記紀 (出雲神話):須左之男命と大国主命の話し

シリーズ「記紀(古事記・日本書記)を読もう」の第3回「出雲神話」です。

 

記紀における出雲神話の主役は、天照大神の弟神とされるスサノオノミコトと、その子(またはご子孫)にあたる大国主神さまです。

 

これまでの第1回と第2回の記事

記紀①(天地開闢)

記紀②(天の岩戸)

 

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高天原(たかまのはら)から追放されたスサノオノミコト(須左之男命/素戔嗚尊)は、地上の世界である「葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)」の出雲の斐伊川のほとりに天降られました。その川のほとりで泣いているクシナダヒメ(奇稲田姫櫛名田比売)に出会います。聞けば、そこに住むヤマタノオロチ(八岐大蛇)に食べられてしまうと言うではありませんか。そこでスサノオノミコトは、クシナダヒメを櫛(くし)に変えて自分の髪にさし、やってきた八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。その時、ヤマタノオロチの体から出てきたのが、後の三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 

八俣の大蛇を退治した後、スサノオノミコトは、クシナダヒメと結婚し、出雲の国を治められ、やがて「根の国(冥界)」に下って行かれました。

 

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その後、出雲神話の中心人物となるのは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされる大国主命(オオクニヌシノミコト)で、太古、各地にいて地上の国造り・人造りを進めてこられました。

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大国主命(大国主神)には、八十神(やそがみ)と言われるほどのたくさんの兄弟親族がおりました。オオクニヌシノミコトは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けました。昔、因幡(いなば)の国(現在の鳥取県)に八上比売(やがみひめ)という見目麗しいお姫様がおり、大国主の兄弟たちは自分の嫁にしたいと思い、ある日、出雲の地から連れだって因幡に出かけていくことにしました。大国主命(オオクニヌシノミコト)は、幼少の頃、大己貴神オオムナチノカミ)といわれ、兄弟の中でも一番末っ子でした。若きオオムナチは、お人好しで温和な性格で、今でいう小間使いのような役回りをさせられていたと言われています。

 

因幡の気多に着いた八十神たちは、八上比売(やがみひめ)に求婚しますが、ことごとく断られてしまいました。しかし、姫は大己貴神(オオムナチノカミ)だけ気に入り、結婚してもよいと思われました。これを知った八十神たちは怒り、邪神と化し、共謀して大己貴神(オオムナチノカミ)を殺そうと計画しました。

 

大己貴神(オオムナチノカミ)は、山に連れていかれ、真っ赤に焼けた大きな岩が山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられ、押し潰されました。また、八十神たちは、木に切り込みを入れて楔(くさび)を打ち込み、大己貴神をその割れ目に入れ、それから楔を引き抜いて、挟み潰したりしました。記紀の中では、大己貴神(オオムナチノカミ)は兄弟たちからこうした仕打ちを受け、2度死にましたが、母の一念(母神の力)で甦っています。

 

また、根の堅洲国(かたすくに)(地の果ての冥界)にいたスサノオノミコト(須左之男命/素戔嗚尊)を訪ねていくと、大己貴神(オオムナチノカミ)は、そこでも、蛇やムカデ、蜂のいる室屋に入れられたり、野原で火に取り囲まれたり(この時、白ねずみに助けられる)と試練を受け続けます。たまらず、大己貴神は、スサノオノミコトのもとを脱出し、スサノオノミコトの宝である太刀、大弓、琴を持ち出して、地上世界との境である黄泉平坂(よもつひらさか)まで逃げ延びました。その時、追ってきたスサノオノミコトは、オオムチに向かって次のように宣せられたとされています。

 

「汝は大国主神(オオクニヌシノカミ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)となり、国を造り、宮殿を造るのだ」

 

大国主(オオクニヌシ)とは国を治める者の尊称です。激甚なる試練を耐えた大己貴神(オオムチノカミ)は、大国主となり、スサノオノミコトの後継者として、国土を開き、国造りを行う資格を得たのです。

 

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大国主神(オオクニヌシノカミ)は「大黒さま」との名前でも親しまれ、打ち出の小槌を持ち、にこやかなえびす顔で、人々に分け施す優しい神さまの印象が強いのですが、その反面、大国主神は、「八千矛神(ヤチホコノカミ)」とも呼ばれ、広く国を治める為に、矛をもって服(まつ)ろわぬ曲津神(まがつかみ)を戦いによって退けて、国造り・人造りを推し進められました。

 

また、大国主神には、少名彦神(スクナヒコナノカミ)という天上の高天原におられる神皇産霊神(カミムスビノカミ)の御子(天津神のご子孫)がお側につかれ、兄弟にようにお二人で、葦原中つ国(あしはらなかつくに)(地上の国、日本のこと)の開発をなされました。大国主神と少名彦神は、人民を「み宝」と呼び、政(まつりごと)を行われました。また、二神は、医療や土木治水、農耕に至るまで人々の生活のためにあらゆることを施されたことが記紀には紹介されています。医療は、因幡(いなば)の白ウサギの説話に象徴的に示されています。また、「葦原中つ国」に農耕がもたらせたのもこの時とされ、少名彦神は、大国主神とともに、農耕神と称されています。

 

このように、大国主神は、地上の「葦原中つ国」日本を長い間、治めていました。その勢力圏は、列島の日本海沿岸を中心に、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本にも及んでいたといわれています。実際、奈良県の三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神は、大国主神の第1子の事代主神(コトシロヌシノカミ)となっています。

 

大国主神(オオクニヌシノカミ)が国造りを為してから30年以上経過した時、少名彦神(スクナヒコナノカミ)は、「この広い大和の国で為すべきことはなした」として、熊野の岬から、常世(神の御国)へ旅立っていかれました(一説には、神の御国と解釈される常世とは、外国の神の世界という見方がある)。

 

 

続きは以下の記事を参照下さい。

記紀④(国譲り)

記紀⑤(天孫降臨)

記紀⑥(海幸彦と山幸彦)

記紀⑦(神武の東征)

記紀⑧(日本武尊)

記紀⑨(三韓征伐)

 

<参照>

日本神話・神社まとめ

古事記の現代語・口語訳の全文

日本書紀の現代語・口語訳の全文

日本書紀・現代日本語訳(完全訳) | 古代日本まとめ

古事記・現代日本語訳(完全訳) | 古代日本まとめ

古事記 神々と神社(別冊宝島)

出雲の神々と古代日本の謎(著・瀧音能之/青春出版社)

Wikipediaなど