ミシャグジ信仰:洩矢神と守矢氏とともに

 

一般に、古事記と日本書記(記紀)が正史とされていますが、日本の神話には、記紀以外にもたくさんの神さまがいます。今回はミシャグジという神さまをとりあげます。

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  • ミシャグジという神さま

 

ミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)とは、記紀には登場しない、太古より日本に伝わる、諏訪湖の土着神で、ミシャグジに対する信仰は、大和民族に対する先住民の信仰とされていました。その起源は縄文時代といわれ、当初は、主に樹木、笹、石など、自然万物に降りてくる精霊・自然神と言われていました。また、諏訪の御射山(みさやま)をご神体とする山神として、マタギ(猟師)をはじめとする山人達から信仰されていました。

 

さらに、時代を経るにつれて、ミシャグジは、諏訪の蛇神であるソソウ神モレヤ(モリヤ/洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。

 

また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)を、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)(=境界の神)とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神さまです。

 

現在、ミシャグジ神は、諏訪大社上社(かみしゃ)に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。

 

ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。東京の練馬区に石神井(しゃくじい)という地名がありますが、「シャクジ」「シャクチ」という名前が入っている土地にはミシャグジが祀られていた場所が多いそうです。

 

このミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)という神さまを理解するためには、記紀の国譲り神話や、同じ諏訪の土着神である洩矢(モリヤ)神、守矢氏、物部氏などについて知識が必要になります。

 

 

  • 建御名方神vs洩矢神

 

「古事記」の国譲り神話には、出雲の国の伊那佐(いなさ)の小浜で、天孫族の建御雷神(タケミカヅチ)との力競べに敗れた建御名方命(タケミナカタノミコト)は、諏訪(洲羽)に逃れてきて、諏訪の神になったと書かれていますが、諏訪にはタケミナカタ以前に「洩矢(モリヤ、モレヤ)の神」がいました。

 

モリヤ(洩矢)神は、諏訪大社に祀られているタケミナカタ(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した土着神とされています。室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」にも、「大和朝廷による日本統一の前の時代、諏訪の地には、モリヤ(洩矢)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいましたが、そこに出雲王国の建御名方神(タケミナカタノカミ)率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た」という記載があります。

 

神戦の舞台は、江戸時代の伝承記録によれば、天竜川のほとりとあります。現在でも両者の戦った場所は残っているとされ、出雲族の建御名方神(タケミナカタノカミ)の陣地跡には藤島明神(長野県岡谷市)が祀られています。その一方で、洩矢神(モリヤノカミ)の陣地跡には天竜川を挟んで洩矢大明神が洩矢神社(岡谷市)に祀られています。

 

戦いは、地主神のモリヤ(洩矢)神と洩矢族が負け、侵入者である建御名方神(タケミナカタノカミ)に諏訪の統治権を譲り、建御名方神が諏訪大社の御祭神となったという経緯があります。

 

ただ、現在も建御名方神は、諏訪様(諏訪大明神)として、人々に親しまれています。これは、勝者である建御名方神が、侵略者として圧政は敷かず、むしろ、洩矢族とともに諏訪を統治したことがあげられています。それどころか、この地に稲作を伝え、諏訪の国も豊かにしたことから、先住民である洩矢の人々と新しく来た出雲系の人々は、共存するようになったと言われています。

 

さらに、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官として認め、洩矢族に代々祭政を任せたのでした。今もこの神官の地位(神長官)を守矢氏が引き継ぎ、現在78代目(守矢早苗さん)なのだそうです。

 

諏訪氏:建御名方命(タケミナカノミコト)の子孫

守矢氏:洩矢(モリヤ)神の子孫

 

 

  • 守矢氏

 

諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神を氏神とする氏(うじ)が、守矢一族とされ、守矢氏は洩矢神の後裔とみられています。前述したように守矢氏が受け継いできた神官名が、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)です。この役職は、次に述べる「大祝(おおほうり)」という神職の即位式を含め、神事全般を掌握するだけでなく、土着のミシャグジ(ミシャグチ)という神さまを降ろしたり上げたりするという祭事を担います。

