記紀(日本武尊):神剣・天叢雲剣の霊験

シリーズ「記紀(古事記・日本書記)を読もう」の第8回「日本武尊」の物語です。

 

初代・神武天皇が、紀元前660年2月に、橿原の地で即位されて、時が経ち、第12代景行天皇の時代の話しです。今回の主役は、日本の神話の中で人気の高いヤマトタケルです。なお、ヤマトタケルノミコトは古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と書かれています。

 

これまでの第1回~第7回の記事

記紀①(天地開闢)

記紀②(天の岩戸)

記紀③(出雲神話)

記紀④(国譲り)

記紀⑤(天孫降臨)

記紀⑥(海幸彦・山幸彦)

記紀⑦(神武の東征)

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ヤマトタケルの物語

 

  • 景行天皇の皇子として

 

日本神話において最も武力に優れた英雄的な神さまとして知られるヤマトタケルは、12代景行天皇(在71~130年)の第二子として生まれました。母は播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)で、幼名を小碓命(オウスノミコト)といい、大碓命(オオウスノミコト)(おおうすのみこと)という双子の兄がいたとされています。

 

ある日、景行天皇の日代宮(ひしろのみや)(今の奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は、父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召し連れてくるように言われました。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は、二人があまりに美しい娘たちだったので自分のもとに置くことと決め、父には別の娘を引き合わせました。

 

しかし、このことが景行天皇に知られることとなります。大碓命(オオウスノミコト)は、父の前に顔を出しづらくなり、朝夕の食事にも同席せず、大事な儀式に出てこなくなりました。父は弟の小碓命(オウスノミコト)に、食事の席に出るように兄を諭してくるよう命じましたが、それでも大碓命が顔を出しません。そこで、小碓命にどうしたのかと問いました。すると、小碓命は、大碓命が言うことを聞かないので、「手足をもぎ取り、むしろに包んで投げ捨てました」と答えました(この逸話については異論あり)。

 

景行天皇は、小碓命(オウスノミコト)の超人的な力と、時折みせる荒々しい性格をみて、自分から遠ざけておこうと思われ、九州南部で勢力を拡大し、自分に従わない熊襲(くまそ)を征伐するように命じました。この時、小碓命はまだ16歳でした

 

命じられたものの、わずかな手勢しか与えられず、困った小碓命は、伊勢神宮で天照大神を祀っている叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)を訪れると、倭比売命は、女性の御衣(みけし)と御裳(みも)を与えてくれました。

 

 

  • 熊襲討伐

 

その後、伊勢を発った小碓命らは、西暦97年12月に熊襲の国に到着しました。熊襲には、王の熊襲建(クマソタケル)またの名は川上梟師(カワカミタケル)が、この地を治めていました。当時、大きな家を新築したばかりの熊襲建は、親族を集めて宴会を開こうとしていました。そこで、小碓命(オウスノミコト)は、髪をほどいて少女のように髪を結い、叔母からもらった衣を着て、宴にいる女たちの中に紛れ込みます。腰に付けた剣は裀(みごろ)(=衣服)の裏に忍ばせませした。宴の最中、女たちの中にひときわ目立つ童女の姿を見つけた熊襲建(クマソタケル)は、手を取って隣に座らせ、お酒を飲みながら戯れていました。夜が更けた時、小碓命(オウスノミコト)は、ここぞとばかりに懐に持っていた短刀で、熊襲建の胸を一気に刺しました。

 

熊襲建(クマソタケル)は、息絶える前「待たれよ、まだ刀を抜かれるな」と頼みます。小碓命(オウスノミコト)がとどめをささずにいると、続けて言いました。

「そなたは何者か」

 

小碓命が答えました。

「私は大足彥天皇(オオタラシヒコノスメラミコト)の子で名は日本童男(ヤマトオグナ)である」「帝の命に従わないお前たちを、成敗しに来たのだ」

 

