2020年06月03日

異説:藤原純友「海賊と呼ばれた男」の真実

前回の投稿で、藤原純友の乱について書きました(藤原純友「海賊王に俺はなる」)が、あれは、一般的な通説に基づく歴史でした。私が教養サイト「レムリア」を立ち上げた理由の一つが、これまで通説と見られている歴史の解釈は「実はそう思いかまされているだけかもしれない、疑ってみよう」という立場から、史実を様々な角度で読み直してみることです。今回は、別の視点でみた藤原純友です。

 

”摂関家の藤原氏の出でありながら没落して、地方(伊予の国)に下り土着化し、海賊の棟梁になって、朝廷に反乱を起こした…”

果たして、これが本当の純友の姿だったのでしょうか?

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  • 藤原名家の末裔?

 

瀬戸内海の「海賊王」と称される藤原純友の生涯、実は謎に包まれています。生年もよくわかっていませんが、寛平5(893年)ごろと推察されています。純友は、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれ、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出した藤原北家(ほっけ)の流れを汲み、太政大臣・関白を務めた藤原忠平は、純友の父、良範の従弟に当たるなど、摂関家の血筋であるとされてきました。

 

しかし、純友は、伊予の豪族・越智氏の一族で、今治の高橋郷出身の高橋友久の子であったと言う説があります。越智氏を遡れば、神話の大山祇神(おやまづみのかみ)にたどり着くとされ、愛媛の大山祇神社(大三島神社)が全国の大山祇神社(三島神社)の総本社になっていることから、越智家というのはこの地域の名家と言えます。この説によれば、純友は、藤原良範が伊予の国司(伊予守)として赴任した際、良範の養子となり、藤原姓を名乗ることになったとされています。

 

いずれにしても、純友は名門貴族、藤原氏の一員になったのですが、父となった良範が早死にしてしまったので出世の見込みがほぼなくなってしまいました。当時は、世襲が当たり前の時代だったのです。

 

 

  • 伊予国に赴任

 

それでも、純友は、承平2(932)年、父良範の従兄弟(いとこ)で、当時、伊予守を務めていた藤原元名(もとな)に呼び寄せられ、下級官人(伊予の掾)となって、伊予国に赴任しました。

 

元名は、立身出世の道が閉ざされた純友を救ったというよりも、当時、瀬戸内海に横行していた海賊対策に純友の手腕を期待したと言われています。藤原純友は少年のころ、大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられた父の良範に従って、朝鮮半島との通商の要所であった九州の大宰府に赴いています。そのころ九州では、当時、朝鮮を支配していた新羅の衰退によって、朝鮮から海賊が襲来し、博多の商船などが狙われるという事件が相次いでいたそうです。若き純友は、そこで、武芸を身につける一方、海賊への取り締まりを見て学び、時には父とともに海賊の成敗に当たり、海賊への対応能力を養っていったとされています。

 

10代で京に戻った純友は、それから約30年の歳月を経て、藤原元名の下で、海賊討伐に励み(実際は、税である米や産物を京へ運ぶ運京租税の任に当たっていた)、一定の成果を出しつつ、海賊衆ともつながりを維持していました。これは、932~935年の4年ぐらいの間の出来事で、瀬戸内海周辺では「藤原純友、ここにあり」とその名がその地域に知られるようになったと言われています。

 

純友は、934年に任期が終わって一度帰京しましたが、伊予では、海賊との攻防が再び激しくなり治安の悪化が深刻になりました。そこで、過去の功績が認められた純友は、承平6(936)年3月に、伊予国警固使に任じられ、再び、伊予に赴くことになったのでした。純友の再着任から2か月後の、936年5月、藤原元名に代わる後任国司の紀淑人(きのよしと)が着任することになりました。

 

この時、純友は、「所定の税を納めて投降すれば、処罰は免れるようにする」と海賊たちを説得します。すると、これまで約5年近くも抵抗を続けていた海賊たちの多くが突然降伏したと言います。紀淑人もこれを認め、海賊たちの罪を問いませんでした。伊予国警固使としての純友は、紀叔人に従って、海賊を服属させながら、瀬戸内海の治安を守り、伊予国には平穏が戻ったと言われています。

 

 

  • 海賊の正体

 

ところで、伊予国で問題になっていた海賊とは、現在の私たちが連想する、航海中の船舶を手当たり次第に襲って金品を強奪したり、女、子どもを売り飛ばすといった無法者として賊徒ではなく、都に送られるコメや特産品などの官物を奪う者達のことでした。

 

伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で、外交などの儀式に関連した雑務をこなしていた舎人(とねり)という地方下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことから、儀式の数は減り、彼らの仕事も激減します。当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があったので、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて「海賊」と化したのでした。

 

特に、伊予国は、舎人に支給するためのお米の産地だったそうです(当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があった)。舎人たちは海賊となって、支給されなくなったコメを、「自ら調達する」という理論で、輸送中に奪うという行為にでたと説明されています。

 

また、平安中期は、地方の政治を中央から派遣された国司(地方長官)に一任していた朝廷は、税として地方から国へ治める(コメや特産物などの)物品の数量を定め、それを超えた分は国司のものとしていました。そこで、国司の中には、過酷な取り立てを行い、中には私服を肥やす者も多くいました。そうすると、国司と、地方の豪族との対立も深刻になっていきます。伊予国などの場合、国司が、税を払わないかつての舎人らに対する弾圧を強めてきたわけです。それが逆に海賊行為がさらに横行するという悪循環に陥っていました。

 

 

  • 海賊 藤原純友の誕生?

 

さて、藤原純友は、伊予国警固使としての任期を終えた後も、平安京へは戻らず、伊予国に土着し、周辺の治安を守る豪族(地域の有力者)のような存在になっていきます。海賊衆(かつての舎人ら)も、純友との長年の戦いの中で、「敵といえども話せる人間」というように、ある種の信頼関係が構築され、国司からの弾圧に対抗するという意味からでも純友に下り、統制されるようになっていきました。

 

また伊予国以外にも、純友と同じように、貴族の出でありながら、出世が望めなくなって地方に下り、土着化した、いわゆる「没落貴族」が多くいました。彼らの中にも海賊と結びついて武将集団を形成していく者もいたわけです。藤原純友について、「承平6年(936年)頃までには、日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)を拠点に2500人もの部下を従え、1000艘を組織する海賊の首領(頭目)となっていった」と表現されていますが、無法者たちの集団をまとめ上げた海賊の頭ではありませんでした。

 

藤原純友が抱えた「海賊集団」とは、純友と同じように、貴族でありながら地方に下り、かつての舎人らを率いて豪族のようになった「仲間」たちとの「連合体」のようなものでありました。しかも彼らは、以前は優秀な地方官で、裕福な者もあり、純友の強力な後ろ盾となっていったのです。その代表が、備前の藤原文元(ふみもと)であり、讃岐の藤原三辰(みつとし)、さらには、伊予にあって純友の腹心となった藤原恒利(つねとし)でした。。

 

 

当時、純友や文元らのように、地方に土着化し、出世の道が閉ざされたかつての貴族にとって、官位をもらい朝廷で高位の役職につくという出世の道は、武功(反乱などを鎮圧するなどの功績)によるしかありませんでした。しかし、伊予国周辺に936年から訪れた安泰は、本来、純友や文元らの活躍によるものでしたが、彼らの功績も評価されず、伊予国の場合、国司である紀淑人の手柄となってしまっていました。豪族や海賊たちにとって、こうした矛盾だらけの地方政治に対する不満はますます高まるだけであったと言っていいでしょう。

 

 

  • 純友の夢?

 

純友が、武勇によって出世することを考えていたのか不明ですが、純友にとって実はもう一つ壮大な計画があったことが明らかになりつつあります。それは、財力によって、政治を動かすことです。より具体的には、瀬戸内海の貿易を手中に収めることではなかったのかと考えられています。

 

そもそもこの地域に海賊行為が横行しだした一因に、海上輸送が盛んになってきたことがあげられます。瀬戸内海といえば、海運の大動脈ともいえる海域です。西日本からの物資や税の多くが、瀬戸内海を使って運ばれていました。かつて遣隋使や遣唐使もこの海を通りました。瀬戸内海の貿易の権益を握ってしまえば、朝廷の力に対抗することもできると純友は考えたのかもしれません。

 

そのためにも、海賊衆を手なずけ、同じ志をもつ「仲間」と力を合わせて、瀬戸内海で勢力を確保し、中国や朝鮮、東南アジア諸国へ船を差し向け交易を行おうとしたという可能性があります。純友が、海賊衆や、文元、三辰らにこの夢を語っていたならば…と考えると、936年、長年海を荒らしていた海賊たちが突然降伏した理由も頷けるような気がします。そして、この純友の野心を、純友の縁者(父、良範の従弟)で、時の太政大臣、関白・藤原忠平が知っていたら…、と仮定すると、藤原純友に関する様々な疑問が解決していきます。

 

