日本の文芸

日本の文芸

 

和歌・俳諧(総論)

上代の歌集では、「万葉集」に代表されるように、素朴で雄大な歌風である「ますらをぶり」が特徴である。対照的に、中古では「古今和歌集」に代表されるような、優しく可憐な歌風である「たをやめぶり」が特徴とされている。

 

近世では、松尾芭蕉やその弟子による芭蕉俳諧において、「不易流行」、「軽身」な数々の美的理念が生まれた。

閑寂で枯淡な味わいのある趣きである「粋」は、松尾芭蕉の紀行文「野ざらし紀行」で表現されている。

「奥の細道」:月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。~

 

 

伝統芸能(総論)

狂言は、中世的庶民喜劇である。能とは深い関係を持つところから能狂言とよばれており、能が主に幽玄美を第一とする歌舞劇であるのに対し、狂言は日常的な出来事を笑いで表現するせりふ劇という対照を見せている。

 

雅楽は、中国古代の祭祀音楽を起源とし、平安時代に全盛期を迎えた歌や舞を伴う器楽合奏曲であり、現在では、宮内庁楽部?にかなりの曲目が伝承されている。

 

能は、室町時代の武家の保護を受けて発展したものであり、同時代の観阿弥、世阿弥の親子によって完成されたものである。「風姿花伝」によって能に関する理論が大成された。舞台では、原則として、登場人物は「面」を付けるため、仮面劇である。

 

文楽は、江戸時代、竹本義太夫によって創立された竹本座の公演に始まるとされ、浄瑠璃、琵琶、人形の三業が一体となって展開する人形芝居であり、文楽の人形は、1個の人形を1人で動かす点に特徴がある。

 

浄瑠璃は、琉球の三線を改良した三味線を伴奏楽器にして人形操りをとり入れ、人形浄瑠璃へと発展した。浄瑠璃が登場するのは室町時代後半の東山文化以降である。

 

歌舞伎は、出雲の阿国が江戸で歌舞を興行したのが始まりとされ、その後、江戸では、市川団十郎が荒事を、上方では、坂田藤十郎が世話物(男女間の愛情に関する歌舞伎)を考案し、その劇的内容を深めつつ今日に至っている。

 

音羽屋は尾上家、播磨屋は中村家の屋号である。

 

 

 

<飛鳥時代>

 

飛鳥文化

仏教を中心とする文化が隆盛となり、その国際性は、ペルシャ、中国、朝鮮半島と深いつながりを持つものであった。とりわけ、百済、高句麗などを通じて伝えられた中国の南北朝時代の影響が大きかった。

 

 

<奈良時代>

 

山上憶良は、奈良時代の歌人で遣唐使として唐に渡り、帰朝後は伯○守や筑前守などを歴任した。長歌に優れたものが多く、「貧窮問答歌」はその代表的なものである。病苦や貧困など人生の問題や社会の問題を取り上げて、情熱的に歌い上げる点に特色がある。人生派・社会派として知られ、子への情愛を詠んだ作も多い。

「銀も 金も玉も 何せむに 勝される宝 子にしかめやも」

 

 

天平文化

国分寺、国分尼寺が各地に建立され、大和の国分寺は東大寺として発展した。東大寺の正倉院宝物は、当時の技術の最高水準を示し、その技法や意匠は、東ローマ、イスラム、インドなどの流れをくむものであった。

 

 

<平安時代>

 

弘仁・貞観文化は、唐の文化の影響による洗練された貴族の文化である。勅撰の漢詩文集(勅撰漢詩集)として「凌雲集」、「文華秀麗集」「経国集」などが著名である。

嵯峨天皇、小野篁(たかむら)、菅原道真らが活躍した。

 

 

(中国の文芸)

漢詩は、唐の時代に最盛期を迎え、科挙試験でも必須科目とされた。「国破れて山河あり」という詩句で有名な「春望」は、「詩聖」と称された杜甫の作品であり、安禄山の乱が原因で幽閉されていた時に作られた。杜甫と並ぶ二大詩人として、「詩仙」と称された李白がいる。また、自らを「詩魔」と称した白居易は感傷詩に優れ、「長恨歌」を作った。

