日本国憲法制定の経緯

 

  • ポツダム宣言の受諾

 

アメリカは、1945年7月26日、米英および中国(中華民国)の3交戦国の名で、ポツダム宣言を発表しました。これは、ベルリン郊外のポツダムにおける米英ソ三国首脳会談で確認されたもので、連合国の対日占領政策の基本原則が以下のように、定められていました。

 

日本軍への無条件降伏勧告

連合国の軍事占領

軍国主義勢力の一掃、日本軍の完全武装解除

戦争犯罪人の処罰

民主主義の徹底など

 

日本政府は、ポツダム宣言の中に、天皇制が維持される「国体護持」の条項がなかったため、その受諾に際して政府内で意見が対立しましたが、「国体護持」、即ち「天皇制の維持」の一点を条件に降伏文書に調印する旨、連合国側に通告しました。

 

しかし、これに対しする連合国側の回答は、「日本国の最終的な政治形態は、ポツダム宣言に従ひ、日本国国民の自由に表明せる意思により決定さるべきものとする」と取りようによってはどちらとも取れる微妙な内容でした。

 

そうした中、ソ連側が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告し、アメリカは広島・長崎へ原爆を投下するに至ります。そして最終的には昭和天皇の「ご聖断」により、日本政府はポツダム宣言の受諾を正式に決定、8月15日の玉音放送で戦争終結が全国民に発表されました。

 

日本はポツダム宣言に基づいて連合国に占領されることとなりましたが、連合国と言っても、事実上、アメリカ軍による単独占領でした。8月14日、米陸軍のマッカーサー元帥が、連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、同月30日、戦後日本の「統治者」として神奈川県厚木の米空軍基地に降り立ちます。同年10月には東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置され、日本を降伏させたアメリカ主導で占領政策が立案・実施されました。ただし、形式的には、GHQの指令・勧告に基づいて、日本政府がGHQの占領政策を実施するという間接統治の方法がとられ、人権指令、五大改革指令、神道指令など民主化政策(政治的改革)などが実施されました。

 

人権指令(45年10月4日)

治安維持法などの弾圧法規の廃止、政治犯の釈放、内務省警保局・特高警察の廃止など

 

五大改革指令(45年10月11日)

婦人参政権の付与、労働組合の結成奨励、教育制度の自由化、秘密警察など弾圧諸体制の廃止、経済機構の民主化(財閥解体、農地改革)

 

神道(しんとう)指令(45年12月)

国家神道の廃止、政教分離を実施。「大東亜戦争」「八紘一宇」などの用語の使用を禁止。

 

 

  • 憲法改正の示唆

 

GHQにとって、5大民主化指令などによる諸改革が進み、神権的な天皇制の解体が本格化するなか、最終的な大仕事が「憲法」でした。憲法改正については、1945(昭和20)年10月、民主化指令の第一段とも言える人権指令を出したマッカーサーは、戦後最初の東久邇宮(ひがしくにみや)稔彦(なるひこ)内閣の近衛国務相と会見した際、憲法改正を「示唆」していました。しかし、大日本帝国憲法を変えることなど全く考えておらず、東久邇内閣は総辞職します。

 

そこで、大正デモクラシーの時代、欧米との協調外交(幣原外交)で知られた幣原喜重郎が首相に就任していたのでした。就任の挨拶にきた幣原に対して、マッカーサーは、五大改革に加えて、「憲法の自由主義化」を要求、すなわち「憲法の改正を示唆」していました。

 

 

  • 松本委員会

 

GHQの「指示」を受けた幣原内閣は、1945年10月27日、憲法担当大臣、松本烝(じょう)治(じ)法学博士(国務大臣)を委員長とし、憲法学者や官僚からなる憲法問題調査委員会(「松本委員会」)を設け、憲法改正に取り組みました。

 

松本委員会では、天皇の統治権を維持し、天皇中心の国家体制、いわゆる国体護持を最優先課題に掲げます。改正作業は、大日本帝国憲法(明治憲法)の基本原則を変えず、帝国憲法の条文を部分的な修正をしながら議論を進めることにしたのでした。

