明治時代

明治時代1868~1912)

 

1868年3月、五箇条の御誓文(明治新政府発足)

天皇制・太政官制の復活、東京に遷都、一世一元の制をしく。

薩・長・土・肥を中心とした藩閥政府

 

五箇条の御誓文を発し、公議世論の尊重と開国和親など新政府の方針を内外に示した。

 

明治新政府は天皇を中心とする政府の樹立を宣言した(1868年3月、五箇条の御誓文)が、

旧幕府側は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争で、抵抗を続けた。会津の落城で打撃を受けた旧幕府軍は、函館五稜郭の戦いで起死回生を図ったが、新政府軍の圧勝に終わり、これにより、新政府による国内の平定はほぼ完了した。

 

戊辰戦争は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで始まり、上野の彰義隊、会津落城を経て、1869年5月、函館五稜郭の戦いで終わった。

 

 

近代国家作り(明治新政府の4つの柱)

 

<版籍奉還・廃藩置県>

 

版籍奉還(1869): 幕府のものであった土地と人民を朝廷、国に返す。諸大名を知藩事として旧領の藩政に当たらせる。封建的藩体制は残る。

 

廃藩置県 (1871) : 藩制の全廃。

全国が府や県に再編され、中央政府が任命した府知事、県令(県知事)が地方政治に当たる。

 

薩長藩閥政権による中央集権体制が完成。西郷、大久保、木戸、(板垣)

 

薩長土肥の4藩主に版籍奉還を願い出させ、そのほかの藩主にも版籍奉還を命じた。1968

廃藩置県を断行し、府知事・県令を任命派遣した。1971

 

中央集権を進めるため、薩摩・長州・土佐の兵を御親兵として組織し、1969年に版籍奉還を断行し、旧藩主を知藩事に任命して領地・領民を直接支配下に置いた(引き続き旧藩を統治した)。政府の実態はあまり変わらなかった。

 

1869年の版籍奉還で、旧藩主や公卿が華族に、藩士が士族になり、家禄が支給され、旧藩主がそのまま旧領地の知藩事に任命されていた。

 

明治4年(1871年)の廃藩置県では、知藩事が政府から罷免され、(下級武士から)中央政府から府知事・県令が派遣された(任命された)。全国は3府(東京、大阪、京都)72県に分けられた。その一方で、廃藩置県の混乱を避けるために、旧藩主と家臣には家禄が支給された。

 

<徴兵令 (1873)>

成年男子に兵役義務。西洋式軍隊の創設を目指す。山県有朋の建議。

 

明治政府は、中央集権体制の確立をめざし、薩長土の3藩の兵を御親兵として編成し、軍事力の整備に乗り出した。さらに、全国の要地に鎮台を設置し、徴兵令を公布して士族・平民を問わず満20歳以上の男子に兵役の義務を課した。

 

兵制の統一と近代化を図るため、徴兵令を公布して、全国民から徴兵した兵士で軍隊を組織した。

1871年に徴兵令を公布し、士族・平民を問わず満20歳に達した男子はすべて兵役に入ることを義務づけたが、一定額以上納税した者(戸主・嗣子・官吏・学生や代人料270円を納めた者)はその義務が免除されたため、実際兵役に就いたのは、多くが、農民の次男以下であった

 

明治政府は、中央集権体制の確立をめざし、薩長土の3藩の兵を御親兵(天皇の護衛兵)として編成し、軍事力の整備に乗り出した。全国の要地に鎮台を設置し、徴兵令を公布して士族・平民の身分を問わず満20歳以上の男子に兵役の義務を課した。

 

 

<四民平等>

 

四民平等(1869)

封建時代の身分制度を廃止。士農工商を廃止し、華族(藩主、上層公家)、士族(藩士、旧幕臣)、平民(農、工、商)からなる新たな身分制度を創設。

 

戸籍の作成(最初の近代的戸籍である壬申戸籍)    廃刀令

 

四民平等を実現するため、士農工商の身分制度を廃止したが、すべての人を平民としたのではない。身分制度を改めて、国民を華族・士族・卒族・平民とし、さらに卒族を士族と平民に分割し、華族(公卿・大名)・士族(武士)・平民(農工商)の3種類に整理した。四民平等をたてまえとしたが、依然として華族や士族は平民と比べると特権身分であった。

 

士農工商の身分を廃止し、四民平民とするとともに、1871年には被差別民であったえた・非人の称を廃止する賎称廃止令を出し、身分・職業とも平民と同等であるとしたが、被差別民に対する社会的差別は依然として残った。

 

 

地租改正

 

地租改正 (1871~73)

地租改正条例を定め、ほぼ全国に地租改正を実施した。1973

 

1) 現物年貢(米納化)から金納化へ  2) 課税基準を収穫高から地価へ 3) 地租は地代の3%。

全国同一の基準で一律の地租が貨幣でとられる。

 

 

4) 納税者は土地の所有者(地主)、5)土地の私有を認める。

 

自作農の小作農への没落が増加。

本百姓―大地主と小作人。資本家と労働者と同じ関係。

小作人・・土地を持たない農民。土地は地主から借りて働く

 

・寄生地主の増加

地主が所有地の大部分を多くの小作農に貸付け、高率な小作料を徴収する農業経営形態。

 