日本でも奈良時代から平安時代にかけて漢詩が流行し、「凌雲集」などの勅撰漢詩集も作られた。漢詩は男性の間で人気を博し、11世紀中頃に、(中国の)「文選」の体裁にならって藤原明衡が、(嵯峨天皇から後一条天皇までの約200年間の漢詩を集めた)「本朝文枠」を編纂した。

 

 

 

国風文化

 

894年に菅原道真の建議によって遣唐使が廃止されて以降の国風文化では、「古今和歌集」が紀貫之によって編集され、この時期にうまれた仮名文字によって、紫式部の「源氏物語」や竹取物語(作者不詳)などの作品が書かれた。

 

かな文字の発達に見られるように、文化の国風化が進んだ。かなの物語、日記が盛んになる一方で、日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な色彩とを持つ大和絵が描かれた。

 

中古の日記・随想文学では、明るい知的感覚に基づいた情趣である「をかし」(趣があるの意)が表現されるようになった。この「をかし」という言葉は、清少納言の「枕草子」で多用された。

 

中古の物語文学では、紫式部の「源氏物語」に代表される。対象への共感や賞賛に基づいた深い感動を根ざす情趣が描かれている。これを近世の国文学者である本居宣長は「もののあはれ」と表現した。

 

 

「土佐日記」は、国司として土佐の国にいた紀貫之が、任期を終えて上京するまでの日々を記したもので、平安時代に書かれた日記の形による紀行文である。

「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。~

 

 

「和泉式部日記」は、和泉式部が、帥宮(そちのみや)敦(あつ)道(みち)親王(しんのう)との恋愛を贈答歌を中心に綴った日記である。

中宮彰子のところには、伊勢大輔や紫式部などの才女たちも仕えていた。歌人として天性の資質を持っていたことは、「紫式部日記」にも記されている。

 

和泉式部は、橘道貞と結婚し、その後、弾正宮為尊親王・帥宮敦道親王の寵愛を受けた。両親王の没後、中宮彰子に仕え、藤原保昌と再婚した。

 

 

「蜻蛉(かげろう)日記(にっき)」は、藤原道綱の母が、平安時代の中頃に、20年余りの藤原兼家との不幸な結婚生活や子供の道綱にそそぐ愛情を述べた日記である。

 

「更級日記」、菅原孝標女

父の任地であった上総で育った作者が、姉や継母からところどころを聞かせてもらった「源氏物語」の面白さに心を動かされた思い出を記述している。

「あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたにおひでたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語というもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、・・・・」

 

「更級日記」は、菅原孝標の女(むすめ)が、自分の少女時代から宮仕え、結婚生活、夫の死、晩年までを回想的に記している。

 

「紫式部日記」 藤原道長の邸宅(土御門殿)の有様から筆を起こし、中宮彰子の出産の様子を記述している。

「秋のけはひの立つままに、土御門殿の有様、いはむかたくをかし。…」

 

 

<鎌倉時代>

 

 

 

公家が文化の担い手となって伝統文化を引き続き栄えさえた一方で、新しい傾向の文化が生まれた。その背景には、日宋間を往来した僧侶や商人に加え、大陸の政情の変化によるわが国への亡命者によって、海外の新しい要素が導入されたことが挙げられる。

 

公家文化の代表である新古今和歌集(1205年)

 

徒然草:南北朝時代の卜部兼好の随筆

平家物語:鎌倉時代の軍記物

御伽草子:東山文化での庶民を対象とした物語文学

平治物語絵巻:鎌倉時代の作品

蒙古襲来絵詞(えことば):鎌倉時代の作品

 

 

鎌倉時代に仏教の新宗派が相次いで誕生し、法然は「南無阿弥陀仏」、日連は「南無妙法蓮華経」と念仏や題目を唱えることで、死後の極楽往生を説いた。

 

「平家物語」は、平家一門の興亡を諸行無常・盛者必衰という仏教思想をもって描いた物語である。

 

