鎌倉時代

鎌倉時代 (1192~1333)

 

1181年 侍所を設置

1184年 問注所を設置

1185年 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。

1185年 守護、地頭の設置権を得る。

1189年 奥州藤原氏、滅亡。陸奥・出羽両国、幕府の支配下に入り、鎌倉幕府の知行国に。

1192年 源頼朝、鎌倉幕府設立

1203年 北条時政、執権に就任

1219年 3代将軍源実朝が暗殺、源氏直系の将軍が断絶

1221年 承久の乱

1232年 御成敗式目を制定

1274年 元寇 (1274文永の役、1281弘安の役)

 

 

壇の浦で平氏を滅ぼした源頼朝は、後鳥羽天皇の信任を得て征夷大将軍に任じられ鎌倉に幕府を開いた。

 

源頼朝は、平氏打倒に功のあった源義経の追討を図り、それを名目に守護・地頭を設置するとともに、和田義盛を侍所の長官にして武士を統括した。

 

 

(1) 幕府の機構と特徴

 

1192年 源頼朝、鎌倉幕府設立

征夷大将軍に任命(後白河上皇の死後、後鳥羽天皇より)。頼朝以後武家政権の首長の職名。名実ともに武士の統轄者、武家政治の創始者となる。

 

 

[中央]    将軍―(執権)    侍所(後家人の統制)

公文所 (政務や財政、後に政所)、

問注所(裁判)

 

[地方]    守護: 軍事、治安、警察

地頭: 荘園の管理

 

京都守護(1185)・・京都の治安維持と朝幕間の連絡・交渉が主要任務。

承久の乱後、六波羅探題へ移行。

 

将軍と御家人: 御恩と御奉公の関係

 

幕府: 全国の御家人を国衙領や荘園の守護や地頭に任命し、その支配を確認・保障する本領安堵を行ったが、この御恩に対して、御家人は軍役の義務を負った。

 

武家社会:一族の者は惣領(本家の嫡子)のもとに団結。惣領が一門を統率。所領安堵も惣領を中心に行われる。

 

当初は朝廷と幕府の二重支配。朝廷の中心は京都。律令制度は生きている。

国司の任命権は朝廷が握る。

 

12世紀には、源頼朝が鎌倉を根拠地として定め、東国の支配を進めた。頼朝は鎌倉に侍所、公文所(政所)、問注所などを設置し、さらには朝廷から地方に守護と地頭を置く権限も認められ、武家政権としての鎌倉幕府を確立させたが、その当時、依然として京都には公家政権が存在し、律令体制による伝統的な行政権を保持していた。

 

侍所:御家人を統率する、1181年設置

問注所:訴訟担当、1184年設置

 

将軍と御家人は、土地の給与を通じた御恩と奉公の関係でつながった。

 

幕府は全国の御家人を国衙領や荘園の守護や地頭に任命し、その支配を確認・保障する本領安堵を行ったが、この御恩に対して、御家人は軍役の義務を負った。

本領安堵:将軍が御家人に対し先祖伝来の土地を保持することを保障する制度。

 

鎌倉幕府においては、御家人は戦時に軍役を負担し、平時においては皇居を警備する京都大番役や将軍御所を警備する鎌倉番役を負担した。

 

 

(2)執権政治

 

鎌倉幕府は、北条時政が執権になってから(1203年)、執権政治が始まり、源家将軍が絶えた後(1219年)、北条氏が執権として実権を握った(本格的な執権政治)。その後、執権を補佐する連署(1224年北条泰時が置いた)が置かれ、また、北条時宗以降、得宗(義時から始まる北条氏の嫡流当主)が幕府の実権を握るようになり、北条氏の独裁体制が強化された。

 

源頼朝(1)

初代執権(1203)、北条時政(北条政子の父)   頼家

実朝

 

梶原景時、比企能員、畠山重忠その他

 

 

