2019年12月11日

伝承:諏訪明神と安曇氏とのつながり

諏訪大社に祀られている諏訪明神(タケミナカタノカミ)は、海洋民だったアズミ(安曇、阿曇)氏とつながりがあるとの見方があります。内陸に位置する諏訪の神と海の民がどう関係しているのでしょうか?

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安曇氏とは?

アズミ(安曇)という氏族は、弥生時代のころ、北九州周辺にいたとされています。彼らの発祥地とされているのが、福岡県の中でも、玄海灘に臨む交通の要所として、聖域視されていた志賀島です。その博多湾の志賀島に鎮座しているのが、志賀海神社(しかうみじんじゃ)で、元寇の役など国難の際には神威を示しめしてきたとされています。また、同社は、海神を祭る神社の総本宮となっており、神職は今も阿曇(=安曇)氏が受け継いでいます。また、志賀島と言えば、古代史では、漢委奴国王の金印が発見されたことで有名ですね。安曇族の主要拠点で、そういうものが見つかったわけですから、安曇氏が重要な一族であった事が示唆されます。

 

安曇族は、主に海上を活動を拠点とする人たちで、すぐれた航海術と稲作技術を持っていたとされています。当時北九州には、大陸から渡って来た人たちが大勢いたと言われていますが、その中心が安曇氏で、他にも宗像氏、海部氏、住吉氏などの氏族の名前が知られています。安曇氏が、古代の海人(あま)族の中でも最も有力な氏族であったようです。そういう安曇族ですので、彼らは、神武天皇以前の親族に対して朝廷から与えられた称号である連(むらじ)の姓(かばね)を持っていました(それゆえに安曇連とも呼ばれた)。

 

安曇氏の移動

そんな安曇族も、6世紀の中ごろ、理由は定かではありませんが、北九州の本拠から、全国各地に散らばりました。もっとも一説によれば、安曇氏と同じく北九州に拠点をおく豪族の筑紫君磐井(つくしのきみいわい)と大和朝廷と争った磐井の乱(527~528年)が原因という説があります。この乱で、安曇氏は敗者側の磐井に与したため本拠地を失い、各地に移住することになったというのです。

 

さて、彼らの移動先は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、文字通りなら安曇、阿曇、渥美(あずみ)、字は異なりますが、厚見(あつみ)、安曇(あど)、安土(あど)、安堂(あどう)、会見(おおみ)など地名としての「痕跡」がいくつも残されています。現代でも、次のように、日本各地に安曇の異字同意の文字を持つ場所があります。

 

長野県の安曇野市、

岐阜県の厚見郡(現在の岐阜市)

愛知県の渥美半島

滋賀県の安曇川(あどがわ)

静岡県の熱海市

 

このように、安曇族の移住先の一つが、長野県の安曇野(松本市や大町市周辺)地域であったのです。そんな安曇族が、どのようなルートで、この地にたどり着いたのかについては、以下のような説があります。

 

  1. 北九州から、日本海を経て、新潟県糸魚川市付近にたどり着き、そこを流れる姫川を遡っていったという北陸道説
  2. 北九州から瀬戸内海、大阪の安曇江(東横堀の旧名)を経由したという東山道説
  3. 北九州から瀬戸内海から渥美半島(安曇族の開拓地)へ達した後、天竜川を上った天竜川筋説

 

では、今回のテーマである、出雲神話に登場する諏訪明神(タケミナカタノカミ)と、海洋民アズミ(安曇、阿曇)氏との関係を探るために、安曇氏の出所を、さらに神話の世界に遡ってみたいと思います。

 

安曇氏の祖先神

古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。実際、穂高見神は、その名の通り、安曇野市に創建された穂高神社に祭られています。そもそも、「穂高」という町も安曇族の祖先神、穂高見命が地名となっています。また、穂高神社で、毎年9月に開かれる御船祭(みふねまつり)には、船型の山車が登場します。山々に囲まれた穂高で海の祭りが行われるのは、やはり安曇野を拓いた海洋族の安曇氏を偲んでのことだと言われています。

