2020年01月13日

神社:伊勢神宮、外宮と内宮の神さま

昨年11月、天皇皇后両陛下は、伊勢神宮に参拝され、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告されました。また、令和2年に入って、年初の仕事始めの前に、総理を含め与野党を問わず多くの政治家も伊勢詣でしています。皇室の祖、ひいては日本人の祖ともいえる天照大御神をまつる伊勢神宮とは、どういう神社なのでしょうか?

 

伊勢神宮という呼び方は、実は通称で、伊勢の神宮、より正式には単に「神宮(じんぐう)」と呼ばれます。また、伊勢神宮(「神宮」)と一言でいっても、一つの社だけをさすのではなく、相並び立つ「内宮」(ないくう)と「外宮」(げくう)、さらには別宮、摂社、末社、所管社と呼ばれる大小さまざまな社(やしろ)を含め、あわせて125社からなるのが神宮です。ただ一般に「(伊勢)神宮」といえば、「内宮」と「外宮」を連想する人が多いでしょう。今回は、特に内宮と外宮の神さまを中心にまとめてみました。

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内宮では、皇室の御祖先神、日本人の総氏神とされる天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまを、また外宮では天照大御神さまのお食事を司り、産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりしています。

 

外宮(げくう):豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(ないくう):天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 

<内宮の起源>

伊勢神宮の始まりは神話の「天孫降臨」の時代に遡ります。皇孫、瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大御神の命を受けて、高天原から地上の豊葦原中ツ国(とよあしはらのなかつくに)に降りる際、天照大御神は、ニニギノミコトに、お鏡(八咫鏡やたのかがみ)を授けられ、鏡を自分(天照大御神)の御霊(みたま)とみなして、同じ御殿で祀るように命じられました。

 

この時から、天照大御神は、伊勢の地に鎮座される以前に、皇居内の天皇のお側で祀りされていました。しかし、第10代崇神(すじん)天皇(BC148~BC29)の時、その御神威を畏(かしこ)み、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所でお祀りすることにしました。

 

この背景について神話では、崇神天皇の時代に疫病が流行し、大勢の死者が出た際、この原因が、「神の祟り」で八咫鏡のせいではないかという噂が流れたと言います。そこで、崇神天皇は、「お鏡(八咫鏡)」を、宮中(皇居)の外に出されことを決意されたという説もあります。

 

いずれにしても、崇神天皇は、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に、皇居外のふさわしい場所を探すように、お命じになられます。すると、豊鍬入姫命は、皇居外の神聖な地を選んでおまつりすることにし、大和の国の笠縫村(かさぬいむら)(奈良県桜井市)に神籬(ひもろぎ)(=神霊を招き降ろすための樹木)を立てて、大御神を祀られたのでした。この場所が現在の大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社「檜原神社(ひばらじんじゃ/奈良県桜井市三輪)」の辺りではないかと云われています。

 

その後、第11代の垂仁(すいにん)天皇(BC69~AD70)の代になると、八咫鏡をお祀りする役目が、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に交代します。倭姫命は、天照大御神が、新たに末永くお鎮まりになるのにふさわしい土地を諸国を尋ね歩かれました。大和国を出発し、伊賀、近江、美濃、桑名を巡られた末に、伊勢の国に入られた時、天照大御神は伊勢の地を望まれました。「日本書紀」には、この時、天照大御神が次のよう告げたと書かれています。

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この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所である。この国にいようと思う

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こうして、倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢の五十鈴川の川上に、八咫鏡(天照大御神)を移してお祀りするための「御社殿」を建て、天照大御神さまをお祭りしました。この御社殿こそが、今日の伊勢神宮(内宮)となるのでした。これが今から約2000年前の出来事です。

 

<外宮の起源>

内宮ができてから、約500年後、天照大御神の食事を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつった場所が外宮(豊受大神宮/とようけだいじんぐう)です。また、この神さまは、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業(農耕)の守護神でもあります。豊受大御神は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の御世(今から約1500年前)に、天照大御神のお示しによって京都の丹波(たんば)の国(天橋立付近)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになったと伝えられています。

 

前出の天孫降臨の神話においても、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降る場面で、天照大御神が天上の高天原でつくられた田の稲穂を手渡される場面があります。この逸話は、天で育った稲を地上にも植え、この国を天上界のような稔り豊かな国にするように託されたと解されています。

 

