室町時代

 

建武の新政

鎌倉時代末期、幕府に武士層の統制能力なし → 皇室に討幕に機運。

大覚寺統と持明院統(自家が正当と主張・対立)

二系統の皇族の争いを両者が交代で天皇を出す形でおさめる。

大覚寺統の後醍醐天皇(1318年即位)

(朝廷政治の刷新。持明院統をおさえ鎌倉幕府を倒して天皇親政の実現を企てる。)

 

正中の変(1324)、元弘の変(1331)→ 後醍醐天皇は隠岐へ流される。

楠木正成の挙兵。全国で討幕挙兵(1332)・・足利高氏(のち尊氏)、新田義貞、朝廷方に。

鎌倉幕府滅亡(1333年)

後醍醐天皇、京都に戻り、建武の新政

 

記録所:    一般政務を担当。

天皇           恩賞方:    論功行賞事務

武者所:    京都の治安維持機関

雑訴決断所:訴訟担当

 

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を滅ぼした後、政務を行う最高機関として記録所を復活させ、恩賞事務を行う恩賞方、訴訟を扱う雑訴決断所を新設するなど、政治機構を整えた。また、地方では、諸国に国司と守護を併設した。

 

後醍醐天皇、討幕に活躍した武士に十分な恩賞を与えず。

足利尊氏 と新田義貞の対立

主だった武士が、武家政権の再興を望み尊氏につく。(尊氏が幕府を組織することを望む)

地方政治の実権は守護などの地方の有力武士が握る。彼らが尊氏につくと、天皇方に全国を治める力はなくなる。

 

建武の新政、実質2年で崩壊

1335年、 中先代の乱:北条高時の子の反乱、尊氏に討たれる。

1336年、足利尊氏、京都を制圧。建武式目を発表。

 

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は京都で公武を統一して新しい政治を始めた。「建武の新政」を開始した後醍醐天皇に対して、足利高氏(尊氏)は、後に背き、光明天皇を立てて、北朝を興した。

 

後醍醐天皇が行った建武の新政は、貞永式目に定められていた武家社会の慣習、特に、武士の土地所有権に関する慣習の無視などが原因で(所領の安堵には天皇の綸旨が必要であるとしたなど)、短期間のうちに崩壊した。

 

建武式目は足利尊氏が京都に幕府を開いた際に、施政上の問題を二階堂是円、真恵兄弟らに諮問し、答申さらた施政方針書である(建武の新政とは無関係)。

 

 

室町時代 (1338-1573)

1338年、尊氏、持明院統の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられる。

 

南北朝の動乱

 

後醍醐天皇:吉野に逃れ南朝

護良(かねよし)親王、北畠親房。

新田義貞、楠木正成、悪党

 

足利尊氏:光明天皇を立て京都に北朝

主だった武士、北朝に

尊氏の執事、高師直と足利直義が対立(観応の擾乱)

 

後醍醐天皇は、足利尊氏が1336年に持明院統の光明天皇を即位させると、奈良の吉野に南朝を開いたため、南北朝の動乱が始まった。

 

観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とは、鎌倉幕府以来の秩序を重んじる足利尊氏の弟、足利直義を支持する勢力と、急進的な改革をのぞむ尊氏の執事高師直(こうのもろなお)を中心とする勢力との争いである。

 

 

南北朝の統一(足利義満の時代)

北朝方の優位が鮮明。南朝方との交渉で、南朝の後亀山天皇が京都に帰り、北朝の後小松天皇に譲位する形をとる

 

3代将軍、足利義満のころ幕府機構が整う。

 

【中央】 鎌倉幕府とほぼ同じ。

将軍―管領(将軍の補佐)・・政務の中心

侍所(軍事・警察)・・長官を所司という

政所 (政務・財政)

問注所(記録・訴訟文書保管)

評定衆―引付衆

 

三管領(細川氏、 斯波氏、畠山氏)、四職(赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏)と称され、それぞれ有力大名が交代で任命された。

中枢は複数の有力武家(足利一族) ― 有力守護による連合政権。

 

室町幕府では、政務の中心となる管領や、軍事、警察の任務をつかさどる侍所の長官には、有力守護大名が就き、それぞれ三管領、四職と称された。また、地方には、鎌倉府や探題職を置くなどして、有力な国人たちを統制しようとした。

 

