2020年06月06日

日本国憲法:まじめな解説 表現の自由(21条)

ネット上(SNS)で誹謗中傷を受けた人が自殺に追いやられてしまう事件が、社会問題化しています。これを受けて、政府は、インターネット上の発信者の特定を容易にするための制度改正を検討する姿勢を示していますが、SNS規制については、表現の自由を侵害することになるとか、特に、安倍政権側が政治的言論の封殺に利用する恐れがあるとかの反対意見も出ています。

 

そこで、今回は、憲法で、「表現の自由」がどのように規定されているのか、日本国憲法21条を解説してみたいと思います。

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日本国憲法第21条(表現の自由)

① 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。

 

表現の自由とは、思想・意見を自由に発表することができる権利で、「表現」行為とは、以下のような形態別に分類されます。

  • 演説、演奏、芝居などのパフォーマンス
  • 書籍、新聞、雑誌などの文章による表現
  • 絵画、写真、映画などビジュアル表現

 

では、「表現の自由」が保証される意義とは何でしょうか?憲法学では、自己実現の価値と自己統治の価値が保証されるという難しい説明をします。

 

自己実現の価値とは、思想・言論の自由が確保されていてこそ(言論活動を通して)、人間は各自の人格を発展させられるという考え方で、表現の自由は、個人の人格の形成・発展のために必要と考えます。

 

自己統治の価値とは、表現の自由が保障されることによって、民主主義を維持・発展されることができるというものです。仮に不当な法律が成立しても、新聞記事やテレビ報道などが、さまざまな表現の自由を行使することによって、有権者である私たちは、選挙の際、不当な法律を成立させた国会議員らを落選さたり、法律を改正するように働きかけることができます。人格を高めた個人が社会に参加すれば、各種の表現を通して得た情報をもとに判断し、行動することによって、民主主義を発展させることができるというわけですね。

 

 

<21条1項>

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

  • 集会、結社の自由

21条は、最初に集会と結社の自由を保障しています。

 

集会の自由

集会とは、共同の目的をもって一定の場所に集まることを言います。ただし、集会の自由が認められているからといって、建物や空き地などの所有者が、集会のためにそれらを提供すべき義務を負うわけではありません。

 

結社の自由

結社とは、共同の目的をもって、組織や団体を作り結合することを言います。結社の自由に関しては、一定の職業(弁護士会、税理士会)について、結社を強制したり加入を強制されたりしていることも認められています。

 

では、動く集会と言われる集団行進(デモ行進)の自由はどうなのでしょうか?

 

集団行進(デモ行進)の自由

デモ行進は、参政権的意義があり、一般市民が情報の送り手となる数少ない場として、表現の自由の一形態(「その他一切の表現の自由」)として認められています。

 

ただし、集会や集団行進は、多数人の集合という特質から、社会に及ぼす影響が大きいものです。ですから、国民の社会生活上の利益(ex.「静かにして欲しい」)を考慮して、事後的な規制よりも制約の程度も大きい「事前」の規制が許容されています。

 

そこで、議論となったのは、地方自治体が作る法令の一つである公安条例による規制は合憲か違憲(21条に反する憲法違反)かということでした。

 

公安条例では、公共の場所で集団行動を行う場合において、事前に公安委員会の許可を必要とすると定められています。

 

結論は合憲(公安条例で規制をしても、表現の自由の侵害にならない)です。ただし、公安条例による規制の手段は原則として届出制でなければならず、許可制は否定されています。

☞(新潟公安条例事件(S29.11.24)、東京都公安条例事件(S35.7.20)

 

「許可制」(=行政庁の裁量がある)」は不可

「届出制」(=行政庁の裁量がない)」ならば可

 

許可制とは?

許可を受けなければ、デモ行進を行うことができないと、一般的に禁止しておき、申請されたデモ行進を行わせても弊害がないと判断した場合において、個別に禁止を解除して許可すること。

 

届出制とは?