熊襲建がまた言いました。

「この国には、私より強い者はいない。私はこれまで多くの武人に会ってきたが、そなたのような者は初めてである」「尊号を奉じさせてもらってもよろしいか?」

 

「聞こう」

小碓命(オウスノミコト)が答えると、熊襲健(クマソタケル)は言いました。

 

「建(タケル)の名を献上したい。」(「建」は勇敢な者という意味を持つ)

「これからは倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と名乗ってほしい。」

(ヤマト(大和)の強い男という意味)

 

こう言い終わったところで、小碓命(オウスノミコト)は刀を振りおろして、熊襲健の息の根を止めました。こうして、これ以降、小碓命は、ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)と名乗るようになったのでした。

 

 

  • 出雲討伐

 

熊襲の帰途、出雲に立ち寄ったとされるヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)は、その地の王である出雲建(イズモタケル)と親交を結ぶことにしました。しかし、ヤマトタケルの目的は、出雲建を征伐してこの地を平定することでした。

 

ヤマトタケルは、密かに硬いイチイガシの木で刀を作りました。そして二人で河に入り水につかっていました。先に上がったヤマトタケルは出雲建が置いていた刀を取って「今から刀を換えて太刀合わせをしよう」と言いました。そこで、出雲建も河から上がりヤマトタケルの刀を持ち勝負しようしましたが、木刀だったので切り殺されてしまいました。

 

 

  • 東国へ派遣

 

ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)は、西暦97年2月、意気揚々と大和に帰還し、熊襲と出雲の両地を平定した様子を天皇に報告しました。景行天皇は、皇子の功績をことのほか褒めますが、ヤマトタケルは休む間もなく、次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。東国の荒ぶる者たちが朝廷に叛いたので、乱を平定起こしていたからです。

 

父の景行天皇は、西暦110年7月、伊勢、尾張、三河、遠江(とおとうみ)、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(ふさ)、常陸、陸奥(みちのく)、東国の12か国を平定するよう倭健命に命じ、吉備武(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)を同行させました。

 

同年10月出発したヤマトタケルノミコトは、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)にあいさつするため、伊勢に立ち寄り、「西の熊襲を討って都に戻ってきて、間もないのに、今度は、東国の12道の悪しき者たちを征伐せよと命じられました。父は私に死ねと思っておられるのか、本当はやめたいのです」と打ち明けます。すると、倭比売命(ヤマトヒメ)は、ヤマトタケルを諭し、伊勢神宮にあった神剣で、三種の神器のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、小袋に入った火打石を持たせて送り出しました。大和から尾張に入ると、ヤマトタケルは、国造の娘の美夜受比売(ミヤズヒメ)と出会い、東国の平定後に結婚すると約束して進んでいきました。

 

 

  • 駿河にて~天叢雲剣の活躍

 

ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)は、その年のうちに、初めて駿河の国に入りました。その地の国造(くにのみやつこ)がヤマトタケルを迎え、「ここは広い野原で、鹿がたくさんいます。さあ、狩りをしましょう」と誘います。尊(ミコト)は、その者の言うことを信じ、野の中に入って行きましたが、それは罠でした。国造は、背後から野に火を放ち、辺りは火に囲まれてしまいます。

 

ヤマトタケルは、騙されたことに気づき、ヤマトヒメから授かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙(な)ぎ払い、火打ち石を使って向かえ火を起こすと、またたくまに敵に向かって炎が燃え盛り、逆に焼き払うことができました。この時、天叢雲剣が周りの草をなぎ払ったことから、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。

 

ヤマトタケルを罠に陥れようとした賊たちは捕らえられ焼き殺されました。海の近くで燃えた草原であったことから、この地は焼津(やいづ)と呼ばれるようになったと言われています。また、ヤマトタケルが近くの小高い丘に登り、周りの平原を見渡していた様子を見た土地の人たちが、そこを「日本平」と名付けたという逸話も残されています。

 

 

  • 相模にて~弟橘媛の入水

 