・米価高騰による地主の利益・・小作料は農地改革まで米納。

明治新政府の成立当初の財政は、旧幕府領からの年貢を主体としていた。廃藩置県による全国の統一権を一手に握った後も、税制にはまだ着手していなかったため地租改正まで政府の財政は不安定であった。

 

政府の歳入の90%以上が地租によるものであり、地租改正によって豊凶を問わず一定の歳入が確保されたので、財政は安定した。

 

明治新政府は、地租改正に際しては、従来の政府の歳入額を減らさないことが最優先されたので農民の負担は相変わらずであった。税率を地価の100分の3と定めて地租の金納化を採用した。しかも、地租が金納になっても、小作人が地主に納める小作料は物納のままであったので、農民による地租改正反対一揆が各地で起こり、政府は1877年に地租を2.5%に引き下げた。

 

地租改正は地主に有利に働き、高額の小作料を納入する小作人の負担は一向に減らなかった。

 

1873年に行われた地租改正では、地価を定めて地券を発行し、地価の3%(後に2.5%)を土地所有者(地主・自作農)が金納するものであった。

全国的に土地測量を進め、地券を交付することによって課税対象者である土地所有者を確定し、また、安定的な税収を確保するため、課税基準を従来の収穫高から法定地価に改めた。

 

明治6年(1873年)、政府は、地租改正条例を公布し、年貢の代わり地租として全国同一の基準で、豊凶にかかわらず一律に貨幣で徴収できるようにしたことから、租税制度が整備され財政の基礎が固まった。

 

財政の近代化の基礎として政府は地租改正を行った。これは課税基準を地価に置いて税収の安定を図ったもので、土地所有者が納税者となった。米価の高騰により地主の利益が高まった。

 

明治新政府の行った地租改正事業は、数年に及ぶ大事業であった。これにより、農民の私的土地所有が認められ、資本主義へ移行する基礎ができあがった。地租改正により、土地を所有しながら小作人に耕作させる寄生地主制度が発達していった。

 

 

<学制>

明治維新後、政府はすべての国民が自分の身をたてられるよう教育することを目標に、フランスをはじめとする諸外国の学校教育制度をとりいれた学制を公布したが、画一的で地方の実情に合わない点もあり、その後、改革が繰り返し行われた。

 

明治5年(1872年)にフランスの学校制度をとり入れた学制が公布されたが、国民生活の負担が大きいことなどの理由から、不満を抱く国民も現れ、学制反対一揆が起こり、明治12年(1879年)の教育令で廃止された。

1879年にはアメリカの教育制度を参考にして、学制が改正された。

 

国民皆学を理念とする教育の普及を目指し、学校令が制定され、国家主義的色彩が強い教育方針が打ち出された。大学区、中学区、小学区が設置され、特に小学校の設置が強化された。学制が実施された1872年当時は直ちに義務教育になっていない。

 

 

<屯田兵>

北海道の開拓・・・ 札幌農学校開港。屯田兵制度(開拓したら所有できる)

 

政府は、蝦夷地を北海道と改称して(1869年)直ちに国の機関として、北海道開拓使をおき、大規模な開拓を進めるため、屯田兵制度を開始し(同年)、札幌農学校を設置した。

 

 

<金融>

 

新貨条例(1871)

政府紙幣 (不換紙幣) や円、銭、厘を単位とする貨幣が発行。(かつては金、銀両方流通、藩のお札、幕府のお札が出回っていた。)

国立銀行条例(1872)

日本銀行の設立、唯一の兌換紙幣(金と銀と交換できる)日本銀行券の発行を目指す。

 

明治時代には、新貨条例が制定され(1871年)、十進法による円・銭・厘を単位とする新貨幣が発行された。

 

政府は、新貨条例を定め(1871年)、円・銭・厘を単位に新硬貨を鋳造し、金本位制の確立を目指したが、当時の貿易は銀貨が中心であり、貨幣制度は、事実上、金銀複本制であった。

(幕末以来の外国貿易で金の流出が著しく、当面は銀も併用しての金銀複本位制とせざる得なかった。)

 

政府は国立銀行条例を定め(明治5年、1872年)、これに基づき、渋沢栄一が中心となって多くの民間銀行が設立されたが、(兌換銀行券が流通せず)銀兌換制の確立までは至らず、国立銀行は不振に終わった。。

 

東京に第一国立銀行、横浜に第二国立銀行、新潟に第四国立銀行、大坂に第五国立銀行の4行が設立された。民間の国立銀行が設立された。国立銀行は、アメリカのNational Bankを手本にしたものであり、国営の意味ではなく、国法で設立された民間銀行のことである。

通貨不足から米価が下落し、地租改正反対一揆が生じ、政府は国立銀行による統一的な貨幣供給政策を確立するため、1876年に国立銀行条例改正を行った。

 

むしろ、その後の財政困難に対処するためにむしろ不換紙幣の発行が認められるようになり、インフレが激化した。これに対処するために、1882年に唯一の発券銀行としての日本銀行が設立され、1885年から銀兌換による兌換銀行券を発行も始まった。

 

 

<秩禄処分>

明治9年(1876年)、政府は、増大する政府支出を削減するため、家禄や戊辰戦争の功績に対して支給していた賞典禄(両者を合わせて秩禄)を、金禄公債証書を交付することによって廃止したが、華族・士族制度そのものは廃止しなかった。

 