【地方】:鎌倉府や探題職(奥州探題、九州探題)を置くなどして有力な国人たちを統制。

鎌倉府:幕府が関東経営のために設けた関東10ヶ国を統轄する政庁。その長官を鎌倉公方。

鎌倉公方の補佐役として、執事(関東管領)がいて、上杉家が世襲した。

 

 

守護大名の細川氏、斯波氏、畠山氏が交代で、将軍の補佐役である管領に就き(三管領)、赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏から、侍所の長官である所司が任命された(四職)。

 

鎌倉時代、有力御家人が守護に任命されたが、室町時代には大名化して守護大名となっていった。

 

 

守護大名の成長

 

守護大名は室町時代の大名(多くが足利一族)で、職権を拡大させた守護(軍事・治安担当)が大名化した。将軍家を脅かす程の力。

 

半済法、守護請などの手段で荘園支配を強化し、任国を領国化して大名になった。

室町幕府が軍事支出のために荘園、公領の年貢半分を武士に与えた制度。

 

武士は半済を口実として荘園、国が領を侵略し、守護大名の領国一円支配を進めた。

幕府から半独立。幕府の任命を受けなくても自分の子に領地を譲るなど専横化。

 

守護請・・守護が国司や荘園領主から一定の年貢を請け負い、代わりに国衙領、荘園の経営をまかされる制度。

 

 

足利尊氏は、荘園の年貢の半分を軍費として取得し、地方の武士に分与することを認めた半済令を施行した(1352年)。

 

半済:1年だけ荘園・公領の年貢、半分を武士に与えた制度(残りの半分は、荘園領主、国主に納入)。実際は土地(下地)の分割、武士は半済を口実に、荘園、国衙領を侵略し、守護大名の領国一円支配を強めた。この結果、戦国時代、荘園制はほとんど崩壊した。

 

 

守護大名による一国の武士の組織化

かつて悪党であった者などが守護配下の国人へと変化した。

 

国人:在地の有力武士。将官、地頭、名主などが地方に土着して領主層に成長したもの。守護大名の被官(家臣)になるものもあった。

 

武家社会では地頭請や下地中分が行われて(鎌倉時代)、荘園内での地頭の権限が強まった。国人同士が団結して国人一揆も起きた。

 

 

各地に置かれた守護大名が、荘園や公領から年貢の取り立てや土地の管理を行うようになった。南北朝時代から守護は、半済の法や守護請によって荘園を領地として支配するようになり、守護大名として成長していった。

 

将軍家の基盤の弱さ、幕府の衰退、戦国時代へ

 

足利一族の内部抗争。守護の反乱。

土岐康行 (1390) 土岐康行の反乱。

明徳の乱 (1391) 山名氏清の反乱。

上杉禅秀の乱(1416~17)

永享の乱 (1439)  6代足利義教、足利持氏を討伐 (鎌倉公方の滅亡)。

嘉吉の乱 (1441) 赤松満祐、足利義教を暗殺。

 

 

1467年~77年、応仁の乱

8代足利義政の失政。後継を巡る義政の弟義視と義政の子義尚の争い。守護大名、山名家と細川家の勢力争い。斯波家と畠山家の家督争い。

 

東軍:足利義視、細川勝元

西軍:足利義尚、山名持豊(宗全)

両軍疲弊し、和議。

足利幕府の権威失墜、三管四職も凋落。

 

 

応仁の乱

室町幕府の将軍足利義教が暗殺された嘉吉の乱(1441年)以降、将軍権力は弱体化し、畠山氏と斯波氏の家督相続争いと、8代将軍義政の子の義尚と弟の義視の家督相続争い、さらには有力守護大名の細川勝元と山名持豊の争いがむすびついて、応仁の乱が始まった。

 

1467年、足利将軍家や管領畠山・斯波両家の継嗣問題に端を発した争いが、天下を二分する大乱となった。

 

応仁の乱は将軍の後継争いに、細川氏、山名氏の争いが加わったことが原因で起こったものであるが、この乱をきっかけに下剋上の世の中となる戦国時代へと突入した。

 

応仁の乱は、畠山氏と斯波氏に家督問題が生じ、8代将軍足利義政の継嗣問題も加わり、1467年に応仁の乱が起こった。これらの問題に細川勝元と山名持豊が介入したため、守護大名は細川軍と山名軍に分かれて争うこととなった。

 

この乱は各地に広がり長期化したが、その原因は武士社会の相続法が分割相続から嫡子単独相続へ変化し、守護大名の相続争いをも巻き込んだためである

 