さて、その外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、そこで天照大御神に朝夕二回のお食事がお供えされています。「献立」は、御飯三盛、鰹節、魚、海草、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献で、これらに御箸を添えて供えられているそうです。

 

また、伊勢神宮のHPによれば、神饌(しんせん)(神さまのお食事)を調理するのは忌火屋殿(いみびやでん)という建物で行われ、神に奉る神饌は特別におこした火と特別な水で調理することになっています。火は、清浄な火という意味で忌火(いみび)と呼ばれ、神職が古代さながらに火鑚具(ひきりぐ)を用いて火をおこしています。また、御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日お汲みしてお供えされているそうです。さらに、お食事はただ出されるのではなく、「皇室のご安泰、国民が幸福であるように」との祈りと感謝を捧げる、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という祭祀の形で行われています。しかも、日別朝夕大御饌祭は、外宮の御鎮座以来、1500年間、欠かすことなく、朝夕の二度行われているのです。

 

<八咫鏡と斎王>

さて、内宮においては、7世紀末(飛鳥時代)に、天皇が即位する度に、未婚の女性皇族)」の中から、天皇に代わって天照大御神(八咫鏡)に仕える「斎王(さいおう)」という制度が確立しました。すなわち、伊勢神宮における斎王とは、天照大御神の御霊がお宿りする「八咫鏡を祀る任務を担う役職」のことで、一代の天皇が即位する度に未婚の皇女が1人選出されていました。

 

ただし、伊勢へ下ると、斎王は、日々、神宮で奉仕していたかというとそうではなく、基本的に、伊勢神宮の最も大切な祭典「三節祭」が執り行わる際にのみ、神宮へ赴き奉仕したと言われています。普段は、伊勢国多気郡の櫛田川付近(現在の近鉄斎宮駅の付近)に位置した「斎宮」で生活していたとされています。斎王はあくまで象徴的な存在だったのでしょう。

 

なお、「三節祭」とは、神宮内の数ある祭典(神事)の中でも特に重要視されている6月と12月の「月次祭」と10月の「神嘗祭」の3回の祭典をいいます。天皇は現在も、「三節祭」の時には、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されていたそうです。

 

しかし、この斎王の制度は、神宮創建後の約660年後となる室町時代の1330年頃、ちょうど朝廷が2つに割れた「南北朝時代」には廃止されてしまいました。政治の混乱とともに、斎王の制度を維持していく財源がなくなったことが要因とみられています。実際、南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていきました。後醍醐天皇による天皇親政の復活を図った「建武の新政」も失敗し、武家が完全に権力を掌握する時代に移り変わってゆきます。天皇家が政治の中心いた時代では、財源の確保が容易にできましたが、武家の時代になると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなりました。結果的に「斎王」の制度が執り行えなくなり、14世紀以降、時代から消えてしまいました。それまで、皇女が務めた歴代の斎王の人数は60余人にのぼりましたが、現在、伊勢神宮に「斎王」は存在しません。

 

<神宮の祭主>

参考までに、伊勢神宮には、現在も「斎王」と似て非なる存在として「祭主」がいます。神宮祭主は、天皇の代理として神宮の祭事をつかさどる役職で、天皇の「勅旨」を受けて決まります。神宮祭主のはじまりは不詳で、平安時代まではさかのぼると言われています。

 

現在の祭主は、上皇陛下の長女、黒田清子(さやこ)さんです。その前は、昭和天皇の4女の池田厚子さんで、戦後の祭主には、皇族出身の女性が就任されてきました(過去には、男性がなったり、華族らがなったりしていた)。やはり、伊勢神宮成立の経緯からして、皇室の祖先の神である「天照大御神」にご奉仕する「斎王」と同様、伊勢神宮の祭事に携わる「祭主」は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例でした。

 

「祭主」は、神宮の祭事をつかさどる役職といっても、年間「千数百回」も行われていると言われるお祭りすべてに携わっているわけではなく、祭主が直接、神事に携わる(ご奉仕する)のは、神嘗祭(10月)など一部に限られています(このほかに出席するだけの「ご参列」もある)。ですから、祭主になると、伊勢への「常駐」が求められるかというと、祭主が直接関わる祭りは限られているため、伊勢に住みこむ必要はありません。黒田さんも、必要があるときに神宮を訪れるという対応をとられています。

 

以上、ここまで、内宮、外宮の起源とその後についてみてきました。では、内宮と外宮、どちらから参拝したらいいのでしょうか?答えは外宮からです。

 