源頼朝の没後、子の頼家が将軍となったが、1203年、北条時政は、頼家を修禅寺に幽閉して頼家の弟の実朝を将軍にたて、みずからは政所別当に就任した。ついで、時政の子の義時は、政所別当のほか侍所別当の職も獲得して幕政の実権を握った。こうして北条氏は政治的地位を執権として確立し、以後、北条氏の間で世襲された。

 

源頼朝の死後、執権北条時政はが鎌倉幕府の実権を握り、… 幕府と朝廷との対立が深まり、承久の乱が起こった。その結果、幕府側が圧倒的な勝利をおさめ、それまで幕府の力が弱かった畿内や西国にもその支配権が浸透することになった。

 

 

本格的な執権政治

1219年3代将軍源実朝が死に源氏直系の将軍が断絶した後。

 

2代執権、義時・・執権の地位を確立(政子の兄)→ 承久の乱

 

3代執権、泰時、御成敗式目、連署を設置。

5代執権、時頼、得宗制開始(北条独裁へ)

 

8代執権、時宗 → 元寇

 

14代執権  高時・・鎌倉幕府事実上最後の執権

 

 

1221年、承久の乱

源家将軍、朝廷との協調を重視。幕府と朝廷の二重支配。

実朝暗殺後、北条氏が幕府の実権を掌握、勢力拡大、朝廷対立。

 

後鳥羽上皇の幕府打倒の兵乱。「義時追討の令」

 

幕府                              朝廷

北条義時                                  後鳥羽上皇

幕府軍(19万)           朝廷方(1万)

 

 

3人の上皇を流罪。仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃位。

六波羅探題を設置。朝廷の監視や西国御家人の指揮に当たった。

 

上皇方についた貴族や武士の所領を没収し新たに地頭を置く。

 

 

1221年に、後鳥羽上皇が中心となり、鎌倉幕府を討幕するため兵を挙げたが、執権北条義時が送った幕府軍に大敗した。

 

承久の乱とは、鎌倉幕府3大将軍、源実朝の死をきっかけに、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のために起こした兵乱であり、北条義時は、北条泰時・北条時房を将として、京都を攻撃し、上皇方を破り、この後、幕府の朝廷に対する優位が確立した。

 

後鳥羽上皇は、従来からの北面の武士に加えて、新たに設置した西面の武士を置き、軍事力を強化するとともに、幕府と対立する動きを強め、北条義時追討の兵を挙兵した(承久の乱)が、源頼朝以来の恩顧に応えた東国の武士達は、結束して戦ったため、幕府の圧倒的な勝利に終わった。

 

承久の乱後、公家や武士の多数の所領を没収して、新たに新補地頭と呼ばれる地頭を任命した。

 

承久の乱後、幕府は朝廷を監視する機関として、京都に六波羅探題が置いた。

北条義時は、承久の乱後、京都に六波羅探題を設けて京都市中の警備や尾張以西の国々の御家人の統括に当たらせた。

 

地頭の荘園侵略(13C半ばから)

「地頭請け」・・荘園の年貢を完全に地頭が請け負うこと。荘園領主と予め年貢の額を決め、それ以上徴収できればその分は地頭のものとした。

「下地中分」・・荘園領主は荘園の土地(下地)を2分して一方を地頭に与え、残りの支配権を保持し、互いに干渉、侵略しないこととした。

 

執権政治の全盛時代 (合議制)

西国にも幕府の影響が強く及ぶ。 摂家将軍を招聘

 

北条泰時は、執権を補佐する連署を設け、有力な御家人や政務に優れた者を選んで評定衆とし、執権・連署・評定衆による合議制に基づく政治を行った。

 

北条泰時(3代)

1224年、連署(執権の補佐役)設置。

評定衆(裁判その他一般の政務を合議する職)を設置。11~15名

 

1232年、御成敗式目を制定。武家法として最初の体系的法典。

 

源頼朝以来の慣習法・先例をもとに作成。守護や地頭の権限を明確にし、裁判の公平を期すために制定。この式目は、道理と呼ばれた武家社会の慣習や道徳(質素倹約)、あるいは頼朝以来の幕府の先例を成文化したもので、武家のみに適用された。

 

北条泰時は、武家の最初の体系的法典である御成敗式目を制定し、源頼朝以来の先例や道理に基づいて、御家人間の紛争を公平に裁く基準を明らかにした?