政府は、明治6年(1873年)、増大する政府支出を削減するため、秩禄奉還の法で、家禄や戊辰戦争の功績に対して支給していた賞典禄(両者を合わせて秩禄)の償還希望者に一時金を支給うしたが、秩禄奉還が進まなかったため、明治9年(1876年)に金禄公債証書(秩禄の数年分の額の公債)を交付し、強制的に奉還させた。これにより、華族・士族の禄制が全廃されたが、華族・士族制度の廃止は第二次世界大戦後である。

 

 

 

<殖産興業>

官営模範工場・・・政府直営の工場、製糸、紡績、軍需に力点。富岡製糸工場。横須賀、長崎、石川島造船所。欧米から技術者を受け入れる(お雇い外人)、または欧米へ派遣する。

 

政府は、軍事工場を直接経営する一方、民間の近代産業の育成のため、軽工業の分野から官営とし、(模範工場の建設を開始)、富岡製糸場などの模範的な工場を設立させた。

その後の松方財政の下で、財政赤字の軽減のために官営工場の多くが政商や財閥などに払い下げられていった。

 

産業育成のため軽工業分野にも官営の富岡製糸工場などを設立した。

 

紡績業では、渋沢栄一により創立された(民間の)大阪紡績会社が、1883年に操業を開始(成功)すると、機械紡績が中心となり、機械制生産が急増した結果、手紡、水車による紡績機のガラ紡など従来の綿糸生産は衰退していった。

 

富国強兵をめざして殖産興業に力を注ぎ、幕府や諸藩が経営していた横須賀造船所、佐渡金山、東京砲兵工廠などを接収して、官営として運営された。

 

いわゆる松方財政のときに、近代的な金融・銀行制度が日本銀行の創立と兌換銀行券の発行で確立された。一方で官営事業の払い下げ政策によって、政商と呼ばれる資本家が育成され、資本主義経済の基盤が整った。

 

 

<鉄道>

政府は、軍事上の必要から、鉄道整備を民営ではじめ、1872年に新橋・横浜間にわが国初の鉄道を開設した。鉄道国有法が制定されるのは日露戦争後の1906年のことである。

 

明治時代には、当初、民間鉄道会社の手によって、交通機関の整備が進められ、明治5年に新橋と横浜の間に我が国で初めての鉄道が開通した。その後、官営鉄道として東海道線、民営の日本鉄道会社や山陽鉄道会社により、東北線や山陽線などの建設が進められた。しかし、日露戦争後の1906年に鉄道国有法により国営化されていった。

 

鉄道業は、日本最初の民営鉄道会社が1881年に創設され成功すると、民営鉄道がつぎつぎと建設されたが、軍事、経済上の必要性から1906年に鉄道国有法が公布されると、民営鉄道が買収されて国有化された。

 

 

<海運>

海運業では、三菱会社と共同運輸会社との合併によって設立された日本郵船会社がボンベイ航路(1893年)や欧米航路(1896年)などの海洋定期航路を開設した。

共同運輸会社は、1882年に品川弥ニ郎、渋沢栄一らによって設立され、開業した半官半民の海運会社で、三菱会社との競争激化から、政府に合併を勧められ、1885年に三菱会社と合併した。

 

 

<国境の策定>

 

<日露国境>

1854年、日露和親条約

両国の国境を,択捉島と得撫〈ウルップ〉島の間とし,択捉は日本に,ウルップとそれより北の千島列島(クリル諸島)はロシアに属するが,樺太島は両国人の雑居地として境界を定めず。

 

1875年、樺太・千島交換条約

樺太の一切の権利をロシアに譲り,樺太をロシア領に,千島列島全体を日本領にすることが取り決められた。

 

樺太・千島交換条約(1875年)は、それ以前に結ばれた日露和親条約においては、樺太は日露両国人の雑居地とし、それ所属が不明確であったことから、ロシアの樺太領を認めるかわりに千島全島を日本領土にすることとしたもので、これにより北方の領土問題は解決した。

北海道開拓使次官の黒田清隆の意見により、榎本武揚が交渉にあたり、1875年樺太・千島

交換条約を結んで、樺太をロシア領、千島列島を日本領とした。

 

 

初期の外交

 

1871年、日清修好条規

日本と外国との間で初めて結ばれた対等条約。相互の開港と領事裁判権を承認。

 

1874年 征台の役 / 台湾事変(台湾出兵)

琉球漁民殺害事件(1871)を受けて出兵、その結果、英国の調停の下、清側が琉球を日本領とすることを承認し、賠償金を支払った。

 

1875年:江華島事件:日本の軍艦が江華島で砲撃された事件。

1876年:日朝修好条約・・・江華島事件を受けて、朝鮮国を開国させる。(不平等条約)

清国の朝鮮に対する宗主権を否定、関税協定制(関税を免除させる)と日本の領事裁判権を朝鮮に認めさせる。釜山、仁川、元山の開港。

 

 

明治政府は、清国との間に最初の条約である日清修好条規を締結したが、相互の関税率最低、領事裁判権、開港が約束された。

 

日朝修好条規は、江華島事件を機会に結ばれ、釜山等3港の開港と、日本の領事裁判権や関税の免除などをみとめさせた、日本にとって有利な条約であった。

明治政府は、江華島事件を契機として、朝鮮に開国を迫り日朝修好条規を締結し、、日本の領事裁判権や関税免除の特権、釜山・元山・仁川の開港を認めさせた。

 

