安土桃山時代

 

安土・桃山時代

 

織田信長(1534~1582)

 

1560年,桶狭間の戦いで、今川義元を破る。

1568年,信長入京

1570年,姉川の戦い,浅井・浅倉を破る。

571年,比叡山(延暦寺)焼き討ち。

1573年,将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼす。

1574年,伊勢長島の一向一揆平定。

1575年,長篠の戦い・・鉄砲隊。

1576年,安土城を築く。

1580年,石山合戦・・蓮如の石山本願寺・一向宗平定(11年に及ぶ戦い)。

1582年,天目山の戦い,武田家滅亡。

1582年,本能寺の変

 

 

応仁の乱後、約1世紀にわたる戦国大名の抗争の中から、尾張の織田信長が全国統一にいち早く着手できたのは、鉄砲隊の活用などにより先進地域である畿内を征服し、一向一揆と対決してその勢力を衰退させたことがあげられる。

 

戦国大名の一人である織田信長は、1560年、桶狭間の合戦で今川義元を破って頭角を現し、京都入りした後は、1573年、足利義昭を京都から追放し室町幕府を滅ぼした。

 

権力の回復をめざして信長と対立していた将軍足利義昭を京都から追放した。

織田信長は、自分が将軍に就けた足利義昭を将軍職から追放し、室町幕府は滅びた。

 

 

織田信長は、鉄砲隊の活用により、1575年に武田勝頼を長篠の合戦で破った。

石山本願寺との11年に及ぶ石山戦争や伊勢長島の一向一揆の平定などを通して、一向一揆の勢力を衰退させていった。

 

信長の政策

南蛮貿易の推進とキリスト教の保護(表裏一体)

鉄砲を望む。ルイス・フロイス,ヴァリニャーニらの宣教師を優遇、天正遣欧使節。

仏教弾圧

 

楽市楽座 ― 関所の廃止 → 自由経済(交易)の奨励。

都市の直轄: 堺(矢銭,軍資金2万貫を課す),京都

撰銭 (えりぜに) 禁止令

当時、多くの貨幣が流通していたが,商品取引きの際、悪銭を嫌い良銭を選ぶという貨幣選択(撰銭)が行われ、流通が阻害された。

 

織田信長は、経済を発達させるため、安土などで楽市・楽座の令を出して、商工業の独占的組織であった座を解体した。海外との交易地点?であった堺や大津、草津など重要都市を直轄地とした。

 

信長が1568年に関所を廃止したことで、関銭の徴収が廃止された。

 

差出検地 ・・ 各種の領主から土地台帳を出させて,領国内の土地収納高などを把握した土地調査。

 

信長は、ポルトガル人やイスパニア人との間で行われいた南蛮貿易を奨励し、富裕な商人を統制して彼らの経済力を利用した。彼らは、戦国大名の求める西洋や中国、南洋方面の物産を中継した。

 

 

 

豊臣秀吉(1537~1598)

 

1582年,山崎の戦い,明智光秀を討つ

1583年,賤ヶ岳の合戦,柴田勝家を討つ

1584年,小牧・長久手の戦い,徳川家康と和睦

1585年,四国平定

1586年,太政大臣に就任,豊臣の姓を受ける

1587年,九州平定(島津氏)

1590年,小田原平定(北条氏),奥州平定(伊達氏)

1598年,秀吉,死去

 

1615年,大坂夏の陣で豊臣家滅亡。

 

 

豊臣秀吉は、信長の事業を引き継き、天下統一を果たした。秀吉は、天皇から日本全国の支配権を委ねられたと称して惣無事令を出し(1585年)、争っていた大名たちに停戦を命じ、領国の確定の裁定を任せることを強制した。

 

豊臣秀吉は、惣無事令に反したとして小田原の北条氏を滅ぼした後、全国統一を成し遂げた。

 

 

体制・・秀吉の独裁

五奉行:浅野長政、前田弦以、石田三成、増田長盛、長束正家

 

五大老:豊臣秀吉が死後の重要政務を任せるために任命した5人の有力大名のことである。

徳川家康(筆頭),前田利家,宇喜田秀家,上杉景勝,毛利輝元

 

秀吉は、五奉行、五大老を置き政務を分割させた。

秀吉は、独裁制の強い政治を行ったが、晩年は、徳川家康などを五大老に、石田三成などを五奉行に定めた。

 