御成敗式目(貞永式目)は、頼朝以来の先例や道理と呼ばれた武士社会の慣習、道徳に基づく体系的法典であった。

 

御成敗式目(貞永式目)は、執権政治の確立過程において、先例や武士社会の慣習・道徳の基づいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主との紛争を公平に裁く基準を明らかにし、武家最初の体系的法典となった。

御成敗式目(貞永式目)は、最初の武家法であり、御家人のみに適用された。

 

幕府は、守護や地頭の権限を明確にし、裁判の公平を期すために、武家法として最初の体系的法典である御成敗式目を制定した。この式目は道理と呼ばれた武家社会の慣習や道徳、あるいは頼朝以来の幕府の先例を成文化したもので、当初は御家人のみを対象とするものであった。

 

 

北条時頼(5代執権)は、有力御家人の三浦泰村一族を滅ぼし、北条氏の地位を一層確実なものとする一方、評定衆のもとに引付衆を設置し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立に努めた。

 

北条時頼は、評定衆のもとに新たに引付衆を設置し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、頻発する荘園領主と地頭との紛争に対し、迅速で公正な裁判制度を確立した。

 

引付衆(時頼、1249)裁判の円滑公平を目的に設置。

 

 

 

(3) 元寇 (1274文永の役、1281弘安の役)

 

執権北条時宗の時。  鎌倉幕府は元の属国となることを拒み、2度の元寇を体験した。

 

13世紀後半、元のフビライは、日本に対して2度にわたって軍事行動を起こした。鎌倉幕府は、執権北条時宗の指導の下、元軍を撃退した。

 

北条時宗は、文永の役(1274年)の後、元軍の再度の来襲に備えて、博多湾沿岸に石塁を築かせる(1276年)とともに、九州北部の要地を御家人などに整備させる異国警護番役を整備した。

 

幕府は、2度目の元の襲来に備えて異国警護番役を設置し、博多湾沿岸に石築地を築いて、防備に就かせた。弘安の役の際には、防塁の構築の効果もあり、上陸を阻止できた。(最初の文永の役では博多湾から上陸を許した。)1281年弘安の役

 

1274年の文永の役の頃に九州の御家人に課した沿岸警備の軍役である異国警護番役を設置した。

 

元寇後

幕府、貧のドン底に → 幕府の財政負担大

 

 

幕府は、元寇に際して十分な恩賞を与えられなかったことから、御家人たちの信頼を失った。そこで、永仁の徳政令を発布することで、この戦争で窮乏する御家人の救済しようとしたが、かえって社会の混乱に拍車をかけた。

 

鎌倉時代に将軍と御家人は御恩と奉公の主従関係にあったが、元寇後、十分な恩賞が与えられず、御家人の不満が増大していった。

 

永仁の徳政令が発せられ、後家人の所領の売買・質入れを禁じ、すでに売却された土地も無償でもとの持ち主に返させることにした。

 

元寇後、窮乏する御家人が増え、また、貨幣経済の浸透によって、所領をもたない武士の中には、所領を手放す御家人も急増した。このため幕府は、1297年に永仁の徳政令発布して救済を図ったが失敗に終わった。

 

御家人の不満

恩賞なし(出せない)

永仁の徳政令(1297) ・・・ 商工民と武士との対立

貨幣経済が浸透した結果、所領を手放す御家人が急増した。御家人の借財救済を目的とする徳政令はかえって御家人への金融の道を閉ざす結果となり、御家人の窮乏化は止まらず。

 

 