明治政府は、台湾に漂着した琉球漁民が殺害された(1871年)ことを発端に、台湾に出兵した(1874年征台の役)。この結果、日本はイギリスの調停により、清から琉球を日本領とする承認と賠償金を得た。

 

 

 

<不平等条約>

江戸幕府下で締結されたアメリカ合衆国との不平等条約の改正を目的に、いわゆる岩倉使節団が派遣されたが、具体的な成果を得られず、欧米の事情を視察しただけで帰国した。

 

明治政府は欧米諸国と対等・平等の同盟関係をつくるため、不平等条約を改正しようと、特命全権大使?(欧米使節団の代表)を岩倉具視、副使を木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らとする使節団を欧米に派遣したが、条約改正の交渉をは最初の訪問国アメリカ合衆国で不成功に終わった。

 

井上馨が条約改正達成のために、欧化政策をとり、鹿鳴館で外交団と日本の上流階級による舞踏会を開いたことは、いわゆる大同団結運動によって憲法制定と対等な条約の締結を目指す当時の自由民権運動からの反発を受けた。

 

 

<征韓論>

西郷隆盛が板垣退助らととも、武力を行使し朝鮮に開国を迫る征韓論を主張し、征韓派は明治6年の政変で一斉に下野した。その後、江藤新平が佐賀の乱、西郷隆盛は西南戦争を引き起こした。

 

征韓論の中心人物であった板垣退助や江藤新平らは、明治6年の政変に敗れて西郷隆盛と同様に政府を去って(参議の職を辞して)、明治政府に対する批判を強めた。

 

 

<西南戦争>

西南戦争は秩禄処分や廃刀令への不満、征韓論の敗北によって政府に不平をもった士族が1877年に西郷隆盛を擁して起こした戦争である。

 

西南戦争とは、鹿児島の私学校生を中心として士族が西郷隆盛を擁して起こした反乱であり、この反乱は、激戦の末、徴兵制による政府軍によって鎮圧され、この乱を最後に不平士族による反乱は収束した。この戦争は徴兵軍の力により1年足らずで平定された。時代はこの後、言論による政府批判、すなわち自由民権運動の時代に入る。

 

 

<松方財政>

 

松方財政(1881)・・M14政変の大隈後に、大蔵卿に就任

西南戦争時に多額の紙幣を発行した結果、インフレが発生 ⇒ 緊縮デフレ政策

 

・ 酒造税を増徴。官営工場の払い下げ。(歳入の増加)

デフレ

・ 不換紙幣の整理、軍事費以外の歳出を切り詰め。(歳出の減少)

 

日本銀行設立(1885年)

銀兌換の銀行券を発行 ⇒ 兌換制度の確立

 

米価は低下し、中小地主の中には土地を売るはめになり、没落して小作農になる者も。

日本の貨幣に対する信頼回復。財政好転。工業の発展。第一次産業革命へ。

 

 

西南戦争の戦費を得るために大量に発行された不換紙幣による物価高騰を抑えるため、明治政府では、大蔵卿松方正義によって、財政再建(緊縮財政政策)が進められたが、急激な物価下落がもたらされた。

重税と不換紙幣回収によってデフレーションが発生し、農産物価格が下落したため農民の階層分化が促進され(それに伴う不況が農村を襲って多くの農民が没落した)、大地主の下に土地が集中して寄生地主制が成立した(松方正義によって行われた松方財政)。

 

松方財政では、西南戦争時に多額の紙幣を発行した結果引き起こされたインフレを収束すべく、軍事費以外の歳出を切り詰めるなどのデフレ政策を行った。しかし、結果として米価が低下し、中小地主の中には土地を切り売るはめになり、没落して小作農になる者もいた。

 

財政改革(松方財政)に伴う深刻な不況に中で困窮した農民は、急進的な自由党員と結びついて、福島・群馬・秩父など各地で実力行動を起こした。

 

 

1858年に欧米諸国と締結した通商条約(日米修好通商条約)は、領事裁判権を認め、片務的な協定関税制度を採用する不平等条約であった(輸入関税が認められていなかったわけではない)。

 

幕末貿易では、輸出額の急速な拡大により、重要輸出品目(生糸等)の生産が追いつかず、国内向けの物資が不足し、物価の騰貴を招いた。

 

1873年の地租改正により、租税が金納となったが、地主小作関係はそのまま維持され、小作料は物納であった。このため米価の上昇により小作料は実質的には上昇した。

 

明治政府は、模範工場の建設、機械の払い下げ等を通じて、近代紡績業の育成を行おうとしたが、紡績業の経営には失敗しており、大きな影響を与えていない。

 

1882年の日本銀行の開業により、日本の殖産興業政策はそれまでの財政主道型から金融主道へと変換した。

 

いわゆる松方デフレ期には、零細農民は大きな打撃を受けたが、その結果、小作地率は上昇した。1881年松方正義が大蔵大臣に就任すると、不換紙幣の整理によるデフレとなった。

 

明治末から大正時代にかけて、財閥系企業には、株式会社の形態をとるものが多く、株式会社は普及し、工業会社の資本金中の株式の比率を見ると1913(大正2)年には9割近かった。

 

 

<自由民権運動>

 

1873年、明治6年の政変。征韓論派参議の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平ら下野。

1874年、板垣退助、民撰議員設立建白書を提出

1875年、大阪会議:板垣、木戸の参議復帰。

1877年、 西南戦争 ―これを最後に士族反乱の終焉―

 

