2020年07月05日

キリスト教:原始教会、ペテロやパウロの伝道

前回は、イエスの生涯についてみてきましたが、今回は、イエスが「復活」した後のキリスト教について、ローマ帝国に公認されるまでの経緯をまとめてみたいと思います。

 

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  • ペンテコステと教会の成立

 

キリスト教徒(クリスチャン)にとって、重要な行事が3つあります。それは、まず勿論、イエスの生誕を祝うクリスマス、それからイエスの復活を祝うイースター(復活祭)、そして、3つ目の大きな行事がペンテコステです。

 

ペンテコステ(聖霊降臨)とは、復活したイエス(キリスト=救世主)が天に昇ってから50日後、残された弟子たち(信徒120人)が集まって祈っていたところ、天(神)から聖霊が降りてきたという象徴的な出来事のことをいいます。現在も聖霊降臨節は、イースターから50日後にお祝いされています。ペンテコステは、ギリシャ語で50を指し、聖霊とは「神と人との生ける交わりをとりなしている御霊(みたま)、神そのもの」と定義づけられています。

 

このイエスが蘇られてから、50日後のペンテコステ(聖霊降臨)が、教会の起源とされています。紀元後35年頃の出来事です。キリスト教を信仰する人にとって欠かせない場である教会は、キリスト教を信仰する人々の集まりを意味しています。

 

ちなみに、「教会」とはギリシア語の「エクレシア」の訳語で、エクレシアにはもともと「人々の集会」「呼び出された者の集まり」を示す意味があるそうです。イエスの十字架の後、集まった人々のもとに聖霊が降りたわけですから、その場こそが教会(エクレシア)なのですね。

 

この時、約3000人の人々が使徒ペテロの説教に対して、イエスこそ旧約聖書が予言していた救い主(キリスト)であると信仰告白し、一つの共同体が形成されました。これが教会の始まりとされています(ゆえに、ローマ・カトリック教会では、ペトロを初代ローマ教皇とみなす)。

 

この原始教会とも呼ばれる最初の教会は、聖霊の降臨にあずかった、ペトロを含むいわゆる十二使徒(じゅうにしと)が中心となって、エルサレムに建てられました。イエスは自身も間接的ながら、教会を建てると宣べており(マタイ16:18)、約束が成就したわけです。

 

当初、イエスの死を聞いた弟子たちは、自分が助かりたい一心で師を見捨て、裏切ってしまったことに対して、深い絶望と後悔の念に苛まれました。しかし、イエスが復活し、聖霊を通して、彼らのもとに現れたという「体験」が、彼らは目覚めさせました。

 

弟子たちは、復活が神の愛の証拠であり、神の愛を説いたイエスは、みずからの死と復活で、その愛を体現した本当のキリスト(救世主)なのだ、と確信を得たのでしょう。それからというもの、弟子たちは、神の愛と、それを示したイエスの生涯と死、さらには復活を、まわりの人々に語り始めました(伝道の始まり)。これが、教会設立の原動力となり、キリスト教が広がっていく端緒となるのです。

 

 

  • 異邦人への布教

 

ペテロやヤコブなど12使徒(後述)たちは当初、エルサレムなどのパレスチナ地方で、「ユダヤ人、アブラハムの子孫」を対象に伝道をしていましたが、やがて、パレスチナ地方に住む非ユダヤ人への布教も始まります。

 

ペテロは、今のイスラエル北西部の町、カイザリヤに在住のローマ軍の「イタリヤ隊」の百人隊長、コルネリオに請われて、コルネリオの家の人々に説教すると、コルネリオ自身が回心しました(コルネリオは、ペトロから洗礼を授かった最初の異邦人とされる)。また、伝道者のピリポ(フィリポ)は、サマリヤ人(異邦人とされていますが、もともとは北イスラエル王国の住民でその後、混血)たちに説教し、多くの者がキリスト教の信仰を持ちました。

 

しかし、パレスチナでの布教は長くは続きませんでした。エルサレム教会の責任者だったヤコブは捕えられ殺されるなど、ユダヤ人による迫害が激しくなったのです。そこで、弟子たち、イエスの12使徒たちは、伝道のために地中海各地に散っていくのでした。

 