 

大祝(おおほうり)とは、神職の最高位の階級で、成年前の童子が、決められた地域からそれぞれ1年毎に選ばれて即位しました。選ばれた童子は、即位式に当たり、神長官の屋敷の一室に一定期間籠り、儀式に臨みます。儀式は、諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、そこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝(おおほうり)」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。

 

守矢(モリヤ)氏が代々務めた神長官(神長)は、「諏訪大社上社大祝(おおほうり)の職位式」などの神事を行ったり、呪術によって神の声を聴いたり、豊作祈願など祈祷する力などを持つとされました。

 

これに対して、諏訪神官の最高位である大祝という生神の位に就いた氏が、建御名方命の子孫である諏訪氏神氏(みわし)です。諏訪氏といえば、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重が思い出されます。諏訪一族は、「大祝(おおほうり)」を代々務め、当時、頼重は信濃の名族・諏訪氏の惣領家でもありました。武田信玄は、諏訪の地を支配するために、諏訪頼重を討ち、頼重の娘を側室にしました。そして二人の間に生まれた勝頼を諏訪惣領家の後継に据えたのでした。

 

諏訪神社上社において、この「大祝(おおほうり)」を補佐して実質的に祭祀を取り仕切る役職が、洩矢神の子孫の守矢氏によって引き継がれた諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という筆頭神官(諏訪大社の神職の長)の位です。

 

大祝(おおほうり):諏訪氏

神長官(じんちょうかん):守矢氏

 

そして、守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。そこで、改めて、洩矢(モリヤ)の神と、ミシャグジという神について、みてみましょう。

 

守矢氏=洩矢族の長、洩矢神の氏子、ミシャクジを祭る?

洩矢神=ミシャクジ?

 

 

  • 洩矢の神

 

侵攻してきた建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いに敗れた洩矢神(もりやしん、もりやのかみ)には、守宅神(もりたかのかみ、もりたくのかみ)と、多満留姫命(たまるひめ)の二柱の御子神がいました。多満留姫命は、建御名方神の御子神・出早雄命(いづはやおのみこと)に嫁ぎました。このことは、土着神という洩矢神系と建御名方神の出雲系が婚姻したことを意味し、神話的には、戦いに敗れた守矢神が、娘を、建御名方神の御子に嫁がせ、延命と勢力保持を図ったという言い方が可能です。

 

洩矢神のもう一人の御子である守宅神(もりたかのかみ)は、洩矢神の祭政の跡継ぎとなり、千鹿頭神(ちかとのかみ)をもうけました(母神は未詳)。守宅神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲した後に生れたことがその名の由来のようです(現在も千鹿頭神は、狩猟神として信仰されている)。

 

洩矢神⇒守宅神(守達神)⇒千鹿頭神⇒

 

千鹿頭神(ちかとがみ)は、洩矢神の祭政官としての地位を、守宅神から引き継ぎましたが、後に松本、奥州へと追放されてしまいます。このため、千鹿頭神の後継者となったのは、建御名方神のひ孫である児玉彦命(こだまひこのみこと)でした。

 

このことは、土着の洩矢神の血族がこの段階で断絶してしまってことを意味します。その後、洩矢神の祭祀は、児玉彦命(こだまひこのみこと)から、その子の八櫛神(やくしのかみ)、そして守矢氏が引き継ぎました。ですから、守矢氏は、洩矢神の後裔と言われていますが、血筋は直接にはつながっていないことになります。

 

それにもかかわらず、その祭祀を受け継いだ守矢氏は洩矢神を一族の遠祖としてい

ます。というのは、児玉彦命は、守宅神の娘・美都多麻比売神(みつたまひめのかみ)を娶って八櫛神が生まれたからです。このため守矢氏の系図では、児玉彦命は、四代目に数えられます。

 

洩矢神⇒守宅神⇒千鹿頭神⇒児玉彦命⇒八櫛神⇒守矢氏

 

 

洩矢氏=物部氏?