「宇治拾遺物語」は、世俗説話集で、「今昔物語」の影響をうけ、公家・武家・庶民など種々の人々の説話を並べている。

 

「徒然草」は、吉田兼好が仏教・儒教などの思想を背景とした処世訓や人生観を述べた随筆である。

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを~

 

「方丈記」は、鴨長明が仏教思想としての無常観に基づいて書いた随筆である。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にはあらず。~

 

<南北朝>

南北朝時代には、「太平記」や北畠親房の「神皇(じんのう)正統記(しょうとうき)」などの作品が書かれた。

 

 

<室町時代>

 

足利義満は京都北山に別荘を造り、その一部に寝殿造りと禅宗寺院の唐様式を折衷した金閣を建てた。

15世紀後半の禅宗の影響を受けた東山文化では、「新撰莬玖波集(しんせんつくばしゅう)」が宗祇によって編集され、水墨画で「四季山水図巻」が雪舟によって描かれた。また、禅宗寺院や将軍・大名・武士の住宅に書院造が採用されるようになった。平安時代の貴族の館に用いられた様式は、寝殿作り。

 

大陸文化と伝統文化、貴族文化と庶民文化など広い交流に基づいた文化の融合が進み、その成熟の中から、次第に民衆的文化ともいうべきものが形成されていった。連歌、御伽草子といった庶民文芸は、この時代を特徴づける文化である。

 

14世紀後半、室町幕府の三代将軍の足利義満が北山文化を開花させた。

田楽と猿楽などをもととした能が大成し、なかでも観世座の観阿弥・世阿弥父子は、朝廷の保護を受け、芸術性の高い猿楽能を完成させた。

 

中世では、和歌や能楽をはじめとする様々な分野で奥深く深遠で、複合的な品位のある余情美である「幽玄」が表現されるようになった。例えば、世阿弥の「風姿花伝」は、能楽論を通じて「幽玄」の理念が表現された代表的な作品である。

 

 

<安土桃山時代>

桃山文化は、新興の大名や豪商の気風を反映した豪壮で華麗な文化で、城郭には天守閣や、書院造の居館などが建てられた。また、民衆の間では、出雲の阿国の歌舞伎踊りが人気を呼び、後の歌舞伎の始まりとなった。

 

 

<江戸時代>

元禄文化は、京都や大坂など上方の町人を担い手として開花した文化で、人形浄瑠璃では、竹本義太夫が、竹田出雲の作品を語って人気を博し、歌舞伎では、坂田藤十郎らの名優があらわれ、民衆演劇が発展した。

 

化政文化は、江戸を中心として開花した町人文化で、人形浄瑠璃や歌舞伎では、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」などの作品が生まれた。

 

江戸時代後期には町人文化が成熟し、絵画では浮世絵が最盛期を迎えて、喜多川歌麿や東洲斎写楽が「大首(おおくび)絵(え)」の手法で、美人画や役者絵を描いた。また、風景画では、葛飾北斎が「富嶽三十六景」を、歌川広重が「東海道五十三次」を描いた。

 

浮世絵は、17世紀に、江戸の町絵師、菱川師宣が木版による大量印刷の技法を確立し、18世紀中頃に、鈴木春信が多色刷りの技法である錦絵を始めて以降、急速に広まり、ヨーロッパの印象派、後期印象派の画家たちにも影響を与えた。

寛政期には、美人画の喜多川歌麿や、役者絵・相撲絵の東洲斎写楽は、女性や歌舞伎役者、相撲力士などの上半身を大きく描く大首(おおくび)絵(え)の様式を開拓して人気を集めた。大首絵はその大胆なデフォルメによって役柄はもちろんその性格までも表現しており、単純化と協調が効果的に用いられているとされている。マネの作品「ゾラの肖像」は、その背景に相撲力士の浮世絵があることでも知られており、モネの作品「ラ・ジャポネーズ」からは、着物を羽織った婦人の立ち姿の構図が、美人画から引用されたことがうかがえる。