 

<秀吉の政策>

 

太閤検地―土地の面積、収穫高、等級、耕作人などを実測調査させ検地帳を作成。

一地一作人:一つの土地に何人もの権利が重なり合う状態を整理。ゼロから戸籍を作り直した。土地耕作人を納税責任者とした。⇒ 荘園制が名実共に消滅。

 

石高制 ― 米の収穫高に換算して土地の価値を決めていた。畑でなくても商業地、住宅地なども。今はお金で換算。

 

刀狩

農民から武器を取り上げる ⇒ 兵農分離。 武士と農民の身分が明確に分けられた。

 

豊臣秀吉は、織田信長の行った自主申告による指出検地から、全国を対象とする検地を実測によって行ったことから、一地一作人の原則が定まった。

 

秀吉は、検地を実施して一地一作人の原則を確立するとともに、身分統制令出して農民を耕作に専念させた。兵農分離を促進し、身分統制令出して、武士が百姓や町人になること、農民が転業することを禁止した。

 

秀吉が実施した検地によって、これまで土地を支配していた荘園領主や名主たちの権利が認められなくなり、封建領主が農民を直接支配するようになった。

 

秀吉は、土地の生産高を石高で示した。畿内や要地に一族や腹心の大名を配置した。

 

百姓一揆を防止するため刀狩令を発し、農民から刀や鉄砲などの武器を没収して、農民を農業に専念させることにした。

 

豊臣秀吉は、織田信長の商業政策を受け継ぎ、経済発展を促すために全国的に関所の禁止や楽市・楽座を推し進める一方、貨幣の全国統一をめざして天正大判・小判を鋳造した。

秀吉は、佐渡相川金山、石見大森銀山、但馬生野銀山の銀山を直轄にし、天正大判・小判を鋳造させた。

 

惣無事令:戦国大名に対する戦闘禁止令,全国の戦国大名を統制。

 

宗教政策と貿易政策

キリスト教保護 から 禁教へ。

サン=フェリペ号事件 ⇒ 26聖人殉教(長崎)

バテレン追放令(1587年)を出して宣教師を国外追放した。

 

貿易には積極的で朱印船貿易を奨励した。

 

豊臣秀吉は、南蛮貿易を奨励したが、後に、スペインの植民地政策を恐れて、キリスト教宣教師を国外追放するバテレン追放令を出したが、、海外貿易と渡航?は禁止しなかった。

 

豊臣秀吉は全国統一を進める過程で当初キリスト教を保護したものの、後に弾圧に転じ、キリスト教の布教を禁止すると同時に、宣教師の国外追放を命じた。

 

16世紀末、豊臣秀吉は、キリスト教の国内への広がりを抑えるためバテレン追放令を出したが、海外貿易は奨励した(朱印船貿易を開始)。

 

 

16世紀末から17世紀初頭に、東南アジアへ向けて朱印船貿易が行われた。

朱印船貿易― 朱印状を発行して貿易を行わせた。

 

1588年に海賊取締令を出して、倭寇を取り締まり、京都・堺の豪商に東南アジアへの貿易を奨励した。

 

豊臣秀吉は、海賊取締令を出し(1588年)、倭寇の取締を強化した。

 

 

朝鮮出兵:文禄の役(1592年),慶長の役(1597年),失敗

小西行長、加藤清正らが出兵。

 

文禄・慶長の2度にわたる朝鮮侵略には、側近の小西行長、加藤清正を派遣した。

 

秀吉は、明征伐の第一歩として、朝鮮半島に出兵し、李氏朝鮮を制圧しようとしたが、失敗した。

 

明の征服を企てた豊臣秀吉は、1592年の文禄の役では小西行長、加藤清正らを先陣として朝鮮に出兵したが、不利な戦局に追い込まれるにつれ、明との講和を試みたが和平交渉は決裂している。また1597年の慶長の役で、再び秀吉は出兵したが、翌年病死したため朝鮮出兵は終了した。

 

16世紀後半の畿内を中心とした桃山文化は、戦国の争乱や下剋上の気風を反映した武将や豪商による新しい自由な発想を内容とする豪壮で雄大な文化であり、壮麗な天守閣をもつ城郭建築や城中などの襖と屏風に水墨画や濃(だみ)絵(え)の障壁画が、狩野永徳と門人の狩野山楽などによって描かれた。