焼津を抜け出したヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)は、相模まで到り、ここから船で対岸の上総国(房総半島)に渡ろうとして言いました。

「こんな小さな海、一つ飛びで渡れるだろう」

 

そうして三浦半島の海から船を沖に進ませましたが、急に暴風が吹き荒れました。そのため、雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船は先に進みません。この時、大和から同行していた妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)が、尊に言いました。

「これは、海神の祟(たた)りです。尊の代わりに、私がその怒りを静めましょう。」

 

言い終えると弟橘媛は海に身を投げました。すると、嵐はやみ、船は進みました。ヤマトタケルは、最愛の妻を失う事となりましたが、無事に、上総国に上陸することができました。この時よりこの海を「馳水=走水(はしりみず)」(東京湾)と呼んだと言われています。

 

 

  • 蝦夷が服従

 

ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)はすぐに、上総から海路で、蝦夷の境にあたる陸奥国(東北地方)に入りました。この時、蝦夷の首領の嶋津神(シマツカミ)(=蝦夷の首領)や国津神(くにつかみ)たちは竹水門(たけのみなと)(今の宮城県の多賀城市付近が有力)にいて入港を阻止しようとしていました。しかし、遠くから近付く、ヤマトタケルの船の威容を見て、勝ちそうもないことを悟ると、皆、弓矢を捨てて、尊に服従しました。これを見たヤマトタケルは蝦夷たちを許し、蝦夷の首領を従者としました。

 

 

  • 信濃で「坂の神」を成敗

 

蝦夷を平定した後、帰途に就いたヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)たちは、日高見国(ひたかみのくに)(東北の地のこと)から常陸を経由し、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)に来ました。ここで、尊は、「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに(福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに帝に従わないでいる」と述べ、甲斐より北の武蔵(むさし)(東京~埼玉県一帯)、上野(かみつけ)(群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか)(群馬県碓氷峠)に到着しました。

 

そこで、弟橘媛(おとたちばなひめ)のことを思い出した尊(みことは)は、碓日峰に登り、東国を望んで、「吾妻(吾嬬)はや」(わが妻よ……)と嘆きました(「嬬」は「つま)と読む)。

それが契機となって、ここから東の国々を「あづまのくに」(東国/吾妻(嬬)国)と呼ぶようになったと言われています。

 

ヤマトタケルの一団は、ここから分かれて進み、吉備武彦を越国に遣わし、尊(ミコト)は山深い信濃へと進みました。

 

ヤマトタケルらが、足柄の坂本(今の神奈川・静岡県境)で食事をしているとき、「坂の神(山の神)」が尊を苦しめようとして、白鹿に化けて尊の前に立ちはだかりました。しかし、ヤマトタケルが一つまみの蒜(ひる)(=野蒜のびる)で打ちかけると、それが目に当たり、白鹿は死んでしまいました。これまで、信濃坂(しなののさか)を通る多くの人々は、霊気を浴び、病で伏せっていましたが、尊が白鹿を殺してからは、この山を越える者は蒜を噛んで、人や馬に塗ると神気に当たらなくなったと言われています。

 

こうして、信濃(科野国)の「坂の神」を成敗したヤマトタケルは、美濃に出て、尾張の国境、内津(うつつ)峠に入りました。その間、越から戻ってきた吉備武彦とも再会できました。

 

 

  • 伊吹山での悲劇

 

東国を平定したヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)は、大和へ帰る途中、尾張(今の名古屋あたり)に戻ってきました。そこで、約束通り、尾張氏の娘の宮簀媛(美夜受比売)(ミヤズヒメ)と結婚しました。しばらく、尾張に留まって数か月が経ちましたが、近江の伊吹山(五十葺山)に荒ぶる神がいると聞いたヤマトタケルは、その神を征伐するために伊吹山に向かいました。しかしこの時、「素手で戦う」と言って、なぜか護身の呪力を持った草薙の剣を、ミヤズヒメのもとに置いたまま出立したのでした。

