2020年05月23日

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

前回の投稿で紹介した平将門とともに、平安時代の中期、武士の時代を先駆けた人物として評されるのが、藤原純友(すもとも)です。純友は、伊予(愛媛県)の日振島を拠点に、約1000艘の船を率いた海賊の首領です。(平将門については、「『平将門の乱』ってどんな戦い?」を参照下さい。)二人がほぼ同時期に起こした朝廷に対する反乱を、年号から「承平天慶の乱」と呼ばれています。

今回は、純友が、瀬戸内海から博多湾にかけて起こした「天業の乱(藤原純友の乱)」を振り返ることにしましょう。純友の乱に関する史料は、将門の乱に比べてかなり少なく、諸説がありますが、今回は、一般に知られている話しを紹介します。(6/3改訂)

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  • 名門貴族の末裔

 

藤原純友は、寛平4(892)年、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれたとされています。当時の太政大臣・関白を務めた藤原忠平は良範の従弟に当たります。祖父は右大弁・藤原遠経(とおつね)で、関白に初めて就任した藤原基経と兄弟でした。さらに、曾祖父は、権中納言・藤原長良(ながら)で、摂政・藤原良房の兄です。

 

このように、純友は、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出する藤原北家(ほっけ)の流れを汲む名門中の名門の血筋であったのです。ですから、純友もそれなりの地位に就くことは期待されたのですが、当時、世襲が当たり前の時代、幼くして父を亡くしたために出世の見込みがほぼなくなってしまいました。

 

 

  • 伊予国の役人

 

それでも、純友は、父の従兄弟(いとこ)で、伊予守に就任した藤原元名(もとな)に従って、931年頃、伊予掾(じょう)となって、伊予国(今の愛媛県)に赴任しました。初めは、救いの手を差し伸べてくれた水の元名の命を受けて、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にいたのです。

 

*「守」や「掾」は、中央から派遣された地方の役人(国司)の等級で、上から(かみ)、(すけ)、(じょう)、(もく)という地位に分けられていた。

 

当時、まだまだ、瀬戸内海には海賊が横行しており、治安の悪化は続いていました。ところで、伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で外交などの儀式に関連した雑務をこなす舎人(とねり)という役職の地方の下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことなどに伴い、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて、「海賊」と化したのでした。

 

伊予国で、海賊の取り締まりに当たる一方で、現地の海賊衆とつながりを持った純友は、任期が終わっても帰京せず、土着していきました。そして、都の政府に不満をもつ、瀬戸内海の豪族たちとともに、海賊集団を作り、その頭となっていったのでした。

 

これに対して、朝廷は、海賊の取り締まりのために、海賊追捕使(ついぶし)を定め、承平6(936)年6月、紀叔人(きのよしと)を伊予守と追捕南海道使に任命しました。これに対して、純友は、一時、紀叔人に従って朝廷に帰順し、海賊を抑えながら、瀬戸内海の治政・治安を守っていたと言われています。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

しかし、純友と紀淑人との蜜月関係は長くは続きませんでした。純友は、突如、朝廷に反旗を翻すのです。その間、純友は、日振島(ひぶりじま)(今の愛媛県宇和島市)を拠点に、1000の兵船を操り、2500人もの部下を従える海賊の首領(頭目)となっていったのです。「南海賊徒の首(かしら)、藤原純友。党を結び、伊予国日振島に屯集(とんしゅう)し、千余艘(そう)を設け、官物私財を抄劫(しょうごう)す」(日本紀略)と、史料にもあるように、瀬戸内海や九州を荒らし回っていたとされています。

 

天慶2(939)年12月17日、伊予国から「純友が船に乗って海上に出ようとしている」との報告が朝廷に届きます。これを受け、朝廷は、京への召喚命令を出しましたが、純友一党はこれに従いません。

 

それどころか、純友の命を受けたとされる部下の藤原文元(ふみもと)が、摂津国の須岐駅(すきのうまや)で、海賊対策に当たっていた備前介(びせんのすけ)の藤原子高(さねたか)を襲撃し、子高を惨殺したのでした。子高が純友の件を報告するため、京へのぼる途中の出来事でした。朝廷が派遣した国司を殺害したわけですから、国家への反逆となります。後に「藤原純友の乱」と呼ばれる戦いのきっかけとなる事件でした。

 

 

  • 比叡山の盟約!?

