桃太郎伝説:吉備津彦命と温羅

 

桃太郎は、金太郎や牛若丸とともに、子どもたちにヒーローで、端午の節句に飾られる五月人形に欠かせません。桃から生まれてのですから、桃太郎は架空の人物と思われますが、「桃太郎は実在した」「桃太郎は神さまだった」と言われたらビックリではないでしょうか?

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  • 桃太郎のおとぎ話

 

「むかし、むかし、あるところにおじいさんと、おばあさんが住んでいました・…おばあさんは川へ洗濯に…」と語り始められる童話と言えば、誰もが「桃太郎」と答えることができるぐらい、桃太郎の童話はよく知られています。

 

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川で洗濯をしていたお婆さんが、流れてきた桃を拾って、家に帰って割ってみると、男の子が出てきました。桃太郎と名づけられた子が健やかに成長すると、きび団子を持って鬼退治に出発します。鬼が住む「鬼ヶ島」に向かう途中、桃太郎は、犬、猿、雉(きじ)を仲間にして、村の人々を苦しめている鬼を退治します。そして、鬼たちの持っていた財宝を手に入れると、育ててくれたお爺さんやお婆さんをはじめ、村の人々に分け与えて幸せに暮らしました…。

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  • 「端午の節供」と「桃の節句」の桃太郎

 

この桃太郎の話しは、室町時代以前にその原型があったと考えられていますが、江戸時代から語り継がれて有名になったと言われ、男の子を持つ親の多くは、「端午の節句(5月5日)」になると、桃太郎を飾る風習が広がりました。

 

これは、わが子が、桃太郎のように、健やかなに成長し、鬼に立ち向かう勇気や力強さを持ち、犬、猿、雉を従えた人望や賢さを兼ね備えた理想の男の子に育って欲しいという期待が込められているからだとされています。

 

また、桃太郎が鬼を退治したということから、わが子にも災厄から身を守る運の強さがあって欲しいという願望も込められていると言われています。こうして桃太郎は、子どもの健やかな成長を祈る庶民信仰の対象になっていったと考えられています。

 

一方、桃太郎は、「端午の節供」だけでなく、「桃の節供(3月3日)」の時にも登場します。桃は昔から悪い邪気を払う神聖なものとして用いられてきました。逆に、その邪気の象徴は鬼とされており、邪気を祓う力のある桃には、鬼を退治する力もあると考えられてきました。また、桃は、不老長寿を与える植物とされるなど長生きの象徴でもありました。

 

こうした背景から、桃から生まれた桃太郎が邪気を象徴する鬼を退治する、という民話が誕生したともみられています。ところが、このように昔から親しまれてきた桃太郎のおとぎ話の内容は、最初から定まったものではありませんでした。

 

 

  • いろいろな桃太郎

 

まず、桃太郎伝説の舞台は、犬やキジや猿をお供にするきっかけとなったきび団子が「吉備団子」なので、岡山県(吉備)とされていますが、鬼退治をするといった同様の話しは、北海道から沖縄まで、幾つも存在し、必ずしも岡山県とは限られていませんでした。

 

また、桃太郎の昔話の中で、桃太郎は怠け者であったり、腕白であったりしただけでなく、桃太郎のお供をしたのも、犬、猿、雉ではなく、名前に「太郎」の付いた仲間達と旅をするといった童話の設定もありました。

 

さらに、桃太郎伝説の原型では、「桃太郎は桃から生まれてなかった」のかもしれません。前述したように、桃は古来、不老長寿を与える植物とされていたことを反映していたからかどうか確かではありませんが、明治時代初期までの桃太郎のお話は、「桃を食べたおばあさんとおじいさんが若返って、桃太郎が生まれた」というものであったとも言われています。

 

今に伝えられている「桃から生まれた桃太郎は…」の童話は、明治20年に国定教科書に採用される際に、「子供向け」に変更されてからの話しなのだそうです。そうだとすると、桃太郎は実在した人物だったのかという疑問が出てきます。

 

 

  • 実在の桃太郎!?