明治維新の改革で、士族の多くは、かつての身分的な特権を喪失し、経済的にも困窮したために、不満を強めていった。この不満の高まりを背景に、板垣退助らは政府批判を行い、民撰議院設立の建白書を提出した。

 

板垣退助や後藤象二郎らは、藩閥政府を非難し、すみやかに民撰議院を開設し国民を政治に参加させるべきだとする民撰議院設立建白書を政府に提出した。

 

自由民権運動は、士族を中心に進められ、国会期成同盟が結成されるなど各地でさまざまな展開をみせた。豪農民権とも呼ばれる地主層や商工業者の間にも自由民権運動が広がり発展していった。

 

 

1881年 明治14年の政変。

国会開設の勅諭

北海道開拓使官有物払下げ事件

 

開拓長官、黒田清隆が同郷薩摩の貿易会社に不当な安値で払い下げようとした事件。(民権派の背後に大隈の薩長派打倒の策動があるとして)伊藤博文は大隈重信に責任を取らせる形で罷免。

民権派の反撃のほこ先をかわし,世論を抑えるために勅諭を出す。

 

政党結成の動きが活発,民権運動激化

 

政府の弾圧と懐柔

1884年,華族令の制定 ・・ 爵位を元貴族に与える。貴族院設立の伏線。

政府、保安条令で弾圧

 

黒田清隆が起こした開拓使官有物払下げ事件などを契機に高まった政府を批判を抑えるために、参議の伊藤博文を中心とした政府は、国会の開設を公約する国会開設の勅諭を発布した。

 

政府は、自由民権運動に対し、集会条例などで言論の統制・弾圧を行った。その一方で、政府は、世論を抑えるため、国会開設の勅諭を出し、伊藤博文を中心に憲法制定の準備を進めた。

 

国会開設の勅諭が出された後、明治政府から追放された大隈重信を党首とし、イギリス型議会政治の実現を主張する立憲改進党が結成された。

 

自由民権運動が進む中、各地でそれぞれが理想とする憲法案(私擬憲法)が作成されたが、政府は、憲法制定に当たり君主制の強いドイツの憲法を模範とした。

 

植木枝(え)盛(もり)は、主権在民の立場から基本的人権の保障や政府の不法に対する人民の抵抗権と新政府を建設する革命権を認めた急進的な憲法試案「東洋大日本国国憲按」を起草した。

 

 

1885年、内閣制度の創設(太政官制の廃止)、

初代総理大臣に伊藤博文、外相、井上馨。

 

内閣の変遷

伊藤-黒田-三条-山県-松方-伊藤②-松方②-伊藤③-大隈-山県②-伊藤④-桂-西園寺-桂②-西園寺②-桂③-山本-大隈②-寺内-原

 

1889年(M22)、大日本帝国憲法公布・・・立憲政治の完成。

欽定憲法として,黒田清隆首相に授与。

伊藤博文、井上馨、伊藤巳代治、金子堅太郎らがプロシア憲法を模範とし、ドイツ人顧問ロエスレル・モッセの助言の下に起草された。

 

天皇主権 ― 法の裁可、大臣の任命、議会の召集、軍隊の統帥。

天皇が統治権の総覧かつ主権者で強大な大権を持つ。

 

大臣の任命 → 後に元老、さらに重臣会議が首相候補者を推薦する形となる。

軍隊の統帥 → 後にこれを根拠に軍部が台頭。

 

大日本帝国憲法が発布されたことにより、わが国はアジアで初めての近代的立憲国家となった。この憲法で、天皇は国の元首として位置づけられ、広範な権限を有するとされ、招集権や解散権などの議会に対する権限もあった。

 

明治政府は近代国家樹立をめざし、プロシア(ドイツ)の憲法制度を範として大日本帝国憲法を制定した。これは欽定憲法で、天皇に大権を認めた。自由民権運動は、憲法制定までに沈静化した。

 

明治政府は、憲法制定のため、伊藤博文を中心に藩閥・軍閥・官僚などの中から勅撰されたメンバーで構成された枢密院という機関が設けられた。この枢密院は、憲法制定後も天皇の諮問機関として1947年の日本国憲法制定まで存続した。

 

1898年に大日本帝国憲法が制定された後で、翌年に帝国議会が召集された。

 

 

1890年,第1回帝国会議

2院制 ― 貴族院(華族しかなれない)と衆議院(選挙で選出)。25歳以上男子。直接国税を15円以上払っている人(国民の1%)。

 

1890年,最初の衆議院選挙

 

立憲自由党(自由党→立憲自由党→自由党)

立憲改進党(→進歩党)などの民党が過半数。

 

政府・・政党の力を認める(地主や資本家の支持を受けた)。政党勢力が増大すると議会主義の立場から政党と提携せざるを得なくなる。 ⇒ 立憲帝政党(御用政党)

 

明治期において、衆議院議員選挙の選挙権は、直接国税を一定額以上納めていた者に制限されていた。そのため、当時の有権者は全人口の1~2%程度であった。

 

政府は、第2回の衆議院議員選挙に際して、警察などを動員して、民党の候補者の選挙活動を暴力的に妨害するなど、選挙干渉を全国的に行った。しかし、第1回に続いて第2回総選挙においても民党が過半数の議席を占めた

 