 

その後、松本大臣が、憲法問題調査委員会の議論を参考にして、憲法改正私案(松本私案)を作成し、それを骨子として「憲法改正要綱」を起草することになっていました。ところが、「憲法改正要綱」がGHQに提出される前の1946(昭和21)年2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされてしまいました。

 

 

  • マッカーサー三原則

 

マッカーサーは、その試案内容を知り、明治憲法の根本原則が変えられず、天皇の統治権はそのまま認められていたことに不満を示し、「極めて保守的である」と批判します。GHQにとって、帝国憲法は改正されるだけではなく、解体する必要があったのです。

 

そこで、マッカーサーは、日本政府に憲法草案を作成させるのを諦め、2月3日、「マッカーサー3原則」を打ち出し、GHQ民政局局長のコートニー・ホイットニーに、GHQ草案(いはゆるマッカーサー草案)の起草を指示します。後に「マッカーサー・ノート」とも呼ばれる「マッカーサー3原則」とは次の通りです。

 

〔1〕天皇は国家元首の地位にある。(象徴天皇制)

〔2〕国家の主権としての戦争は廃止される。(戦争放棄)

〔3〕日本の封建制度は廃止される。(華族制度の解体)

 

さて、マッカーサーが、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草のためにホイットニーに与えた期限は2月12日でした。一国の根本法である憲法草案をわずか9日間で作成しろという通達です。

 

マッカーサーはどうして憲法の制定を急いだのでしょうか?それは、GHQ主導で進む日本の占領政策に、同じ連合国のソ連とイギリスが反発し、1945年の12月(形式的には9月)にイギリス、ソ連、アメリカの外相会議で、連合国が日本を占領管理するための極東委員会の設置が決まったからです。

 

極東委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表から構成された連合国による対日占領政策決定の最高機関となり、GHQも極東委員会の決定には従うものとされました。つまり、GHQは極東委員会の管理下に入り、憲法改正を含めたGHQの決定には極東委員会の事前承認が必要となるのでした。

 

極東委員会は、1946年2月26日に第1回会合が開かれる予定で、活動を開始した後は、憲法改正に対するGHQの権限も制限され、日本国憲法の制定には極東委員会の事前の承認が必要となったのです。要するに、マッカーサーは、ソ連などが口を出してくる前に自分の手で日本の憲法の形を作り上げてしまおうと考えたのです。

 

 

  • マッカーサー草案

 

ホイットニー民政局長は実務責任者として陸軍大佐のチャールズ・L・ケーディスを任命しました。2月4日、GHQ民政局スタッフわずか25人余りが緊急招集され、マッカーサー草案(日本国憲法の原案)の策定が、日本政府だけでなく他のGHQの部署に対しても極秘に開始されました。

 

その顔ぶれは、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉クラスの士官が13人、後は弁護士や学者を含む文官でしたが、憲法の専門家が一人もいませんでした。しかも、日本語に精通した人も皆無でした。唯一、通訳要員として採用されていたベアテ・シロタ・ゴードンという当時22歳の女性がメンバーに含まれていましたが、彼女も日本語を読めたわけではありませんでした。

 

いずれにしても、マッカーサー三原則(ノート)の提示からわずか9日後の2月12日、日本国憲法の総司令部(GHQ)案が完成、翌日日本政府に提示されました。

 

 

  • マッカーサー草案の受け入れ

 

1946年2月13日、連合国軍総司令部(GHQ)のホイットニー民政局長は、GHQ案(マッカーサー草案)を幣原首相に示し、受け入れを迫ります。日本政府は、GHQ案を極秘に検討しますが、GHQ案には「国民主権」「象徴天皇制」や「戦争放棄条項」など、帝国憲法を部分修正にとどめようとしていた日本側には想定外の条文が盛り込まれていました。2月19日の閣議に報告された際、当然、受け入れをめぐり賛否が割れました。

 

幣原喜重郎首相は、21日、妥協の余地を探るため、マッカーサー連合国軍最高司令官と会談します。マッカーサーは「私は天皇を安泰にしたいが、極東委員会の議論は不愉快なものだと聞いている」「ソ連とオーストラリアは日本の復讐戦を恐れている」と自らの考えを直接、幣原首相に表明、会談は不調に終わってしまいました。