天保期には、風景版画に優れた作品が残された。葛飾北斎の作品「富獄三十六景」のうち、赤富士として知られる「凱風快晴」や、大波の向こうに小さく見える富士が印象的な「神奈川沖浪裏」などは、現代でも日本の美しい風景としてよく取り上げられる。歌川広重の作品には「東海道五十三次」、「名所江戸百景」などがある。ゴッホは、「名所江戸百景」のいくつかを模写しているだけではなく、パリの画材屋の主人を描いた作品「タンギー爺さん」で、歌川広重などの作品数点を背景一画に描くなど、浮世絵に触発されて独自の絵画様式を形成していったと考えられる。

 

元禄文化の美術作品

尾形光琳 燕子花図(かきつばたず)、紅(こう)白梅図(はくばいず)屏風(びょうぶ)

菱川師宣  見返り美人図

野々村仁斎  色絵(いろえ)藤(ふじ)花(はな)文(もん)茶壷(ちゃつぼ)

 

 

(近世の)俳人

 

松尾芭蕉は、貞門・談林風の作風から出発し、「虚(むなし)栗(ぐり)調」と呼ばれる漢詩文調の作風を経て、独自の作風を確立した。俳諧理念として知られる「不易流行」は、時代とともに変化する流動性を備えながらも、そこには永遠に変わらない詩の生命がなくてはならないという意味である。晩年は「かるみ」という枯淡の境地に達している。

芭蕉の俳風は蕉風と称され、根本思想の一つが「さび」である。

 

秋深き隣は何をする人ぞ

初しぐれ猿も小蓑をほしげなり

 

与謝蕪村の俳諧の特質は、洗練された美意識と教養に裏打ちされた浪漫的・幻想的・抒情的な俳風であり、中世的幽玄の世界とは対照的な明るく唯美的な世界を構築した。また、彼は日本の文人画を大成させた画家でもあり、以後の文人画家に与えた影響は大きい。南画の開拓者として知られるようになった。

談林派の巴人(はじん)の弟子であった。

 

 

菜の花や月は東に日は西に

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分(のわき)かな

 

小林一茶の作風は、地方語や俗語を駆使した平明素朴にして力強いもので、強者に対する反抗と弱者への暖かいまなざしを基調に、農民独特の野人的泥臭さを発散させた個性的なものであった。

 

是がまあついの栖(すみ)か雪五尺

目出度さもちう位也おらが春

 

 

近世小説

 

浮世草子は、井原西鶴の「好色一代男」刊行以後、約100年近く上方を中心に出版された小説類である。西鶴の浮世草子には好色物の他に、「日本永代蔵」などの町人を中心とした当時の経済生活をリアルに描いた町人物や「西鶴諸国はなし」などの雑話物がある。

仮名草子は、中世の御伽草子の流れを受けたもので、教養の低かった民衆を啓蒙することなどを目的として書かれていた。

 

西鶴没後は、彼の雑話物に代表されるような伝奇性を備えた小説の系統に属する読本が成立した。これは成立の時代によって前期と後期に分けられるが、前期の代表作として、上田秋成の「雨月物語」があり、後期の代表作に滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」がある。

読本は絵を中心とする草双紙に対して文章を読むことに主眼を置いていた。前期は上方を中心に、後期は江戸を中心に人気を博した。

 

一方、浮世草子の写実的な面を引き継いだのが、洒落本である。これは中国の花街小説の影響の下に成立したもので、第一人者山東京伝がいるが、寛政の改革で描写が風俗を乱すとして処罰されることになり、以後急速に衰えることになった。末期には、遊里における男女の真情を描くことが流行し、人情本が成立するきっかとなった。人情本の代表的な作品に為永春水の「春色梅児誉美」がある。これも天保の改革で弾圧を受け中絶することになった。その後、再興したもののふるわなかったが、明治時代に恋愛小説に与えた影響は大きいものであった。