最初の頃の選挙は納税額に基づく徹底した制限選挙だったので、有権者の割合はきわめて低かった。有権者は全人口の20%を超えるのは、1925年に加藤高明内閣の下で、25歳以上の男子の普通選挙が実現してからの話しである。

 

憲法発布直後、黒田清隆首相は、政府の政策は政党の意向に左右されてはならないという超然主義の立場を声明していたが、わが国で初めての衆議院議員総選挙では、旧民権派が大勝し、第一回帝国議会では、立憲自由党など反藩閥政治の立場をとる民党が衆議院の過半数を占めた。

 

 

第一回帝国議会(第一議会)が開かれると、山県有朋首相は、朝鮮半島を「利益線」としてその防衛のために軍事費を拡大する予算案を提出して、これを成立させた。しかし、次に第二議会では、政費削減・民力休養を主張する民党に攻撃され、予算案を成立させることができず、松方正義内閣は衆議院を解散した。

 

 

日清戦争

 

1882年 壬午(じんご)

事朝鮮国内の親日派(閔氏)に対する親清派(鎖国攘夷策をとる大院君)の反乱。壬午(じんご)事変後、閔氏は親清策に方向転換を強いられる。

 

1884年の甲申事変

国内改革派の金玉均(親日派)が日本の援助でク―デターを起こした事件。

1885(M18)年:天津条約:日清紳士協定

壬午事変、甲申事変で崩れた日清関係を修復するために結ばれた条約で、両国の朝鮮撤退、軍事顧問の派遣中止。また、今後朝鮮に出兵する際に相互事前通告を行うことを決定。

 

1894年 東学党の乱(甲午事変)

減税と排日を求める朝鮮の大農民反乱を抑えるために、日清が出兵。内乱は鎮圧したが、両国は引かず、睨み合いが続く。日本の朝鮮内政改革の提案を清が拒否。

朝鮮は清国の軍事力を背景に日本の経済進出に抵抗する方向性は鮮明になった。それに対する失地回復をもくろむ日本は、 東学党の乱をきっかけに朝鮮に出兵。

 

1894年、日清戦争

 

1895年:下関条約、伊藤博文(陸奥宗光)― 李鴻章

台湾、遼東半島、澎湖諸島の割譲。

清国が朝鮮の独立を承認、

賠償金2億両テール(約3億1000万円)の支払い。(金本位制の資金源、さらに、この資金で八幡製鉄所(1901)を製作)

沙市、重慶、蘇州、杭州の開港。

 

遼東半島は三国干渉(露、仏、独)で日本から清に返還。

 

 

明治政府は、朝鮮国内で発生した東学党による農民反乱(1894年、減税と排日を求める)による混乱を鎮圧するために、出兵したことにより(日清両軍が出兵し)、日清戦争の契機となった。

 

明治政府は、甲申事変において(1884年)、朝鮮国内の改革を図る金玉均(ぎょくきん)らを支援したことにより、清国との軍事的な対立状態に陥ったが、後に清国と天津条約を締結し、日清関係を一時的に修復した。

 

 

不平等条約

1894年、日英通商航海条約

ロシアの東アジア進出を警戒する英国が日本に好意的な態度をとり始める。

治外法権の撤廃(日清戦争開始直前に)(陸奥宗光)領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復、最恵国待遇の相互平等を内容とする

 

日英通商航海条約は、日清戦争の直前に結ばれた。陸奥宗光はイギリスとの日英通商航海条約を結ぶことによって治外法権(領事裁判権)の撤廃と関税自主権の一部回復に成功した。

 

外交の近代化に不可欠な不平等条約の改正は難航した。治外法権の撤廃は、1894年の日清戦争の直前に、陸奥宗光により実施された。

 

陸奥宗光外相は日本の国力の充実を背景に相互対等を原則として交渉を進め…。

 

 

日清戦争が近づくと、民党は確かに軍事費削減を主張したが、これは「民力休養・政費節減」の理念に基づくものであり、戦争そのもの是非を問うたわけではなかった。

 

朝鮮南部で東学党を信仰する団体を中心とする農民反乱が起こると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵し、日本も対抗して出兵したため、日清両国は対立を深め、戦争が始まった。

 

日清戦争は、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こったことから、清国が朝鮮政府の要請を受けて朝鮮に出兵し、日本もこれに対抗するため出兵して朝鮮王宮を占拠し?、清国艦隊を攻撃して?始まった。両国がにらみ合いとなり、

 

戦争は日本の勝利に終わると、下関条約が締結され、清国は、朝鮮の独立承認や遼東半島・台湾の割譲、賠償金の支払いなど日本側の要求を承認した。

 

日本政府は、日清戦争で得た賠償金を準備金として、1897年に貨幣法を公布して金本位制を確立するとともに、同年、官営八幡製鉄所を建設して重工業の基礎である鉄鋼の国産化を推進した。

 

下関条約は、日清戦争講和のための条約である。政府はこの条約により朝鮮から得た賠償金をもとにして、金本位制を確立するとともに、八幡製鉄所を建設して鉄鋼の国産化を図った。

 

金融の安定と貿易の発展を図るため、明治政府は、日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立(1897年)した。これによって資本主義が本格化し、政府の助成・監督のもとで特定の分野に資金を供給する、横浜正金などの特殊銀行が設立された。

 