1293年、9代執権、北条貞時が、博多に九州の防衛機関として鎮西探題を設置した。

 

鎮西探題(1293)、元軍の再来襲に備えた九州の統治機関(博多)

 

 

得宗の専制政治

 

北条得宗家(北条氏の嫡流で家督を継ぐもの)の権力が強化、幕府の実権を掌握。

御内人(得宗家の家来)が重要な地位を占める。

従来の御家人の合議を基礎とする執権政治

御内人は本来の御家人と対立激化。造反する御家人が増加。中小御家人は没落。

 

 

執権として実権を握った北条氏は、やがて、得宗と呼ばれる北条氏の嫡流の家督(一族の長)や得宗に仕える家臣である御内人が勢力を強め、元寇後、御内人と御家人との対立が激しくなった。

 

北条貞時は、有力御家人である安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、北条一門とその家臣である御内人が幕府政治を主導する得宗専制を確立した。

 

霜月騒動は1285年に内管領(御内人)の平頼綱が有力御家人(貞時の外戚)の安達泰盛一族を滅亡させた事件であり、この後、貞時は平頼綱を滅ぼし、貞時が主導する得宗専制政治を確立した。

 

 

(4)鎌倉幕府の滅亡

 

有力武士の成長

得宗政治の下での造反する御家人。庶子の家が惣領から自立。

 

守護などの有力武士の保護を求める。(地縁的結合)庶子を守護が統率。中小武士団を結集。自家の勢力を拡大(足利家、島津家、大内家)幕府を軽んじる。(室町時代の守護領国制へ)

(幕府の対抗手段。得宗の専制強化)

 

商工民の出現。

鎌倉時代前期

惣領制で安定:古代以来の農業共同体。武士が荘園に拠って独立した勢力を形成。上に荘園領主を立てることで平和共存。武士:先祖以来の領地に土着し館を構える。直営地を設ける。荘園から年貢を徴収して領主におさめ、自分は加徴米などの一定の取り分を得る。一族の子弟に所領を分け与える分割相続がとられていた。

 

商工業の発展

鎌倉時代=目覚しい農業の発達(二毛作、商品作物) → 商工民の出現

農民の副業に、荏胡麻(えごま)の栽培や、絹布、麻布づくりが盛ん。これを商うための貨幣経済の進展。

(日宋貿易は、鎌倉時代になっても続き、大量の宋銭が輸入され、市場に流通した。)

 

鎌倉時代には、荘園領主や大寺社が存在する京や、武士が集まる鎌倉に諸物資が集中した。そのため、道路網の整備が進み、また、当時から造船技術が発達しており、海上交通や河川交通も活発に用いられていた。各港には、運送業者としての問丸、遠隔地交易を支える手段としての為替の利用も顕著。

 

天皇家、貴族、寺社のもとに座を結成し、幕府支配の外で活動。

(座:商工業者の同業組合、公家、寺社の保護を受け、関銭免除・販売独占権を持つ。)

地頭が治める土地(荘園) ⇔ 地頭と対立する武士や有力な商工民

 

(悪党:畿内周辺で見られた荘園領主に反抗する地頭や新興の武士、その他、秩序を乱す者。すべての呼称。)

鎌倉時代後期の幕府支配の後退によって、国内は悪党の活躍が目立つ無秩序に近い情況に向かう。悪党の中には、商工民の座を通じて朝廷と強い信頼関係をもつ者もいた。(楠木正成)

 

 

鎌倉文化

公家が文化の担い手となって伝統文化を引き続き栄えさえた一方で、新しい傾向の文化が生まれた。その背景には、日宋間を往来した僧侶や商人に加え、大陸の政情の変化によるわが国への亡命者によって、海外の新しい要素が導入されたことが挙げられる。

 

「東大寺南大門金剛力士像」や、興福寺北円堂の「無著像」などが制作され、多くの仏師が活躍した。前者は運慶・快慶の作で、後者は運慶の肖像彫刻である。