洒落本は、西鶴の好色物で開花した遊里を舞台とする恋愛小説の流れを汲むもので、遊びに通じた「通」、心のこざっぱりとした「意気(粋)」、察しのよい「粋(すい)」という感覚を巧みに取り込んだ作品が多く書かれた。

 

 

 

 

<明治時代~>

 

近代文学

初期写実主義は明治18年、坪内逍遥の小説神髄に始まる。わが国最初のまとまった文学評論で、文学の本質が人間の性格や心理の描写であることを力説し、日本の近代文学の基礎を確立したものである。その主張は、二葉亭四迷によって浮雲、めぐりあいなどの作品に具現された。近代文学の黎明期におけるこの2人の業績は高く評価されなければならない。

 

わが国の近代文学は、実証科学の精神に基づいて、人間および社会の真実を善悪美醜にかかわりなく忠実に観察、分析した写実主義に始まった。坪内逍遥の「小説神髄」や二葉亭四迷の「浮雲」などがある。

 

坪内逍遥は「小説神髄」を発表し、人情や世の中をありのままに描くべきだとする写実主義を唱えた。それまでの勧善懲悪主義を否定し、写実主義の文学を提唱した。

 

明治10年代の政治小説や欧化主義に対抗して、尾崎紅葉や山田美妙らが中心となって硯友社を結成した。彼らの作品は、過去の追憶や豊艶な幻想の世界を描いたもので擬古典主義と呼ばれ、主な作品は、尾崎紅葉の「金色夜叉」、幸田露伴の「五重塔」などがある。

 

明治30年代前後?から人間の感情を素直に表現しようとした浪漫主義が文壇の主流を占めるようになった。森鴎外の「舞姫」などはその先駆であり、北村透谷らがよった雑誌「文学界」はやがて、その牙城となった。

 

「文学界」を創刊した北村透谷や島崎藤村らは、人間性の解放を求めるロマン主義の文学を展開した。「文学界」には、北村透谷の文芸評論、島崎藤村の抒情詩、樋口一葉の小説などが載せられていた。

 

日露戦争前後になると、現実の社会や人間を近代的な理知によって、新しい角度から再構成し、人間の真実を突き止めようとする自然主義が主流となった。主な作品には、田山花袋の「蒲団」、島崎藤村の「破戒」などがある。

 

明治末期に文壇の主流を占めた自然主義文学に対立する非自然主義の流れがあり、傍観的態度をもって人生を眺める余裕派と呼ばれる文学があった。主な作品には、夏目漱石の「吾輩は猫である」などがある。

 

夏目漱石は、初期では、ユーモアあふれる「吾輩は猫である」や反俗精神にみちた「ぼっちゃん」など明るい作風であった。それが、後期では、「彼岸過迄」や「こころ」といった人間のエゴイズムを追求した暗く重い作風に変化していった。後期3部作:「彼岸過迄」、「こころ」、「行人」

 

森鴎外は、初期には、「舞姫」といった異国情緒あふれる浪漫的な作品を発表したが、後期には、「山椒大夫」や「高瀬舟」などの歴史を題材にした小説を多く発表した。

 

 

 

永井荷風や谷崎潤一郎らは、官能美・感覚美に満ちた作品を発表した。

 

永井荷風

フランスとアメリカに留学し、帰国後、「あめりか物語」「ふらんす物語」を書いた。留学によって西洋文化の本質にふれた永井荷風は、明治の日本に幻滅を感じ、江戸情緒への懐古趣味にひかれて、「隅田川」などの作品を書いた。「三田文学」は永井荷風が創刊した雑誌で、耽美派の拠点となった。「断腸亭日乗」は永井荷風が書いた日記を出版したもの。

 

谷崎潤一郎

明治後期の日本において主流であった自然主義に対抗し、豊かな想像力によって女性の官能美を描き出すなど、耽美的な傾向をもつ作品を発表し、悪魔主義ともいわれた。関東大震災の後、関西に移り住んで、日本の伝統文化に接するなかで日本的古典美に傾倒するようになり、「春琴抄」など古典的情緒のある作品を残した。

 

