実在した天皇・実在しなかった天皇:歴史か神話か

 

現在の天皇陛下は、初代とされる神武天皇から数えて、第126代の天皇でいらっしゃいます。ただ、歴史的に126人の天皇が実在したかについては疑問視されています。初代の神武天皇から数代の天皇ならまだ理解できなくはありませんが、あの仁徳天皇(16代)すら実在を疑う向きもあります。学校の教科書では、飛鳥時代あたりから天皇の名前が登場してきます。

 

そこで、今回、初代神武天皇から第31代用明天皇まで、時代区分では、建国神話の時代から古墳時代までの天皇を概観してみたいと思います。個人的にはすべての天皇は実在されたと思っていますが、本HPは「歴史情報サイト」ですので、それらの時代の天皇に関する「情報」を提供したいと思います。

 

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実在した天皇についての学説の対立

初代天皇とされる神武天皇から第25代天皇の武烈天皇までは、実在したのか伝説の天皇なのかが議論されています。現在のところ、第10代崇神天皇以降が実在であるという見方が多いようです。その根拠は、神武天皇と崇神天皇が同一人物であるという見解に基づいています。もしそうだとしたら、第2代綏靖(すいぜい)天皇から、第9代開化(かいか)天皇までは、実在しなかったということになります。実際、2代天皇から9代天皇まで欠けた8代を「欠史八代」などと呼ばれたりしています。

 

第1代神武(じんむ)天皇

第2代綏靖(すいぜい)天皇

第3代安寧(あんねい)天皇

第4代懿徳(いとく)天皇

第5代孝昭(こうしょう)天皇

第6代孝安(こうあん)天皇

第7代孝霊(こうれい)天皇

第8代孝元(こうげん)天皇

第9代開化(かいか)天皇

 

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比較的実在性の高い最初の天皇とされる崇神天皇とはどういう天皇っだったのでしょうか

 

第10代崇神(すじん)天皇

崇神天皇は、3世紀から4世紀にかけて即位したとされています。当時、日本各地にそれぞれ王朝があり、独自の政治が行われていました。日本で最初の統一王朝といえば、一般的には大和朝廷の名で知られていますが、崇神天皇の治世に初めて全国が統一されたという説が有力です。

 

崇神天皇以降、第11代垂仁天皇から第15代応神天皇へと続いた後、第16代天皇として即位されたのが、今回の世界遺産登録で注目されている仁徳天皇です。この間、記紀(古事記と日本書記)神話では、日本武尊の物語や、新羅遠征など逸話もあります。

 

第11代垂仁(すいにん)天皇

第12代景行(けいこう)天皇

諸国平定を行い、子の日本武尊(ヤマトタケル)を諸国へ派遣した。

 

第13代成務(せいむ)天皇

第14代仲哀(ちゅうあい)天皇

仲哀天皇の皇后であった神功(じんぐう)皇后は、応神天皇即位までの間摂政を務め、三韓遠征(新羅遠征)、内乱鎮定などを行ったことで知られています。

 

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第15代応神(おうじん)天皇

応神王朝の祖とも言われる天皇で、八幡神として現在も広く祀られています(全国の八幡神社の祭神)、仁徳天皇の父。

 

第16代仁徳(にんとく)天皇

仁徳天皇については、「仁徳天皇 聖帝かいなか」へ。なお、応神天皇と仁徳天皇は同一人物であったとする説もあります。

 

仁徳天皇の後は、第17代履中天皇、第18代反正天皇、第19代允恭天皇、第20代安康天皇、第21代雄略天皇と続きます。仁徳天皇も含めて、次の5代(6代)の天皇は、中国の史書に、「倭の五王」として登場していると見られ、その実在に現実性が帯びてきます。

 

倭の五王

5世紀の日本の大和王権(大和朝廷)は、中国南朝の「宋」と外交関係を持ち、中国に臣下の礼をとって朝貢してました(倭国王に冊封されていた)。当時の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)といわれる倭の五王が、約1世紀の間に使者を派遣した事が記されています。これらの五人の倭王を、「古事記」などから照らし合わせると次のように推測されるそうです。

 

讃=仁徳天皇or履中天皇

珍=反正天皇

済=允恭天皇

興=安康天皇

武=雄略天皇

 

このうち、最初の二王である讃と珍は、疑わしいとされていますが、済・興・武の三人の王に関しては、現在、確実視されています。この「倭の五王」がそれぞれ日本の天皇に対応しているのが正しいければ、第25代の武烈天皇までは架空の天皇という説は、説得力がなくなってしまいます。

 

一方、記紀の記述も、仁徳天皇以降、その内容に変化が出てきます。つまり、それまでの神権的な存在に加えて、恋愛や王族同士の権力争いなど、人間的な側面も書かれるようになります。実際、仁徳天皇も、「民のかまど」の逸話にあるような聖帝(聖皇)としての存在から、皇后以外の女性を愛した姿なども描かれていました。

 

 