天慶2(939)年12月17日、朝廷に、伊予国から「純友が船に乗って巨海に出ようとしている」との報告が届きます。これを受け、朝廷は純友の逮捕と、京への召喚命令を摂津(兵庫県)や中国地方の諸国に下します。通説では、「巨海」ではなく「海上」とされ、海賊・純友が瀬戸内海に出てくる(備前から京をめざす)と恐れられていたと解されていますが、純友は、当初から「巨海(東シナ海/南シナ海)進出」を目論んでいたのかもしれません。

 

では、仮にそうだとして、なぜ、この報告に対して、純友の逮捕と召還命令まで出されたのかと言えば、遣唐使が897年に廃止されて以降、外交は実質的な「鎖国」政策がとられている中、朝廷にすれば、純友の構想は看過できるものではなかったでしょう。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

ただし、純友はその前にやらなければならない「仕事」がありました。海賊討伐を共にした盟友の藤原文元(ふみもと)からの援軍要請を受け、「兵」を率いて備前国(今の岡山県東部)を目指したのです。藤原文元は、そこに土着した有力豪族でしたが、藤原子高(さねたか)という人物が備前国司として赴任してくると、徴税権を振りかざす子高と抜きがたい対立が生じていたのでした。

 

純友が備前国へ向っていることを知った子高は、この状況を報告しようと逃げるように都に向かいましたが、同年12月26日未明、摂津国の須岐駅家(すきのうまや)(兵庫県芦屋市付近)で文元らの武装集団に襲われ、子高は耳や鼻をそがれるなど惨い殺され方をされました。これは、当時の国司(受領)へ感情的な対立がいかに深刻であったかを物語るものです。

 

ただし、この事件は、直ちに「国への謀叛(むほん)」として朝廷に急報されました。国司に対する暴力行為は、朝廷への反逆以外の何物でもないからです。しかも、「藤原純友、藤原文元に加勢す」という報告もなされ、朝廷は衝撃を受けます。この襲撃に純友の郎党も加わっていたことが明らかになり、この時を機に、純友は「反乱者」となってしまいました。

 

朝廷は、すぐに純友に使者を派遣、京へ戻り説得に応じるよう促します。しかし、純友は、これを拒否し、逆に、「藤原文元の行いは、そもそも子高の圧政が原因であり、文元の行為は免責されるべきであること」、「936年の海賊討伐の際の勲功を活躍したものに恩賞を与えること」など要求を朝廷に突き付けるのです。

 

こうした強気な要求を出した純友には勝算がありました。純友が文元へ加勢し、朝廷に反旗を翻そうとしていた頃、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配していたのです。朝廷が東国でほぼ同時期に起きた「平将門の乱」への対応に謀殺され、純友の反乱にまで手が回らない状態であったことを、純友は見抜いていたのです。

 

 

  • 「比叡山の盟約」の裏側

 

ところで、藤原純友と平将門はともに天下を狙ったという共謀伝説があります。その共謀伝説の内容は、前回の投稿でも紹介しましたが、改めて紹介すると、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし」、「純友は藤原なれば関白になりて」、「政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。東から将門、西から純友が、同時に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画を立てたのです。

 

ただし、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」に、「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば…」と書かれているように、共謀説の主役は将門で、純友は「将門に同意した」と、将門に従った人物としてしか描写され、純友の顔は見えず、その真意を測ることはできません。

 

では、その真偽はといえば、将門と純友が比叡山に登ったとされる承平6年8月19日の頃は、将門は坂東に帰っており、純友は伊予の国に居たので、二人が京都にいて比叡山に登った事実はなさそうです。また、平将門の一代記の「将門記(しょうもんき)」には、将門・純友共謀説について記述は見られません。こうしたことから、純友と将門による「比叡山の陰謀」はおおむね否定されています。

 

それでも、当時、将門と純友の乱は、発生した時期が近いことから、朝廷は、乱の勃発当初より「連携して始められた」と疑っていたので、こうした「比叡山の誓い」のような劇的な伝説が生まれたことは想像に難くありません。

 

では、もし、共謀がなかったのなら、この二つの乱は全くの偶然の出来事なのでしょうか?実際は、純友がしたたかに将門の乱を利用したのではないかという疑念が生れます。まず、純友と将門が既知の仲であった可能性はないことはありません。二人に共通の人物に、何と、時の権力者で太政大臣になる藤原忠平がいるのです。将門は、藤原忠平の家人として仕えていたことがあり、15歳の頃、10年近く京都にいました。一方、伊予に赴任する以前に京都にいた純友の場合、縁者である忠平(父、良範の従弟)と接する機会も多かったと想定できますから、何らかの接触が二人とも在京していた時期にあったことは否定できません。ですから、「比叡山の陰謀(誓い)」というような劇的なドラマがなかったとしても、たとえ戯言でも、「将門は天皇、純友は関白」のような話しがなされ、純友は将門の「野望」を知っていたのかもしれません。