谷崎潤一郎は、初期は「痴人の愛」にみられる、女性の美しさと官能性を描いた耽美的で華麗な作風であった。後期には、日本の伝統や文化を取り込んだ作風が加わり、「細雪」といった作品を発表した。

 

 

芥川龍之介や菊池寛らの「新思潮派」の作家は、理知的な眼で現実をとらえる新現実主義の文学を展開した。谷崎らとは別の文学的傾向を示した。

 

芥川龍之介は、すぐれた心理描写や理知的な視点で構成された数多くの短編小説を発表した。その作品の種類は幅広く、「鼻」や「六の宮の姫君」といった王朝物語、「牡子春」や「蜘蛛の糸」といった童話のほか、切支丹物や江戸物などといわれる作品を発表した。

 

菊池寛

「恩讐の彼方に」:武士道を超越した人間性を描いた歴史小説

「父帰る」:家出した父親が落ちぶれて家族のもとへ戻ってくるといった内容。

 

 

 

理想主義的な人道主義的な立場から、自我を尊重して人間の尊厳を取り戻そうとする白樺派

武者小路実篤、志賀直哉を中心とした、…、自然主義に対抗し、「白樺」を明治43年に創刊した。

 

「白樺」を創刊した武者小路実篤や志賀直哉らは、人道主義的・理想主義的な作品を発表した。

 

武者小路実篤

自然主義文学に対し、理想主義、人道主義的主張をし、同人誌「白樺」を中心として活躍した白樺派の中心人物の一人であり、代表作に「お目出たき人」、「友情」がある。また、人道主義の実践として宮崎県に共同生活を行う「新しき村」を開いた。

 

志賀直哉は、リアリズムに徹した目で簡潔かつ正確に描いた作風で知られている。電車事故の体験を基づいて書いた「城の崎にて」、父との不和を題材として書かれた「和解」など実体験を描いた作品を数多く発表した。

 

 

小林多喜二

白樺派の志賀直哉に傾倒したが、次第に社会主義に進み、プロレタリア文学の作家としての地位を確立した。代表作には、オホーツク海で操業する蟹工船の中で過酷な労働を強いられる労働者たちが、階級的自覚をもち、団結して雇い主との闘争に立ちあがっていく過程を描いたものがある。

 

 

 

 

詩歌

 

与謝野晶子は与謝野鉄幹との恋愛感情をうたいあげた歌集「みだれ髪」にみられるような、情熱的な歌風で知られる。

 

正岡子規は、「歌よみに与ふる書」を著して万葉の素朴な歌風を提唱し、根岸短歌会を起こした。

 

斎藤茂吉は、山形県に生まれた歌人・医師。伊藤左千夫に師事し、雑誌「アララギ」の編集に携わった。代表的な歌集として、「赤光」、「あらたま」などがある。正岡子規の写生説を進めて生の根源の姿を写し取ることを主張した。

 

石川啄木は、岩手県に生まれた詩人・歌人。生活苦と病苦に悩み続けたその生活の感慨を歌集「一握の砂」、「悲しき玩具」などにまとめた。

 

石川啄木は、「一握りの砂」などの歌集で、日常生活を題材に自己を深く見つめ、独自の歌風を作り上げた。

 

若山牧水は、宮崎県に生まれた詩人。尾上柴舟の主宰しり車前草社の同人となった後、自ら創作社を興した。代表的な歌集に「海の声」、「独り歌へる」などがある。自然を読むことで人生の苦しみや愁いを慰める自然主義的傾向を持った。

 

若山牧水は、歌集「海の声」において、自然と交歓する旅人としての自己の孤独をうたいあげた。

 

釈迢(しゃくちょう)空(くう)は、大阪府に生まれた詩人・歌人。本名は、折口信夫で国文学者、民俗学者としても活躍した。歌集に「海やまのあひだ」などがある。句読点を打つユニークで近代詩に近い自由な歌風で、民間伝承に根ざした歌を詠んだ。

 

 