 

ポツダム宣言受諾以降、天皇を守ること(国体護持)は日本政府にとっても最大の課題です。幣原首相も、天皇制を守るためにGHQ草案の受け入れやむなしとの判断に傾きます。幣原内閣は、翌22日午前中、GHQ草案(マッカーサー草案)受け入れを閣議決定、天皇に事情説明の奏上を行いました。幣原首相は、2月26日に、GHQ案の受け入れを表明し、マッカーサー草案に基にして政府案を作成するよう指示しました。

 

26日は、ワシントンで始まった極東委員会の第1回総会でもありました。総会では、日本政府がGHQ案を受け入れたことから、例えば、強硬姿勢だったオーストラリアも「日本の軍事的脅威がなくなれば、天皇を裁判にかける必要性もなくなったと」との見解を示し、昭和天皇の訴追論議は盛り上がりませんでした。こうして、極東委員会は、4月3日には、天皇の不起訴方針を事実上決定し、日本の国体(天皇制)は保持されることになったのでした。

 

 

  • 日本政府の「3月2日案」

 

さて、日本側は、GHQ草案(マッカーサー草案)に原則として沿う形で草案を練り直して、1946年3月4日に「日本国憲法案(3月2日案)」として、GHQに再提出しました。その内容は、GHQ側と「協議」と「交渉」の後、3月6日に日本国政府の名で「帝国憲法改正草案要綱」として発表、さらに、その「草案要綱」も補正、法文化し、46年4月17日に「帝国憲法改正草案」が出来上がったのでした。

 

一方、同年4月10日、戦後初の総選挙が実施され、選挙の結果、首相は幣原喜重郎から吉田茂に、また憲法担当大臣も松本丞二から金森徳次郎に交替しました。

 

 

  • 帝国議会における審議

 

その後、帝国憲法改正草案は、天皇の諮問機関である枢密院の審議を経た後、政府の「帝国憲法改正案」として、1946年6月20日、第90回帝国議会に提出されました。そして、7月25日から約1カ月間、衆院の特別委員会(芦田均委員長)の小委員会で、13回に亘って修正審議が実施されました。

 

この修正協議の過程では、GHQ案にも政府の改正案にもなかった「生存権」(25条1項)が付け加えられたり、極東委員会からの要請によって、「文民統制(シビリアン・コントロール)(総理を含む大臣の資格として、軍人を認めず、文民とする)」に関する条文も新たに生まれたりしました。

 

こうした経緯を経て、帝国憲法改正案は、8月24日には衆議院で、10月6日には貴族院でそれぞれ修正議決されたのち、11月3日には日本国憲法として公布、翌年の5月3日に施行されたのです。

 

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日本国憲法の制定まで

 

1945

8月10日:日本、ポツダム宣言の受諾決定

8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが神奈川県の厚木に到着、

9月27日:昭和天皇とマッカーサーが初めて会談

10月11日:マッカーサー、五大改革指令、幣原首相に改憲を示唆

10月16日:マッカーサー、旧日本軍の武装解除の完了を発表

10月27日:政府の憲法問題調査委員会(松本委員会)が初会合

12月15日:神道指令

 

1946

1月1日:天皇の「人間宣言」

2月1日:毎日新聞が憲法問題調査委員会の試案をスクープ

2月3日:マッカーサーが3原則を提示、民政局に草案作成を指示

2月13日:GHQが、「マッカーサー草案」を日本側に手渡す

2月26日:極東委員会総会(4月3日、昭和天皇の不起訴方針を決定)。

3月4日:政府、GHQ草案に沿った「3月2日案」の発表

4月17日:政府「憲法改正草案」を発表

6月20日:「帝国憲法改正草案」、帝国議会に提出

8月24日:帝国憲法改正案は衆議院で修正議決

10月6日:帝国憲法改正案は貴族院で修正議決

11月3日:日本国憲法として公布

 

1947

5月3日:日本国憲法施行