重工業では、鉄鋼の国産化を目的として、日清戦争の賠償金などをもとに建設された(1897年)官営の八幡製鉄所が、清国の大冶(だいや)鉄山の鉄鉱石(と筑豊炭田の石炭)を使用して、鉄鋼の生産を開始した(1901年)。国産の鉄鋼を生産した。

 

下関条約では、清が遼東半島を割譲することを定めたが、その後、ロシア・ドイツ・フランスの3国がその返還を求め、日本はその要求を受け入れた。

 

清国は、下関条約で、朝鮮の独立と、遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本に譲ることを認めたが、ロシア・ドイツおよびフランスが遼東半島を清国に返還するよう要求したことから、日本は、遼東半島の返還を受け入れた。

 

 

日清戦争で勝利したわが国は、下関条約を結び大陸進出の足場を固めようとした。これに対し、中国東北地方への進出をねらっていたフランスを中心に、ロシアとドイツが連合して、わが国に割譲された清の領土の返還を要求したため、日本は、日清戦争直後であり、余力があまり残っていないことを理由に三国干渉を受けいれた。

 

日清戦争の前後にわたり、政党は一貫して政府の軍備拡張に反対していたわけではなく、第二次伊藤内閣(1892~96)の頃から、自由党は、従来の民力休養論、つまり、行政費を節約して地租軽減・地価修正を要求するのではなく、政府と協力して地方開発予算を獲得して選挙区に還元していこうとする「積極政策」に転換して伊藤内閣に接近した。その結果、板垣退助は内相として入閣させ、軍備拡張予算を成立させている。

 

政党・・政権を得るためにはある程度藩閥との妥協が必要

1900年、伊藤博文自ら,立憲政友会を組織。

 

 

自由党   進歩党

憲政党(1898-1900)

 

伊藤内閣倒壊後、議会の絶対多数を占める憲政党政権,隈板(わいはん)内閣(1898)が成立。

日本初の政党内閣。首相に大隈重信。

隈板内閣は4ヵ月で崩壊 (共和演説事件)

尾崎行雄が金権万能を批判して辞職。後任をめぐり憲政党内が対立、内閣崩壊の契機。

 

政党側は、合同して衆議院に絶対多数を持つ憲政党を結成したため、伊藤内閣は退陣し、かわって我が国で初めての政党内閣である大隈重信内閣が成立した(隈板内閣 1898.6~10)。

 

大隈重信を首相、板垣退助を内務大臣とし、陸・海軍大臣のほかはすべて憲政党員で組織したわが国最初の政党内閣(隈板内閣)は成立したが、旧自由党系と旧進歩党系の対立もあって、短期間に瓦解した。

大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合同して結成された憲政党により隈板内閣が組織された。、

 

初の政党内閣は、内部分裂によりわずか4カ月で倒れ、かわって第二次山県内閣が成立した(1898.11から1900.9)。山県内閣は、政党の弱体化を機に、政党に力が軍部に及ぶのを阻むために、(軍部大臣を現役の大将・中将に限る)軍部大臣現役武官制を新たに制定した。また、文官任用令を改正し、大臣・知事・公使などの親任官以外の高級官吏は、高等文官試験の合格者とするようにして、これまでの自由任用から資格任用に変更した。

 

 

桂園(けいえん)時代(1901~1912)

桂太郎と西園寺公望(03から立憲政友会総裁?)が交互に内閣を組織した時代。政府、軍部、政党の三者が協調して、桂、西園寺を立てて国力の充実をはかる。

 

 

政党の展開

 

憲政党       (旧自由党系)

(解党、合流)

立憲政友会 (1900)

1900年、政党結成を目指していた伊藤博文に接近。解党し、伊藤のもとで立憲政友会を組織。板垣退助失脚。山県内閣(二次)後、政友会を率いて内閣(四次)を組織。

 

憲政本党(1898~1910)

(旧進歩党系)

大隈重信(党首)、犬養毅、河野広中など。大隈引退。

立憲国民党(1910-22)(犬養、第1次護憲運動で活躍)

革新倶楽部に発展的に解消

 

 

 

日露戦争

 

1900年、北清事変=義和団の乱。「扶清滅洋」をスローガン。清国も列国に宣戦布告。

ロシアと日本を主力とする8ヶ国が共同出兵して、これを鎮圧する。

北京議定書:多額の賠償金と軍隊の北京常駐を認めさせる。

 

ロシア:満州に出兵し事実上占領。清国にこの地域の独占的権益を認めさせた。

日本:韓国を勢力圏に。韓国と陸続きの満州

 

「主戦論」:桂太郎、山県有朋、日英同盟 - 「日露協商論」:伊藤博文、満韓交換論

 

1902年、日英同盟

ロシアの南下政策は日本にとって朝鮮半島への脅威、英国にとってはインド、中近東への脅威で両国の利害が一致。同盟国の一方が他国と交戦した場合は、他の同盟国は厳正中立を守ること。2カ国以上と交戦した場合は、他の同盟国も参戦することを定める。

 

1904年(M37)1月:日露戦争・・朝鮮、満州支配をめぐる対立から勃発

 

日本海海戦でバルチック艦隊を破る。

日本:軍事、財政的に戦争遂行能力が限界。ロシア:血の日曜日事件、国内危機

米英:日本の完全勝利による満州独占を恐れる。

 

1905年、ポーツマス条約

米国、T・ルーズベルト大統領が仲介、小村寿太郎―ウィッテ

北緯50度以南の樺太と付属の諸島の日本へ譲渡。

 