 

伊吹山に着くと、山の神が大蛇(おろち)に化けて道を塞いでいました。ヤマトタケルは、蛇が山の神の化身とは気づかず、「この大蛇はきっと荒ぶる神の従者にちがいない。とるに足りぬ」と半ば無視して、蛇を踏み越えて進みました(大蛇ではなく、大きな白猪(しろいのしし)という説もある)。

 

これに怒った山の神は、呪いをかけ、毒気のある氷雨を降らしたり、霧で道を迷わすなどしたため、ヤマトタケルは大きな痛手を被い、やがて病となり、やっとのことで山を下ることができました。山の麓で、意識もうろうとしながら、辿り着いたヤマトタケルは、泉の湧き水を飲んでようやく正気を取り戻せました。この泉を居醒清水(いさめのしみず)といいます。

 

しかし、尊(ミコト)の足はふくれあがり「歩けない、たぎたぎしくなった」と吐露しました(この逸話から、この地を「当芸野(たぎの)」と呼ぶようになったと言われる)。また、急な坂を上るために、杖をつきながら歩かなければなりませんでした(この逸話から、この坂は杖衝坂(杖突坂)(つえつきざか)と呼ばれるようになったと言われる)。

 

それでも、ヤマトタケルは、立ち上がって尾張へ戻ってきました。しかし、宮簀媛(ミヤズヒメ)の所には戻らず、伊勢に向かい、尾津(おづ)(今の三重県桑名市)に到着しました。途中、「あまりにも疲れて足が三重にも折れ曲がったようだ」とつぶやきました(この逸話が、この地を三重と呼ぶようになった由来とされる)。

 

 

  • 臨終の地~能褒野

 

ヤマトタケルは、終焉の地となる能褒野(のぼの)(三重県亀山市)に着きました。この時、故郷(ふるさと)を懐かしんで、こう歌を詠みました。

 

大和は国のまほろば、たたなずく 青垣、山隠(やまこも)れる大和しうるわし

(大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く青い垣根のような山々に囲まれ、本当に美しい。)

 

この時、尊の病気はかなり悪くなりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣(つるぎの大刀(たち)その大刀はや

私が乙女(ミヤズヒメ)の寝床(ねどこ)に置いてきた、草薙の剣。ああ、その太刀よ

 

ヤマトタケルノミコトは、歌い終わると息を引き取りました。崩御された年齢ははっきりしませんが、御歳30歳とも言われています。尊の死を痛く悲しんだ景行天皇は、すぐに群臣を集め、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)(三重県亀山市)に葬りました。

 

この時、陵墓から一羽の白鳥が出て、天に昇り、大和の方角へ飛び立ちました。群臣が棺を開いて見てみると、明衣(みょうえ)(=神事の衣服)だけが残され、遺体はありませんでした。そのため、使者を遣わして白鳥を追い求めさせたという伝承も残されています。

その白鳥が最初に舞い降りたとされる場所が、大和の琴弾原(ことひきはら)(奈良県御所市)で、この地に白鳥陵があります。再び空へと舞い上がった白鳥は、河内(かわち)に到り、旧市邑(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。そこにまた陵が造られました。それから、白鳥は再び空天高く飛び去っていったといいます。人々は、これらの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んでいたそうです。

 

 

<その後のシリーズ記事>

記紀⑨(三韓征伐):神功皇后の新羅出兵と神々の降臨

 

 

<参照>

ヤマトタケルって実在の人物?古事記や日本書紀の神話を簡単に解説!

日本武尊伝説

日本武尊の足跡を追いかける

日本神話・神社まとめ

古事記の現代語・口語訳の全文

日本書紀の現代語・口語訳の全文

日本書紀・現代日本語訳(完全訳) | 古代日本まとめ

古事記・現代日本語訳(完全訳) | 古代日本まとめ

古事記 神々と神社(別冊宝島)

Wikipediaなど