 

一方、穂高見命の父、綿津見神(わたつみ)は、伊邪那岐(いざなぎ)神から生まれたとされています。神話において、伊邪那美の死後黄泉(よみ)の国から帰った伊邪那岐が、禊(みそぎ)をした後、天照大神、素戔嗚、月読命とともに生まれています。しかし、この神話や系図は、古事記や日本書紀の編者の「創作」とする見方があり、この立場に立てば、綿津見は日本古来の神ではなく、海を渡って来た渡来神とされています。では、綿津見(わたつみ)とはどういう神様なのでしょうか?

 

海神:わたつみ(綿津見)

福岡県の博多湾周辺に「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族がいたそうです。中国の後漢書によれば、後年ここには奴という国があり、その王が漢の光武帝から漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)の金印を拝受しました。前述したように、その場所は福岡の志賀島、即ち安曇氏の発祥の地であり、主要拠点です。つまり、「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族とは、安曇氏のことではないかと推察されます。

 

「わたつみ(綿津見)」の「わた」は「海」、「つ」は「の」、「み」は「神」を意味する古語なので、わたつみは「海の神」と解されています。また「つみ」とは「住む」という意味もあるそうです。そうすると、「わたつみ」は「海に住む神」で、その子孫(安曇族)は海洋族(海人族)となるのですね。では、「わたつみ(綿津見)神」は、外来神と言われているということは、彼ら海人族は、どこの地から海を渡り日本に来たのかといえば中国大陸の南方からと見られています。そうすると、わたつみ(綿津見)神は、大陸の南方系の神、即ち揚子江の南(江南の地)の神となります。

 

江南からの渡来人

江南の地は、紀元前4世紀ごろ、楚・越・呉の三国がありました。「楚(そ)」は、江南の地からやや内陸側、現在の湖北・湖南省あたりを治め、「越(えつ)」は、長江の河口付近、浙江省あたりを、「呉(ご)」は越の北をそれぞれ支配していました(彼らは百越と総称される)。

 

当時、この三国は互いに戦いを繰り広げた、結局、呉は越に滅ぼされ、越は楚に滅ぼされました(紀元前334年)。越の滅亡後、楚の支配を嫌った人々は、脱出し、朝鮮半島や北九州にたどり着いたとされています。さらには、現在の山陰(出雲)や北陸地方にも到着したと見られています。北陸には、かつて福井県から山形県にかけて「越国(コシの国)」という国がありました(その後、越前・越中・越後と分割された)が、越人が渡来したことが地名にも反映しています。なお、楚、呉、越の3国は、日本にはなじみ深く、楚は「四面楚歌」、呉と越は「呉越同舟」の故事で知られています。また、「呉服」とは、呉の機織の方法が日本にも伝わり、その織物で作った服のことを言います。

 

いずれにしても、紀元前4世紀ごろ、越人(あるいは百越の人々)が、日本に大量にやってきたと解されます。越人(百越人)以外にも、中国東北部の旧満州地区にいたツングースという民族(女真、扶余、契丹、粛慎などの部族に分かれる)も、北九州方面に渡来していました。ただし、綿津見さらには安曇族はツングース系ではなく南方系とされています。

 

一方、現在の島根県東部には、いつ頃かは不明なようですが、出雲族と呼ばれる人たちがいました。一説には、彼らも渡来系で、ツングース系または越人だった言われているのです。もし、越だとしたら安曇氏と出雲氏は同族ということになります。

 

記紀に基づく出雲神話では、国譲りを迫った天照大神の使者、建御雷神(たけみかづち)に対して、大国主神は二人いた息子の一人、事代主神(ことしろぬし)に決定を委ねます。事代主はこれに応じ、呪文のような所作をした後、波間に消えます。これに対して、もう一人のもう一人の息子の建御名方(たけみなかた)は反対し、建御雷神(たけみかづち)と力比べを挑みますが、簡単に破れて逃げだします。信濃国(長野県)まで逃げた建御名方(たけみなかた)は、その地を出ないという条件で助命された・・・・という話しになっています。建御雷神と建御名方神の力比べは相撲の発祥とされ、諏訪に逃げた建御名方(たけみなかた)を祭る社が現在の諏訪神社であると説明されています。