室町幕府から任命された守護の中でも権力を拡大させ、支配領域を拡大させた守護は、守護大名となった。細川氏や山名氏など。

 

 

下克上の戦国時代へ

(下の者が上の者、守護大名をも倒す、様々な階層から能力とチャンスを得て大名になる。)

 

惣村、郷村制の出現 → 土一揆

 

農民による荘園制の解体に伴って荘園の枠を超えた自治的な村、「惣」という自治組織が誕生。荘園領主、幕府、守護、地頭などの支配体制に抗するため宮座、寄合を通じて団結。

 

農村では農民相互の地縁的な結合である惣ができた。(惣は地縁的な自治村落)

 

荘園内の有力農民(名主)は地頭の指揮で武士として南北朝の内乱に参加→名主層の武士化。

地下(じげ)請け(百姓請け)・・荘園の管理、年貢徴収などを郷村の名主、百姓が請負う制度。

 

これらの農民が、関銭に不満を持つ馬借や車借(運送業者)とともに武力で幕府に反抗。

国人、惣村で一揆が勃発(強訴、逃散)

(年貢の免減、徳政令の要求、守護大名の排除を求める。)

 

守護大名は直接農民を、懐柔、支配できなかったことが没落の原因となった。次に台頭してくる守護代や国人などに圧倒されてくる。

 

中世の土一揆は、徳政一揆、国一揆、一向一揆などの名称で呼ばれており、応仁の乱に相前後して、畿内や北陸で起こったが、そのうち最も大規模で長期間続いたものは、加賀の一向一揆であるといわれている(約100年)。土一揆の背景には、農村で地頭や有力農民の拠点であった惣が成長し、小農民も含めた村民の地縁共同体と自治組織が発達していた事情があった。

 

室町時代、正長土一揆(1428年)、嘉吉の土一揆(1441年)など、幕府に徳政令を発布させることに成功した一揆もあった。

正長土一揆:近江坂本の馬借が徳政令を要求して蜂起したことに始まり、近畿一帯に広がった。

嘉吉の土一揆:嘉吉の乱直後、足利義勝の将軍就任の際に徳政を要求して京都で起こった一揆。

 

室町時代、国人と呼ばれた地方土着の武士は、自立の気風が強く、守護大名の力が弱い地域では、しばしば国人たちは困窮した農民の指導者となって一揆を結成した。山城国一揆(1485年)はその代表である。

山城の国一揆では畠山氏を追放し、以後8年間、南山城一帯を自治で治めた。

 

蓮如の布教によって広まった浄土真宗本願寺派の門徒である農民や商人などによる一揆が、北陸・東海・近畿を中心にしばしば起こった。加賀の一向一揆(1488年)はその代表的なものである。

守護の富樫氏を滅ぼし、約1世紀の間、自治による支配を実現した。一向一揆は15世紀末から16世紀末。

 

 

 

下克上と戦国大名

 

応仁の乱後以降各地に誕生した武田氏などの戦国大名は、地侍を家臣化したり、新しく家臣となった地侍を有力家臣に預けて組織化し、鉄砲・長槍などの新しい武器を使った集団戦を可能にした。(戦国大名は、家臣団を組織化し、足軽鉄砲隊による集団戦が可能となった。)

また、家臣の収入を銭に換算した貫高で把握し、その地位・収入を保障する代わりに軍役を負担させるという貫高制を実施した。

 

応仁の乱後、守護に代わって代官の任務についた守護代は、地方の地侍である国人らを支配下に治め、守護を上回るほどの権力を拡大させ、戦国大名となった。

 

 

下克上

守護代や国人など在地の土豪が守護大名の土地を奪い割拠。

将軍 ← 守護大名 ← 守護代 ← 国人層 ← 農民

 

鎌倉公方   ― 関東管領

 

古河公方 堀越公方  扇谷上杉家  山内上杉家

4者の対立

 

北条早雲が堀越公方を滅ぼして(1491年) 下克上が始まる。

扇谷上杉家と山内上杉家が古河公方をかついで、北条氏康(早雲の孫)と戦うが、敗れ、北条家は関東の大部分を統一する。

 

北条氏の勢力に対抗するために山内憲政は、敗れて領国越後に逃れて、家名と管領職を家臣の長尾影虎(上杉謙信)に譲る。以後、戦国時代は北条氏康、氏綱親子vs上杉謙信の対立が続く。

 

<没落した守護大名>

 

斯波家 (越前)                  家臣の朝倉家

(尾張)    守護代の織田家

 