集団行動それ自体はまったく自由であるという前提をとった上で、デモ行進を行うためには、公安委員会に通知すれば足りるとすること。公安委員会は原則として受理する義務を負います。

 

もっとも、条文上「許可制」であっても、実際の運用上行政庁の裁量が否定できる「実質的届出制」であったり、許可基準や制限の形式が、明確かつ厳格に限定されていればよいとされています。

 

明確性の原則(=漠然性ゆえに無効の原則)

明確か否かは、「通常の判断能力を有する一般人の理解において…基準が読み取れるかどうか」で判断されます。

☞(判例)徳島市公安条例事件(S50.9.10)

 

 

  • 言論、出版その他一切の表現の自由

 

21条第1項後段は、「その他一切の表現の自由」の「その他一切」で保障された権利とは何かが問題となります。

 

まず、問題提起されるのが、メディアの報道に関する自由です。報道がなされるには、次の情報流通過程があります。

 

収集(取材)⇒加工(編集)⇒発表(報道)⇒受領(「知る」)

 

個々の過程において、表現の自由が保障されるかが問題となりました。論点となったのは、発表するという「報道の自由」だけでなく、「取材の自由」と「知る権利」、それに関連する「アクセス権」が、21条第1項の「その他一切の表現の自由」として保障されるかどうかです。

 

報道の自由(「21条で保障」)

元来、表現の自由は、思想・意見の発表の自由を意味しています。しかし、報道の自由は、単なる「事実の発表の自由」に過ぎません。事実を述べるだけの報道の自由も21条で保障されるのかというのが問題となったのです。

 

「マスコミの報道は国民の知る権利に奉仕するものであり、事実の報道は憲法21条の保障のもとにある」との判例を受け、報道の自由は「保障」されると解されています。

☞(判例)博多駅取材フィルム提出命令事件(S44.11.26)

 

 

取材の自由(「21条で尊重」)

生の事実に接近する「収集の自由」に過ぎない「取材の自由」が、21条で保障されるかどうかが論点となりました。結論から言えば、「取材の自由」は、報道の自由の実現に欠かせないもので、国民の知る権利にも質するためも、取材の自由も21条で保障されると解されていますが、裁判所は、はっきり保障を肯定せず、「十分尊重に値する」というに表現にとどめました。つまり、「報道の自由」と比較して、「取材の自由」は、ある程度の制約を受けることもやむをえないということです。

☞(判例)博多駅取材フィルム提出命令事件(S44.11.26)

 

例えば、取材源の秘匿権は憲法上保障されるか?つまり、裁判の審理や警察の尋問などで、メディアに対して、取材源を公表することを求められて、「取材の自由」を根拠に、これを拒否できるかという議論があります。判例によれば、結論は以下の通りです。

 

刑事事件の場合、「取材の自由を根拠に証言拒絶はできない」(石井記者事件)

民事事件の場合、「取材源に関する証言を拒絶できる」(NHK記者事件)

 

(参考)NHK記者事件

米国企業の日本法人が所得隠しをしたとする報道に絡み、NHK記者が民事裁判で取材源を明かさなかった問題で、最高裁第三小法廷は、「証人となった報道関係者は、原則として、取材源に係る証言を拒絶することができると解するのが相当である」として、企業側の特別抗告を棄却する決定をした(最判平成18年10月3日)。

 

 

知る権利(21条で保障)

思想・意見等、情報「受領の自由」に過ぎない「知る権利」が、21条で保障されるかという問題について、最高裁は、「報道は、民主主義において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」として、国民の知る権利を認めました。

 

知る権利は、「受け手」の視点から、表現の自由を保障したもので、「自由権」的な側面と、「社会権」(または「国務請求権」)的な側面があると解されています。

 

「自由権」的側面とは、例えば、「好きな本を好きなように読める」など公権力からの不当な干渉を受けることなく、自分の意見を持てる権利です。

 

「社会権(または国務請求権)」的な側面とは、公権力に対して、積極的に政府情報等の公開を要求することのできる権利(情報開示請求権)です。知る権利は、一般市民のメディアに対する権利ではありませんので、「犯罪被害者に対して「知る権利」があるから取材に応じてくれ」などという主張はできませんが、首相に「しっかりと答えて下さい(説明責任を果たしてくれ)」と求めることはできます。

 

アクセス権(21条では保障されない)

