同年5月、第2回大陸会議を開き、ジョージ・ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を遂行します。

 

1776年1月には、トマス=ペインが政治パンフレット「コモン=センス」を発行、「万機公論に決すべし」と唱えて、独立の機運を高めさせます。13植民地の政治的立場はまちまちであったので、世論を一つにして、独立の必要性を訴えたのです。

 

さらに、1776年7月4日、大陸会議で、トーマス・ジェファソンらが起草した「独立宣言」を発して、東部13州の独立を宣言しました。独立宣言では、生命・財産および幸福追求の権利という自然権、主権在民などの基本的人権、社会契約論に立つ政府の役割、暴政に対する革命権などが述べられており、独立の正当性が表明されています。また、随所にジョン・ロックの啓蒙思想の影響が見られていることも特徴です。

 

次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国としました。ただし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体に過ぎず、中央政府の権限は弱い状態でしたので、戦争遂行能力に懸念がありました。

 

しかし、アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦しました。七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランスは、1778年、アメリカ合衆国の独立を承認し、軍事同盟を結んで上でイギリスに宣戦を布告しました。1779年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦を行いました。

 

さらに、アメリカ独立戦争に際して、イギリスは、イギリスを支援しない中立国の船舶を捕獲するという海上封鎖を宣言すると、これに反発したロシアの女帝ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルの参加する武装中立同盟が、1780年に成立しました。また、多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦するなど、イギリスは国際的にも孤立していったのです。

 

こうして、戦局はアメリカに有利に作用し、1781年のヨークタウンの戦いで、イギリス軍は大敗を喫すると、アメリカ側の勝利が確定しました(実質的な戦争終結)。その後、1783年にパリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認し、ミシシッピ以東の広大なルイジアナを割譲しました。

 

 

合衆国憲法とワシントン大統領

 

独立後のアメリカ合衆国では、連邦政府の樹立を望む声が高まったことを受けて、1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、アメリカ合衆国憲法が制定されました。連邦中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めた憲法は、1788年に9州が批准して発効しました。翌1789年、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンが就任し、連邦政府が発足しました。

 

このように、20世紀以降、世界に君臨するアメリカ合衆国が誕生したわけですが、最後に、アメリカの建国に貢献したもう一人の人物を紹介して、次のフランス革命に進みたいと思います。その名は現在、米100ドル紙幣の肖像画にもなっているベンジャミン・フランクリンです。

 

フランクリンは、1774年の独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスに渡り、フランスの対英参戦に向けて尽力したとされています。1783年のパリ条約(1783)の締結交渉にも参加するなど、アメリカ合衆国の建国に向けて内外を奔走しました。

 

 

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  • 絶対王政期のフランス

 

アメリカの独立戦争(独立革命)に続き勃発したフランス革命を解説する前に、革命を誘発させる原因となったフランスにおける絶対王政期の状況を見てみましょう。フランスの絶対王政といえば、ブルボン家のルイ14世が連想されると思います。

 

フランスの絶対王政は、ルイ14(在1643~1715)のときに黄金時代を迎えました。ルイ14世は、5歳で即位し、当初、宰相マザランが補佐しました。マザランは、まず、ドイツの宗教戦争である30年戦争(1618~1648年)に干渉し、アルザス地方を獲得するなどライン川方面に領土を拡大する成果をあげました。対内的にも、増税政策に反発したフロンドの乱(1648~53年)と呼ばれる貴族たちの反乱も起こりましたが、鎮圧後は絶対王政が強化されました。

 

ルイ14世は、宰相マザランの死とともに、1661年に(君主が自ら政治を行う)親政を開始しました。内政では、強力な軍隊を背景に、また思想的には(国王の権力は神から授けられたとする)王権神授説に基づいて、王権を強化しました。壮大なべルサイユ宮殿が建造されたのもこの時代です。

 

実質的に政策の舵をとったのが、蔵相(財務統監)コルベールで、官僚制を整備し、王政を支える富の源を商業に求め、重商主義政策をとりました。国内の商工業、特に大商人を保護・育成するために、主要産業の国家統制や、特権マニュファクチュアの設立を行いました。

 

ところが、カトリック教徒であるルイ14世は、カルバン派(フランスではユグノーと呼ばれた)の信仰の自由を認めたナントの勅令を1685年に廃止し、商工業者の多数を占めるユグノー勢力を弾圧します。そのため、ユグノーらは海外へ亡命し、フランスの経済に深刻な打撃を与えました。こうした国内の不満をそらす目的もあって、前述したファルツ継承戦争やスペイン継承戦争など数度の侵略戦争を行いました。