京極家 (近江北部)  土豪の浅井家

(出雲)     尼子家

土岐家 (美濃)     守護代の斎藤家、牢人の斎藤道三

大内家(周防、長門)  守護代の陶家、→ 土豪の毛利元就

 

没落しなかった守護大名 ・・ 武田、今川、大友、島津

 

 

<戦国大名>

 

戦国大名は、有力家臣に地侍などで組織した家臣団を預ける寄親寄子制を採用し、鉄砲や長槍などの兵器を集団的・機動的に使用できる体制を整えた。

 

戦国大名の多くは、守護代を含め、現地に根を下ろして実力で成りあがって支配者となった者たちである。

 

守護(幕府の軍事・警察権を代行する地方機関)の中には、任地には赴かず、守護代を派遣する場合があった。

 

 

一国の完全支配、幕府からの独立。「惣」の利用。村を直接支配。

 

守護           守護代       国人(土豪)       その他(移住者)

奥羽          最上                                          伊達

関東                                                                                           北条(今川の食客)

中部     武田、今川、      上杉、織田       徳川                     斎藤

近畿                                                               浅井

中国四国               大内              陶、尼子                毛利、宇喜田、長宗我部

九州     島津、大友                                    龍造寺

 

【組織形態】

家臣に国人や地侍層を従える(武力で国人を組織、一揆の鎮圧)

家臣団(戦国大名が組織した常備軍)を組織。→ 主従関係の確立(寄親、寄子制)

 

 

戦国大名は分国法(分国支配の基本法)などを制定して家臣相互の紛争に介入し、軍事力・経済力を維持することを図った。戦国大名は勢力争いを行い、たとえば、中部地方では、甲斐・信濃の武田信玄が、越後の上杉謙信と戦い、関東地方では、北条早雲が駿河の今川氏を頼って頭角を現し、三浦氏を滅ぼすことによって相模全域を支配するなど支配地域を拡大した。

 

領国支配の基本法である分国法(家法)を定めた。

戦国大名が領国(分国)統治のために家臣向けに制定した法令。

今川仮名目録、塵芥(じんかい)集(伊達氏)、甲州法度(信玄家法)など

 

「今川仮名目録」や「塵芥集」などの分国法が戦国時代に各地で制定された。これは戦国大名の領国経営に基本法で、富国強兵を方針とし、家臣団の統制や所領相続の規制および農民への年貢課役などの厳しい規定が設けられた。

 

戦国大名の中には施政方針や刑事・民事の法令をまとめて分国法を作り上げる者もおり、伊達家の「塵芥集」や、武田信玄の「甲州法度之次第」などが誕生した。

 

多くの戦国大名は分国法を制定し検地を行って、領国支配を強化した。

 

分国法では、家臣が領地を自由に売買することを認めなかった。

分国法では、他国との縁組みの禁止、他国との通信の禁止がある。

 

分国法では、家臣は普段自分の領地に居住することは許されず、城下町に集住させられた。

分国法では、喧嘩は、理非にかかわらず、喧嘩の当事者双方を処罰する喧嘩両成敗とした。

分国法では、嫡子(その家の長男)だけが財産を相続できる単独相続とした。女子の相続は認められなかった。

 

 

経済力(鉱山、新田開発、商工民への保護、)

 

戦国大名は城の周りに家臣団や商工業者を集住させた(城下町の発展)。

商業を保護することで分国の繁栄を図る → 都市が目覚しく発展。

 

城下町・・小田原、駿河

門前町(社寺の門前に発達した商工業町)・・宇治山田、奈良、坂本、長野

寺内町(主に一向宗(浄土真宗)寺院の境内で発達した集落)・・石山本願寺、越前吉崎

港町・・敦賀、小浜、桑名、大湊

*自治都市・・堺、京都、博多

 

室町時代には、市や座が結成されていた。門前町や寺内町も発展の傾向にあった。

 

戦国時代には、戦乱で兵農分離が進み、大名は郷村制で農民を支配し、家臣団を城下町に集住させる大名領国制を完成した。これによって城下町が発展した。

 

交通の便利な平野部に城下町が形成され、武士や商工業者が集住して、城下町を中心とする経済圏が成立した。商業の発展に力が注がれ、関所の撤廃や座の廃止が行われて自由な商取引きが保障された。

 

室町時代には、明との盛んな交易に触発され全国的な交通網が発展し、地方でも港町や宿場町が繁栄した。この時代、幕府の権力も弱く、守護大名や後の戦国大名が割拠するなど、分権化した社会状況を反映して、堺や博多など各地に自治都市や自由な商人の活発な活動が見られた。