韓国に対する日本の指導・監督権をロシアが全面的に認める。日本は韓国を保護国化、南満州を勢力範囲とした。

北緯50度以南の樺太と付属の諸島の日本へ譲渡。

旅順・大連の租借権、長春以南の東清鉄道とその付属利権などが露から日本へ譲渡。

沿海州とカムチャッカの漁業権を獲得。

 

1905年、日比谷焼き討ち事件(桂内閣①退陣)条約破棄を叫んで暴動化。

 

 

ロシアが朝鮮への影響を拡大しようとしたため、わが国と激しく対立し、日露戦争が始まった。ロシアの南下政策は、日本にとって朝鮮半島への脅威であった。

イギリスにとっては、西アジアやインド北辺でロシアと対立していたため、1902年に日英同盟が結ばれた。日露戦争は1904年。

 

北清事変をきっかけにロシアが満州を占領し、その後も撤退せず、朝鮮半島にも勢力を伸ばす動きを示したので、日本もロシアの南下政策を阻止するために、日英同盟を成立させた。

 

日本は、北清事変の鎮圧後もロシアが満州を占領し撤退しなかったことから日英同盟を結び、日本とイギリスは、清国におけるイギリスの権益と清国および韓国における日本の権益とを相互に承認した。

 

日露戦争は、日本の仁川沖の奇襲で始まり、日本は多大な損害を出しながらも旅順や奉天で勝利し、日本海海戦で(東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が)バルチック艦隊を壊滅さえて劇的な勝利を得た

 

日露両国は、アメリカ合衆国大統領セオドア=ルーズベルトの仲介で、ポーツマス条約を結び、ロシアは韓国に対する日本の指導権を認め、旅順・大連の租借地や樺太南半分の日本への譲渡などを承認した。

 

ポーツマス条約において、日本は旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道と付属の利権を獲得し、山東半島のドイツ権益を継承した。

 

ポーツマス条約は、日露戦争後の講和会議の結果結ばれ、ロシアが韓国に対する日本の指導を認め、樺太の北緯50度以南の領有権を日本に譲るものであった。

 

この条約では、賠償問題で行きづまり、日本側はロシアから賠償金を得られないままに終わった。このため、この内容に不満を持つ暴徒が日比谷焼打ち事件を起こした。

 

ポーツマス条約は、日露戦争に勝利した日本がアメリカ合衆国のセオドア・ルーズヴェルト大統領の調停により締結した講和条約である。

 

 

<ロシアと満州>

 

1906年11月、南満州鉄道株式会社設立。

旅順~長春、奉天~安東県間。日本の満州経営に対する米英の不信感。日本はロシアとの関係改善で対抗。日露協商

 

1907年、日露協商(第1次)

英米の満州に対する経済的進出に対抗するために日露が接近。日本の南満州、ロシアの北満州における利益を相互に承認。日本の韓国に対する、ロシアの外蒙古に対する政治的関係に特殊権益を認めた。10年、12年、16年に改訂。

 

 

日韓併合

 

1905年、桂・タフト協定

米のフィリピン支配、日本の韓国に対する植民地支配を承認。戦後の日本の国際的地位の確立が構想。

 

1905年、第二次日韓協約(韓国保護条約)

韓国の外交権を奪い保護国に。統監府の設置。初代統監、伊藤博文(1909年暗殺)

 

1907年、第三次日韓協約。

ハーグ密使事件を機に、同協約で韓国の内政権を統監の指導監督下に置く。義兵運動を軍隊増派で鎮圧。

 

1909年、伊藤博文、暗殺。

1910年、日韓併合条約。

朝鮮総督府(初代総督:寺内正毅)、朝鮮人に対し日本語の使用や創氏改名を強制。

 

 

1911年、関税自主権の回復(小村寿太郎)交渉相手国:米国

1858年の安政の通商条約により押し付けられた不平等条約は明治時代いっぱいを使って解消された。

 

小村寿太郎外相が1911年に日米通商航海条約改正に調印して、日本の関税自主権の完全回復が達成された。

 

日露戦争後、藩閥勢力が天皇を擁して政権独占を企てているという非難の声が高まり、尾崎行雄(立憲政友会)、犬養毅(立憲国民党)らが、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第一次護憲運動が起こった(「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに、桂内閣打倒の国民的運動を起こしたのが第一次護憲運動である)。

 

 

日清戦争(1894―95) 第一次産業革命

日露戦争 (1904-05) 第二次産業革命(20世紀幕開けの頃から進展)

 

明治時代には、日清・日露戦争を経て、それぞれ第一次産業革命と第二次産業革命を達成され、金本位制の確立と条約改正が、日本の貿易を促進させた。大正時代には、ヨーロッパ市場に大量の日本商品が進出して輸出超過となり、経済は活況を呈した。

 

産業革命の進展 → 資本主義社会の定着:階層、貧富の差

都市:資本家と労働者、農村:大地主と小作人。小作人は何も持たない

 

社会運動、労働組合 ⇔ 治安警察法(1900)

社会民主党1901(日本で最初の社会主義政党)、日本社会党1905

 

大逆事件: 社会主義者弾圧(明治天皇を暗殺計画)、幸徳秋水、処刑。

 

安部磯雄、片山潜らは、軍備の縮小・貴族院の廃止、普通選挙の実施などを唱えて、1901年に社会民主党を結成したが、治安警察法によって解散を命じられた。