アクセス権とは、人々がマスメディアに自分の意見を表明の場を作るように要求する権利で、マスメディアにアクセス(接近)して利用する「一般利用権」という言い方もできます。「知る権利」に対して、表現の自由の主体であるマスメディアでとり上げられない情報を国民に提供させることで、表現の自由を追求する権利を求めるものです。

 

しかし、アクセス権は、国家に対する請求でなく、私人である報道機関に対する請求(意見掲載請求)なので、憲法21条から直接この権利を導き出すことは困難とされています(憲法の問題は国家と私人の関係)。

 

また、メディアも、望まない記事を書いたり、好ましくない人物を出演させたりすることは、メディアの表現の自由の侵害ともなり、最悪、言論統制を強いられることにもなりかねないことからアクセス権には否定的です。

 

判例では、自党の批判記事を書いたサンケイ新聞に対して、共産党が反論記事の掲載を求めた裁判では、共産党が主張する反論権は、認められませんでした。

サンケイ新聞事件(S62.4.24)

 

 

ここまでが、マスメディアなど報道に関する表現の自由についての議論でしたが、「その他一切の表現の自由」についての論点はほかにもあります。

 

選挙運動の自由(21条で保障)

選挙運動の自由とは、「特定の選挙において、特定の候補者に当選を得させ、または得させないために直接または間接に必要かつ有利となりうる一切の行為を行う自由」と難しく定義されています。

 

選挙は、民主主義にとってなくてはならないものですので、選挙運動の自由は、表現の自由に含まれます。(21条のみならず、国民主権を根拠としても保障される)。ただし、「公正な選挙」の実現のためには、法令上、制限される規定もあります。例えば、事前運動の禁止、戸別訪問の禁止、文書、図画、新聞、雑誌による選挙運動の制限、泡沫新聞の排除などです。これは、資金の豊富な者が有利になったり、国民の社会生活の平穏を害するようなことがないようにするためですね。

 

 

営利広告の自由(21条で保障)

テレビのCM、雑誌や中吊り広告、看板などの営利広告とは、利益目的または事業目的で製品またはサービスを広告する言論をいい、営利的言論とも呼ばれます。国民一般が、消費者として、広告などを通じてさまざまな情報を受け取ることの重要性にかんがみ、営利的言論の自由も、営利的表現の自由として、表現の自由に含まれると解されています。

 

ただし、誇大広告や詐欺的広告などに代表されるように、それによってもたらされる弊害を考慮して、広範な制約が許容されています。

 

また、営利的言論(営利的表現の自由)は、政治的言論(政治的な表現の自由)よりも、制約の必要性が高く、保障の程度は低いと解されています。これは、営利的言論には、前述した「自己実現の価値」はありますが、政治参加などを通じた民主主義の発展につながる「自己統治の価値」が弱いからです。

 

このように、他者に訴えかけ、議論する前提となる「表現の自由」(精神的自由権の一つ)は、民主政の政治過程にとって不可欠なものです。ですから、表現の自由を代表とする精神的自由権は、職業選択の自由などの経済的自由権よりも優越性があるとされ(「二重の基準論」という)、思想表現に関する制約の合憲性の審査は厳格になされます(表現の自由に対する制約は、違憲となる場合が多い)。

 

 

<「表現の自由」と「公共の福祉」>

 

そうした「表現の自由」にも公共の福祉の観点から一定の制限があります。表現の自由は、自己の内面ではなく外に向けられるものなので、他者との人権の調整が必要になります。これを「公共の福祉」による制約といいます。ですから、「表現の自由」には、経済的自由権い対して優越性があって、集会、結社、言論、出版、その他一切の表現の自由が、保障されるといっても、「一切の表現」が完全に保障されわけではありません。そこで、プライバシー権と、わいせつ表現との関係をみてみたいと思います。

 

  • 名誉権・プライバシー権との関係

一般的に、個人の名誉を著しく傷つけたら、名誉棄損罪で罰せられます。

 

刑法230条第1項

公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは50万円以下の罰金に処する。

 

しかし、刑法230条の2第1には次のような規定があります。

  • 公共の利害に関する事実に係り」、
  • その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には」、
  • 事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときには

名誉棄損行為を処罰しない。(番号は筆者による)

 

これは、名誉棄損行為があったとしても、上の3つのケースであれば、表現者が名誉棄損行ま為で罰せられることはないと定めていますが、この法律の解釈は、「表現の自由」についてより深い意味を教えてくれます。

