教育史

学問・教育

 

奈良時代中期以降、大学は、律令体制の担い手である官人養成のために中央に設置された一方、地方の教育機関としては、国学が国ごとに置かれ、郡司の子弟を教育した。

また、唐へ渡って密教を学んで帰国後に真言宗を開いた空海は、庶民の教育をめざして(仏教、儒教、道教を教授するため)、綜芸種智院を京都に設立した(828年)。

 

 

鎌倉時代、貴族の間では過ぎ去った良き時代への懐古から、古典の研究や朝廷の儀式や先例を研究する有識故実の学が重んじられるようになったが、

 

室町時代、一条兼良はそうした分野で多くの仕事を残した。

一条兼良は、有識故実の学問に力を入れた室町時代中期の学者で、太政大臣、関白を歴任した。

 

また、13世紀に上杉憲実が足利学校を開設したことに見られるように、武術を磨くことが最も大切なこととされていた武士の間にも学問を尊重する気風が生まれた。

足利学校は、下野国足利に開設されたお学校であるが、関東管領の上杉憲実が15世紀後半(1439年)にこれを再興したとされる。

 

 

室町時代の3代将軍足利義満の時代には五山・十刹(じっさつ)の制が整えられ、京都五山の禅僧による漢文学の研究や創作が盛んになった。また、室町末期、南村梅軒は土佐国で、儒学(朱子学)の一派である南学(海南学派)を興した。

五山文学は、室町時代の北山文化の時代(14世紀末~15世紀前半)に最盛期を迎えた。

 

 

江戸時代の教育機関のうち武士を対象にしたものには、幕府直轄の学問所のほか、藩校(藩学)、郷学、私塾などがあったが、藩校の中には、会津藩主保科正之が設置した日新館のように、藩士子弟の教育だけでなく、庶民の教育を目的としたものもあった。

 

岡山藩主の池田光政が設置した最古の藩校である花畠教場も有名。

 

 

明治維新後、政府はすべての国民が自分の身をたてられるよう教育することを目標に、フランスをはじめとする諸外国の学校教育制度をとりいれた学制を公布したが、画一的で地方の実情に合わない点もあり、その後、改革が繰り返し行われた。

 

1872年にフランスの学校制度をとり入れた学制が公布されたが、1879年にはアメリカの教育制度を参考にして、学制が改正された。

 

学校令が制定され、国家主義的色彩が強い教育方針が打ち出された。学制が実施された1872年当時は直ちに義務教育になっていない。