 

この神話の世界が、史実を象徴的に表現されたものとするなら、次のように解されています。

 

出雲地方は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の支配下にあり、奈良の三輪山当たりまで及ぶ勢力を誇っていました。しかし、そこに奈良盆地に興った「ヤマト(大和)」勢力が周辺諸国と戦いながら勢力を広げ、やがて出雲と対立するようになり、ヤマト側は、建御雷神(たけみかづち)という将軍を派遣・・・・。つまり、建御雷神(たけみかづち)と建御名方(たけみなかた)の力比べは両国の戦争ということになりますね。敗れた出雲側の建御名方(たけみなかた)は諏訪まで敗走、事代主神(ことしろぬし)は自害、大国主は幽閉されたということなのでしょうか?

 

また、出雲の人々も、「ヤマト」の支配を嫌い、出雲を逃げ出し、建御名方のように信濃国に留まった人もいれば、さらに北上し、秋田や青森など東北地方に行きついたという見方もあります。出雲と東北は言語(方言)や信仰、文化の面で多くの共通点があるそうです。

 

■タケミナカタは安曇族か?

安曇族が、信濃の安曇野にたどり着くために、新潟県糸魚川市を流れる姫川をさかのぼったという説を紹介しましたが、建御名方命も安曇族も同じように姫川をさかのぼって信濃国に逃げたという見方もあります。さらには、建御名方の出雲から信濃への逃走は、そもそも姫川を遡った安曇族の移動のことを示しているという極論すらあります。その際、安曇族は安曇野にとどまりましたが、建御名方は諏訪湖まで逃げたと解釈されます。

 

いずれにしても、「諏訪に逃げてきた建御名方神(たけみなかた)」という表現は、出雲神話に基づくものであって、これを信濃の神話の観点からは、出雲から建御名方神が信濃に侵攻してきたのであり、これを迎え撃ったのが土着のモリヤ神ということになります。(⇒モリヤ神とミシャグジ神

 

現在、このモリヤ神との戦いに勝った建御名方神は、諏訪大社上社本宮で祀られています。また、諏訪神社上社前宮と下社の祭神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)は、建御名方神の妃であり、安曇族の祖先神わたつみ(綿津見)の娘とされています。果たして、建御名方神(たけみなかた)は、中国南方系の渡来神、わたつみの子孫である安曇(あずみ)族の流れをくむ神様なのでしょうか?歴史と同様に神話もロマンです。個人的には安曇氏に対する関心がさらに高まってきました。

 

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付記

最後に、次のような伝承があることを紹介して今回は終わりにしたいと思います。

 

建御名方神(たけみなかた)は、わたつみ神の移動で「越の国」に定住し、越国から信濃に攻め込んできたというものです。ただし、信濃に侵攻したのは、建御雷神(たけみかづち)との戦いに敗れたからなのか、それとも別の理由からなのか、そもそも建御名方神(たけみなかた)は、大国主の子なのかなどの疑問が残ります。

 

しかし、いずれにしても、この伝承の立場に立てば、出雲の稲佐浜での建御雷神(たけみかづち)と建御名方神(たけみなかた)の力比べで、建御雷神が完勝したという神話は、記紀の編者によるヤマトの支配を正当化するための「創作」という可能性もでてきます。神話の世界では、建御雷神はその名の通り雷神という自然の神であるのに対して、建御名方神は武人であり実在神という位置づけです。そうなると、自然の神(雷)が、実在の神(人)と戦うことはないと指摘する向きもあります。

 

<参考>

諏訪の神様ってどんな神様?(matchy)

パワースポット諏訪大社のご利益(日本の観光地・宿)

安曇族の謎(明神館)

関東農政局(HP)

ウィキペディア(artwiki)など