奈良時代

奈良時代(710~794)

 

律令国家

中央・・・二官八省:神祇官、太政官、各省(8つ) 、太政大臣、左大臣、右大臣

地方・・・国司 ― 郡司 ― 里長(さとおさ,りちょう)

 

制度上の最高位は太政大臣(常設でない。)通常は、左右大臣の下で、三位以上の貴族(公卿)の中で「太政官会議」が国政を司った。

 

国司は国(中央)から任命。 郡司、里長はその地方の有力豪族から任命。

 

律令国家は、中央には神祇官と太政官の二官と、政務を担当した八省一台五衛府を設けた。また、地方については、都周辺の国々を畿内とし、その他の国々を七道に分け、九州や北陸の要地には、鎮西探題鎮守府を置いた。

 

一台:官吏の監察と、風紀粛正を役割とする弾正台、

五衛府:朝廷警護を役割とする。

 

 

国家財政

律令国家の財政基盤である租・庸・調制度

租・・ 米  ⇒ 地方の税収

庸・・ 布を織って納める ⇒ 国家の税収

調・・ その地方の特産物を納める ⇒ 国家の税収

雑徭・・ 地方での労働・奉仕(土木工事) ― 国司が命令

出挙・・ 春に稲を貸し付け、秋に利息を加えて徴収する。

兵役・・ 武器、馬、餌代など全部自己負担、九州―防人

 

家父長制的な家族制度は普及しておらず、女性は結婚しても別姓のままで、自分の財産を持っていた。しかし、律令制では、租・庸・調と呼ばれる税の負担は男女均等ではなく、公民としての地位も同じではなかった。たとえば、口分田は6歳以上の男女に支給されたが、男子は2段で、女子は男子の2/3であった。

 

農民の負担多大。

戸籍を偽る,又は逃亡 ⇒ 荒地増伽(税収減)⇒ 三世一身の法 ⇒ 墾田永年私財法

 

三世一身の法(723): 3代にわたってその土地はその家のもの。

 

墾田永年私財法(743): 聖武天皇。荒地を耕せば土地所有,売り買い自由。

 

公地公民制⇒荘園制

(広い意味で私有地,狭い意味で調査官の立入を拒否できた土地。)

 

自墾地系荘園(初期) ⇒ 寄進地系荘園(10C本格化)

(登記,名義通り)戸籍に従って税を払わなければならない。

免税(減税)特権を持った天皇家,藤原氏などの有力貴族,寺社など有力者へ土地が集中。

 

 

 

 

天皇親政(天智~称徳)

 

持統天皇(686~697)

高市皇子

藤原不比等 (鎌足の子)(659~720)

 

 

710年、元明天皇、平城京遷都

元明天皇は、藤原京から平城京へ遷都をおこなった。

 

 

聖武天皇 (724~749)

鎮護国家の思想 → 国家仏教 →朝廷による大寺院保護→奈良仏教(南都六宗)の勢力大

 

聖武天皇は、仏教の思想で国家安定をはかろうとした。

 

742年、国分寺建立の詔。国分寺・・鎮護国家の目的で諸国に建てられた寺院。

仏教の鎮護国家の思想により政治を安定させようとして、国ごとに国分寺、国分尼寺を建立した。

 

743年、大仏建立の詔。

752年、大仏開眼。

759年、東大寺 全国の総本山、配下に国分寺、国分尼寺。

 

仏教による鎮護国家思想に基づき、各地にその拠点となる国分寺が建立された(国家鎮護のために、金光明最勝王経・妙法蓮華経を写経したりするのが仕事)。僧侶による民衆への布教は制限されていた。

 

国分寺、国分尼寺が各地に建立され、大和の国分寺は東大寺として発展した。東大寺の正倉院宝物は、当時の技術の最高水準を示し、その技法や意匠には、東ローマ、イスラム、インドなどの流れをくむものであった。

 