 

また、次のルイ15(在1715~74)の時代でも、フランスは、オーストリア継承戦争と七年戦争にからみ、北米やインドでの植民地戦争を継続させました。加えて、ルイ16(在位1774~92)の時代では、アメリカの独立戦争で、スペインなどとともに植民地側を支援し、イギリスに参戦しています。

 

しかし、度重なる対外戦争や干渉戦争で、国民は疲弊し、財政も窮乏したことは、フランス革命の遠因となったことは既に説明した通りです。もっとも、財政の悪化を受け、ルイ16世は、テュルゴーやネッケルらを蔵相に任命し、財政改革を試みましたが、特権身分の抵抗により失敗に終わっています。

 

 

  • フランス革命

(1789年7月14日)

 

「旧体制」と「三部会」

革命前のフランスでは、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の商工業者、都市民衆、農民など平民から構成されたアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれた政治社会制度が成り立っていました。

 

そのアンシャン・レジーム(旧体制)にあって、絶対的な権力を握っている国王と、免税特権をもっていた第一身分と第二身分の特権階級の下で、重税に苦しんでいた都市の民衆や農村の小農貧困層(平民)が、暴動を起こすなど不安定な状態が続いていました。

 

一方、第一身分から第三身分の代表者が出席する「三部会」という身分制議会も存在していましたが、絶対王政が確立した17世紀のルイ14世の時代には、三部会は召集されませんでした。ところが、18世紀に財政難となった国王ルイ16世が免税特権を有していた聖職者や貴族に課税を試みると、彼らは国王に対して、三部会の召集を要求します。これを受け、1789年5月、国王は、三部会を約170年ぶりに開催されたのです。

 

 

「国民議会の結成」と「球技場の誓い」

 

しかし、特権を持つ第一・第二身分と、第三身分は議決方法をめぐって対立し、会議は分裂してしまいました。そこで、憲法を制定して改革を求める第三身分の代表は、三部会を脱退し、三部会から独立した国民議会を結成しました。彼らは、国民議会(憲法制定国民会議)こそ国民を代表する機関であると宣言し、1789年6月、「憲法が制定されるまで解散しない」との誓いを、ベルサイユ宮殿内の球技場に集まり、宣言します(テニスコートの誓い球技場の誓い)。この国民議会に、第一身分、第二身分の中から合流する者もでてきました。

 

 

「バスティーユ牢獄の襲撃」と「人権宣言」

 

この時、ルイ16世は、会議場を閉鎖して妨害し、国民議会を武力で弾圧しようとしたことから、これを知ったパリ民衆の絶対王政に対する不満は頂点に達し、1789年7月14日、圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄が襲撃されました。フランス革命の勃発です。この事件を契機に、全土で農民蜂起も起きました。

 

1789年の8月4日、国民議会は、国王の封建的特権の廃止を決定し、フランス人権宣言を採択しました。宣言では、アンシャン・レジーム(旧制度)の解体と、自由・平等に基づく基本的人権、国民主権、所有権の不可侵などの理念が明らかにされました。

 

 

ヴァレンヌ逃亡事件

1789年9月には、女性を中心とする市民が、ヴェルサイユ行進を行い、ルイ16世一家をヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に連行しました。幽閉という状態ではありませんでしたが、革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は、1791年6月、王妃マリー=アントワネットの実家のオーストリアへ逃亡しようと密かにパリを脱出しましたが、途中で発見されて連れ戻されました。ヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれるこの出来事で、国王は国民の信頼を失いました。

 

 

「1791年憲法」と「立法議会」

 

一方、革命は進展し、人権宣言を踏まえ、1791年9月にフランスにおける最初の憲法(1791年憲法)が制定されました。憲法は、(王政下で憲法に準ずる政治体制である)立憲君主政を謳い、(男子)制限選挙制(財産資格選挙)などが規定されました。憲法を制定して役割を終えた国民議会は解散し、1791年憲法に基づき、新たに立法議会が召集されました。

 

立法議会では、はじめ立憲君主派のフイヤン派が優勢でしたが、ヴァレンヌ事件で王政そのものを否定する声が高まり、やがて穏和(王政を認めない)共和派のジロンド派が主導権を握るようになりました。

 

