2020年07月06日

キリスト教:イエスの十二使徒たち

今回は、原始キリスト教(初期教会)の確立に、生涯を伝道に捧げ、大半が殉教していった十二使徒と呼ばれるイエスの12人の弟子たちをみてみたいと思います。
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  • 十二使徒(The Twelve Apostles)

 

使徒とは、原始キリスト教会において最重要の地位を占め,大きな権限を委託された指導者群をさし、イエスは福音を伝えるために、12人の弟子を選んで、使徒と名づけました。

 

  • ペトロ(Petrus

(ヘブライ名シモン、英語名ピーター、仏語名ピエール、ロシア名ピョートル)。

 

ガリラヤの漁夫ペトロは、12使徒の最長老で、イエスの一番弟子、初代教会の指導者となりました(カトリック教会では初代ローマ教皇)。ガリラヤ湖で弟アンデレと漁をしている時にイエスに声をかけられ、最初の弟子になったとされています。

 

ペトロは、ローマで布教していましたが、AD67年、皇帝ネロの迫害により逆さ十字架にかけられて殉教しました。ローマのサンピエトロ大聖堂に埋葬されています。

 

 

  • アンデレ(Andreas

 

アンデレはペトロの弟で、兄ペトロとともにイエスの弟子になりました。元は、イエスと同様、洗礼者ヨハネの弟子です。アンドレは、黒海沿岸で伝道を行っていましたが、ギリシアのパトラ(Patras)でX字型の十字架で処刑されました。

 

 

  • 大ヤコブ(Jacobus

(英語名ジェームス、仏語名ジャック)

 

ヤコブは、同じ12使徒の一人、アルファイの子のヤコブ(小ヤコブ)と区別するために、大ヤコブ、またはゼベダイの子ヤコブと呼ばれます。

 

大ヤコブは、ヨハネの兄で、ペテロ、ヨハネと共にイエスの一番弟子とされています。イエスの死後、スペインで、6年間布教活動を行った後、エルサレムに戻り、最初のエルサレム教会の指導者となりました。しかし、当時は、パレスチナの王ヘロデ・アグリッパによるキリスト教迫害が激しさを増していた時で、44年頃、ヤコブは捕らえられ斬首刑になりました。使徒の中で最初の殉教者でした。

 

ヤコブの弟子達は、遺骸をパレスチナからスペインに運びましたが、その後、スペインはイスラムの勢力下に入り、その場所はわからなくなりました。しかし、9世紀になって、レコンキスタ(イスラム勢力からの国土回復運動)が進む中、ヤコブの遺体が、サンティアゴ・デ・コンポステーラの地で奇跡的に発見されました。以後、その場所は、イスラムと闘うキリスト教徒を守護するシンボルとなり、ヤコブはスペインの守護聖人と崇められるとともに、サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ローマ、エルサレムと並ぶ大巡礼地になりました。

 

 

  • ヨハネ(Johanne

(英語名ジョン、仏語名ジャン、露語名イワン、

女性形では、ジョアンナ、ジャンヌ、ジャネット)

 

大ヤコブの弟のヨハネは、ガリラヤの漁師の子で、アンドレと同様、イエスを洗礼した洗礼者ヨハネの弟子です。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子という位置づけで、気性が荒い性格で、イエスから「雷の子」というあだ名を付けられたと言われています。

 

ヨハネは、常にイエスと行動を共にしましたが、12使徒の中で唯一殉教を免れ、晩年をエーゲ海のパトモス島で過ごしました。また、新約聖書の「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの黙示録」を記したことでも有名です。

 

 

  • フィリポ (Philippe

(英語名フィリップ、スペイン語名フェリペ)

 

フィリポは、ヨルダン川の岸辺にいたところを、イエス自身が「私についてきなさい(使徒になるように)」とイエスに直接招かれて、弟子になりました。

 

使徒としてのフィリポの活躍の中には、例えば、エルサレムで、エチオピアの女王カンダケに仕える高官(宦官)に、イエスについて福音を伝え、洗礼を受けさせましたという事例があります。使徒行伝によれば、この宦官が洗礼を受けた最初の非ユダヤ人とされています(この高官は、エチオピアに戻り教会を設立し、エチオピアや北アフリカには、かなり早い時期にキリスト教が普及することに貢献した)。