 

①の「公共の利害に関する事実」について

 

月刊ペン事件

雑誌「月刊ペン」が1976年3月号に掲載した、ある宗教法人の会長の私生活上の行状に関するある醜聞記事が掲載したことに対して、これは名誉毀損罪にあたるとして、編集長が告訴された事件がありました。

 

この時、最高裁判決では、「被告人によって摘示された○○会長らの前記のような行状は、刑法230条の2第1項にいう「公共の利害に関する事実」にあたると解するのが相当であって、これを一宗教団体内部における単なる私的な出来事ということはできない」とされました。

 

この裁判で、最高裁は、私人の私生活上の行状であっても、「その携わる社会的活動の性質、及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度いかんによっては」、公共の利害に関する事実にあたる場合があると断じたのです。一般的にいえば、私生活上の事実は「公共の利害に関する事実」に当たりませんが、公職者やその候補者の場合には、その人の資質の事項とも結びついて理解されるので、「公共の利害に関する事実」に該当するのですね。

 

 

➂の「事実の真否を判断し、真実であることの証明」について

 

夕刊和歌山時事事件

Xは、自分の発行する「夕刊和歌山時事」に、他新聞の社主Aの名誉を棄損する記事を掲載し、名誉棄損罪で起訴されました。

 

このとき、裁判では、Xは記事の内容が真実であることを証明することができなかったことが問題となりました。法律を文言通りに解釈すれば、裁判の時点で、真実であることを証明できなければ、名誉棄損罪が成立するように思われます(表現の自由は制限される)。

 

しかし、最高裁は、「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である」と判示したのです。

 

この2つの判例からわかることは、確かに、人の名誉やプライバシーは、「人格的な生存に不可欠な人権」として重要な人権で、表現の自由といえども、侵害することは、許されるものではありませんが、裁判では、「表現の自由」を尊重する解釈が採られていることがわかります。それほど、表現の自由は尊重されているのですね。

 

 

  • わいせつ表現との関係

 

性的な表現は、そもそも価値が低いとみられ、刑法で、「わいせつ」な表現物の販売等は、犯罪として処罰されます。

 

刑法175条第1項(わいせつ物頒布等の罪)

わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。 電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする

 

しかし、性的な表現行為も、動機や目的によっては、21条1項の表現の自由の権利保障の対象になると解されています。もちろん、その保障は無制約ではなく、性的秩序を守り、性道徳を維持するという「公共の福祉」による制約を受けます。

 

☞(判例)

チャタレー事件 (S32.3.13)

悪徳の栄え事件 (S44.10.15)

四畳半襖の下張 (S55.11.28)

 

これらの裁判では、作品がわいせつ文書にあたるとして、翻訳者や出版社が起訴されたことに対して、表現の自由を刑法175条で規制することが違憲ではないか、また、わいせつかどうかの判断に、芸術性や思想性が考慮されるべきかなどが争われました。

 

結果は、被告の主張は退けられました。作品はすべて「わいせつ文書」にあたるとされ、刑法175条も合憲、また、「芸術性・思想性がわいせつ性を解消させるものではない」として、「わいせつ文書」に該当する限り、その表現物のもつ芸術性や思想性に影響を受けないと判示されました。

 

 

<21条2項>

検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。

 

  • 検閲の禁止

検閲は、表現に対する事前抑制の一つで、表現の自由の最も重大な脅威とみなされ、例外なく、絶対的に禁止されています。

 

検閲とは、次のように定義されています。

行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することをその特質として備えるもの。

☞ (判例) 税関検査事件

 

要約すると、「①行政権が、②表現内容を、③その受領前に審査し、不適当と認められれば、発表を禁止すること」を検閲と呼びます。

 

(論点1)検閲の主体=行政権

裁判所がプライバシー侵害や名誉毀損を理由に、出版物の「事前差止め」を容認することは、検閲とは呼ばれません。裁判所は行政機関ではなく、司法機関だからです。

 

(論点2)検閲の対象=表現内容(思想内容+表現事実)。

思想だけでなく、事実の報道の規制も検閲とされてしまいます。

 