東大寺は奈良時代の天平文化を代表する寺院である。天平文化の頃の仏教は、祖先霊の供養といったものではなく、鎮護国家の宗教としての性格が強かった。

 

仏教は、国家によって保護を受け、仏教研究が進んだ。南都六宗と呼ばれる学派が形成され、都を中心に栄えていた。(三論宗、成実宗、法相宗、俱舎宗、華厳宗、律宗)

 

行基(688~749)は、用水施設や救済施設を造る社会事業を行ったりして民衆の支持を得ていた。朝廷は最初、行基の布教活動を禁止していたが、次第に緩和され、東大寺大仏の造立に際して、行基は弟子や民衆を率いて造仏事業に協力した。その功績により行基は大僧正とされた。東大寺大仏造立をすすめたのは良弁(689~773)である。

 

長屋王(高市皇子の子)

 

729 長屋王の変

藤原四家(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)(737死)

 

 

橘諸兄(もろえ)

藤原広嗣(宇合の長男)の乱 (740)

 

藤原仲麻呂(武智麻呂の次男)

仲麻呂、恵美押勝の名をもらう

淳仁天皇(758~764)

 

考謙天皇の時代、藤原仲麻呂は、光明皇太后(前天皇の皇后)と結んで実権を握り、淳仁天皇を擁立して、恵美押勝の姓名をたまわり権力を独占した。ところが、光明皇太后なくなり、上皇となった考謙が、僧侶の道鏡を寵愛し、仏教勢力が政界で勢力を伸ばした。これに危機感を募らせた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、764年、これを倒そうとしたが失敗し、逆に滅ぼされた(藤原仲麻呂の乱)。その結果、政争に勝利した考謙上皇が称徳天皇として重祚した。

 

 

称徳天皇(考謙上皇)

道鏡  恵美押勝の乱(764)(儒教)

 

和気清麻呂、宇佐八幡宮神託事件(769)

 

しかし、道鏡は称徳天皇が亡くなったのをきっかけに下野薬師寺の別当に左遷されて失脚した(770年)。

 

称徳天皇(考謙上皇が再度天皇として即位)の死後、道鏡は勢力を失い、天智天皇の血筋に当たる光仁天皇が即位し、財政の再建をめざした。

 

朝廷は蝦夷と交わる東北地方において支配地域を広げる政策を進め、日本海側に秋田城、太平洋側に多賀城を築いて蝦夷対策の拠点とした。

 

 

奈良時代、律令体制が整い、全国が畿内・七道(五畿(ごき)七道(しちどう))という広域の行政区画に区分された。七道は京から地方に通ずる官道の名称でもあり、駅家(えきか)を設けて官吏の往来などに利用された。官道の整備に伴い、諸国に国分寺や国分尼寺が建立された。

 

 

外交

朝廷は、中国を統一した唐に対しては、遣唐使を派遣し、冊封こそ受けなかったものの、朝貢国であった一方、朝鮮半島を統一した新羅、中国東北部に勃興した渤海を蕃国と位置づけた。

 

渤海は、唐と新羅に対抗するために使節を日本に送り従属する形をとった。しかし、新羅は唐を牽制するために、8世紀の初めまでは日本に使節を派遣して従属する形をとったが、その後、対等の関係を主張するようになり日本と対立した。

 

 

天平文化:東大寺、唐招提寺、正倉院

 

東大寺戒壇院の四天王像など、唐の様式を受け継いだ仏教美術がある一方で、「万葉集」の編纂のように日本の伝統文化の発展もあった。

 

唐の影響を受けた国際色豊かな国家仏教を特徴とする文化であり、東大寺法華堂や唐招提寺金堂など、どっしりした建物が造られた。

 

聖武天皇の天平年間を中心とした奈良時代の文化で、盛唐文化の影響を受けた世界性豊かな文化である。仏教は鎮護国家のための仏教であり、諸国に国分寺や国分尼寺、都には東大寺が建立された。