 

その後、フィリポは、トルコ西部で宣教を行いました。そこで、神殿の軍神マルス(ギリシャ神話のアレース)の立像の下から現れた龍を退治し、龍の毒で病気になった人たちを癒し、死んだ者を生き返らせ、大勢の人々を改宗させたという逸話が残されています。

 

さらに、ヒエラポリスという町へ移動したフィリポは、エピオン派(ユダヤ教の要素を取り入れたキリスト教徒)の多くを改宗させましたが、異教の神官らに捕らえられ、逆十字に縛られた上、石打ちにされて処刑されました。この時、フィリポの娘2人も殉教したと伝えられています。

 

 

  • バルトロマイ(Bartholomew

(英語名バーソロミュー、バート)

 

バルトロマイ(別名ナタナエルNathanael)は、フィリポの友人で、フィリポのすすめで、イエスに会いに行きました。この時、イエスから「あなたは、真のイスラエル人。この人には偽りがない」と言われたことに感激して、フィリポとともに弟子になりました。

 

イエスの死後、インドからアルメニアで伝道活動をしていましたが、捕らえられて生きながら皮を剥がされる「皮剥ぎの刑」で殉教したとされています。

 

 

  • トマス(Thomas

(英語名トーマス、トム、トミー、仏語名トマ)

 

ガリレア地方の生まれで、ゲネザレト湖畔で漁師をしていたトマスは、イエスの弟子になり、イエスの「最後の晩餐」にも同席していますが、「疑い深いトマス」とのあだ名をつけられました。

 

復活したイエスは、弟子が集まったところに現れましたが、その場にいなかったトマスは、「イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じない」と言い張り、イエスの復活を信じようとしませんでした。

 

しかし、8日後、イエスはトマスの前にも現れ、「あなたの指を私の手とわき腹に入れてみなさい」と述べられたことで、トマスは復活を信じたとされています。その後、トマスはイエスの昇天に立ち会い、聖霊降臨の際には、聖母マリアや他の使徒たちとともに聖霊の賜物を受けたそうです。

 

こうした体験を受けて、トマスは宣教に立ち上がり、東方に赴きました。ペルシャで説教した後、南へ向かい、インドで伝道を行いました(南インドにはトマスが設立した教会がある)が、西暦68年~75年ごろ、チェンナイ(旧マドラス)のマイラプールという所で、ブラマン教徒により槍で刺されて殉教したと伝えられています。

 

 

  • マタイ(Matthaeus

(英語名マシュー、仏語名マテュー)

 

マタイは町の徴税人で、ユダヤ人社会からのけ者にされていました。当時、徴税人は、ローマ帝国から徴税業務を請け負った者で、貪欲な者がなる仕事とみなされ、住民からは嫌われていたのです。

 

ある日、イエスは収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけると、マタイは立ち上がって、徴税人の仕事を辞め、イエスの後に従いました。その後マタイは、裏切り者扱いされ嫌われている自分に声をかけてくれたイエスに、感謝を表すために、イエスと弟子たちを招待して盛大にもてなしたという逸話があります。

 

イエスの死後、当初エルサレムの教団内に留まったマタイは、その後、使徒として各地で伝道を行いましたが、エチオピアあるいはトルコ(ヒエラポリス)で殉教したとされています。ある教会の説教で、その地の王を批判するような内容であったため、その王が送った刑吏に刺殺されたと言われています。

 

マタイは、紀元80年から90年頃に書かれたとされる新約聖書「マタイの福音書」の著者でもあります。

 

 

  • シモン(Simon

(英語名サイモン)

 

シモンがイエスの弟子になったきっかけは、イエスを、ローマ帝国からユダヤの地を解放してくれる政治的指導者として期待したからだとされています。というのも、シモンは、ローマの支配に抵抗する「熱心党」と呼ばれる組織のメンバーでした。

 

熱心党は、紀元6年に、ローマのユダヤ総督が実施しようとした国勢調査に反対することをきっかけとして立ち上げられたガリラヤのユダヤ人が組織で、ユダヤの地を支配する外国勢力(ローマのこと)を認めず、戦ってでも独立の目的を実現しようとする国粋主義的な団体です。当初は、それほど影響力はなかったようですが、次第に民衆の支持を得て、紀元66年に、ローマ帝国に反乱を起こし(ユダヤ戦争)、反乱軍の中心的な存在となって、時の皇帝ネロのローマ軍と戦いました。しかし、70年に、エルサレムが破壊(ヤハエ神殿も倒壊)され、74年春に。死海の南岸に近いマサダの要塞も陥落し、戦いは終わりました。残された熱心党のメンバーも集団自決したと伝えられています。