フイヤン派:立憲君主政を主張(国王の処刑に反対)

ジロンド派:穏健な共和派(国王の処刑に反対、革命の深化に反対)

ジャコバン派:急進的な共和派(国王の処刑や封建制の無償廃止を主張)

(共和派は王政に反対)

 

 

対外オーストリア戦争

 

外交面では、1792年3月に成立したジロンド派内閣は、1792年4月20日、革命を非難したオーストリアの干渉を排除するために、オーストリアに対して宣戦しました。(形式的には、国王が議会でオーストリアに対する宣戦布告を提案、議会は満場一致で可決した)。オーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦して、革命戦争が始まりました。

 

しかし、フランス軍は旧体制下の国王軍を主体にし、指揮官には貴族出身者が多く、兵士も戦闘意欲に欠け、各地で敗戦を続けました。このままではオーストリア・プロイセン軍が国境をこえ、パリは占領される情勢となりました。フランス国内でも反革命の暴動が起こり、革命は大きな危機に陥ります。

 

しかし、同年7月、議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を行うと、各地の義勇兵が、続々とパリに集まってきました(この時、マルセイユからやってきた義勇兵たちが歌っていたラ=マルセイエーズは後にフランス国歌になったと言われている)。また、パリではこのころからサンキュロットといわれる革命派の下層市民も、運動を開始しました。

 

 

8月10日事件

 

このような情勢の中で、1792年8月10日、ジャコバン派(急進共和派)の指導の下、パリのサンキュロットが義勇兵とともに蜂起し、テュイルリー宮殿に進撃しました。市街戦の結果、宮殿は陥落し、この時、議場に逃れようとした国王ルイ16世一家は捕らえられました(「8月10日事件」、あるいは「第二革命」とも評される)。

 

立法議会は、王権の一時停止と、新憲法制定のために立法議会に代わる新しい「国民公会」の開設を決議して解散します。臨時内閣には、蜂起を扇動したジャコバン派(山岳派)のダントンは、「8月10日の男」と呼ばれ脚光を浴び、司法大臣に任命されました。また、この時、国王一家はタンプル塔に監禁される事になりました。

 

 

ヴァルミーの戦い

 

一方、オーストリアとの対外戦争では、8月11日、プロイセン軍が国境を越えてフランス侵入、9月始めには首都近郊のヴェルダンを陥落させるなど、パリに迫ってきました。しかし、1792年9月20日に、パリ東部のヴァルミーの戦いで、義勇兵中心のフランス革命軍が、反革命を掲げるオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、危機は回避されました。(この時、ルイ16世夫妻は投獄された)。

 

<逸話>

ヴァルミーの戦いとゲーテ

 

ヴァルミーの戦い(1792年9月)には、ドイツの文豪ゲーテ(1749~1832)もプロイセン軍中にいた。ゲーテは、フランス勝利を受け、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記したとされる。

 

ゲーテ(1749~1832):シラーと並ぶ独ロマン主義文学の巨匠。作品に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」などがある。

 

 

 

「第一共和政」と「恐怖政治」

 

また、9月20日は、フランスで初めて実施された男子普通選挙後、国民公会が召集された日でした。新議会では、外国勢力の干渉に対する「革命の勝利」の勢いのまま、王政の廃止を決議し、フランスは、ロベスピエールらジャコバン派主導で第一共和政(1792~1804)に移行しました。

 

 

*共和政:国家の主権が君主(国王)ではなく、貴族やブルジョワジーなど複数の人間に属している政治体制。現在のフランスは第五共和制である。

 

*ルソー(1712~78):フランス革命期の思想家の代表。その著書「社会契約論」で、人民主権に基づく共和制を主張、特にジャコバン派に影響を与えた。

 

 

その翌年1793年の1月には、ルイ16世が革命勢力によって処刑され、以後、ロベスピエールらによる「恐怖政治」(=ジャコバン派の独裁政権)が行われていきます。国王の処刑は、革命の波及を恐れる君主国であるオーストリア、プロイセン、スペインや、フランスの大国化を恐れるイギリスなど周辺国の利害が一致し、ヨーロッパ諸国は、第一回対仏大同盟(1793~97)を組んで、フランスの革命政権を打倒することを目指しました。

 