(吉備津彦命の伝説/温羅伝説)

 

桃太郎は、紀元前3世紀頃に活躍した吉備津彦命(キビツヒコノミコト)がモデルであるとする説があります。吉備津彦命は、「古事記」や「日本書紀」などの歴史書に登場する神さまで、第7代天皇である孝霊(コウレイ)天皇と妃の倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ)の間にできた第三皇子とされています。正確に言えば、「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」は別名で、本来の名前は「五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)」といいました。

 

日本書記によれば、五十狭芹彦命(後の吉備津彦命)は、第10代、崇神(スジン)天皇の御世(前97~前30年)に、四道将軍(しどうしょうぐん)(諸国平定のために北陸、東海、西海、丹波へ派遣された4将軍)として、西海の吉備国(きびのくに)(今の岡山県)へ派遣されました。

 

そこで、その地を支配し人々を苦しめていたとされる温羅(オンラ/オンウラ)の討伐を命じられ、吉備の地を平定したという伝説があります。五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)は、温羅を討ち取り吉備国を平定したため、後に「吉備津彦(キビツヒコノミコト)」を名乗ったと言われています。

 

吉備津彦命伝説(温羅伝説)によれば、温羅(おんら)は、元々、朝鮮半島の百済(くだら)の王子でしたが、空を飛んで日本に渡ってきた後、吉備の国を支配し、圧制を敷いたとされています。その容貌はといえば、まさに鬼のごとく、「目には狼のような獰猛さを宿し、髪は赤く燃え盛り、身長は4メートルを超えた」と形容され、好き放題に暴れ回っていたと伝えられています。この温羅という「鬼」が拠点とした城を、人々は恐怖の意味を込めて「鬼の城(きのじょう)」と呼んでいたそうです。

 

吉備津彦命が温羅を討伐した模様は以下のように壮絶であったようです。

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恐れおののいた人々が都へ出向いて助けを求めたことを受けて、武勇の名将である五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)が派遣されることになった。都より大軍を率いて吉備の中山に本陣を構えた五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)は、一本ずつ矢を放ちますが、温羅が投げた岩にぶつかり、一進一退となった。そこで、命(みこと)が、2本の矢を同時に射ると、1本の矢が温羅の左目を射抜いた。致命的な傷を負った温羅は、とっさに雉(きじ)に姿を変え山中に逃げたが、五十狭芹彦命は鷹になって追いかけ、さらに、鯉に姿を変えて川に逃げた温羅を、鵜(う)の姿になって追いかけ、飲み込んで捕えた。最後は、温羅の首を切り落とした。

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このように、昔の人々は、鬼のような温羅を討った五十狭芹彦(後の吉備津彦命)を讃え、桃太郎伝説として後世に語り継いでいったとみられています。もっとも、温羅は、大方、討伐されるべき「悪者」として描かれていますが、吉備国に製鉄技術をもたらした渡来人であるという説もあり、その正体は正確にはわかっていません。

 

吉備津彦命(キビツヒコノミコト)も、実在した人物なのかもはっきりしていません。岡山県には、吉備津彦命が実在したと思わせる場所がいくつか残っているそうですが、281歳まで生きたと言われていることから、伝説上の人物だという見方もあります。

 

 

  • 犬・猿・雉の正体

 

一方、桃太郎のお供についた犬・猿・雉(きじ)は、一体何に由来しているのでしょうか?これについても諸説ありますが、吉備津彦命に仕えた三人の家来のことだったという「家来説」が有力です。その三人とはそれぞれ犬・猿・鳥という名前がついた以下の三人だと言われています。

 

・犬飼部犬飼健命(いぬかいべのいぬかいたけるのみこと)
・猿飼部楽々森彦命(さるかいべのささきもりひこのみこと)
・鳥飼部留玉臣(とりかいべのとめたまおみ)

 

犬の犬飼健命(いぬかいたけるのみことは、猟犬を飼育、朝廷に仕えた一族で、子孫は現在の犬飼(犬養)家だそうです。猿の楽々森彦命(ささきもりひこのみこと)は、吉備津彦命の軍師的存在で、子孫は現在の高塚家と藤井家に当たります。鳥の留玉臣(とめたまおみ)は、百里を飛ぶ能力を持つ術師だったとされ、子孫は現在の鳥飼家と鳥越家と言われています。

 

 

<参考>

金太郎伝説:坂田金時と酒呑童子

 

 

<参照>

端午の節句に「桃太郎人形」を飾るのはなぜ?

なぜ桃の節句というのか? 桃太郎との関係

古代史の旅桃太郎と神武東征伝説(古代史の旅)

桃太郎さん(吉備津彦神社HP)

桃太郎のモチーフとなった温羅伝説とは?(神社CH)

桃太郎と神武東征伝説