 

さて、その熱心党の一員であったシモンでしたが、イエスの復活を機に回心し、伝道者(使徒)となり、エジプトに赴きました。その後、十二使徒のひとりであるユダ(タダイ)(裏切り者のユダではない)とともにペルシャやアルメニアで活動し、そこで殉教しました。一説には、ペルシャで、鋸(のこぎり)で切断されて処刑されたとも言われています。

 

ちなみに、シモンとは、イスラエルの祖ヤコブの十二人の息子の次男シメオンにちなんだ名前とされています。

 

 

  • 小ヤコブ(Jacobus

 

アルファイの子ヤコブあるいは小ヤコブと呼ばれているヤコブは、イエスの近親者で、イスラエルの習慣上、「イエスの兄弟」と呼ばれ、また、シモンとユダ(タダイ)の兄弟とも言われています。

聖霊降臨後に復活したイエスに出会い、エルサレム教会に加わり、教会を代表する人物として活躍し、初代エルサレム教会の司教になりました。新約聖書「ヤコブの手紙」の著者ともいわれ、パウロはヤコブをペトロとヨハネと共に教会の柱と見なしていたとされています。一説には、復活したイエスも小ヤコブに特別に現われたそうです。

 

ヤコブはモーセの律法を厳重に守り、毎日エルサレムの神殿に詣でるなど、キリスト教徒とユダヤ人の両方から聖人と仰がれていましたが、パリサイ(ファリサイ)人の反感をかい、殉教してしまいました。エルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、人々の石を受けて倒れたところを、こん棒で打たれて殉教したといわれています。

 

 

  • ユダ(タダイ)(Judas)

 

小ヤコブの兄弟あるいはイエスの親族だったといわれるユダ(タダイ)は、イエスを裏切ったとされる「イスカリオテのユダ」ではありません。ユダという名前が嫌われて「忘れられた聖人」とも呼ばれており、実際、ユダ(タダイ)に関する資料はあまり残されていません。

 

ユダ(タダイ)は、バルトロマイとともにエデッサ(トルコ南東部のウルファ)やアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬されているそうです。別の伝承では、シモンとともに、ペルシャやアルメニアで活動したとも言われています。いずれにしても、ユダ(タダイ)は、かの地で、斧によって殺害されて殉教したとされています。

 

 

  • イスカリオテのユダ(Judas)

(英語名ジュード)

 

ユダがいつイエスの弟子になったかは、福音書には書かれておらず、不明です。聖書の中のユダは、イエスから信頼され、お金の管理を任されていましたが(ユダは財務担当だった)、銀貨30枚でイエスをユダヤ教の祭司長に売り渡し(ユダが持ちかけたとされる)、歴史上の裏切り者として描かれています。

 

ユダは祭司長たちをイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡したとされています。イエスは、彼の裏切り行為を知って、「私を裏切る人は生まれなければよかった」ときびしく戒める反面、「友よ、しようとしていることを、するがよい」とユダを友と呼び赦しています。

 

ユダは、イエスに死刑判決が下ったことを知り、ユダは自らの行いを悔いて、受け取った銀貨をユダヤ教の祭司たちに返そうとしました。これを拒絶されたユダは、銀貨を神殿に投げ込んで、首を吊って自殺したとされています。

 

 

  • マティア(Matthias)

 

イエスの復活後、エルサレムに戻ってきた使徒たちは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダの代わりに、マティアを使徒にたてることを、くじ引きで選びました。マティアは、トルコやカスピ海地方、また遠くエチオピアまで布教したと言われています。伝承では、エルサレムでユダヤ人によって石うちの刑にあい、斬首され殉教したそうです。

 

<参照投稿>

イエスの生涯

原始教会 ペテロやパウロの伝道

 

 

<参照>

聖書人物記 R.P.ネッテルホルスト(創元社)

聖書と歴史の学習館

キリスト教マメ知識:女子パウロ

Wikipediaなど