大正時代

 

大正時代(1912~1926)

 

西園寺②-桂③-山本-大隈②-寺内-原-高橋-加藤(友)-山本②-清浦―加藤(高)

 

憲政本党(1898~1910)(旧進歩党系)

大隈重信(党首)、犬養毅、河野広中など。大隈引退。

立憲国民党(1910-22)(犬養毅)

↓ 憲政会の一部

革新倶楽部(1922-25

 

憲政党(自由党系)

立憲政友会 (1900-)(伊藤博文 ⇒ 尾崎行雄)

立憲同志会(1913~16)(桂太郎,加藤高明)

立憲政友会vs 憲政会(1916~27)

 

1912年 大正政変(第一次護憲運動)

「閥族打破・憲政擁護」(第二次西園寺内閣後)

 

立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬飼毅を指導者として,(都市民衆も参加する国民的な憲政擁護運動(護憲運動)によって、長州閥の桂太郎内閣(第三次、53日間)を打倒した。

 

第3次桂太郎内閣は、もっぱら貴族院や軍部の意見をとり入れ衆議院の政党勢力を軽視したので、国民の間に憲政擁護運動が起こり、退陣に追い込まれた。この後、海軍大将の山本権兵衛が内閣を組織した。

 

国民の間に憲政擁護運動が起こり、尾崎行雄、犬養毅、第三次桂太郎内閣が退陣に追い込まれた。

 

尾崎行雄らの政治家と新聞記者、全国の商工会議所の実業家らは憲政擁護会を組織し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに内閣退陣を迫る運動を起こした。

 

立憲同志会(1913~16)

桂太郎が第一次護憲運動に対抗し結成。(桂の死後(1913)、加藤高明を総裁に正式に組織。)

 

 

1914年、第一次世界大戦

日英同盟を理由に連合国に参戦。ドイツの青島(山東半島)、ドイツ領南洋諸島を占領。

 

イギリスがドイツに宣戦すると、日本も日英同盟を理由に、ドイツに宣戦し、中国におけるドイツの根拠地青島を占領した。

 

 

1915年:対中21か条の要求

山東省のドイツの権益などその多くを認めさせる。中国人民は「国恥記念日」(5・9)として排日運動を激化。

 

第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国の山東省に出兵してドイツ租借地を占領した。その後、袁世凱政権に対して、山東省におけるドイツ権益の継承などを内容とする二十一カ条の要求を突き付け、その大半を認めさせた。(第二次大隈内閣のとき)

 

日本は、中国の袁世凱政府に二十一カ条の要求(1915年大正4年)の大部分を承認させ、権益の拡大を図った。

 

 

1916年の第四次日露協約:

極東における日露の特殊権益の擁護を相互に再確認したもの。日本の中国権益の拡大に反対する列強に対抗。

 

1917年11月、米国と石井・ランシング協定。

21ヶ条の要求以後の悪化した日米関係の調整をはかったもの。中国の領土保全・門戸開放・機会均等の原則を相互確認と日本の中国における特殊権益の承認とを確認。9ヶ国条約で破棄。

 

わが国とアメリカは、第一次世界大戦ではそれぞれ連合国側として参戦し、中国における両国の権益に関する協定を結んだ(石井ラシング協定)。さらに、大戦中に起こったロシア革命の波及を恐れ、共同でシベリアに出兵した。

 

日本は、アメリカと石井・ラシング協定を締結し(1917年)、中国の領土保全・門戸開放と、日本の中国における特殊権益の承認とを確認し合った。

 

日本は、日本の中国権益の拡大に対する列強の反感を緩和するため、ロシアと第四次日露協商(1916年7月)を締結して、極東における両国の特殊権益の擁護を再確認した。

 

 

1917年、ロシア革命。日本に接近しつつあった帝政ロシアが倒れる

 

1918年、シベリア出兵(WWI終了直前)。

他国にロシア革命の影響が及ぶことを止めさせる → ロシア革命の干渉戦争

第四次日露協約がロシア革命によって消滅したことを受け、寺内内閣は勢力圏拡大を目論む。1918年当時シベリアにいた連合国側のチェコスロバキア軍救援を名目とするもので,WWIの作戦の一つとして実施された。日,米,英,仏が出兵。何も得ることなく1922年に撤退。

 

ロシア革命が起こると、国内への共産主義の波及を恐れたわが国は、1918年8月に、チェコ軍救援を名目として、アメリカ、イギリス、フランスとともにシベリアに出兵した。

 

シベリアに出兵は、第一次世界大戦の作戦の一つとして実施されたが、日本だけが1922年まで、駐留し(ソ連国内に留まり、国際的に非難された。

 

また、シベリア出兵は日本国内でも米騒動、寺内内閣辞職、原敬内閣成立とつながる政治変動を引き起こした。

ソ連の日本に対する強い反感。日本の国際的な孤立の始まり。

 

寺内正毅

1918(大正7)年、米騒動により総辞職。原敬(政友会)が誕生。

 

 

原敬内閣。

本格的な政党内閣を組織。最初の非華族、非藩閥出身の首相。平民宰相と呼ばれて国民的な人気。21年暗殺。ベルサイユ条約調印。

 

原内閣は、1918年、最初の非華族首相として、外・海・陸相を除く全閣僚が立憲政友会となる本格的な政党内閣を組織した。ベルサイユ条約の調印や高等教育普及政策などを推進したが、21年に暗殺された。

 

 

1919年、ベルサイユ条約

国際連盟の常任理事国。東アジアの大国としての地歩を固めた。日本は山東半島の旧ドイツ権益を継承、南洋諸島を委任統治領。

 