(論点3)検閲の時期=受領前

表現行為には、発表するという行為だけでなく、受領行為(知ること)も含みます。これによって、検閲は情報の流通の阻止も意図するものであることが明確にされます。

 

これらを踏まえて、教科書検定や、税関検査が検閲に該当するかが問題となりました。

 

教科書検定:検閲でない

学校教育法に基づいて、小・中・高等学校の教科書は、文部科学大臣の検定に合格しなければ、教科書として出版できません。しかし、検定で不合格となっても、一般図書として発行することはできます。したがって、検定制度は、発表禁止目的や発表前の審査などの性質がないことから、検閲に当たらないとされています。

 

税関検査:検閲でない

税関検査により、輸入が禁止される表現物は国外で既に発表済みで、発表そのものが禁止されるわけでなく、また、税関検査は、輸入禁止を目的として行われるもので、思想内容を審査して規制するものではないので、検閲とは見なされていません。

 

 

  • 検閲と事前抑制の関係

 

事前抑制とは、公権力が何らかの手段で、表現行為を事前に抑制することで、例えば、裁判所による出版社に対する出版の事前差し止めが事例としては上げられます。

 

では、裁判所の事前差し止め行為は、憲法21条との観点から認められるのでしょうか?結論から言えば、事前抑制は、原則禁止、ただし、絶対的禁止でないので例外的に許される場合があります。

 

21条1項の規定により、一般的には、出版という表現の自由を事前に抑制することは許されません。しかし、裁判所による出版の事前差し止めは、裁判所が行政権でないので(裁判所は司法権の担い手)、検閲ではありません。ですから、事前差し止めは、絶対的に禁止されているわけではなく、明確かつ厳格な基準を満たす場合、例外的に認められています。

 

(判例)北方ジャーナル事件(S61.6.11)

北海道知事選挙に立候補予定の者を批判攻撃する記事を掲載した雑誌が、発表前に名誉棄損を理由に差し止められた事件

 

判決で、最高裁は、例外的に事前抑制が認められる場合の3つの要件を以下のように提示しました。

 

1)表現内容が真実でないか

又は、2)それが専ら公益を図る目的でないことが明白であって

かつ、3)被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき

 

 

  • 通信の秘密

 

意思や情報の伝達である通信活動は、一種の表現活動とみなされます。また、特定人間の間のコミュニケーションなので、私生活・プライバシーの保護が求められます。ですから、憲法では21条2項後段で、「これ(通信の秘密)を侵してはならない」と定め、公権力(政府など公的機関)が、私人(個人や企業)の通信内容を調べたり、漏洩したり、ましてや検閲することを禁止しています。(積極的知得行為、漏洩行為、通信検閲の禁止)

 

ただし、通信の秘密の保障も絶対的ではなく、以下のように、法律に基づいた制限があります。

 

在監者の信書発受の制限(監獄法46条、47条)

 

郵便物の押収(刑事訴訟法100条、222条)

通信機関の保管・所持する郵便物等につき、「被告人から発し、又は被告人に対して発した」もの、または「被告事件に関係があると認めるに足りる状況のあるもの」であれば、差し押さえることができる。

 

電話傍受(通信傍受法)

通信傍受法(組織的な犯罪に対処するため、法定された対象犯罪に限定して、法定された要件のもとで、裁判官の発する傍受令状によって通信の傍受を認めている)が、憲法上許されるかが、問題になりました。

 

裁判では、「一定の要件のもとで…捜査の手段として、憲法上全く許されないものではない」と判示され、電話傍受も、犯罪捜査の手段としてはほかに方法がないという状況下、厳格な条件の下で許容されています。

 

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以上が、日本国憲法第21条(表現の自由)の解説でした。

今回のSNS規制の問題は、表現の自由との対立構造が浮き彫りにされますが、「検閲」や「通信の秘密」の問題も考慮した上での対応が求められます。さらに、憲法21条とその解釈がこの問題を解決に至らせるに足る条文なのかも併せて考えたいものですね。

 

 

<参考投稿>

明治憲法:善意と悪意の解説 表現の自由(29条)

日本国憲法:まじめな解説 幸福追求権(13条)

 

<参照>

憲法 伊藤真(弘文堂)

Wikippediaなど