一方、1793年6月には、ジャコバン政権は、憲法(1793年憲法ジャコバン憲法)を制定しました。古い伝統が否定され、自由・平等、所有の自然権、人民主権、人民の労働または生活を扶助する社会の義務、抵抗権の保障が謳われました。また、男子普通直接選挙制、重要法案に対する一種の人民投票を定めるなど、極めて民主的な内容で、フランス憲法史上初の人民投票で成立しました(ただし、当時の非常事態のため、実施が延期され、結局は施行されなかった)。

 

その一方で、革命防衛の理念に基づき、徴兵制が実施され、フランス軍が国民軍に変身しました。この結果、対仏大同盟による近隣諸国との戦局をフランス優位に転換させることに成功しました。それでも、フランス革命の情勢は、国内でも農民の反乱が頻発するなど、内外ともに危機にあったと言えます。

 

そこで、ロベスピエールらジャコバン派は、内政と戦争などの権限を公安委員会に、また反革命運動を取り締まる権限を保安委員会に集中させ、革命の成就を最優先させました。また、革命裁判所に、予審、弁護人、証人無しでの裁判を認めるなどして、反革命勢力の根絶を目指しました。王妃のマリ=アントワネットなど旧王族、ジロンド派の幹部など政敵、反乱に加わった多数の農民ら多数が処刑されました。

1794年に入ると、ジャコバン派内部でも、革命路線から外れたとして、ダントンら有力者がギロチンに送られました。4月には、独裁体制を強め、ロベスピエールの恐怖政治は頂点に達しました。

 

しかし、ロベスピエールの余りの急進的なスタンスに、それまでジャコバン派を支えていたパリ市民のサンキュロットや、国民公会の多数がロベスピエールから離反していきました。そして、ロベスピエールも、1794年7月のテルミドールの反動(テルミドールのクーデター)で失脚し、ギロチンで処刑され、恐怖政治は終わりを告げました。

 

 

総裁政府とナポレオン

 

ロベスピエールら急進派の粛清によって、過激な革命運動は沈静化し、穏和共和主義者らによる総裁政府(1795~1799)が、1795年憲法によって成立しました。1795年憲法は、私有財産の不可侵を掲げ、ブルジョワ有産者階級の利益を守ることが目指されました。政府は5人の総裁からなる集団指導体制がとられ、二院制の議会が立法を担当しました。選挙制度は一定の納税者のみによる制限選挙で間接選挙でした。

 

総裁政府は、王党派による王政への復帰や、共和派によるジャコバン独裁の再現を防止する意図も持っていましたが、常に、左右両派から脅かされることになりました。

 

1795年10月、王党派は、総裁政府の転覆をねらってパリで武装蜂起しましたが、当時26歳の軍人、ナポレオンが鎮圧しました(ナポレオン台頭のきっかけ)。1796年春には、革命家のバブーフが、私有財産制の廃止を唱えて武装蜂起し政府を転覆しようとしたという容疑で逮捕される「バブーフの陰謀」事件が発生しました。

 

このように、穏健な総裁政府による治世で、国内での政情不安が強まり、また対仏包囲網が続くなど、対外的にも不安的な状況下、強力な指導力と軍事力を持った指導者が待望されるようになりました。これに応えたのが、王党派の反乱を鎮圧した後、国内軍最高司令官に抜擢されていた将軍ナポレオン=ボナパルトです。ナポレオンは、1799年11月、共和暦ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒、自らを第一統領とする統領政府を樹立し、革命の終結を宣言しました。

 

こうして、バスチーユ牢獄への襲撃から始まったフランス革命は、ナポレオンの台頭によって、ようやく終結に至ったのでした。この後、欧州は、皇帝ナポレオンの時代を迎えます。

 

 

フランス革命とは?

では、最後に、フランス革命の歴史的な意義を考えてみましょう。

 

フランス革命は、アンシャン・レジーム(旧体制)下、社会の矛盾、貧困に対する民衆の蜂起で、長年の封建的社会体制を打破しました。結果として、財産権や営業の自由など経済の自由を獲得したブルジョワジー(新興市民層)が、革命の担い手となり、歴史の表舞台に立ちました。また、この革命は、自由・平等・友愛の理念ともに、民主主義の端緒を開いた近代史上もっとも重要な事件として、歴史的に高く評価され、世界各国国民に大きな影響を与えました。

 

ただ、その一方で、イギリスの思想家バークは、フランス革命を、伝統的な価値感を破壊しただけに過ぎないと批判し、その後の保守主義の潮流が生まれたという側面も記憶に留めておくべきでしょう。