第17代履中(りちゅう)天皇

 仁徳天皇の第一皇子。概ね5世紀前半頃(?~405年)に、在位していたと考えられています。

日本書記によると、仁徳の崩御後、履中天皇は、即位の前、黒媛(くろひめ)という女性と婚礼を上げる為、使いとして住吉仲皇子(すみのえなかのみこ)(仁徳天皇の第二皇子)を送ったところ、住吉仲皇子は、黒媛に魅せられ、黒媛を奪ってしまいます。さらに、住吉仲皇子は、この事実を知って激怒した履中天皇を討つべく挙兵しました。一人の女性をめぐる争いは、皇位をめぐる争いに発展したのです。履中天皇は、弟の多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(後の反正天皇)」に命じ、住吉仲皇子を討たせた後、神武天皇ゆかりの地である磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)(奈良県桜井市)で、履中天皇として正式に即位しました。

 

第18代反正(はんぜい)天皇

仁徳天皇の第三皇子、履中天皇の同母弟。御名は瑞歯別尊(みずはわけのみこと)。天皇としての治世は410年頃(?~410年)までとされています。履中天皇の即位に協力し、反乱を起こした兄、住吉仲皇子を討伐した貢献からか、履中天皇に皇位を譲り受けました。これは、日本史上初の兄弟継承の事例となりました。

 

また、反正天皇は、前述したように、「宋書」によれば、「438年、宋の文帝のときに倭の国王に任じられた『珍』という王があった」とあり、その「珍」が反正天皇と見られています。

 

第19代允恭(いんぎょう)天皇

仁徳天皇の第四皇子で、履中・反正天皇の弟でもあります。453年頃まで在位(?~453年)にあったとされています。反正天皇が皇嗣を決めないままに崩御してしまい、群臣の度々の要請を受けて即位したと言われています。この結果、履中・反正・允恭天皇の3代の天皇は、仁徳天皇の御子が即位された兄弟継承となりました。

 

第20代安康(あんこう)天皇

允恭天皇の第二皇子。日本書記によれば、その治世は僅か3年(?~456年)で、実績は殆ど記されていません。允恭天皇の代、皇太子は第一皇子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)でしたが、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と禁断の恋に陥り、人望を失ってしまい、允恭の崩御後、群臣は木梨軽皇子を推戴(すいたい)せず、弟の安康が即位しました(木梨軽皇子は自害に追い込まれた)。

 

日本書記によれば、安康天皇の治世は僅か3年(?~456年)で、近親者に暗殺されてしまいました。配下の者の企てにより殺害してしまった叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ:仁徳天皇の皇子)の妻を、妃として迎え入れたことで、連れ子だった眉輪王(まよわのおおきみ)に恨まれ刺殺されたとされています。

 

第21代雄略(ゆうりゃく)天皇

允恭天皇の第五皇子、安康天皇の同母弟。在位は418~479年と推察。雄略天皇は、考古学を根拠として実在を証明できる最初の天皇と考えられています。その理由としては、稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した発掘品(鉄剣の銘文)の中に、雄略天皇の諡号「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ」と考えれられる文字が記されていたことがあげられます。この事は、雄略天皇の勢力が畿内から関東にまで達していた事を意味します。実際、雄略天皇の治世は、大王(天皇)権力と大和政権の勢力が一段と拡大強化された時期と評価されています。

 

その一方で、記紀神話では、気性の洗い悪逆な専制君主として描かれています。例えば、日本書記では、その恐怖政治ぶりを「朝に見ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され」と記し、「天下そしりて大悪天皇ともうす」としています。前代の安康天皇暗殺事件に乗じて一気に権力を握ったとされる雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、別の兄の境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、安康天皇を暗殺した眉輪王、さらに、従妹の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)とその弟など、皇位継承の競合者らを次々に殺害したとされています。これによって、天皇の権力を強化され、支配基盤を盤石になったと評価されていますが、後の皇位継承問題に発展することになります。

 

なお、雄略天皇は、「宋書」の478~502年の記録にある、倭の五王最後となる倭王「武(ぶ)」とされています。

 

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雄略天皇崩御の後は、第22代清寧天皇、第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇、第25代武烈天皇と続きました。この時期、皇位は、天皇の子息もしくは兄弟など血縁関係で受け継がれていきました。

 

第22代清寧(せいねい)天皇

雄略天皇の第3子。清寧天皇には御子がいなかったので、次の天皇は、仁徳天皇の第一子の履中天皇の系統に戻ることになります。

 

第23代顕宗(けんぞう)天皇

履中天皇の孫(履中天皇の長子である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の第3子

 

第24代仁賢(にんけん)天皇

顕宗天皇の同母兄(履中天皇の孫)、兄弟継承。

 

第25代武烈(ぶれつ)天皇

武烈天皇は、489年(仁賢2年、皇紀1149年)、仁賢天皇の第一皇子として誕生され、6歳で立太子され、498年12月、父、仁賢天皇の崩御により、10歳で即位しました。499年3月、春日娘子を皇后に立てられましたが、506年12月、後嗣なく、在位8年、わずか18歳で崩御されました。