 

 

  • 純友の知略

 

純友と将門が起こした承平天慶の乱(天慶の乱)と呼ばれる反乱は、将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んでいます。将門の乱の場合、事の成り行きで、朝廷に矢を放つ結果になった感がありますが、純友の乱は、用意周到になされたことが伺えます。

 

将門によって追放された上野介、藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)でした。純友は尚範から、将門謀反の情報をいち早く掴んでいた可能性もあります。これにより反乱の決断の時期を決めることができたのかもしれません。また、純友の配下で、伊予から讃岐に移って活動していた藤原三辰(みつとし)は、以前は山城国の役人でした。その時以来、都についての情報網を保持し、純友と共有していた可能性もあります。一般的には、将門と純友が密に連絡を取っていたという共謀説は否定されたとしても、将門の反乱をいち早く知った純友が、朝廷が東国対策に忙殺されるのを見計らって、乱を起こしたことが想定できます。

 

 

実際、朝廷は、東西の反乱に対して、まずは、平将門の乱の平定に専念し、純友の要求をひとまず受け入れ、兵力を東国に集中させることにしました。天慶3年(940年)1月30日に、朝廷は、936年の海賊降伏に関する勲功として、純友に(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授け、都に上るよう求めます。また、純友以外の、例えば受領の藤原子高を襲った藤原文元にさえも勲功が与えることを決めたのです。

 

要求が満たされ、官位を受けた純友は、朝廷に従う姿勢を見せ、940年2月、純友は京へ向かいました。しかし同時に、藤原文元ほか仲間たちは、朝廷を無視して、四国・中国地方で暴れ続けます。そして遂に、藤原文元が備前国を、また、純友の別の盟友、藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

また、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰がいると見られ、朝廷内では、純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。

 

 

  • 純友の誤算

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ940年2月25日、「将門討伐」の報告が京にもたらされたのです。純友は、将門の死の報を知ると、日振島にいったん船を返し、戦略を立て直すべく動静を見守ることにしました。

 

東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった関白・藤原忠平は、純友に対する融和策を翻し、武力による鎮圧に踏み切ります。940年5月に将門討伐に向かっていた東征軍が帰京すると、6月、藤原文元を藤原子高襲撃犯と「断定」して追討令が出されます。藤原忠平は、文元など純友配下の者らと戦いつつ、純友に対しては、「文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるか」の二者択一を迫る二面作戦に出ました。

 

940年8月、戦いを優位に進める朝廷軍に対して、窮地に立たされた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで、純友も動き出します。讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、讃岐国を取り戻そうとしていた朝廷軍を圧倒しました。朝廷に従うか、朝廷に逆らって仲間を助けるかの選択を迫られていた純友は、「仲間」を選んだのです。こうして、純友は、将門と同様、謀叛人となり、反乱軍の棟梁として、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

天慶3(940)年8月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲し、国府を占拠した後、讃岐国を藤原三辰に任せ、自らは制圧地の拡大に乗り出します。備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を堕とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。

 

このように、千艘以上の船を操ったとされる純友は、朝廷の送った兵船、数百艘を焼き払い、官物も略奪しながら、東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていきました。

 

ただし、純友の戦いは、京への侵攻を狙っていたのではなく、朝廷との交渉を有利に進めるために、制圧地を増やし、自らの力を示すことが目的だったとされています。そのために、瀬戸内海全域から京都周辺にかけて、「仲間」を配備していたという考え方もできます。

 

 

  • 戦局の変化

 

しかし、土佐国まで攻め入るまでは順調でしたが、その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、朝廷は、報酬や官職をチラつかせ、純友軍を内部から崩壊させようとします。天慶4年(941年)2月には、純友の次将と言われた藤原恒利を朝廷側に寝返えらせることに成功、恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて、日振島(愛媛県宇和島市)を脱出した純友は、小島が乱立する瀬戸内海のどこかの島に姿をくらまします。それから4か月が経った941年5月、純友は突如、大宰府に姿を現し、朝廷にとって九州におけるこの最重要拠点を襲撃し、占拠しました。

 