 

古代史を紐解けば、仏教の受け入れを巡り、587年、崇仏派の蘇我馬子に討たれた物部守屋という人物がでてくると思います。日本史の教科書には、この結果、神道護持の物部氏は滅び、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事に・・・式の説明がなされています。

 

しかし、諏訪では、物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れた後、諏訪の地まで落ち延びて、この地に祀られたとの伝承があるそうです。その祀られた場所が現在の守屋神社(長野県伊那市)です(この諏訪にある守屋神社と、岡谷市にあるモリヤ神を祭る洩矢神社は別の神社)。さらに、諏訪大社の裏に守屋山(もりやさん)という山があり、諏訪大社上社の御神体である神体山とされ、その神官が、前述したように、古代この地を治めていた洩矢族の78代目の守矢氏です。

 

ところが、「もりやさん(守屋山)」の字は、ミシャグジ神を代々祭る神長官・守矢氏の「守矢」ではなく、物部‘守屋’の「守屋」であることが興味深いですね。さらに、守屋山の頂上には磐座があり、洩矢神の奥の宮とされているのです。まさに、洩矢神も物部守屋、どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体として、諏訪信仰の聖地に祭られているのです。

 

なお、物部氏と守矢氏の関係では、物部守屋の次男の武麿が、守屋山に逃れ、やがて、守矢家へ養子入りして神長官となったという説があります。実際、その人物のお墓とされる古墳もあるようです。

 

 

  • 旧約聖書イサク=ミシャグジ?

 

古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地がありました(現エルサレム)。「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。

 

この伝承に従えば、諏訪の国を侵攻してきた建御名方神(タケミナカタノカミ)も、この「モリヤ」が何であるかを知っていたからこそ、洩矢族の祭っていた神を認め、諏訪大社にも祀られるようになったのではないかと言われています。

 

さらに、同じイスラエルの支族の物部氏も、大和政権成立後、政治の中心にいましたが、「崇仏論争」で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、そこで安住した…という説もでています。

 

日本とイスラエルの古代史は融合できるとする説があります。実は、ミシャグジもユダヤ民族と関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名も珍しいですよね?この立場に立てば、ミシャグジ(ミシャグチ)とは、正確には、ミサクチ⇒ミ・イサク・チだそうで、これはヘブルアラム語のミ・イツァク・ティン=イサクに由来するとされています。イサクは、旧約聖書にでてくるアブラハムの息子です。

 

諏訪大社神社のミシャグジ降ろしの祭祀の過程で、人身御供(ひとみごくう)の慣例があったとの見方を紹介しましたが、生贄の慣習は日本にはなかったとされていることを考えると、ミシャグジと古代イスラエルとのつながりもあながち絵空事とは言えないかもしれません(このテーマについては、後に記事にします)。

 

さらに、語源からいえば、ミシャグジは、アイヌの音に通じるという説もあるなど、ミシャグジの神さまに関する研究がさらに進めば、古代の秘められた史実がもっと明らかになるような気がします。

 

 

<参考記事>

記紀④(国譲り):神代の政権交代、出雲からヤマトへ

諏訪大社:はじまりは建御名方神?

聖書のイサクはミシャクジ神か?諏訪大社「御頭祭」にみえる類似性

アラハバキ信仰:知られざる東北の神!

安曇氏の伝承:海の民はどこから来たか?

瀬織津姫の伝承:「記紀」から消されたわけ

 

 

<参照>

信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト)

諏訪大社とはー御柱祭

諏訪大社/上社前宮(3)

日本の神様辞典、やおよろず

ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏 古代史日和

倭国、大和国とヘブライ王国

諏訪大社・上社前宮/神旅、仏旅 むすび旅

トランヴェール2019/9JR東日本

Wikipediaなど

 

(2019年12月2日、最終更新日2021年2月27日)