<外宮先祭>

神宮のお祭りは、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、まず外宮から行われるのが慣例となっています。これは、豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神から「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」との御神託があったと伝えられているからです。

 

従って、内宮のお祭りに先立ち、神饌(しんせん)と呼ばれる神さまのお食事をお供えする日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい))が行われるならわしからきています。ですから、お祭りの順序にならい、お伊勢参りも外宮・内宮の順に参拝するのが慣例なのです。

 

<式年遷宮>

伊勢神宮(外宮・内宮、別宮)では、20年に1度、隣の敷地にそのままの姿で社殿を建て替うて、ご神体を遷す式年遷宮と呼ばれる最大の祭典が行われます。式年遷宮は、飛鳥時代の持統天皇の世の690年から、1300年以上にわたって、続けられています。直近では、2013年10月に行われました。

 

ただし、その年のみ儀式があるのではなく、遷宮の年の7年前から数々の行事がこなされます。ご神体(神さま)が古い正殿から新しい正殿へと遷られるという最重要の儀式は、「遷御の儀」という儀式です。御神体(神さま)にお移りいただいた後、古い社は解体されます。また、建物だけではなく、装束や宝物などの道具も新調されます。「遷宮」とは、言わば、神さまのお引越です。こうした過程で、技術は、「見習いの職人⇒棟梁⇒後見人」というように面々と引き継がれていくことになります。そういう意味で、式年遷宮は、建築や製品の技術を次の世代に伝えていくと制度もあります。

 

これに対して、外国にも歴史的な宮殿がいくつもあります。例えば、ギリシャ神殿は2千年以上も建ち続けています。しかし、それを千年、二千年に1回を建て改めるとなったとしても、同じ建築をつくれる人はもういないと言われています。

 

 

<私幣禁断の制>

古来、伊勢神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りする、皇室にゆかりのある神社であることから、一般の人々は今のような自由な参拝はままなりませんでした。そのことを象徴的に示す制度に、天皇以外の幣帛(へいはく)(=食べ物以外のお供え物)を禁じる「私幣禁断(しへいきんだん)の制」がありました。幣帛(へいはく)とは、麻や木綿など食べ物以外の品を箱に入れてお供えすることで、伊勢神宮にお参りして、これらの品々を奉納できるのは(天皇の)「勅使」や「斎王」のみに限られ、個人は禁止されていたのです。

 

この私幣禁断(しへいきんだん)の制の「伝統」から、一般の人が伊勢神宮をお参りする時、「個人的な願い事をしてはいけない」と言われています。伊勢の神宮は、天皇が天照大御神さまの前で、国民と国家安寧のための公的な祈りの場であるので、「個人的な願いをかなえようと手を合わせて祈ってはいけません」となったのですね。ですから、現在も外宮・内宮の正殿の前には、「おさい銭箱」はありません。もっとも、皆がお賽銭を投げ入れるので脇に「箱」が置かれるようになったそうです。

 

<伊勢詣で>

もっとも、私幣禁断の制によって、一般の人々の参拝までも禁止されたわけではありませんでした。ですから、勅使のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに伝えられていくうちに、次第に神宮の存在が広く知られるようになったと言われています。平安時代の後半には、神嘗祭に「千万人」、鎌倉時代中頃には外宮遷宮に「幾千万」と文献には残されているように、神宮への参向者は年々増えていったようです。

 

江戸時代になると、全国に伊勢信仰が広がり、「お伊勢まいり」が流行するほどでした。この伊勢ブームに大きな功績があったのが御師(おんし)と称される人々です。伊勢の御師とは、神宮の外宮と内宮に所属して、参詣者の様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とする一種の下級神職でした。仏教の檀家制度に近く、檀家にお神札の頒布や祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をしたり、御神楽を行ったそうです。江戸の全盛時代には、二千人あまりの御師が活躍し、伊勢の外宮方面(山田)と内宮方面(宇治)に、御師の館が1,000軒あったと言う説もあるくらいです。ただし、御師制度は明治時代に廃止されてしまいました。

 

このように、伊勢神宮は、一生に一度は伊勢参りと言われるくらい、人々に定着していったのでした。しかしながら、天皇は、江戸時代まで、皇室の祖である天照大御神を祀る伊勢神宮を参拝したことはなかったという驚くべき事実があります。(続)