今日では、キリスト教の始祖はイエス・キリストと言われますが、キリスト教という一つの教団を興し、発展させたのは、ペテロやパウロなどイエス昇天後の弟子達でした。とりわけ、イエスの教えが、それまでギリシャ伝来のオリュンポスの神々を信仰していたギリシャ人に伝えられて、キリスト教は発展を遂げていくことになります。

 

そもそも、厳格には、キリスト教というのも、「キリスト」という言葉は、救世主を意味するメシアのギリシャ語訳であることからもわかるように、ギリシャ人に伝えられて、彼らがイエスの教えに従ったところで、出てきた名称です。

 

ギリシャへの伝道は、中東(西アジア)生まれのユダヤ教の一派が、異郷の西洋へ、キリスト教として、渡っていったという側面もあり、その教えは「西洋化=ギリシャ化」されていきました。

 

聖書にしても、新約聖書の原典は、イエスや12使徒達の共通言語であるヘブライ語(へブルゴ)ではなく、ギリシャ語で書かれています。イエスの言葉を含む新約聖書は、「ギリシャ語に翻訳」されて伝わり、私たちは聖書を読む際は訳文読んでいたのです。

 

 

  • パウロの伝道と教え

 

ギリシャ世界へ福音(神のみ言葉)を宣べ伝えた使徒が伝道者パウロでした。キリスト教の拡大は、パウロによって、ギリシャ人を対象とされたところから始まったと言っても過言ではありません。これによってキリスト教は、ユダヤ人だけではなく、人類すべての人々のための宗教となり、イエスは、人類の救世主(キリスト)」となっていくのです。

 

使徒パウロは、ユダヤ教パリサイ派の人物で、はじめはイエスの弟子たちや教会を迫害していましたが、やがて、イエスと出会うという超体験を通して回心し、イエスの教えを伝える側になりました。伝えられているその時の「パウロの回心」と呼ばれる逸話です。

 

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紀元34年頃、パウロは、ダマスコへ向かう途中、「サウロ(パウロのこと)、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエスの声を聞きました。すると、その後、目が見えなくなったパウロでしたが、キリスト教徒がパウロのために祈るとパウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。この経験から、イエスがメシヤだったことを悟ったパウロはキリスト教徒となったのです。

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パウロはその後、自らの経験から、パレスチナの中では、イエスの教えを受け入れられないと判断し、今のトルコやギリシアといった各地に赴きます。そして、アンティオキア(現トルコの南端アンタキア)を拠点として、パウロは、生涯かけて伝道し、苦難の末、ギリシャ世界での布教を成功させました。

 

この背景には、パウロが、原罪や贖罪という考え方を使って、イエスの教えを、思想化し、キリスト教に普遍性を持たせたことにあると思われます。

 

旧約聖書の「創世記」には、以下のように、エデンの園(天国)にいたアダムとイブの話しがあります。アダムとイブは、神から「あなたは、楽園のどの木のからでも実を食べてよい。しかし、善悪の知恵の木の実を取って食べてはならない」と言われました。しかし、蛇(サタン)の誘惑により、二人は「知恵の木の実」をとって食べてしまいました…。

 

これが一番最初の罪で、原罪と言われます。キリスト教では、神の意志に背いたアダムとイブの罪を、人間は皆、原罪として背負っていると解釈されています(パウロはこの原罪思想を弘めた)。パウロは、神に背いて自分の欲望のままに生きようとしたことから来る原罪の苦しみから逃れるためには、どうしたらいいのかを考えたときに得た答えが、キリスト教だったのです。

 

パウロは、イエスが、十字架での死により、全人類の罪をまとめて引き受けたと考えました(贖罪思想)。さらに、律法の遵守は難しく、できたとしても律法を形式的に守るだけでは不十分で、神とイエスを信仰することで救われると教えました。すべての人間は罪人ですが、信仰によってのみ神の赦しが得られると、ギリシャ人たちに説いていったのでした(信仰義認説)。

 

また、死後の「神の国」という考え方も、人々を魅了しました。キリスト教徒にとっての死後の場所は、父なる神、またキリストがいる「天国」です。そこは、苦しみや罪もなく、栄光に満ち、喜びや愛が充満していると考えられました。イエスは、自身の死と復活によって、私たち人間のために、「天国の門」を開いてくれたと考えられています。

 

このギリシャ人への伝道におけるパウロ以降の思想が、現在のキリスト教の教えの骨格をなすという言い方をしても間違いではないでしょう。

 

 