純友は大宰府を制圧することで、朝廷と和平交渉を有利に進めようと考えたのかもしれません。しかし、勢いに乗った朝廷は、もはや純友と交渉する気はありませんでした。朝廷側は、藤原忠文を征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任じ攻勢を強めてきます。ただし、忠文到着の前に、すでに、山陽道の追捕使(ついぶし)に任じられていた歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や平将門の乱にも携わった源経基(つねもと)らが陸路から、追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は海路から九州に到着しました。

 

これに対して、純友軍は、大宰府を落として、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(今の福岡県柳川市)に迫りましたが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純友軍は止められてしまいました。

 

有明海に抜ける拠点を確保できなかったことで、純友は大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。戦いは、激戦の末に、純友軍の兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れました。しかし、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。こうして、藤原純友の反乱は鎮圧されました。

 

 

  • 「海賊と呼ばれた男」の見果てぬ夢

 

朝敵の最期が、討たれたのか獄死したのか定かではない、というのは何か違和感を覚えます。実は、藤原純友は「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶った」という伝承があるのです。もしこれが事実であれば、純友は文字通り、「巨海」に出たことになります。では、もしそうならば、朝廷軍との戦いの中、どのタイミングでそれができたのかを推察すると、九州・柳川での戦いにその機会があった可能性があります。

 

通説では、純友が大宰府を落とした後、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川に迫るものの、橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純乗を敗走させたとなっています。しかし、福岡県柳川市に伝わる伝承では、「蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗した」とあるのです。さらに、蒲池城に拠る蒲池(かまち)の領主は、藤原純乗(すみのり)の一族であるとの説があります(築後の蒲池氏は藤原一族)。

 

そうすると、有明海に抜けることができる柳川での戦いで、藤原純乗(すみのり)は負けておらず、純友の一団はそこから、有明海を抜けて、東シナ海に出た可能性が残されます。博多湾で迎え討ったのは、純友の替え玉か別人であったのかもしれません。だからこそ純友の死も曖昧にされ、さらには、純友に関する史料すら消されたという解釈もできます(純友には出生の記録すらない)。

 

朝廷からすれば、反乱者を取り逃がしたとなれば、面子が丸つぶれとなります。ですから、純友を海賊王に仕立てあげ、討ち取ったというシナリオをでっち上げたとは考えられないでしょうか?それが、逆に「瀬戸内海の海賊王」が世界に飛び出していたというなら、痛快極まりないことです。

 

ただし、純友が再び日本に戻ってきたという話しはどこからも聞こえてきません。瀬戸内海の交易を通じて、政治を動かす歴史上人物は、日宋貿易で財力を蓄えた平清盛の登場を待たなければなりませんでした。

 

 

  • 純友の子孫

 

ここまでの話しは、推測の域をでてはいませんが、少なくとも、藤原純友は、通説のように、国司に不満を持った無法者の海賊たちを従えて、朝廷に対して反乱を起こしたのではありません。京の貴族社会から脱落し失地回復を図ろうとした純友自身は、瀬戸内海の交易を通じた財力で、政治を変えようとしてしたのであって、結果的に朝廷と戦うことになりましたが、決して、京都に攻め上ろうなどという意思はなかったといえます。

 

それだからかどうかわかりませんが、純友から3世後、孫の藤原直澄の時代、藤原純友は、朝廷から許されています。後世、肥前国の戦国大名、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称しています。大村氏の系図や史書では、藤原直澄は、「正暦5年(994年)に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化していった」とされています(大村氏の先祖は藤原純友の孫・藤原直澄とされる)。有馬氏も、初伝によれば、純友の子直澄が有馬氏の祖になった、または純友の五世の孫幸澄が有馬氏を名乗ったそうです。

 

 

後記

ところで、本HP「レムリア」の投稿記事には自分のことは書かない方針ですが、今回は例外で、一言加えさせて頂きたいと思います。

 

私の出身は長崎県佐世保市です。昔でいえば、肥前国に属します。実は、わが村尾家も、私の父によれば、途中改ざんがあったかもしれないという前提ながら、家系図をたどれば、藤原純友に行きつくという伝承があります!なんでも、「村尾家」の先祖は、大村藩と松浦藩の国境いにいたから村尾になった(大村藩の端っこで村尾)ということらしく、先祖の名前を見ると、特に第一子には、純友の「純」の名が使われています。ちなみに私の父の姉(長女)の名前は「純子」さんでした。もし、この事実を思い出していれば、私の長男にも「純」の字を使ったかもしれないなどと思う今日この頃です。

 

<参考投稿>

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

比叡山の誓い 純友将門共謀説

伝承化する純友将門共謀説

摂津須岐駅襲撃事件:藤原純友の乱と日振島の財宝伝説

Wikipediaなど