詩人

明治の中頃、従来の短詩形とは全く違った新しい詩形をもつ新体詩が生まれた。新体詩の成果を示すものとして、森鴎外を中心とする文芸結社である新声社(S.S.S)の同人が訳した「於母(おも)影(かげ)」が挙げられる。これは、ゲーテやハイネ、バイロンなどイギリス、ドイツのロマン派の作品を訳出したものである。

 

フランスのベルレーヌなどの象徴詩は、上田敏の「海潮音」によって紹介された。この訳詩集に収められた詩は、創作詩といってよいほど練り上げられたものであって、「海潮音」は、象徴詩流行のきっかけとなった。

 

「月下の一群」は、堀口大学の訳詩集で、ボードレールからコクトーまで、フランスの66人の近代詩人たちの作品340編を収め、量的に上田敏の「海潮音」や永井荷風の「珊瑚集」をしのぐ。

 

 

島崎藤村の「若菜集」は、浪漫主義の詩歌で、七五調の定型詩で純粋さや清新さを表現し、高い評価を得ている。

 

明治末期から大正初期にかけて、詩壇の中心となったのは、北原白秋である。彼は、異国趣味と耽美的な詩歌をもち、代表詩集として「邪宗門」がある。また、彼は、民謡や童謡にも新しい分野を開いたので有名である。わが国の象徴詩の先駆として評価。

 

口語自由詩の音楽性を達成した詩人として、荻原朔太郎が挙げられる。彼は、繊細な感覚と鋭敏な神経とによって近代人の微妙な心理をとらえ、近代詩のひとつの典型を示した。彼の代表詩集として「月に吠える」「氷島」がある。

荻原朔太郎は、口語自由詩の完成者とされた。ニーチェやショウペンハウアーの思想の影響もあり、彼の詩歌には独自の幻想性、叙情性がある。

 

 

大正末期から昭和にかけて、社会の大きな転換を背景に詩壇にも近代的な前衛詩が生まれた。超現実主義的なイメージを特徴とする立原道造?がその中心的な担い手であった。

 

 

 

文学雑誌

「明星」:与謝野鉄幹、晶子や北原白秋らの新詩社の短歌雑誌。浪漫主義的傾向を示す。

「スバル」:森鴎外らを中心とする「明星」派出身の同人たちによって創刊され、耽美的な芸術至上主義を掲げていた。

 

「アララギ」:大正時代、島木赤彦や斎藤茂吉などを中心として万葉調の和歌を中心にした雑誌。

「白樺」:武者小路実篤、志賀直哉などが中心となった理想主義の雑誌

「我楽多文庫」:尾崎紅葉、山田美妙らの硯友社の機関誌。

「文学界」:島崎藤村や北村透谷などを中心とする浪漫主義の文学雑誌。

「戦旗」:全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌。小林多喜二、徳永直(すなお)らを輩出。

 

 

<昭和時代~>

 

井伏鱒二

プロレタリア文学に同調することを好まず、個性的な芸術表現を重んじる、いわゆる「新興芸術派」の一員に連なった。渓流の岩屋から出られなくなった山椒魚の狼狽ぶりや悲哀をユーモアあふれる文体で語った「山椒魚」など、「生きていく」ことを様々な題材によって表現しようとし、戦後には、戦争への怒りと悲しみを込めた作品を発表した。

 

 

三島由紀夫は、青年時代から壮年時代にかけて、豊かな教養と鋭い感性によって「金閣寺」などの日本古来の古典文学を題材とした多数の作品を著した。

 

太宰治は、「斜陽」などを著した。晩年は作風が自嘲的で退廃的な傾向を帯びていったため、無頼派と呼ばれるようになった。

 

大江健三郎は、日本人として2人目のノーベル賞を受賞した。

戦後の閉塞的精神状況下の生を描く新世代の文学的旗手としての地位を確立し、安保反対運動、長男の障害児としての出生、広島での原爆の被爆調査などを機に、個人的苦悩と「核の時代」に対する苦悩とを統合してその救済を目指す新たな文学的展開に向かった。代表作に「飼育」(芥川賞作品)、「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」「洪水はわが魂に及び」などがある。