 

そういう武烈天皇ですが、なぜか「日本書紀」には天皇の非行の数々が具体的に記され、暴君として「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあり、暴虐非道の天皇として描かれています。しかし「古事記」には、そのような暴君としての記述は全くありません。武烈天皇の暴君エピソードは、創作れたものなのではないかという疑義が存在しています。

 

いずれにしても、武烈天皇は名君とされる仁徳天皇の最後の直系かつ男系子孫の天皇となってしまいました。

 

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武烈天皇には、後継ぎとなる子どもや兄弟がおらず、武烈天皇自身も後継ぎを決めずに、18歳の若さで崩御してしまったため、皇位継承候補者不在の状況に陥りました。まさに、皇統断絶の危機を迎えてしまったのです。そうなったのも、雄略天皇が兄弟の皇子や叔父の皇子を次々と誅されたことが、ここにきて皇位継承問題に大きく影響してきたと見られています。そこで、次の天皇として白羽の矢が立ったのが、第15代応神天皇の5代あとで遠縁にあたる継体(けいたい)天皇でした。

 

なお、この点に武烈天皇、暴君説の理由があるとの見方が一般的です。即ち、武烈天皇から大きく離れた血統の継体天皇の即位の正当化のために、武烈天皇のイメージを殊更に悪くして、即位時の繋がりの薄さのインパクトを薄くするのが狙いだったのではないかと言われているのです。ただし、この説が正しいとしたら、誰がそうしたのかは、継体天皇ではなく、日本書記を編纂した藤原不比等ということになります。

 

第26代継体(けいたい)天皇

天皇在籍:507年 2月4日~531年 2月7日

武烈天皇崩御の翌年、大連の大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、大臣の巨勢男人(こせのおひと)ら群臣が協議し、越前から男大迹王(おおどのおおきみ)をお迎えすることを決定し、越前まで迎えに出向きました。男大迹王は、応神天皇の玄孫・彦主人王(ひこうしのおおきみ)の王子として近江国三尾で誕生、応神天皇の5世孫に当たります。

 

男大迹王(おおどのおおきみ)は最初、その申し出を疑われましたが、事情が分かり、また大臣以下全員が懇願したので、即位をご承諾になられたとされています。もっとも、継体天皇の即位に関する以上の経緯は潤色されたものとの見方もあります。実際は越前・近江地方に勢力を持っていた豪族が、武烈天皇の死後、皇統が絶えたことを良い機会と捉え、皇位を簒奪したという説です。

 

507年1月12日、男大迹王は、子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)を伴われ、58歳で河内国樟葉宮にて即位されました。即位の候補者もなく、先帝の勅命もなく、遺詔もない状況下で、群臣の協議だけで皇統の人を捜してきて、その方に即位頂いたということは、前例のないことでした。

 

即位後の3月5日、継体天皇は、天皇は皇統の危機を懸念され、仁賢天皇(億計王)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えられました。また、継体天皇は、8人の妃を入れられ、それぞれ多くの皇子女に恵まれ、19人の皇子を持たれました。

 

531年春、2月7日、継体天皇は、皇子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)に皇位を譲られ(譲位ではなく遺詔)、皇子の即位の同日、在位24年、82歳で崩御されました。継体天皇以降、遠縁から天皇を迎えるということはなく、現在の天皇家の源流は、継体天皇ということになります。

 

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第26代継体天皇の後、第27代安閑天皇、第28代宣化天皇、第29代欽明天皇、第30代敏達天皇、第31代用明天皇まで古墳時代と呼ばれる時代が続きます。

 

第27代安閑(あんかん)天皇

在籍:531年 2月7日 ~ 535年 12月17日。

継体天皇の即位前の子、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)が即位しました。

 

 

第28代宣化(せんか)天皇

在籍:535年 12月~539年 2月10日

継体天皇の即位前の子、檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)が即位しました。

 

 

第29代欽明(きんめい)天皇

在籍:539年 12月5日 ~ 571年 4月15日。

継体天皇の嫡男(手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわのみこと)が即位。治世中に仏教が伝えられました。

 

第30代敏達(びだつ)天皇

在籍:572年 4月3日 ~ 585年 8月15日

欽明天皇の第二皇子。治世中に崇仏・廃仏の論争が起こりました。

 

第31代用明(ようめい)天皇

在籍:585年 9月5日 ~ 587年 4月9日、

欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。同母妹に推古天皇。聖徳太子の父。在位2年(古事記は3年)で崩御。

 

ここまでが古墳時代で、第32代崇峻(すしゅん)天皇の時代から飛鳥時代に入ります。

 

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<参考>

「皇位継承事典」(PHPエディターズグループ)吉重丈夫著

Web歴史街道

ピクシブ百科事典

倭の五王といわれる五人の天皇

倭の五王は、いつの天皇なのか?-歴史まとめ. net

皇統断絶の危機。武烈天皇(第25代)から継体天皇(第26代)への皇位継承(吉重丈夫)

Wikipediaなど

 

最終更新日:2022年4月1日