中国は5・4(ご・し)運動、朝鮮では3・1運動(独立運動)

 

原敬内閣は、1919年、第一次世界大戦後のパリでの講和会議に西園寺公望を全権として派遣した。

第一次正解大戦後、日本は国際連盟の常任理事国になり、ワシントン海軍軍縮条約や、不戦条約に調印した。

 

 

1921年、ワシントン会議(米、ハーディング提唱)、加藤(友)内閣。

 

四カ国条約(しかこくじょうやく)

太平洋問題に関する条約、1921年12月、米、英、日、仏で。太平洋の島々における相互の権利尊重、現状維持を図る。発効の23年で日英同盟破棄。

 

九ヶ国条約・・22年2月、中国に関する条約。

米、英、日、仏、伊、ベルギー、蘭、ポ、中国。中国の領土保全・門戸開放・機会均等を規定。日本の大陸進出を抑制。21ヶ条要求による特権の一部が除かれ、膠州湾も返還。

 

ワシントン海軍軍縮条約(不平等)

22年2月。史上初の軍備削減条約。米、英、日、仏、伊の主力艦保有比率を5:5:3:1.67:1.67。主力艦建造を10年間停止する。1934年に日本は単独破棄

 

アメリカ合衆国は、1921年、海軍の軍備縮小及び極東問題を審議するため、ワシントン会議を招集した。会議では、日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランスによって四カ国条約が締結され、太平洋の諸島嶼に関して現状維持が合意された。9カ国条約では、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の機会均等などが約束された。

 

大正デモクラシ ―

 

大正期に高まった自由主義、民主主義的な風潮。WWI後の世界的なデモクラシーの傾向などが背景。人々が社会運動に目を向けるという風潮を反映。

 

思想: 民本主義

政治: 護憲運動(第一次,第二次)

政治学者の吉野作造は、天皇制の下における民主主義(民本主義)の確立の必要性を説き、普通選挙の実現や議院内閣制の確立を主張し、思想界に強い影響を与えた。

 

 

1921年、高橋是清内閣、原敬暗殺後、首相・立憲政友会総裁に。

 

山本権兵衛(ごんのひょうえ)内閣。 薩摩閥海軍の巨頭。政友会を与党。

関東大震災~虎ノ門事件、後の昭和天皇(皇太子時代)の暗殺未遂事件、山本内閣、総辞職

 

1923年、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の暗殺未遂事件が虎の門で発生し(虎の門事件)、第2次山本権兵衛内閣が総辞職した。

 

— 民衆のデモクラシーの高まりの中で、内閣は政党との妥協なしには国政を運営できない。超然内閣では多数の支持を得られない時代。—

 

 

1919年、WWI終了。

日本、世界の資本主義国へ、不景気の波。

 

1923年、関東大震災・・震災復興手形の失敗。

財閥の形成・・・中小金融機関倒れ、大金融資本が残る。――銀行を中心として企業集中。

資源、市場を求めて海外へ。

 

 

政党内閣の確立へ

 

1924年、清浦奎吾内閣(超然主義)成立・・・貴族院を背景とした超然内閣

 

貴族院を背景に成立した清浦圭吾内閣の出現に対して、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部が第二次護憲運動を展開した。

 

第二次護憲運動を展開

憲政会(加藤)、立憲政友会、革新倶楽部(犬養)の護憲三派

 

1925年、加藤高明内閣

普通選挙法を制定(満25歳以上のすべての男子に衆議院議員の選挙権を持たせる。)

↓↑

治安維持法(国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰)。

 

第二次護憲運動の後、成立した加藤高明内閣は、普通選挙に対する国民の要望を受けて、普通選挙法を成立させ、25歳以上の男子のすべてが衆議院議員の選挙権をもつこととした。

 

加藤高明内閣は、普通選挙法を制定し、満25歳以上のすべての男子に衆議院議員の選挙権を持たせるとともに、治安維持法を制定して国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することとした。

 

護憲三派内閣によって普通選挙法が成立(1925)し、これによって、衆議院議員の選挙権に関する納税額による制限は全廃され、有権者は一挙に約4倍に増加した。

 

このとき以後、8年間にわたり政党内閣が続く。

これ以後、衆議院の多数党の総裁を首相とする政党内閣制が憲政の常道として慣行となった(1932年まで)。

(昭和に入ってからは、政友会と民政党の二大政党が交代で内閣を組織)

 

憲政の常道:衆議院の多数を占める政党が政権を担当する慣例。

 

 

市川房枝らによって、新婦人協会が結成され(1920年)、また、山川菊栄ら社会主義者による赤瀾会が結成され、女性の政治活動への参加や選挙権獲得をめざした活動が展開された。

 

政府は1916年に工場法を施行したが、1918(大正7)年から1921(大正10)年に労働争議が頻発した。

 

協調外交(1920年代後半)

 

第一次世界大戦後の国際的協調が風潮となる中、政友会の高橋内閣(1921-22)のもとで協調外交の基礎(米国との妥協)がつくられ、幣原外交で開花。

 

幣原外交: 1924年以来、加藤高明(1924-26)、若槻礼次郎①(1926.1-27.4) ②(1931)、浜口雄幸内閣(1929~31)の外相として、欧米列強との協調の方向で対処し自由主義体制の一翼を担う。

 

1925年、日ソ基本条約(1925年)対ソで国交を実現。加藤内閣

 

加藤高明内閣の幣原喜重郎外相は、欧米列強とは協調外交を基本とし、日ソ基本条約で対ソ国交を実現した。