  • キリスト教の拡大

 

こうして、初期のキリスト教は、当時の支配者であったローマ帝国へと入っていくことになるのでした。ユダヤ人を対象にしたパレスチナ地方の宗教活動であった「イエスの教え」は、先ずは北上してシリアに伝えられ、次いで、小アジア(現在のトルコ)の諸都市に伝わり、さらにギリシャ本土に伝道されていきました。

 

そうして、地中海各地で信者を増やしながら、帝国の首都ローマや、地中海に面するエジプトのアレクサンドリア、またトルコのアンティオキアなどに、キリストの名の下に集まる教会が建てられました。

これに応じて、キリスト教徒の組織化も進み、まとめ役となる監督、長老、執事といった役割を担う役職ができていきます。やがて、2世紀と3世紀、人数が増えるに連れて教会はますます階級的になる中、現代の司教や司祭、助祭といった「聖職者」が教会の指導者となったいくのです。

 

 

  • 新約聖書の成立

 

キリスト教の教典である聖書が生まれたのもこの時期です。聖書は、イエスが山上の垂訓などで語ったことを自ら書き留めたものではありません。イエスの教えは、使徒達によりパレスチナから地中海一帯へと伝えられる中で、使徒たちによって記されたイエスの生涯と言行録がまとめられました。西暦150年ごろには、新約聖書ができていたとされています(「新約」とは、イエスが神と新たに契約したという意味)。もっとも、エルサレムが崩壊した紀元後70年までには、新約聖書はほぼ完成して、教会の間で回覧されていたとも言われています。

 

前述したように、キリスト教という教団は、イエスの弟子達が作り出したものなので、新約聖書には、イエスが語っていた創造神「天なる父」の姿は前面に描かれず、「神の子イエス」その人のことが書かれいます。

 

なお、新約聖書に対して、ユダヤ教の経典である旧約聖書があります。新約聖書は、旧約聖書を土台としており、旧約聖書の知識なしには、キリスト教を十分に理解できないと言われいます。旧約聖書は、メシヤの民であるユダヤ民族の歴史書という側面と、メシヤの必要性を説き、メシヤの来臨を予測する「予言書」です。これに対して、新約聖書は、メシヤであるイエスが、私たちを罪から救うための「導きの書」と、キリスト教では位置づけています。ですから、イエスが宣教するまでの経緯を記すものとして、旧約聖書もキリスト教の教典とみなされています。

 

 

  • ローマ帝国による迫害から公認

 

さて、教会の組織や制度が整えられ、聖書も完成した2世紀中頃には使徒信条の原型もできてくるなど、キリスト教の基盤が確立しつつあった反面、ローマでの迫害は過酷を窮めました。

 

当時のローマは多神教でしたので、他の宗教に寛容でしたが、時の皇帝の性格によって、その政策は容易に変化していきました。キリスト教に対するローマ帝国最大の迫害といえば、西暦64年の皇帝ネロの弾圧で、ペテロやパウロも犠牲となりました。

 

303年にも多くのキリスト教徒が迫害されるなど、約250年近く、キリスト教徒たちは断続的に、ローマからの弾圧され続けたのです。なお、ペテロやヤコブ以外にも、12使徒のうち11人は殉教しています(パウロは12使徒には含まれない)。

 

しかし、それでもキリスト教は、ローマ人支配者からの弾圧を受け、殉教者を出しながら、根強く布教されました。時には、「カタコンベ」とよばれる地下の避難所に逃れ、ひそかに信仰が維持されました。

 

こうして、キリスト教は、やがてローマ帝国全土に広がり、もはやその勢力を無視できなくなりました。313年、時の皇帝コンスタンティヌスは、ミラノ勅令を出し、ついにキリスト教を公認したのです。ローマの統治には、弾圧よりも懐柔が有効とする政治的な判断でした。

 

公認後、新しい首都コンスタンティノープルや、エルサレムにも教会が建てられました。エルサレムへの巡礼も行われるようになり、そこでイエスの墓とされるものも発見され、その場所に「聖墳墓教会」が建てられました。こうして、ローマ帝国からの公認を得たキリスト教は、以後、さらなる発展を遂げるわけですが、ここに至るには、12使徒など指導者や信徒の犠牲の上にあったことは記憶に留められるべきですね。

 

*12使徒については以下の投稿記事を参照ください。

イエスの十二使徒たち