 

農村では、前代から手工業が発達し特産品が生産されており、各地を結ぶ遠隔地商業と海陸運送業が活発になって、港町、宿場町、寺内町が建設され、大きな都市に発展していくのも多かった。これらの都市の中には町人が自治組織をつくり市政を運営する場合もあった。

 

 

<貿易>

 

倭寇 (14世紀~16世紀中)

日本人(前期),中国人(後期)の海賊集団で,朝鮮半島,中国華北を荒らす。

明朝が日本と勘合貿易をはじめた理由・・幕府に和寇の禁止を求める → 勘合貿易とともに衰退。貿易が低迷すると再活発化。秀吉の海賊取締令(1588年)で和寇衰退。

 

日明貿易―勘合貿易

義満は倭寇禁止を求める明に応じて、1401年に明と国交を開く。日明貿易は勘合貿易とも呼ばれ、明の皇帝に朝貢する朝貢貿易。勘合は正式な貿易であるという証明で倭寇取締りのために発行された。その後、日明貿易の実権は細川氏と大内氏に移ったが、最終的には大内氏が独占して、16世紀半ばに途絶えるようになった。

 

日朝貿易

1392年に,和寇を退けて名声を挙げた李成桂が李氏朝鮮を立てる。足利義満に使者を送り,日朝貿易を開く。対馬の宗氏が日朝貿易を掌握。通信符。

応永の外寇(1419)

三浦(さんぽ)の乱(1510)で,以降,貿易衰退。

 

戦国時代、西国大名や商人は競って南蛮貿易を行い、鉄砲・火薬や皮革・生糸を輸入した。わが国と初めて交渉を持ち、当時積極的に進出し貿易の利潤を享受していたのはポルトガル人で、彼らはマカオを手に入れて極東海域の覇権を握った。

 

鉄砲の伝来以後(1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来した後)、ポルトガルは1571年に開港された長崎に来航し、貿易を行うようになった。また、1584年に肥前の平戸にスペイン人が来航したことから、貿易が開始され、ポルトガル人、スペイン人を南蛮人と呼ぶようになり、両国との貿易を南蛮貿易といった。

 

 

 

 

室町文化

 

14世紀後半の3代将軍足利義満の時代を中心とする北山文化は、室町幕府の保護による禅宗の影響を強く受けた武家文化と、民衆活動の活発化による庶民的要素が強まった文化である。観阿弥・世阿弥父子が庶民の神事芸能であった田楽・猿楽を能楽として完成させたのもこの時期である。

 

北山文化においては、日本の伝統文化の基盤が確立され、観阿弥・世阿弥父子が能を芸術として完成させるとともに、日常語で大名や僧侶を風刺した狂言が能の合間に上演され、人気を博した。

 

水墨画は、東山文化の時代に基礎が築かれ、雪舟は日本的な水墨山水画を大成したが、狩野正信・元信父子は水墨画に伝統的な大和絵を取り入れることによって、狩野派を確立した。

 

禅宗の自然観と結びついた深山幽谷の大自然を表現した枯山水の庭園や寺院(竜安寺や大徳寺大仙院)がつくられた。雪舟が、日本の自然を描き、水墨山水画として大成させた。

 

書院造は東山文化で普及した和風住宅。

 

 

大陸文化と伝統文化、貴族文化と庶民文化など広い交流に基づいた文化の融合が進み、その成熟の中から、次第に民族的文化ともいうべきものが形成されていった。連歌、御伽草子といった庶民文芸は、この時代を特徴づける文化である。

 

南北朝の動乱期においては、歴史に対する意識が高まり、「神皇正統記」(1339年、北畠親房)は南朝の正統性を主張した歴史書であり、「梅松論」(1349年)は、承久の乱から室町幕府成立までの歴史書で、足利氏の正当性を主張している。

 

連歌は南北朝の頃から盛んになって、応仁の乱後に最盛期を迎え、

山崎宗鑑が滑稽を基調とする俳諧連歌を作り出し、宗祇が洗練された(芸術性が加わった)正風連歌を確立した。

 

茶寄合が流行し(南北朝時代)、茶の品種をいいあてる闘茶の遊びが行われたり、村田珠光によって侘び茶(侘茶)が創出され(東山文化)、堺の茶人の武野紹鴎に師事した(堺の商人)千利休がこれを大成させた(桃山文化)。