 

純友の反乱は、朝廷を大いに焦らせました。しかも、同時期に、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配する「平将門の乱」を起こし、その対応に謀殺されていました。また、朝廷内では、将門と純友による反乱は、勃発当初より連携して始められているのではないかとの噂が広がっていました。

 

実際、「比叡山の共謀伝説」というのもあります。その伝説によれば、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし、純友は藤原なれば関白になりて、政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。

 

東から将門、西から純友が、共に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画が立てられたという逸話をどう思いますか?今日でも、将門と純友が比叡山で相談したという「将門岩」が残され、関東には純友の使者が上ったという川岸までもあります。しかも、これは、平安時代(12世紀)の歴史物語「大鏡」や、南北朝時代(14世紀半ば)の史論書「神皇正統記」など複数の史料にも登場しています。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

この真偽は別にして(一般的には否定)、その頃、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰(みつとし)がいると見られ、朝廷は純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れました。

 

追捕使の小野好古(おののよしふる)の率いる軍が、瀬戸内海に出て、純友らを捕えようとしたが、逆に追い散らされてしまいました。小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告したことから、純友が京を襲撃するのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。純友が起こした反乱は、瀬戸内海や摂津は京に近いことから、朝廷は、東西から挟み撃ちにあっているような恐怖感に襲われたと言われています。

 

そこで、朝廷は、まずは「将門の乱」に対応するために、東国に兵力を集中させ、純友に対しては、位階を授けて懐柔をはかろうとします。天慶3年(940年)2月、純友に、(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授けました。しかし、叙任の効果はありません。2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪ったことを皮切りに、藤原文元が備前国を、また藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ年の2月25日、「将門討滅の報告」が京にもたらされたのです。将門の死の報を受け、純友はすぐに、日振島にいったん船を返し、しばらく動静を見守ることにしました。東西から京へ攻め登るという盟約が実現できなくなったことから戦略の立て直しを強いられたのかもしれません。

 

一方、東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった朝廷は、純友に対する融和策を翻し、純友討伐に本腰を入れ始めます。天慶3(940)年8月、朝廷軍の攻勢を受けた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで純友はついに動きだし、讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、朝廷軍を圧倒します。この結果、藤原純友は、平将門と同様、朝廷に弓を引いた「反乱者」となり、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

同じ月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲した後、破竹の勢いで、備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を墜とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。このように、純友は東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域を実質的な支配下に置いたのです。

 

 

  • 西へ西へ:純友の最期

 

しかし、純友の進軍もここまででした。その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、純友にとって、致命的になったのが、味方の裏切りでした。天慶4年(941年)2月、純友の次将と言われた原恒利が朝廷側に寝返ったのです。恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて日振島を脱出し、西に逃れた純友は瀬戸内海の孤島に身を隠していましたが、同年5月に、突如、筑前国(福岡県)に出現、太宰府を襲撃して占領します。大宰府は、朝鮮半島との交易の要所であり、朝廷にとっても西の最重要拠点です。純友にとって、まさに最終決戦の場として位置づけたのかもしれません。

 

天慶4年(941年)5月、山陽道の追捕使(ついぶし)に任命されていた、歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や、平将門の乱にも拘わった次官の源経基(つねもと)が陸路から、同じ追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は、海路から九州に到着しました。

 

大宰府を落とした純友軍は、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(福岡県柳川市)に迫りますが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)に阻まれてしまいました。有明海へ抜ける退路を断たれた純友は。大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。

 

戦いは激戦の末に、純友軍は兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。

 

盟友の藤原文元は逃亡の途中、但馬国(兵庫県北部)で討ち取られるなど、純友に従っていた残党も、その年のうちに駆逐され、「瀬戸内海の海賊王」の反乱は収束したとされています。一時、関東全域を支配した平将門の乱とともに、朝廷に反逆したとされる藤原純友の乱(両者を合わせて「承平・天慶の乱」)は、こうして終焉しました。

 

<参考投稿>

異説:「海賊と呼ばれた男」の真実

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

Wikipediaなど